炎熾戀抄 九 泰明は引きずるように安珍を房へと引っ張っていった。 しかし安珍はどこにそんな力が残っていたのか、暴れてなかなか手が付けられない。 「命が惜しければ結界から出るな。」 泰明は苛立たしげに人を縛する呪いを唱えはじめる。 安珍は見えない鎖に巻かれ、苦しげに呻く。 そのときだった どたどたというお世辞にも上品とは言いがたい足音がしたかと思うと天真が飛び込んできた。 呪いをかけはじめていた場が崩れる。 安珍がはあはあと苦しげに何度も呼吸を繰り返す。 呪いというものはかける側の集中力を要するのもさながら、かけられる側にも負担を強いるものなのである。 「泰明っ!」 天真の顔色が青ざめている。 泰明はわずかに眉根を寄せた。 唱えかけていた呪いを中断され、泰明は天真をにらみつける。 「何の用でここに来た?神子を見張っていろといったはず・・・」 泰明は言いながら、いつもあかねのことを思い浮かべるときのようにあかねの気を探った。 そのときあかねの気がこの京のどこにもないことに気がつく。 泰明は一瞬目を見開いた・ 「あかねが消えた!突然苦しみだしたかと思ったら消えちまった!!一体何が起こったっていうんだよ?!」 泰明は何も言わず房を飛び出していった。 掴めないあかねの気を走りながら探す。 後ろから天真が追いかけてくるのがわかったが、待つ気にもならない。 あかねの無事こそが。 あかねこそが泰明のすべて。 一体いつあかねの気が消えたというのか。 泰明は仁和寺の総門を飛び出した。 とたん感じる禍々しい気。 「・・・!」 こんな禍々しい気の渦巻く中を永泉はあの大蛇を寺から引き離すべく出て行ったというのか。 なぜ? 泰明のなかで疑問が生まれる。 調伏するのであれば自分でもできないことはない。 そのときはじめて気がつく符号。 永泉はあの大蛇が何者であるか知っているのだと。 ではなぜ神子が消えたのか。 まさか、という思いが追い立てられるかのような焦りになる。 永泉は神子を好きだった。 恋情というやっかいな感情。 きよ姫が恋情に駆られて大蛇と化し、安珍を苦しめていることを考えれば、いなくなった永泉と神子がそのようになっているかもしれないとの危惧が泰明の中に生まれる。 ――神子っ! 泰明は何度も心の中であかねの名を著すその呼び名を呼ぶ。 雪の降る小道をひた走り、泰明は異質な気を感じた。 歪められた空間の存在を感じる。 泰明は半眼を閉じてあたりを見回す。 ――どこだ? さく、さく、と降り積もった雪の、人馬の足跡の残っていない冬木立の中へと入っていく。 泰明は半眼をこらし、結界を見定める。 冬木立の一角、わずかに歪んだ気配を感じる。 「易は天地と準う。故に能く天地の道を弥綸す。仰いでもって天文を観、俯してもって地理を察す、この故に幽明の故を知る・・・。」 泰明は呪いを唱える。 音ならぬ音が結界を破る。 そこに立っていたのはあかねと永泉、そしてあの大蛇であった。 「泰明さんっ?!」 あかねが驚いて泰明の側へと駆け寄る。 泰明はあかねの姿を見てほっと安堵の吐息をもらした。 「大事無いか?神子?」 泰明は涙で濡れたあかねの頬をそっと袖でぬぐった。 「私は・・・でも・・・。」 ちらりとあかねの視線が永泉と大蛇へ向けられる。 神子の無事を確認して、改めて泰明も大蛇と永泉を見やる。 永泉の苦しげな表情から泰明は自分の推理が正しいことを察する。 泰明はあかねを背後にして永泉と挟むかのように大蛇に対峙する。 あかねは頼久と同乗した馬から忽然とその姿を消した。 放り出された闇のなか、意識はなかったというのに常陸の宮という人物の嘆きの一生を垣間見ていた。 世の人々から忘れ去られ、代々守ってきた宮家の財産と誇りを踏み荒らされ、たった一人の姫ですら攫われるように手元からいなくなってしまった。 歳若い友人もまた、世の政変に巻き込まれて彼のもとを去った。 すべてを儚み、すべてをあきらめなければならなかった常陸の宮の悲しみはいかばかりであったろう。 呟いた怨嗟の呪いが形を取り、死してなお、この世を儚む。 そんな悲しい常陸の宮にあかねは涙を流さずにはいられなかった 「いとしい我が孫の願いを叶えてやりたいのだ。」 声ならぬ声で大蛇が永泉に言う。 永泉はゆっくりとかぶりを振った。 そんなことがきよ姫のためになるわけではない。 きよ姫が安珍を望んだからといって、安珍を無視して叶えられてはならない望みである。 「深泉、そなたの願いも私は叶えてやれる。」 大蛇の言葉が永泉に重くのしかかる。 先ほど神子へ思いに理性が引きちぎられそうになったのはこの大蛇のせいであると確信する。 「私は神子の泣き顔などみたくありません。」 永泉はきっぱりと言った。 たとえ神子を力ずくで手に入れても、神子の微笑みは自分に向けられることはない。 恋情とは、身分も、権力も、財力も、まして歪められた力でどうなるものではないのである。 「愚かなことを。常陸の宮、たとえおまえがきよ姫の願いを叶えても、永泉の願いを叶えても、だれもおまえに感謝するものはおらぬ。」 泰明は連珠を握り締めた。 どうにもならない怒りが泰明の中で沸々と沸き出す。 どれだけ神子を想って苦しんだ夜があったであろう。 どれだけ神子を求めてやまなかったであろう。 けれど言えることはただひとつ。 恋愛とは一人でできるものではないということ。 神子が自分を選んでくれたから自惚れているわけではない。 自分もまた永泉や天真と同じ想いを抱いていたから。 泰明は大蛇が許せなかった。 泰明は首にかけられている連珠に手を触れる。 口の中で小さく呪いを呟く。 「泰明殿っ!」 永泉が鋭く泰明の名を呼ぶ。 泰明は永泉を見た。 永泉は龍笛を唇にあてている。 「どうか・・・、どうかこの方の調伏は私にさせてください・・・。」 永泉はすがるような瞳で泰明を見ていた。 「常陸の宮、あなたの苦しみ、あなたの悲しみ、私がこの手で終わらせて差し上げましょう。」 永泉は笛を奏ではじめる。 静かな雪夜の冬木立の中、永泉の笛の音が寂々と響いていく。 哀愁を帯びたその音色に大蛇の目から一滴の涙が零れる。 ――遅い・・・遅かったのだ・・・。深泉・・・。 大蛇はゆっくりと鎌首をもたげる。 笛を奏でる永泉の目が見開かれる。 木立の向こうに佇んでいるのは安珍であった。 泰明が振り返るが遅かった。 大蛇は信じられない速さで安珍めがけて突進した。 「常陸の宮!」 永泉の叫びも空しく、大蛇は安珍を取り巻いた。 「うぐっ・・・・!」 身体に巻きつく真白の大蛇。 安珍は苦しげに首に巻かれた蛇腹に手をのばすが外れるわけもなく。 「え・・・いせん・・・さ・ま・・・」 安珍は手に何かを握っていた。 それはかつて永泉が与えた紫水晶の数珠。 安珍の手からそれが落ちたときであった。 大蛇の身体が緋炎を吹いた。 「伏せろ!」 泰明がさっと走って地面に落ちた紫水晶の数珠を拾うと、あかねの身体を地面に押し倒した。 永泉もまた地面に伏す。 途端吹き荒れるような爆風があたりをなぎ払う。 炎の中、大蛇の姿は美しい一人の女性の姿に戻る。 「愛してるわ・・・、愛してる・・・!」 少女の声が声ならぬ声として火柱をあげる冬の夜空に響き渡る。 炎がこれ以上激しくならないと判じ、泰明が伏した状態で永泉に紫水晶の数珠を投げる。 「調伏しろ!永泉!」 泰明の言葉に永泉は我にかえる。 炎の中、大蛇と化した少女が絶命した安珍に頬を寄せている。 恋に、愛に狂わされたきよ姫。 きよ姫を守るかのように、大蛇がかまくびをもたげたまま炎の中で永泉を見つめている。 「常陸の宮・・・。」 永泉は泰明の投げた紫水晶の数珠を手にする。 ――もう、なぜ、とは問いません。 永泉は業火燃え盛る炎の中、ゆっくりと立ち上がった。 「調伏します。」 永泉は紫水晶の数珠をもって両手を合わせた。 「オン アボギャ ベイロシャ ノウ マカボダラ マニ ハンドマ ジンバラ ハラバリタヤ ウン」 (オーン不空なるものよ、毘盧遮那よ、大印あるものよ、摩尼と蓮華よ、光明を放ちたまえ、フーン) 永泉の紫水晶から輝く光の矢が現れる。 それは真実の矢。 光明を放ち、すべてを真実あるがままの姿に戻す調伏の矢。 そしてその光の矢は炎の中の大蛇ごときよ姫へと突き刺さる。 光の矢が刺さったままきよ姫が永泉を振り返る。 何もわかっていないのか、不思議そうに永泉を見ている。 「愛する人を滅ぼして・・・貴女は幸せなのですか・・・?」 永泉はきよ姫に問う。 しかしきよ姫は何も答えない。 答えなどないから。 燃え盛る炎が消えていく。 はらはらと緋色の花びらが真白に降り積もる雪の上へと舞い落ちる。 ――散華。 雪の上に倒れ伏す二人の男女。 泰明とあかねが立ち上がって永泉の側へと駆け寄る。 永泉は泣いていた。 誰も救えなかったことに。 安珍も、きよ姫も、常陸の宮も・・・。 遠くで天真と頼久の声が聞こえる。 いなくなったあかねを探しているのであろうか。 あかねが顔をあげる。 夜明けが近い。 東の空がわずかに明るかった。 戻る 次へ 表紙へ |