炎熾戀抄 8


あかねは何度も寝返りを打っていた。
昨夜と同じ穢れを感じていた。
胸がむかむかするようなことはない。
どちらかというと客観的に穢れを感じていた。
側に天真と頼久が控えているからであろうか。穢れ自体があかねを苦しめることはない。
しかしだからこそあかねは泰明の身を案じた。
きっと今ごろ永泉とともにあのきよ姫についた大蛇を調伏するのであろう。
そう思うだけでなぜかあかねは無性に悲しく感じられた。
調伏、という行為は今でもなれない。
怨霊たちはこの世に悲しみを残して留まる。
その悲しみを背負った怨霊達を利用して京に脅威をもたらしたアクラムは今でも許せない。
泰明ら陰陽師はその悲しみを背負った怨霊を力づくで祓う。
それが悪いことではないということはあかねは重々承知している。
悲しみで凝り固まったどす黒い怨嗟の瘴気は、説得だけで昇華されることはない。
だからこそ泰明のような陰陽師たちがこの京の裏社会で活躍する。
彼らの身分が低くとも、一流貴族から帝まで陰陽師は丁重に扱われるのである。
わかってはいるのだ。
あかねは起き上がった。
きよ姫と安珍がどこで繋がるのかあかねにはわからなかった。
それでもあの途方にくれたきよ姫の荒んだ横顔が忘れられない。
あの目は。
あの眼差しは。
人を愛するもののそれ。
もしきよ姫が安珍を慕ってあのようになったのであれば、それはなんという悲しいことであろう。
あのきよ姫の姿はもうひとりのあかねであった。
泰明に恋し、焦がれるもうひとりの自分。
もし泰明に受け入れられなければ、ああなったのは自分であったのかもしれない。

――人を好きになるって、キレイなことだけじゃないんだ・・・。

あかねは意を決した。
きよ姫を救いたい。
自分にどれだけのことができるかわからなかった。
この一件に関わった以上、傍観などしていられない。
身体はどこも異常を訴えない。
大丈夫。
あかねは夜着をするりと解いた。
きちんと畳まれた水干に手を伸ばす。

――人を愛するとはどういうことか、きよ姫に教えなくちゃいけない。

大蛇ときよ姫の関係はわからない。
もしかしtらきよ姫自体が大蛇なのかもしれない。
それでも。
あかねはそっと御帳台から顔を覗かせた。
御簾の向こうに人影が見える。
あのシルエットは頼久である。

「行かれるのですね?」

頼久は確認するようにあかねに問うた。
こうなることを予測していたかのような頼久の態度である。
あかねは苦笑した。
どうやら自分の行動は周囲には筒抜けのようである。
ということは。
深夜であるにもかかわらず、ちりん、という金属の触れ合う音がした。

「藤姫・・・。」

いつの間にやら藤姫が簀子縁で控えていた。
冬の簀子縁は寒い。
冷たい夜風は幼い少女には堪えるであろうに、藤姫はそんな素振りを全く見せない。
藤姫は真っ直ぐにあかねを見る。
使命感溢れる星の姫の姿がそこにはあった。

「もうお止めしません。しかし神子様、これだけは覚えておいてくださいませ。」

藤姫の声が響く。

「わたくし達は京の安寧のために神子様をここにお留めしているのではりません。神子様はわたくしたちの大切なお方。決して無茶はされませぬよう、お願いいたします。」

ちりんと金属の触れ合う音が響く。
深く、深く頭を下げる藤姫。

「わかったよ藤姫。私は私のために、あのお姫様を救いたいの。あのひとはもうひとりの私だから。」

あかねは簀子縁に出た。
天真と頼久がいる。

「仁和寺に行きます。」

あかねは告げる。
頼久も天真も何も言わず立ち上がる。
頼久があかねを見て微笑む。
あかねは力強く頷いた。

「馬に乗っていきます。早く行かれたほうがいいでしょう。」

頼久はそういうと厩へとあかねを連れて行った。
天真もともに付き従う。
厩には何頭か馬が繋がれている。
頼久は厩に入るとたくさん繋がれている馬の中から栗毛色の体格のしっかりとした馬を選んだ。
天真も当然のように厩に入って馬を選ぶ。
葦毛の若い馬を天真は選んだ。

「て、天真君、馬なんて乗れるの?」

あかねは驚いて天真に聞いた。
天真が乗馬ができるなんて聞いたことない。
詩絞は良家の子息であるし、クォーターであることから、乗馬をごく当然のように小さい頃から行っていたということは聞いたことがある。
しかしまさか天真まで乗馬ができるとは思っていなかった。

「アホゥ、こっち来てから覚えたんだよ。ちょっとバイクに乗ってるときと風の切り方が似てるかなって思ってさ。」

天真がこつんとあかねの頭を小突いた。
そういって手綱と轡、鐙を確認して天真はひらりと馬にまたがった。

「乗せてやりたいとこだけど、俺の腕ではまだまだだからな。頼久に乗せてもらえよ。」

天真はそういうと手綱を引いて、外へと出て行った。

「神子殿、よろしいですか?」

頼久に声をかけられて、あかねは振り向いた。
馬上の人となった頼久が瞳に微笑を含ませている。
あかねに手を伸ばし、ぐっと力強くあかねの身体を馬上へと引っ張り上げる。

「天真は教え甲斐があります。」

頼久は手綱を引き、馬首を外へと通じる門へと向ける。
門のところでは天真が待っている。
二人はいい関係ができているようである。
武術一般を天真が頼久から教わっているのを知っていたが、まさか乗馬まで教えてもらっているとはあかねも知らなかった。
しかしこうして馬に跨る天真の姿はなかなか様になっている。

「天真君は頑張り屋ですよね。」

あかねは少し感慨深げに天真を見た。
現代にいたころから均整のとれた体つきではあったが、今はそれよりも更にたくましくなったような感じがする。
あかねの心の奥でちくりと痛むものがある。
でもそれは何も天真に対してだけ感じるものではない。
大学寮で勉強に励む詩絞を見ていても、あかねはやはり心の奥で微かに痛むのを覚えるのだ。
申し訳なさと、心苦しさ。
そんなところであろうか。
彼らの気持ちに答えられたならどれだけよかっただろう。
でもあかねは唯一人の人を選んでしまったから。
天真が振り向く。

「泰明の助太刀に行くぜ。」

天真の瞳にはまぎれもない真摯な決意が窺える。
あかねは真っ直ぐに天真を見返した。

「うん。」

あかねは頷く。
躊躇っていられない。
あかねはあかねの唯一人の人のために。
もう一人の自分であるきよ姫のために。
そしてこの京のために。

「行こう。」

あかねの言葉に天真と頼久は馬の脇腹を軽く蹴る。
馬は一声いななき、仁和寺へ向かって夜の闇の中、走り出した。
しかしいくばくもいかないうちに天真が後ろに続く頼久と天真に声をかけた。

「おい。」

少し前を走っていた天真がスピードを落として頼久とあかねの同乗する馬に並ぶ。
天真があごをしゃくったのを見て、頼久の視線が正面の闇を見据える。
闇に浮かぶ白い巨体。
それは蛇というにはかなり大きなものであった。
のたうつその体はゆうに大人一人分以上の大きさがある。
静かに、ゆるやかに、その大蛇は西へ西へと向かう。
あかねは声が出そうになるのを喉の奥で必死に押しとどめた。
馬の歩みをとめてその巨大な蛇が地を這って行くのを天真と頼久は見送る。
そのときあかねの中でキィィンという金属の擦れあうような、そんな不快な音が鳴り響いた。
次いで聞こえてくるのはシャンシャンという鈴の音。

「あ・・・。」

あかねは激しい頭痛を覚えた。
目の前が真っ暗になる。
頼久があかねの肩を掴み何か声をかけるが、頼久の肩を掴むその手の感触も、声も届かない。
穢れにあたったわけではない。
八葉である天真や頼久が側にいる。
頭の中で、あかねは白い大蛇がこちらを振り向いてニタリと笑ったような気がした。

――ダメ・・・、ダメだよ・・・、きよ姫・・・。

あかねは必死にきよ姫に呼びかける。
真っ暗な闇の中に唯一人放り出されたような感覚の中。
闇の向こうにきよ姫の姿が見える。
あのとき神泉苑で見た彼女とは全く別人のような。
白い肌、丈なすみどりの黒髪。
黒目がちの瞳にあどけなさの残る頬は円く。
豪奢な袿に目にも鮮やかな緋袴。
まっすぐに。
ただまっすぐに何の表情をも見せぬその面。
人形のような・・・。
しゅるり。
そのきよ姫にらせん状に巻きつく一匹の白い蛇。
二股に分かれた長い舌をちろちろと見せている。

――きよ姫!

あかねは意識を失った。






安珍は軋む体を無理やり動かして床から起き上がった。
側に控えていた小坊主や僧侶らは驚き、ただ慌てふためいて動き出す安珍を遠巻きに見ているだけである。

「きよ姫・・・。」

安珍は呟いた。
きよ姫が近くに来ているのを感じる。
動かぬ身体にむち打って、安珍は房を出て行った。
泰明の施した結界を踏み越えて。

「永泉。」

結界から安珍が出たことに気がついた泰明はわずかに瞳を細めて苛立たしげな表情をした。

「泰明殿、私がこの大蛇をここより引き離します。その間にあなたは安珍を結界の中へお願いします。」

泰明と同じように結界から安珍が出たことに気がついた永泉はそういうと総門をくぐりきよ姫の側へと近づいた。
不思議なことに総門を踏み越えた瞬間、きよ姫は大蛇の姿となる。
泰明はこの妖しをどのような姿で見ているのであろうか。
一瞬泰明に聞いてみたい衝動に駆られる。
それはこの大蛇へ対する自分の恐れなのかもしれないと思うと、永泉は小さくかぶりを振った。

――この大蛇がもし・・・。

心に浮かぶひとつの確信に近い想像。
それを打ち消すかのように永泉は凛とした声音で大蛇に話しかける。

「ここはあなたの来る場所ではありません。」

永泉はまっすぐに大蛇を見据えた。
虚ろな闇色の瞳。
そこには何の意思も、表情も見えない。
すべてをあきらめたようで、すべてを憎んでいるかのようで。
見るものによってその大蛇の表情から窺える感情は変わるのかもしれない。
永泉は龍笛を握り締め、仁和寺を後にした。
大蛇はしゅうしゅうと息を吐きながら永泉の後ろをついていく。
背後を襲われないように永泉は小さく経を唱えながら、懐を探る。
あるはずの紫水晶の数珠を探して。
しかし以前安珍にやったことを思い出すと、永泉は拳を握り締めた。
こんなとき、今上帝の兄から下賜されたものを頼りたくなる自分が情けなかった。
心の奥底で、いつも兄を頼ってばかりいるのだと思い知らされる。
大蛇は永泉のあとに続く。
とにかく仁和寺から、安珍から大蛇を引き離さなくてはならない。
きよ姫が、大蛇が安珍と会えば、そこには安珍の死が待っている。
あのように御仏に仕えることに情熱溢れた青年を、永泉は見殺しにすることなどできない。
いやそれは安珍に限らずのことではあるが。
一歩、一歩、仁和寺から離れるたび、永泉は不思議な恐怖感を覚える。
それはあの紫水晶の数珠を手にしていないからなのか、それとも自分の力を過信する我ゆえであろうか。
ともに戦った地の玄武の助力なしで、この大蛇と相対することができるのか永泉には自信がない。
そんなとき、永泉は一人の少女を思い浮かべずにはいられない。
きっと彼女がいれば。
何よりも、誰よりも強くあれると思う。

――神子。

永泉が呼んだからなのか。
故意か、偶然か、はたまた罠か。
雪の降る小道に紫苑色の水干姿の少女が現れる。
かつて、永泉がはじめて神子に会ったときのように、神子はしゃがみこんで泣いていた。
このような深夜、雪の降る小道に突如現れた龍神の神子。
憧れ、もとめてやまない、永泉にとってのたった一人の女性。
なぜ?と思った瞬間、永泉は後ろを振り向いていた。
そこにいるはずの大蛇がいない。
妖しの見せる幻か、永泉は震える手で袈裟を握り締めた。
あかねが顔を上げる。

「永泉・・・さん・・・?」

鈴を転がすようなその声音。
驚き目をみはるその瞳は涙で濡れて。

「よかった・・・急に誰もいなくなるから・・・びっくりして・・・。」

あかねはは心底ほっとしたような表情を見せた。
その表情に永泉はどきりとする。
目の前の女性から感じられるのは間違えようもない、龍神の神子である証の神気をまとったまばゆいばかりの気。
誰がこの女性の神気まで真似することができるというのであろうか。
永泉はあかねに手を伸ばす。
あかねの手を取って立ち上がらせる。
そのとき永泉の脳裏で響く声ならざる声がする。

――今ナラ神子ニ思イヲ伝エラレル。

永泉の表情がこわばった。

「永泉さん・・・?」

あかねが永泉を覗き込む。
自分を見上げるその瞳。
どれだけこの瞳に見つめられたかっただろう。

――違う、私は・・・!

頭の中で別の何かが自分の理性を引きちぎろうとするのを永泉は感じた。

「神子、離れて!」

永泉は一歩あかねから後ずさりした。
何故気がつかなかったのであろう。
いつの間に自分は自分の中に大蛇を引き入れたのであろうか?
永泉は両手を合わせた。

「功勲、広大にして、智慧、深妙なり。光明の威相、大千(世界)に震動す。願わくば、われ仏とならんに、聖法王に斉しく。生死を過度して、解脱せざることなからん。布施、調意、戒、忍、精進、かくのごときの三昧と智慧を、上れたりとせん。われ、誓う。仏となりえて。あまねくこの願に行じて、一切の恐懼、大安ならしめん・・・。」

永泉は経を唱えながら頭の中が軽くなっていくのを感じた。

永泉の目の前に現れたのは先ほど後ろを歩いていたはず大蛇。
その向こうに驚き震える神子がいる。

「私はあなたを調伏します。常陸の宮さま・・・。」

永泉の言葉に大蛇の瞳が光を宿す。
永泉は真っ直ぐに大蛇を見据えた。




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