炎熾戀抄 7


泰明が土御門の邸に訪れたのは夕刻近くであった。
一通の藍墨茶色の文を携えて。
頼久、天真とともにあかねとは御簾越しの面会である。
冬の神泉苑の池で禊をし、あかねの身を案じる藤姫が出した、最大限の譲歩の結果である。
あかねの脇には藤姫が控え、その後ろには口が堅く優秀な、土御門の自慢の女房らがずらりと居並ぶ。
あかねの無茶を止める体制はばっちりというわけである。
さらにあかねは藤姫の指示のもと、唐衣に裳をつけた女房装束を着せられて、四方八方からのあかねを拘束している。
あかねはぱたぱたと桧扇で扇いだ。

――ちょーっといきすぎな感じがするけどなあ・・・。

あかねはちらりと藤姫を見た。
藤姫は可愛らしいその円い頬に怒りを含ませ、つんと横を向き、八葉の面々を見ようともしない。
よほど藤姫の不興を買っているということである。
最初に口を開いたのは頼久であった。

「神子殿に昨夜のご報告をいたします。」

昨夜、頼久は検非違使庁にあの女性を連れて行こうとした折に紀伊の守の家人と行き会った。
頼久が抱いている女が紀伊の守の姫だと、家人らの様子でわかったという。
多くを語ろうとしない家人らは早々に女を頼久から受け取るといなくなってしまった。
頼久は急ぎ武士団にもどり諜報を専門とするものに紀伊の守のことを調べさせた。
昨夜の姫は紀伊の守の一人娘、きよ姫という人物であった。
昨夜だけではなく、時折深夜に姿を消すことがあった。
しかし昨夜のきよ姫の様子は尋常ではないことに、家人らも不審に思っているようであった。
あかねは昨夜の女性のことを思い返していた。
ぼろぼろに擦り切れ、泥まみれの美しい袿。
もつれた長い黒髪、般若の如く荒んだ表情。
あかねは胸が痛んだ。
何があってあの女性をそのような姿に変えたというのであろうか。

「神子、永泉から文が届いている。」

唐突に泰明は御簾を少しあげてあかねに藍墨茶色の文を差し入れた。
泰明の男にしてはややほっそりとした手に、あかねはどぎまぎしながら文を受け取る。
はらりと文を解けば、永泉の、達筆でありながら柔らかな筆跡で綴られた文字が流麗に並んでいる。
こちらの世界に来てから、草書体の文字は多少は読めるようにはなったが、あかねが読めるのは女文字、つまり仮名文字だけなので、永泉の漢字まじりの、しかも僧籍にあるものが使用する片仮名文字が入れば、あかねには全く読めない。
もちろん永泉が泰明に宛てた文であって、あかねが見ることを前提に書いていないのでこのように書くわけである。
永泉があかねに宛てる文には当然ながら仮名文字を使用する。
それが永泉なりの気遣いというものである。
だからあかねがこの文を読めないとしても、永泉があかねに気を使っていないわけでもなんでもないのである。
あかねは文越しにちらりと泰明を見るが、泰明は目を閉じて静かに座しているだけである。
あかねは仕方なく藤姫をちらりと見る。
藤姫はあかねの視線に気がついてあかねを恨めしげに見るが、あかねの困ったような視線に小さく溜息をついた。

「少弐、神子様に文を読んであげて。」

藤姫の言葉に少弐という女房があかねの前に進み出た。
あかねの手から文を受け取るとすっと視線を走らせる。

「あ、あの、頼久さんや天真君にも教えてあげてくださいね?」

あかねは少弐に告げると、少弐は小さく微笑んだ。
あかねはほっとすると肩の力を抜いた。
永泉からの文の内容を気にしているのは自分だけでなく、さっきからそわそわと落ち着かない天真や、何も言わなくとも時折泰明に視線を投げかける頼久の態度を見ていれば一目瞭然である。
仁和寺に異変があれば文を泰明に遣すようになっていた永泉からの文は、それだけであかねを不安にもさせる。
まして御簾越しに泰明や頼久、天真と顔を合せるというのは居心地が悪くて仕方ないし、着慣れない女房装束の正装もいただけない。
あかねは少弐の言葉に耳を傾けた。


永泉からの文の内容は昨夜の仁和寺の異変について記されていた。
安珍が衰弱しきった身体で仁和寺に帰ってきたこと。
暁慶僧正の支持で加持をしたこと。
仁和寺の総門に現れた大蛇のことなどであった。
少弐は読みながら恐ろしさゆえか文を持つ手が震えていた。
あかねは怨霊封じを行っていたことから、永泉の記してきた妖しの出来事には特に恐ろしいとは思わず聞いていたが、この時代の普通の女性であれば卒倒をおこしかねないほどの恐ろしい出来事なのかもしれない。
その証拠に居並ぶ女房たちの大半が恐れをなして席を立って辞するものが多かった。
少弐は文を読み終えると丁寧に畳んでそれをあかねに返した。
あかねは今度はそれを泰明に返すべく、御簾の下から泰明へと文を差し出した。
泰明はあかねから文を受け取ると、それを懐にしまいこむ。

「っつーことは、昨日のきよ姫は仁和寺からの帰り道、ってことなのか?」

天真が泰明に問う。
同時に何匹もこの京に大蛇が現れるとは思えないことから。
しかし泰明は天真の問いに答えなかった。

「神子、これから私は仁和寺へ出向く。」

泰明の言葉に藤姫ぴくりと反応を示す。

「神子様をお連れするつもりではないでしょうね、泰明殿?」

険を含んだ表情で藤姫が聞く。

「連れてゆかぬ。」

泰明は即答した。
その様子に藤姫が小さく息を吐いた。
ほっとした、といった風情である。
そして藤姫はあかねに視線を移した。
あかねはぶんぶんと首を振って両手を挙げた。
本当のところ、あかねは泰明について仁和寺に行きたかったが、どうも泰明の様子から絶対に自分は連れて行ってくれないだろうし、自分を土御門の邸に結界を張って閉じ込めるぐらいやりそうな雰囲気を感じたのである。
大体、泰明はこの土御門の邸に来るのさえ、渋々、といった態度であったのだから。

「泰明、答えろよ。昨日のあのお姫サマと大蛇は同一のモンなのかよ?」

天真が不満げに泰明に聞く。
ちらりと泰明が何の感情も読み取れない視線を天真に向ける。

「確証はない。ただ、永泉の逢った大蛇と、私があの女の背後に見た大蛇が同じ可能性がある、というだけだ。紀伊の守の姫と安珍の接点がわからぬ以上、調べるしかない。」

泰明は静かに立ち上がった。

「神子が抜け出さぬよう、頼久、天真、神子を見張っていろ。」

泰明の言葉に天真が不満げに泰明を見遣る。
しかし泰明はその天真の視線を受け流し、さっさと簀子縁を後にした。
別れ際の挨拶にしては最低の部類である。
あかねは溜息をついた。

「神子殿、恐れながら泰明殿や藤姫のおっしゃるとおり、今日はゆっくりと静養されてください。神子殿のお力が必要になるとき、そのときに神子殿が病に臥していてはどうにもならないでしょう?」

頼久の言葉にあかねは苦笑した。
滅多に多くを語らない頼久ゆえに、時折このように自分を諭す言葉には重みがある。
自分の力――、それは龍神の力。
あかねの内にあるすべてを浄化し、京の安寧を守る力。
龍神の力を発揮する媒体である自分。
本当に龍神の力が必要になるとき。
それは京の安寧が脅かされるとき。
あってはならないことであるが、もし自分の力が必要とされるときに自分が病に倒れていては京を救う云々以前の問題となってしまう。

「ありがとう頼久さん。そうですね・・・、そのとおりです。でもお願いがあります。」

あかねは御簾の側へと寄った。

「この京に・・・泰明さんに何かあったら・・・私・・・、」

あかねは言いかけて唇を閉じた。
天真の視線を感じたからである。
あかねは唇を噛んでうつむいた。
そんなあかねの様子に頼久はわずかに眉宇をひそめる。
ちらりと天真を見れば天真は席を立って簀子縁を後にするところであった。

「神子殿、この京に異変が起こったとき、間違いなく神子殿にお知らせします。」

頼久の言葉にあかねはほっとする。
あかねがこの京に残ると決めたとき、誰よりも強く反対したのは天真だった。
家族を捨て、友人を捨て、すべてを失っていいのかと、激しく激昂した天真。
それでも。
それでもあかねはすべてを捨ててこの京に残った。
それが正しいのかどうかはあかねにはわからない。
ただ、すべてを捨てても手に入れたい恋があった。
すべてを失ってもなお、手に入れてよかったと思う愛があった。
共にこの京に天真が残ってくれるとは思っていなかった。
蘭がこの京に残りたいと強く願ったせいもあるかもしれない。
しかしあかねは天真の視線に込められる意味を痛いほど感じていた。
自惚れではないであろう。

――私がもし泰明さんを失って泣く場所があるとすれば。

きっとそれは天真の側。
頼久が簀子縁を辞して、藤姫をはじめ、女房らがあかねの側を辞して。
ひとり部屋に残されたあかねは胸の前に手を組んだ。

――だからお願い。龍神様、どうかこの京を・・・、泰明さんをお守りください・・・。








泰明は迷いのない足取りで夜の仁和寺を訪れていた。
永泉の気を探って泰明は僅かに目を細めた。
天の玄武の、水気が感じられる箇所は修行僧が多く集まる僧坊からであった。
泰明は片手で首から下げられた連珠を握った。
永泉の気が近づくに連れて、禍々しい気も伝わってくる。
それを必死に押さえつけているのはほかならぬ永泉の気であった。
永泉は安珍の側に詰めているのであろう。
泰明は永泉、安珍らのいる僧坊へと入っていった。
驚く修行僧や、僧侶らを尻目に、泰明は安珍の側に座した。

「来てくださってありがとうございます、泰明殿。」

永泉が丁重に泰明に礼を言う。
法親王である永泉が敬意を払うほどの人物、と他のもの達は驚きを隠せないでいる。
泰明は廻りに頓着することなく、安珍の顔を覗き込んだ。
頬はこけ、目のまわりはどす黒い隈ができ、土気色の顔からはわずかな生気が感じられるだけである。
以前ちらりと見た、友雅風にいえば女のような、柔和な面立ちはどこにも感じられなかった。
これがあの人物と同一人物とは思えないほどに安珍はひどく変わってしまっていた。

「永泉、笛を。来る。」

泰明は短く永泉に命令した。
龍脈を通る大蛇の存在を泰明は感じていた。
一瞬、あかねのことが気になる。
穢れに触れて苦しんでいるのではないかと思うが、頼久と天真があかねの側に控えているはずであった。
大丈夫である、と判断をくだすと泰明は目の前でおこりうる妖しの事態を解決することに専念することにした。
泰明は永泉が龍笛を手にするのと同時に立ち上がった。

「どけ。」

泰明は短く側に控える僧侶らに告げる。
僧侶らはみな黙って部屋から出て行ったり、部屋の隅へと移動する。
安珍の側にいるのは永泉と泰明だけになる。
泰明は摺り足で安珍と永泉のまわりを歩き出した。
反閇の法で房の中に結界を張る。
永泉の美しい笛の音にのせて、より強固な結界がそこにできる。
やがて泰明は再び安珍の側に座した。
永泉も龍笛から唇をはずす。

「永泉、今から来る大蛇は紀伊の守の娘だ。何か知らないか?」

泰明はおもむろに永泉に尋ねた。
永泉は紀伊の守、と聞いて目を見開いた。

「紀伊の守の娘?では常陸の宮の姫の娘なのですか?」

永泉は記憶の糸を手繰り寄せて紀伊の守の家族関係を思い出す。
紀伊の守には妻は一人だけ、常陸の宮の姫君だけだったはずである。
その前に妻がいたかどうかは定かではない。
紀伊の守と常陸の宮の姫との間には一人しか子供がいなかったはず。
今年十五になる娘である。
安珍がもし常陸の宮の法要に同行していたのならば。
いや、その可能性は非常に高いであろう。
その法要の時に安珍と紀伊の守の娘に何かあったのであろう。
永泉は胸のつぶれる思いがした。
安珍ときよ姫を引き合わせたきっかけが自分であると責める。

「安珍は常陸の宮の姫の法要に同行しました・・・。きよ姫とはそのときに逢ったのでしょう・・・。でもなぜ・・・?」

永泉はぎゅっと目を閉じた。
大蛇ときよ姫の関係がわからない。

「受領というものは人から怨まれれることも数多ある。呟いた怨嗟の言葉が紀伊の守からその娘へ撥ね返ったものであるとすれば、あの姫が大蛇に憑かれていてもおかしくはない。」

永泉ははっとした。
紀伊の守に向けられた怨嗟。
彼を憎んでいたのは――。

そのとき安珍が目を覚ました。
総門にはきよ姫が立っていた。
美しく、嫣然と。

「安珍様・・・。」

きよ姫は安珍の名を呼ばわった。



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