炎熾戀抄 5 泰明とあかねが神泉苑についたとき、神泉苑には一人の女性が佇んでいた。 長い黒髪に色鮮やかな袿。 着ているものはどちらかといえば豪奢で、どこかの姫君のようである。 しかし長い黒髪はもつれて乾いており、豪奢な袿も泥で汚れている。 白い肌のあちこちにも乾いた泥がこびりついている。 深夜の神泉苑にいるにはあまりに不自然なその姿。 しかしその女は怨霊でも、魑魅魍魎でもなかった。 ただの、人、だったのである。 「泰明さん、あの人・・・。」 あかねは泰明の袖を掴んだ。 怖い、とは思わなかった。 今まで出会ってきた怨霊たちから比べれば、生きている人間の女性は怖い存在とは思えない。 それでも深夜に神泉苑に佇む女性の姿は異様さを感じずにはいられない。 泰明はそっとあかねを背後に庇うようにして、女のもとへと一歩歩みを進めた。 泰明とあかねの気配に気が付いて、女がゆっくりと振り返った。 幼い面差しでありながら、どこか齢を重ねたように見えるの、落ち窪んだ瞳をとりまくどす黒く彩られた隈のせいであろうか。 「あの・・・。」 女は泰明に声をかけた。 「わたくし・・・、その・・・どうして外にいるのかわからないのです・・・。気が付いたら・・・。」 女は俯いた。 憔悴しきっている、といった感じである。 本人にもまるでわけがわからない、といった風情である。 「気が付いたらどこにいたのだ?」 じゃら、と泰明が首にかけられた連珠を手にして女に問う。 女は溜息をついた。 「朱雀大路・・・だと思います。ひどくのどが渇いて・・・、いえ、渇いているような気がしました・・・。水のあるところ、といえばこちらが思い浮かびましたので・・・。」 女の話は雲を掴むようである。 気が付いたら朱雀大路にいたらしいというが、それが定かではない。 しかしどこぞの姫であれば京の地理など知る必要などない。 のどが渇いているような気がしたというのはどういうことであろう? 夢の中の出来事のような話し方である。 泰明は女の側に寄ると人差し指と中指をたてて口の中で呪を短く唱え、彼女の肩を軽く叩いた。 女ははっとしたように泰明を見上げた。 そしてそのまま、その場にくず折れたのである。 泰明は女のもとに膝をついた。 そのときばたばたと泰明とあかねのもとに頼久と天真が駆け寄ってきた。 「泰明!?」 天真が驚いて声を上げた。 地面に倒れ付している女性と泰明を見て、天真が勘違いをしたらしい。 あわててあかねが天真の袖を引っ張って、首をぶんぶんと振った。 頼久が倒れ付している女性を助け起こそうとして泰明に制止される。 「大蛇(おろち)が視える。触れるな、頼久。」 頼久は驚いて泰明の顔を見た。 泰明は半眼を閉じ、女をじっと見つめていた。 天真も立ったまま様子を覗き込む。 やがて泰明が小さく溜息をついた。 人差し指と中指を真っ直ぐに立て、口の中で小さく呪を唱える。 そしてとん、とん、とん、と女性の肩を叩く。 意識を失いながらも女性の身体から力が抜けるのがわかる。 「・・・。」 泰明が苦々しげな表情を作った。 「泰明さん・・・?」 あかねがそっと脇から泰明の顔を見上げる。 あかねの不安そうな表情を見て、泰明は苦笑した。 「神子、神子に頼みたいのはこの神泉苑の水を清めて欲しい。この女のせいで神泉苑の水がわずかではあるが穢れた。」 龍脈の途中にある神泉苑は龍穴といって、龍の水飲み場である。 龍脈と龍穴とに穢れをもった女性がやってきて、神泉苑の清らかな水を口にしたために穢れてしまったのである。 どんな旱魃のときもこの神泉苑の水が涸れたことはない。 それがこのわずかな穢れのせいで、この神泉苑の水が濁り、枯渇することもありえるのだ。 「え、えーと・・・、別にかまわないのですが・・・その・・・一体どうやって?」 あかねは心配そうに泰明の顔を見上げる。 頼久も天真もどのように神子がこの神泉苑の水を清めるのか、皆目見当がつかない様子で泰明をじっと見る。 「大したことではない。穢れを祓うのは神子がこの神泉苑で禊をすればよい。」 「そう、禊をすれば・・・って、この真冬に禊?!」 あかねは驚いて声を上げた。 天真と頼久もぐっと泰明に詰め寄る。 「このくそ寒いのに冷たい池に入ればどうなるかわかっていってるのかよっ!」 「恐れながら神子殿のご健康にかかわることではありませんか?!」 二人の息巻く様相にも泰明は動じず、ただ冷たい一瞥をくれるだけである。 「龍脈に大蛇の穢れが触れたのを神子も感じたであろう。このまま神泉苑の穢れを放置すれば遠からず神子が病になる。」 あかねははっとした。 先ほどまで感じていた穢れの感触を思い出す。 悪寒が全身を貫き、気分もすごく悪かった。 神子を護る八葉である泰明が祓ってくれたから、今ではなんともないが、あの状態が続けば否が応でも病気になることは容易に想像がつく。 しかしだからといって真冬の神泉苑で禊というのも・・・。 それでなくとも神泉苑は来訪者も多く、庶民から貴族、果ては帝まで訪れる万人に許された場所なのである。 「わ、わかったわ・・・。でも・・・できたら人がいないときにするっていうのは・・・だめ?」 あかねは困ったように泰明の顔を見る。 「問題ない。禊を今すぐ行え。今の時間であれば誰もここには来ない。」 あかねは今度こそ目の前が真っ赤になった。 ――この人はどうしてこう、羞恥心というものがないかなあ? あかねは泣きたくなった。 禊というのは単姿で水に入り、心身を清める。 しかし単姿で水に入ればただでさえ薄い生地が濡れて張り付き、あられもない姿となる。 さらに深夜の真冬である。 今は雪が降ってはいないが、いつ雪が降ってもおかしくないほどの身を切る寒さである。 すでに神泉苑のあちこちでは薄く氷が張っているほどである。 気力と根性と準備体操で心臓麻痺はないとは思うが、禊が終われば風邪で寝込むことは間違いなさそうである。 誰も好き好んで風邪になる馬鹿はいない。 「頼久、この女、見たところどこぞの姫とみた。今ごろ家のものが探しているやもしれぬ。検非違使庁にこの女を連れて行き、保護を願え。今なら一時的ではあるが穢れは祓ってある。」 泰明の言葉に頼久は女を見た。 なるほど先ほどまでの禍々しさは感じられない。 「天真、邸に急ぎ戻り、女房殿に頼み、神子殿の禊の準備をして戻れ。また武士団のものに薪と火打石を貸してくれるように頼め。」 頼久がそういうと天真はどもりながらも頷いた。 突然あかねがこの神泉苑で禊をしなくてはならないことが、天真にはいまひとつ納得がいかなかったが、とにかく今禊を行わなければ遠からずあかねが病気になるということだけは理解できたようである。 禊の準備、といっても何をどうしたらよいか全くわからなかったが、頼久が的確に指示をだしてくれたおかげで天真は自分が土御門で何をすればよいかを理解する。 天真は踵を返して土御門の邸へと取って返した。 そしてそれを見届けて頼久が倒れ付している女性を抱き上げた。 「それでは泰明殿、神子殿をお願いいたします。」 頼久は一礼すると神泉苑を出て行った。 二人取り残されてあかねはちらっと泰明を見上げた。 「水の中に入るまで後ろ向いててください。」 あかねの言葉に泰明は何も言わずに黙って後ろを向いた。 あかねは羞恥心で耳の後ろまで赤くなっているのがわかった。 今着ているものは水干姿で、いつも着ていたジャンパースカートではない。 真冬の深夜なのでいつもの姿ではあまりにも寒いのである。 それでもあかねは意を決して水干の帯を解いた。 幾重にも重ねてある衣をしゅるりとその場に落とす。 単姿になれば真冬の冷たい風が池の水の上をわたって吹きつけ、身を切るような寒さがあかねの身体を襲う。 あかねは身震いをひとつした。 神泉苑。 自分達がこの世界に召還されたときに訪れた場所。 鬼の脅威にも満々と水をたたえ、旱魃から京を救う大切な池。 目を凝らせばいつもは透き通るような水がわずかににごりをみせているのが感じられる。 これもまた龍神の神子としての自分の力故なのか、あかねにはわからなかった。 けれどそんなことはどうでもよくて。 大切な京を、泰明の守る京を、自分もまた守りたいだけ。 あかねは意を決して水の中に足を入れた。 吹き付ける水面を渡る風と氷のような冷たい水の感触に、あかねは一瞬やっぱり禊をやめたいと思う。 しかし水の感触が伝えてくるものは冷たさだけではなかった。 にごったような気。 あかねは水がまとわりつくような感触に、水の冷たさだけではない、寒気を覚えた。 ゆっくりと水の中に入っていく。 足首から膝へ。 膝から腿へ。 腿から腰へ。 腰から胸へ。 水につかる箇所が多くなるたび、水のにごった感触が全身にまとわりつくような感じがする。 間違いなくここの水が穢れを受けた証拠である。 あかねは震える声で泰明を呼んだ。 「泰明さん・・・、どうすればいいの・・・・?」 あかねの声が震える。 そのときぱしゃぱしゃと水の跳ねる音がしてあかねは振り返った。 そこにいたのは泰明だった。 「神子、祈れ。ここの水の浄化を。」 泰明はそういうとあかねの身体を支えるかのように抱きしめた。 実際あかねの身体は寒さで立っているのもやっとというほどで、今にもくず折れてしまいそうであった。 あかねは羞恥よりも、とにかくこの場で泰明が自分を支えて水の中に共に入ってきてくれたことが嬉しかった。 あかねはゆっくりと胸の前で手を合せた。 自分の中の龍神の力が放出されていくのを感じる。 この神泉苑の水は、龍神にとっても、あかねにとっても命の水とも言えるほど近しいもの。 あかねを中心に、徐々に水がもとの透き通るような穢れなき姿に戻っていく。 徐々に、それはゆっくりと、でも確実なスピードで。 天真が神泉苑の一角、釣殿のすぐそばでそんな二人の様子を見ていた。 深夜の神泉苑に目に見えるほどの神気が感じられる。 あかねがこの神泉苑の水を浄化しているのを目に見て、肌に感じていた。 しかしそれは天真にとってあまり楽しいといえる光景ではない。 天真は二人の姿をわざと見ないように、池を背にして武士団のものたちが用意してくれた薪に火をつけるべく、火打石を打ちつけた。 こちらの世界に来て慣れたはずの動作であるが、こんなときに限ってなかなか火が点かない。 何度も何度も打ち付けて、ようやく火が点くと、天真は泰明のほうに手を振った。 泰明が天真に気がついて視線を送る。 天真はそれを確認してさっさとその場を離れた。 一時もあかねと泰明のあんな姿を見ていたくなくて。 泰明とあかねにかける言葉が見つからなくて。 あきらめたはずなのに、こんな時は胸の苦しさを覚えずにはいられなかった。 泰明はあかねの身体を支えながら、横目で天真が姿を消すのを見た ――天真も永泉も・・・。 ちらりと泰明の脳裏を横切る苛立たしい感情。 泰明はあかねを抱く腕に力をこめた。 神泉苑の水は浄化され、ようやく穢れない澄んだ水の姿を取り戻した。 「神子、水は浄化された。あがるぞ。」 泰明があかねに声をかけた。 不意にあかねの身体がぐらりと傾ぐ。 「神子っ?!」 ぐったりとしたあかねの顔色は蒼白になっている。 さして長い時間ではなかったが、あかねにとっては過酷な禊である。 泰明はあかねの身体を抱き上げた。 急ぎ水からあがり、身体を温めなければあかねの命に関わる。 泰明は水音も高く急ぎ天真の用意した火の側へとあかねを連れて行った。 深夜の神泉苑に薪の炎が紅く燃える。 凍えた二人にはその炎が必要であった。 赤く、紅く燃える炎が。 戻る 次へ 表紙へ |