炎熾戀抄 6


ぱちぱちと火のはぜる音にあかねはゆっくりとまぶたを開いた。
手足の感覚がなくなり、意識まで手放してしまうほどに冷たい水の感覚はもうない。
かわりにあたたかい温もりに包まれているのを感じた。
しかしそれが何であるかまで判断できるほどにあかねの意識は戻っていない。
不意に唇に温かく柔らかな感触が押し付けられたかと思うと、唇の隙間から温かなものが流し込まれるのを感じた。
身体は正直なもので口に流し込まれたそれを、あかねは無意識に嚥下する。
とたんひりひりと焼け付くような熱さが喉を刺激し、あかねはむせた。
そのときはじめてあかねは周囲が見えはじめた。
目の前には髪をおろした泰明がじっとあかねを見つめている。

「目が醒めたか?」

泰明の抑揚のない台詞もあかねにはちゃんと気遣わしげに聞こえる。

「泰明さん・・・?」

あかねは身体を起こそうとしたが上手く力が入らなかった。
わずかに身じろぎしたとき、泰明の手があかねの身体をきつく抱きしめた。

「動くな、神子。もうしばらくこうしていろ。」

あかねは今自分がどんな状況なのかを把握しようとして、顔をぐるりとまわした。
そこは神泉苑の建物のなかで、がらんとした広い空間であった。
何もないわけではなく、火鉢が置かれ白い炭が赤く燃えている。
身体は温かな温もりに満たされてあかねは再びまどろみそうになる。
物理的に温かいというのではなく、身も心も安心できるような、母に抱かれる赤子の時のような柔らかな温もりである。
髪を撫でる細くしなやかな指先がとても心地よく、あかねは猫のように自分を包むそれに身体をすり寄せた。
そしてそのままあかねは再び意識を深い闇へと沈めていった。

あかねが再び意識を取り戻した、というか目覚めたのは日が中天をさしかかった頃であった。
見慣れた土御門の自分の部屋の御帳台の中である。
とても長く眠ったような気がして、あかねはそろそろと起き上がると大きく伸びをした。
そして昨夜のことを思い出す。
神泉苑で見た女性。
神泉苑の池に入って行った禊。
そして泰明に抱きしめられていたこと。
色んなことを一気に思い出してあかねは顔を赤くしたり、青くしたりと一人百面相をする。

「神子様?」

不意にあかねに呼びかける女房の声がしてあかねは文字通り飛び上がって驚いた。

「なっ、なにっ?」

あかねは御帳台から小さく顔をのぞかせた。

「起きていらっしゃいましたか。お薬湯をお召し上がりください。泰明殿から届けられております。」

あかねは袿を引き寄せて羽織った。

「泰明さんから?薬湯???」

あかねは不思議そうに聞き返した。
何故自分が薬湯を飲まなくてはならないか全くわからない。
女房は小さく笑うと別の女房の持ってきた薬湯をあかねに差し出した。

「昨夜は真冬だというのに深夜に禊をされましたでしょう?泰明殿は今朝神子様をお連れになってこの邸に戻られたのですわ。藤姫様がひどくお怒りになられまして。しばらく泰明殿はこの邸に出入り禁止かもしれませんわね。」

あかねは薬湯を受け取ると鼻を近づけて匂いを嗅ぐ。
薬っぽい匂いではないものの、あまり芳しい匂いはしない。
ちび、と小さく舌で舐めるとひりひりと焼けつくような味がする。

「薬酒、ですわね。温めてありますから多少は飲みやすいかと思いますが。」

――これって昨夜飲んだのと一緒だわ。お酒なのね。

あかねはうーんと困ったように眉間に皺を寄せた。
薬酒とはいえアルコールである。未成年のあかねが飲んでいいものかどうか悩むところではある。
しかしあのように冷たい水に浸かって、風邪らしい兆候がないということはこの薬酒のおかげかもしれないと思うと無下にもできない。
お酒の味に慣れないあかねは少しづつちびちびと舐めるように飲み始めた。
そのとき簀子縁のほうでドタドタという足音がした。
天真である。

「おーい、あかね!起きてるか?!」

天真の遠慮のない呼び声に女房らが顔を顰める。

「私は大丈夫だから天真君と話をさせてくれない?」

あかねはやんわりと女房らに席をはずすように促した。
女房らは渋々、といった体であかねの部屋から辞していく。
最後の女房が出て行くと天真が御簾越しに現れた。

「心配かけてごめんね、天真君。昨夜はありがとう。」

あかねはそういうと天真はちょっとだけ嫌そうな顔をした。
あかねは天真の様子にちょっと驚いて、どうしたの?と聞く前に天真によって遮られた。

「あかねが謝ることじゃないだろ。それより頼久から報告は聞いたか?」

天真は御簾の近くににじり寄った。

「何?さっき起きたばかりで何にも聞いてないけど。」

あかねも御簾の近く、天真の側に寄る。

天真はあかねの方を見もしないで低く、小さく声を落とす。

「あの女、紀伊の守の娘なんだよ。中流貴族のお姫サマってとこか。頼久が検非違使庁へ連れて行く途中で、紀伊の守の家人らが探しているのに行き会ったんだとよ。」

天真は息を継いだ。

「とりあえず頼久は泰明んとこ出かけて報告しに行ってるハズだぜ。」

あかねは昨夜の女性のことを思い返してみた。
豪奢な袿は泥で汚れ、あちこち引きずったせいか破れて見事なほどにぼろぼろであった。
その袿が豪奢であると判別ついたのはその織りは美しい光沢を出す綾織で仕上げられており、紋様もあでやかで華やかであったからである。
そしてそれが決して風化しているものではなく、どちらかといえば新しい部類の袿であったことがことの異常さに拍車をかけているのである。
紀伊の守といえば中流のなかなか裕福な貴族である。
この土御門家の主人である左大臣から比べれば、取るに足らないほどの身分ではあるが、それでもなかなか財ある貴族であることは確かである。

「ね、天真君。そのお姫様、どうしたの?その紀伊の守のおうちの人たちは何て言ってたの?」

あかねの言葉に天真は首を振った。

「いや、何も。まさかあんたちのお姫サマ、何かに憑かれていますよー、なんて言えるわけないし。ただ、あのお姫サマ、忽然と邸からいなくなったんだってよ。」

あの少女が穢れを受けていたのは間違えようのない事実である。
神泉苑の水が僅かではあるものの確実に濁っていた。
あの水に浸かってはじめてわかる水穢でる。
あの気持ち悪さはどのように伝えたところでわかる人がいるとは思えないが。
泰明が側で支えてくれなかったら、水の冷たさと相まって神泉苑の水の穢れを祓う前に意識を失っていたかもしれない。
どこであの少女は穢れを、それも龍脈や龍穴である神泉苑を穢すことの出来るほど穢れを受けたというのであろう。
もともとわずかな穢れというものは実際によくあるのだ。
人の死や憎まれ口、月の穢れを受けている女性などですら穢れとなって龍脈に触れる。
しかしいちいちあかねはそれほどに過敏な反応などしない。
どちらかといえば龍脈のほうが強すぎて、わずかな穢れは霧散してしまうといっても過言ではないだろう。
だからあの少女の受けている穢れがどれほど大きいものであるかを感じずにはいられない。
ふとあかねは仁和寺での出来事を思い出していた。
青年僧が穢れを受けていると泰明が言っていたこと。
なんだかあの少女と青年僧が、この京にもたらした穢れに関わっているような気がしてあかねは知らず震えた。

「おい?あかね?大丈夫か?」

あかねの身震いを感じ、天真が心配そうに声をかけた。
あかねははっとして顔をあげる。
いつのまにやら天真が自分を心配そうに見つめていた。
御簾越しとはいえ、あかねは知らず赤くなって思わず身を引く。
昨夜の泰明に対してなんだか後ろめたく感じて。

「あ、ごめんなさい・・・。大丈夫だから・・・。あの、天真君。泰明さんのとこに行きたいけど連れて行ってくれる?」

あかねの言葉に天真の表情が厳しくなる。

「ダメだ。あかね、お前昨日真冬の池で水浴びしたんだぞ?このうえ外になんか出たら絶対風邪引く。泰明にここに来てもらうようにしろ。藤姫に頼んで使いをだしてもらえ。」

いつになく天真の厳しい言葉にあかねは唇を尖らせる。

「大丈夫だよ?だって泰明さんからもらった薬湯も飲んだし、本当に風邪の兆候なんてないから。」

しかし天真は首を振る。
何度も何度もあかねは天真に懇願するが珍しく天真が折れることはなかった。
仕方なくあかねは女房を呼んで藤姫に文を書いてもらうように頼む。

「じゃ、俺帰るわ。」

天真が席を立とうとしたところであかねは天真の着物の裾をしっかりと握しめていたため、天真はすっ転びそうになった。

「天真君、待って!藤姫、絶対泰明さんが来るのを反対しにくるから天真君からも藤姫に頼んで!」

天真はうんざりとした表情であかねを見る。
今朝、泰明が意識のないあかねを連れて帰ってきたところで、藤姫が泰明に怒りをぶつけていたことを知っているだけに天真も断れない。

「しゃーねえなあ・・・。俺からも頼めばいいんだろ?」

あかねの泣きそうな顔にこればかりは天真も折れる。
いろいろ今回の事情をまとめるためにも泰明と話を詰めなければならないと天真も考えているからである。
あかねが必死になって取り戻した京の平和を壊したくなかったから。
神子を守る八葉だから。
あかねを守る男でありたいから。
――それがたとえ叶わぬ望みだとしても。
あかねの守るこの京を、天真もまた守りたいと思うのは、何も天真に限ったことではないであろう・・・。










昨夜、安珍の側で笛を吹いているときであった。
仁和寺の門のところで強大な穢れを永泉は感じた。
それはなんという禍々しいものであったろうか。
その穢れは大蛇の姿をしていた。
旧き神々のひとつである。
大蛇は仁和寺の門のところで安珍を呼ばわっていた。
切なげな女人の声で。
安珍は意識を失いながらもその大蛇の呼ぶ声に応えるかのように、何度も身を起こそうとした。
そのたびに小坊主らが必死に安珍を押さえつける。
永泉は房から外へでると門まで出て行った。
門をはさんで大蛇と永泉は対峙した。

「霊力高き僧よ、この娘の願う男を出せ。」

大蛇は声にならない声で永泉に呼びかけた。
永泉は静かに首を振った。

「旧き神よ。何ゆえにあなたはここに来られましたか?ここはあなたのような方が来るところではありません。もといた自分の世界に戻るのです。その姫君から離れなさい。」

永泉は笛を握り締めて凛とした態度で大蛇に向かって話しかけた。
しかし大蛇はちろちろと二股に分れた紅い舌を何度も出したり引っ込めたりするだけである。

「霊力高き僧よ。私の邪魔をするか?」

大蛇の言葉に剣呑さが混じる。
それでも永泉はひるまなかった。

「もといた世界に還るのです。あなたは悪意の言霊に縛られている。あなたぐらいの力があればそのような言霊の力など引き千切れようものを。何故にその姫に取りつ憑くのですか?」

大蛇は何ももう言わなかった。
言わないことが答えであるかのように。
永泉は龍笛に唇をあてた。
清らかな笛の音が響き渡る。
大蛇はゆっくりと身体を回転させた。
ずるずるとその巨大な身体をゆっくりと回し、僧門から離れていく。
永泉はちらりとその大蛇の姿を見た。
しかしそこにはもうもう大蛇の姿はなく、かわりに髪を振り乱し、肩をおとした女性の後姿があった。

「一体・・・。」

女性の姿が見えなくなると永泉は龍笛から唇をはずした。

「安珍・・・。」

永泉は安珍の眠る房へと戻った。
あの大蛇が、姫が、安珍をあきらめたわけではないことだけは察しがついていた。
忘れ去れた旧き神の嘆きと。
恋に溺れた少女の恋情と。
仏に仕えながら女戒を破った苦しみと。
永泉には痛いほど彼らの苦しみが伝わってきた。
わが身を振り返れば彼らの苦しみはまるで自分のそれ。
悲しみを、苦しみを抱く自分の姿になんと重なることか。

――この世はなんと無常なのか・・・。

永泉はそっと手を合わせた。

降り積もる雪のように。
罪は永泉の中にある。
溶けない雪を抱えて。
永泉は御仏に祈る。
自分の罪が。
神子を滅ぼしてしまわないことを――。




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