炎熾戀抄 十


「人とはなんと愚かなのか・・・。」

泰明はぽつりと呟いた。
あの出来事から数日経ったある日の土御門邸で、泰明.はあかねと花開いた梅の花を眺めながめていた。
芳しい梅の芳香が春の訪れを囁く。
あかねはそっと瞳を閉じた。
目を閉じればありありとあの日の出来事が思い出される。
真白の雪に倒れた二人を取り巻くように散らされた椿の花弁の緋色。
まだ夜も明けない月夜に浮かぶ、その悲しいまでのコントラストが、きよ姫の激しい恋情のようで。
その身を散らせるときは、花ごとぽとりとその身を落とすというのに、不自然に散らされたその花弁の、妖しいまでの不自然さがかえって悲しさを物語っていた。

「泰明さん、それは違うわ。ううん、そうかもしれないけど・・・愚かで迷いやすいからこそ人なんじゃない?」

あかねは御簾をあげた。
春とはいえ、冷たい空気がひやりとあかねの頬を撫でる。

「神子、また熱があがる。」

泰明があかねを押しとどめようと振り向いたそのとき、あかねの手が泰明の頬に触れた。

「私はきよ姫の気持ちがわからなくないよ。」

あかねのいつになくまっすぐで真摯な眼差しに泰明は一瞬瞳を細める。

「人を好きになるってかっこいいものじゃないよ。たくさんの人を傷つけて、自分もまた傷ついて、愚かで迷いやすくて・・・そしてとても愛しいものなんだから。」

あかねの言葉に泰明は一瞬天真や詩絞の横顔が思い浮かぶ。
そう、彼らはあかねとともにこの京に残った。
それは一体どういうことであろう?
あかねも気がついている。
そして泰明もまた察しているのだ。
彼らがあかねの為にこの京に残ったということを。
としたら彼らに犠牲を強いたあかねは愚かだということであろうか。
泰明は小さく頭を振った。
違うのだ。
あかねが彼らに犠牲を強いたのではない。
彼らがそれを選んだのだ。

「もし・・・、もし神子、お前がもとの世界へ帰ることを選んでいたならば、私はお前を京に繋ぎ止めるためにおまえを犠牲にしたかもしれない・・・。」

泰明は伸ばされたあかねの指先に口付ける。
この手を離すことなど考えられない。
あかねが泣いて帰りたいと言っても、この腕の中に閉じ込めてめちゃくちゃにしてしまうだろう。
恋情とはそういうもの。

――ああ、そうなのか。

泰明はあかねの指先を弄びながら思う。
何にも引き換えにできないこの想い。
愚かだというのに、時に人を傷つけ、煉獄の炎に焼かれる苦しみを味わうというのに。
それでも人は人を愛さずにはいられないのだ。
そんな愚かで悲しくて・・・そして何よりも愛おしいこの想い。

「泰明さん。」

ふわりと泰明の首にあかねの手が回される。

「人を愛することは確かに苦しいこともあるわ。でもね・・・、ほら・・・。」

あかねは泰明の頬にその柔らかな唇を触れさせた。

「こんなにも優しい気持ちも教えてくれるわ・・・。」

あかねの唇の触れた泰明の頬が温かい。
泰明は自らの頬に触れてみる。
なんの代わり映えのない、自らの肌の感触。
だというのに。
なぜこんなにもあかねの唇が触れた頬が温かい熱を帯びるのか。
心のなかにひろがる甘くて温かな想い。

「人を好きになるっていうことは、同時にこんなにも人に優しくなれるよ。」

あかねの目に涙が浮かんでいる。

「神子・・・。」

きよ姫に対峙して、いつのまに自分は人である自分が恐ろしいと思ったのであろう。
人が人を愛するがゆえに人を傷つけることを恐れたのであろう。
人を傷つけても。
自分を傷つけても。
手に入れたい愛がある。

「私は幸せなのだな・・・。」

泰明はあかねの抱きしめた。
人を愛し、愛されるという幸せ。
みな誰もがこの愛を求めて彷徨う。

「私も幸せだよ、泰明さん・・・。」

どれだけ天真や詩絞に謝りたいと思っただろう。
でも彼らの想いに応えられない自分がいる。
だから。
自分が幸せにならなければならないと思う。

「永泉も・・・、」

泰明はあかねの髪を梳きながらぽつりと呟いた。

「永泉さん?」

あかね泰明の腕の中、あかねは小さく身じろぎして顔を上げる。
泰明は首を振った。

「いや・・・、神子が直接永泉から話を聞いたほうがいい。」

あかねがわけがわからない、といった顔でまじまじと泰明を見上げる。
しかし異彩の瞳はそれ以上何も語らない。
そのとき、しゅる、という衣擦れの音がしたかと思うと女房が姿を現した。
あかねは慌てて泰明の体から身を起こす。

「神子様・・・、まっ!」

女房はぱっと顔を赤らめたが、すぐに裾を蹴さばき、平伏した。

「仁和寺より永泉様がお見えです。神子様のお見舞いにと・・・。お会いになりますか?」

女房はちらりと泰明を見る。
恋人達の語らいに無粋に訪れた訪問客を泰明はどう対処するのか図りかねて、女房は泰明の様子を窺った。

「よい。私は今帰るところだ。」

泰明は立ち上がった。

「え?泰明さん???」

あかねは突然帰ると言い出した泰明に驚いて思わず腰を浮かした。

「神子に大事がなければそれでよい。」

泰明もまたあかねの見舞いに訪れた一人であった。
あの日の事件以来、あかねは微熱が続き、床に臥していたのである。
八葉の面々がかわるがわる訪れてあかねの見舞いをしに来たが、その中に永泉の姿だけはなかった。
それだけに微熱に体調がすぐれないなかでもあかねは心配していた。
永泉のあの涙の理由が知りたくて。

「神子、では失礼する。体をいとえ。」

それだけを言うと泰明は背を向けた。
あかねは呆然と泰明の背中を見送る。
そしてちらりと女房のほうを見遣る。
女房も驚いているのか、何も言えないままぼんやりと泰明の背中を見送っている。
そしてはっとしたようにあかねのほうに向き直った。

「神子様、さ、御簾の中へお戻りくださいませ。」

女房はあかねに促した。
あかねはのろのろと立ち上がり、促されるまま御簾の中へ入る。
名残惜しげに泰明の去った廊を見るが、当然泰明が戻ってくるはずもなく。
あかねは座に戻り、脇息に肘をかけて溜息をついた。
永泉のことは確かに心配であったからこうして訪れてくれたことに少しほっとしている。
しかしだからといって泰明が何故あんなにも唐突に席をはずすような形でいなくなるのかがわからない。
やがて廊の向こうから衣擦れの音が聞こえてきた。
永泉を先導する女房である。
あかねは肩からすべり落ちた袿を掛け直し居住まいを正した。

「御室仁和寺の法親王、永泉様が神子様のお見舞いに参りました。」

柔らかな物腰の女房が凛とした声で永泉の来訪を告げる。

「ようこそいらせられませ。」

あかねの代わりにあかねの側に控える女房が言う。
そのとき永泉が先導を勤めた女房に小さく耳打ちをした。
その所作は貴人のそれ。
あくまでも控えめであり、ごく自然な動きである。
すると女房らがあかねに皆平伏をし、するすると下がっていった。
女房らが皆いなくなって、はじめて永泉が口を開いた。

「申し訳ありません、神子。人払いなどして・・・。」

永泉は申し訳なさそうにあかねに謝った。

「ううん、あのことはこのお邸でも皆口を噤んでるし、私も極力女房さんたちがいない状況でしか話したくないから・・・。」

あかねはあの日の出来事を思い返すたび、胸が苦しくなる。
結局救えなかった3人。
命を落としたきよ姫と安珍。
何もできなかった自分が腹立たしくて悔しくて。
でもだからこそ。
泰明と繋いだその手を絶対に離さないと心に決めた。

「泰明殿も気がついているのでしょうが・・・、私が調伏したのは常陸宮だけなのです・・・。」

永泉はぽつりと呟いた。
あかねは目を見開いた。

「え・・・?それは・・・どういう・・・?」

永泉はあかねの見舞いに来れなかったことも含めて、あの日のそれからの出来事を話し始めた。

「あれから私はずっとあの大蛇を探しておりました・・・。」

永泉の言葉はどこまでも静かであった。








天真と頼久が現れて、二人の亡骸をそれぞれ仁和寺、紀伊の守の邸へと運ぶことになったとき、永泉はあの大蛇の気配を感じた。
だれも気づかぬほどの、弱い、弱い思念ではあったが。
泰明があかねを連れて土御門へと帰るのを見送ると、永泉は一人大蛇の存在を探して仁和寺周辺を彷徨った。
しかし全く大蛇の存在が掴み取れず、永泉は堂にこもって大蛇の供養を行うことにした。
そんなある日、永泉の夢枕にあの白い大蛇が現れた。

『忘れられた法親王よ、望みを言え。神子を望め。我はそなたに力を貸そうぞ。』

白い大蛇は二股に分かれた舌をちろちろと見せながら、漆黒の闇をも思わせる黒い眼で永泉に媚びた。
永泉は夢と知りつつ、一瞬神子を思い浮かべる。
丸みを帯びた、ころころとよく表情の変わる可愛らしい顔。
すんなりとした手足は健康的で、溌剌とした眩しささえ感じさせる。
鬼にすらその慈愛の心を見せる優しく、強いその精神(こころ)。
どれだけ神子が欲しいと思ったであろうか。
手を伸ばせばいつでも彼女の手が取れるような気がして、そしてそれは絶対許されることではなくて、いつも迷いの中で彼女を見つめていた自分を振り返る。
気がつけば神子は地の玄武と心を交わし、この京に残ることを選んでいた。
もし自分がもっと勇気をもって神子の手を取っていたら、神子は自分のために京に残ってくれたのであろうか?
答えは否である。

「旧き神よ、確かに私は神子を愛しています。」

永泉は真っ直ぐにその闇のような黒い眼を見つめた。

「けれど私は神子の不幸を望んでいません。」

そう、永泉が望むのはいつでも神子に笑顔があること。
はじめての出会いは神子の泣き顔であった。
美しい涙を流す女(ひと)だと思ったけれど、それ以上にこの美しい涙をこれ以上流させてはいけないとも思った。

「常陸の宮の嘆きを利用し、若い二人の犠牲を得てもなお、あなたは人の負の心を欲するのですか?もう十分でしょう。彼らは人を愛する喜びを知らぬままこの世を去った。これ以上、あなたは何を望むというのですか?」

白い大蛇はじっとその闇色の瞳に永泉を映した。
感情の読み取れぬ、不思議な、長い、長い、間――。
やがて大蛇の姿は永泉の夢の中で色をなくしていく。

『いつか、いつか私を調伏するものが現れる。人とは悲しい生き物だ、法親王よ。私は人の悲しみを糧に存在し続けるもの。それまで・・・私はしばしの眠りにつこうぞ・・・。」






「神子。」

永泉は深く息を吐いた。

「申し訳ありません。私の愚かで浅ましい想いが大蛇を呼んだのです・・・。」

永泉の独白はあかねへの想いを綴ったものであった。
あかねは永泉に対して申し訳ない気持ちでいっぱいになる。
あかねは永泉の気持ちに全く気がついていなかった。
天真や詩絞のときとはわけが違う。
彼らは確かに自分に好意を持ってくれて、自分のわがままにつきあって彼らの一生を左右させてしまった。
そんな人生の一大事を、あかねという存在を基準で選んだ彼らの気持ちに気がつかないほどあかねは鈍感ではない。
だから永泉の人知れず育まれた想いに気がつかずにいたのだ。
もっと自分が永泉に気を使っていれば、永泉とてこんなにも苦しまずにすんだかもしれないと思うと申し訳なさで一杯になる。

「このようなことを言うのはどうかとずっと迷い続けてきました。結果、私はあのようなものにつけこまれることになったのでしょう・・・。どうかあなたの手で決着をつけてください・・・。」

永泉はぐっと拳を膝の上で握り締めた。
そしていきなり御簾を跳ね上げた。
あかねが驚く間もなく、永泉はあかねを抱きしめた。

「あなたを愛しています。何もかもあきらめたはずの私にあなたは希望を与えてくれた・・・。」

あかねはただ驚いて呆然と永泉の顔を見ていた。
永泉の顔が近づく。
そのときはじめてあかねははっとした。

「いやっ!」

あかねは抗った。
全く予期していなかった出来事に、あかねは全身に力を入れて永泉の腕を振り解こうとした。
そしてそれは以外にもあっさりとはずれたのである。

「?!」

あかねはじりじりと永泉から遠ざかるように後退しながら、じっと永泉を見つめた。

「ありがとう・・・、神子。」

永泉は不思議と落ち着いた様子であかねを見ていた。
あかねはことが理解できず、訝しげに永泉を見つめた。
近くに戻ってまたあのような暴挙に出られても困るので、あかねはその場から動けず、言葉も発することができないでいた。

「あなたは永遠に私のものにはならない・・・。」

永泉の悲しみを帯びていながらも、どこか吹っ切れたようなそんな表情にあかねは戸惑った。
永泉は御簾の向こうの、自分に用意された円座に再び優雅に座した。
そして額を床にこすりつけんばかりに深く平伏した。

「神子、大変失礼な振る舞いをして申し訳ありませんでした。許してくださるとは思っておりません・・・。ただ・・・我が兄である帝にはどうぞこのことは内密になさってください。兄の心労をこれ以上増やしたくはありませんので・・・。それ以外のお咎めならいくらでもお受けいたします。」

静かな永泉の言葉にあかねは慌てて首を振る。

「違う、永泉さん!謝るのは私のほうだよ・・・!私が永泉さんの気持ちに気がついていたらもっと・・・、」

「それでもあなたは私のものにはならないでしょう?」

あかねの言葉に永泉が続ける。
それが真実であるが故にあかねは唇をかみ締めた。
そう、どんな状況であろうとあかねは泰明の手を取っていた。
他の誰かの手をとることなど考えられなかった。

「・・・っ、ごめんなさい・・・っ。」

あかねはぼろぼろ涙をこぼした。
人を愛することで知らぬ間に人を傷つけていた自分を思い知らされて。
泰明は気がついていたのだ。
だから席をはずしたのだ。
永泉はあかねに振られるためにここに来たのだと知っていたから。

「謝るのは私のほうです、神子。あなたの負担になるくらいなら、私は一生この想いを隠し通そうと決めていたのに・・・。」

永泉は自嘲した。
しかし永泉の心はまるで雪溶けのような不思議な温かさに包まれていた。

「神子、泰明殿と幸せになってください。それこそ私の一番の望みなのです。」

永泉はそういって立ち上がった・

「八葉として、あなたに仕えられた事を誇りに思います。」

永泉は去っていった。
あかねはその場で突っ伏して泣いた。
人を愛するということは。
時に人を傷つけ、時に苦しみを味わうものなのだと。
あかねは知らぬ間に永泉を傷つけていた。
それに全く気がつかなかったことが申し訳なくて。
あかねは声を出して泣いた。
正しいものも、間違っているものも、この世にはないということを改めて知って。
人を愛することで強くなれた。
人を愛することで誰かを苦しめることも知った。

「ごめんね・・・、ごめんね・・・きよ姫・・・。」

愚かにも、傲慢な思いをきよ姫にぶつけるところであった。

「それでよいのではないか?」

どこからともなく泰明の声がした。
あかねははっとしてあたりを見回す。
高欄に白い一羽の鳥がいた。

「神子は人を愛することはどういうことか教えてくれた。温かで優しい気持ちになれることを教えてくれた。それでよいのではないか?」

前にも似たようなことがあった。
ねずみに精神(こころ)を飛ばし、あかねの気の変化に側に参じたことがあった。

「泰明さん・・・?」

あかねは御簾をあげて高欄の、白い鳥の側へと寄った。
鳥は逃げることもせず、あかねの姿を確かめると小さく小首を傾げた。

「永泉は神子を愛することで生きる希望を得た。私も神子を愛することで人となった。人を愛するということは時に辛く苦しく、時に喜びと励ましを得られる。そういうものなのであろう?」

あかねは小さく頷いた。

「ならば、神子。」

泰明の声があかねの耳元で優しく囁かれるようである。

「私は神子を幸せにする・・・。」

あかねは顔をあげた。
白い鳥は一回大きく翼を広げるとふわりと飛び立っていく。
白い羽ひとつをあかねのもとに残して。

春の香りのする柔らかな風があかねの頬を撫でる。
もう春は来ているのだ。
約束の春が。

あかねはそっと白い羽を握り締めた。

すべてのものに平安と安寧が訪れることを願って。
この春のように、すべてを溶かして生の息吹を感じられるようにと。











――FIN
2003.3.9


☆あとがき
ようやく終わりました。ぜーはーぜーはー。
ここにいたってようやく書けたのは、これは実は「ひとしれずこそ」と「初藤」の中間期にあたる時期設定であったということ(オイ)
このお話を書くにあたって誰を絡めようか悩んだのですが、やっぱり一番どろどろした感情を持っていそうな法親王に決定〜♪
いや彼の苦悩を書くときは実に楽しかった!
しか〜し!同時に書きながらものすごく悩んだりしたんですが。
負の感情を書くのは実は一番エネルギーを使います。
多分一番大変です。
本当はきよ姫のもっとどろどろした感情を書きたかったのですが、これは遙か創作ということもあって、かなりはしょりました。でないと10話で終わらんよ(汗)
このあと番外編2作を書く予定でいますので、まだお付き合いくださるという奇特な方は長い目で見ていただけると幸いです。




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