炎熾戀抄 四


――安珍様

少女はそっと自分の身体を抱きしめた。
自分でも信じられないようなことをしたあの日から。
きよはいまだ覚えないほどの恋情に捉われていた。
初めて覚えた恋心がこんなにも激しく深くきよを苛む。
逢いたくて、声が聞きたくて、触れられたくて。
たった一夜だけの過ち。
父にも、女房や下人にも知られていない二人だけの密やかな一夜であった。
どうしてあんなことをしたのか、きよにも理解できなかった。
ただ。
ただ一目見たその瞬間に、きよは恋に落ち、きっと・・・。
そうきっとあの青年僧もきよに恋したのだと信じたかった。
なぜなら彼はきよと契ったのだから。
僧籍に在る身でありながらきよを抱いた。
だからきよは確信していた。
安珍もまたきよを愛しているのだと。
しかしあの夜以来、きよは安珍の姿を見ていない。
文もない。
きよにはたった一夜のあの交わりだけが残されて、苦しい胸のうちのまま日々を過ごさねばならなかった。
何度心の中で安珍を呼び続けたであろう?
泣きながら夜を明かしたのはもう何夜めであろう?
そんなきよの思いが見せたのか。
その夜、きよは夢を見た。
逢いたくて、逢いたくてたまらなかった安珍の側にいる夢を。
安珍はきよを見て驚いていた。
しかしきよはかまわず安珍に口付けた。
夢だというのにそれはとてもしっとりとした感触があって。
驚く安珍もやがてきよをそっと抱き寄せる。
そしてそのまま二人一夜を共にし・・・。
そしてきよは夢から醒めた。

「あ・・・。」

きよは身体を起こした。
身体のあちこちに残る、安珍の口付けのあとはまるで花びらのようで。
心地よい疲れは交わりのあとのそれ。
身体の奥ではいまだ燻る恋情の名残。

「夢・・・。」

きよは溜息をついた。
まるでそれは真実あった出来事のようにきよには思えた。
胸に、腕に、首筋に残る安珍の口付けのあとが不思議である。
夢のままにこのようなあとが残されていることはまこと不思議であった。

「夢でもいいわ・・・。」

夢の中でも安珍に抱かれるのであれば、逢えない辛さをひと時忘れさせてくれるから。
きよは自分で自分を抱きしめた。
夢であっっても安珍に愛されたこの身が愛おしかった。

――あいしてるわ・・・。







安珍は目の前にいる存在に驚いていた。
あまりに驚きすぎて、口を半ば開いたまま、その存在を注視していた。
世話になっている暁慶僧正のもとで修行をするのが申し訳なくて、安珍は羅城門近くにある、崩れかけた庵で一人、読経をしていた。
無の境地を求め、座禅を組み、手は法界定印に。
あのたった一夜の過ちを忘れんがために、安珍の修行はますます激しいものとなっていった。
しかしそんな安珍を嘲笑うかのように、その存在は闇夜に浮かび上がるかのように現れた。
驚く安珍を尻目に、それは安珍の膝にそっと手を乗せた。
そして冷たく、美しいその横顔を小さく傾けると、安珍の唇へと自らのそれを重ねてきたのである。
冷たい口付け。
なのに安珍の頭の中で何かが弾けるには十分であった。
痺れたように動かなかったその手足が、まるで自分のものとは思えないように、柔らかなそれを抱きしめる。
重ねられた唇を貪るように、安珍はそれ――きよの唇を激しく口付けていた。
理性などとうのどこかに飛んでいながら、心の奥底で警鐘を伝えるもう一人の自分がいるのを感じる。
人を愛するということがどういうことなのか、安珍はわからないままきよを抱いた。
それはさながら。
渇きを覚えた旅人が水を欲するかのように。
そして夢のような一夜のあと。
安珍は激しく後悔し、苦悩した。
夢であったのか、現実のできごとなのか、それすらも判断できず、自分の欲望の赴くままにきよを抱いた。

――修行が足りないからあのような夢を見るのだ。

安珍はそう自分に言い聞かせ、修行をますます厳しくしていった。
暦のうえでは春とはいえ、雪の舞う中冷たい滝の水を浴びたりした。
しかし安珍の思惑を嘲笑うかのように、毎夜その夢は安珍に訪れた。
毎夜崩れかけた庵に訪れる影のような少女、きよ。
触れれば消えてしまいそうなほど儚いのに、きよの唇は嫣然とした微笑をその唇に刻み。
拒むことができないほどに安珍もまたきよに魅せられていた。
安珍の頬はこけ、やつれた面差しはすぐに仁和寺の小坊主たちの噂になった。
そしてその噂は永泉のもとにも届くことになったのだ。
泰明とあかねの来訪以降、永泉は何度も安珍と話をしようと試みたが、肝心の安珍がほとんど仁和寺にいないのである。
安珍の所在を知りそうな小坊主たちは互いに顔を見合わせ口を噤むばかりであった。
そんな折、永泉は暁慶に呼ばれた。

「永泉、そなた安珍を探していると聞いたが何か知っているか?」

暁慶の表情は硬く、深い苦渋が滲んでいる。
永泉は何をどういったらよいのかわからず力なく首を振った。

「詳しいことは・・・。ただ安珍殿がこのままでは危険だと・・・その陰陽師の・・・」

「陰陽師、安倍晴明の最後にして最強の弟子、安倍泰明が安珍を視たか。」

永泉は知らず頬を染めた。
泰明に視えたという安珍の穢れ。
自分が安珍に起こった変異に気がつかなかったことが恥ずかしくて。

「昨夜、というより今朝か。安珍が帰ってきた。」

暁慶の言葉に永泉は驚いて顔を上げた。

「仁和寺の門をくぐった後、意識を失った。ひどくやつれてな。」

永泉はさっと顔色を変えた。
泰明のいうとおり、安珍は身に穢れを受けていたのだ。
そしてそれは安珍の命までも奪おうとしている。
暁慶は小さく溜息をついた。

「永泉、安珍を頼めるか?そなたの霊力は強い。結界を貼り、安珍を守って欲しい。」

暁慶の頼みに永泉は力強く頷いた。
み仏に仕えることを誇りにしている安珍を救いたかった。
安珍の異変をいち早く察することはできなかったが、安珍を救う手助けくらいしたかった。

「暁慶様、私のような数ならぬ身でもお役に立てることがあれば是非・・・!」

永泉の言葉に暁慶は苦笑した。
その身に宿す強い霊力を自身が一番知らないのか、それとも謙遜しているのか。
その気になれば八葉であったことや、もと法親王という立場をも超えて、大僧正になれるほどの器の持ち主でありながら。
自身の力を過小評価するのは、この法親王の生まれと育ちを考えると無理もないことだと暁慶は思いなおす。
若くして出家しなければならなかったこの法親王は、自身の力を自分で正当に評価するにはあまりに世間に傷つけられてきた。
先帝の夜居の僧をも務めた暁慶は、政界で起こった出来事はよく知っていた。
暁慶は永泉の肩を叩いた。

「永泉、私は帝の命でしばらく内裏に詰めなければならぬ。よろしく頼むぞ。」

暁慶に言われて永泉は安珍のいる房へと足を運んだ。
暁慶によって指示されたものか、すでに安珍の周りには塩が盛られ、ある種の結界が施されていた。
永泉は龍笛を懐から出すと、唇をあてた。
この笛の音が安珍を苦しめる怪異から守ることを祈り、そしてその怪異のもとが慰められることを祈って。
御室、仁和寺に澄んだ笛の音が響き渡る。
やがて夜が訪れる――。










あかねはどうしようもない胸騒ぎを感じて褥の中で二転三転と寝返りを打っていた。

――なんだろう・・・?

京の気が乱れているのを感じる。
京の五行の気は鬼の脅威がなくなったのち、正しく流れているはずであった。
時々、やはらいこのように京の気が乱れることを感じることはあったが、それほど強く感じるわけではなく、この世に未練を残したものの魂が太く強く流れる龍脈をかすかに触れる程度のもので、やがてそれも強大ともよべる龍脈に呑み込まれては淡く消えてなくなっていくものであった。
しかしこの乱れは今まであかねが感じたことのないものであった。
それがあかねに胸騒ぎを覚えさせ、寝つくこともできずにこうして寝返りを何度も打たせている。
肌が総毛だつようなそんな感触である。
そのときだった。
急に外が騒がしくなったのである。
あかねは飛び起きて耳を澄ました。
女房らが衣をからげて走る音がする。
武士団のものであろうか、男の怒声が聞こえてくる。
あかねは御帳台からでようかどうか迷う。
どうやら騒ぎは徐々に移動し、あかねの対の屋のすぐ近くまできているようである。
そのとき御簾の向こう、簀子縁より更に向こうの庭で控えめに小さく男の声がした。

「神子殿。起きていらっしゃいますか?」

頼久であった。
あかねはほっとして答える。

「うん、起きてるよ。何かあったの?」

頼久の微かな溜息とも安堵ともつかぬ吐息が聞こえた。

「身支度をされて少々お待ちいただけますか?」

頼久の言葉にあかねは小首をかしげた。
どうやら外の騒ぎは自分に関係のあることだと理解する。

「うん・・・、わかったけど・・・、何かあったの?」

あかねの問いに頼久は答えなかった。
なぜならすでに頼久はその場を離れていたから。
あかねはどぎどきする胸を抑えながら急いで単の上から袿を羽織ったそのときだった。

「泰明様!神子様はお休みです!」

女房の半ば叫ぶかのような甲高いヒステリックな声があかねの耳に届いた。
そしてそんな女房に引き止められながらも御帳台の紗が引かれた。

「起きているな、神子。今から出かける。」

あかねはいきなり紗が引かれて思わずその紗を引いた人物をまじまじと見ることになった。
そこには安倍泰明が静かな瞳で立っていた。
たっぷり十秒、あかねは泰明の顔をまじまじと見つめた。

「泰明さん・・・?」

あかねはかあーっと顔が赤くなるのを感じた。
そして次の瞬間。

「きゃあああああ!!!!!」

あかねはありったけの声を張り上げた。
当然である。
乙女の寝所に許しもなく突然男が現れれば叫ばずにはいられない。
あかねの叫びに泰明が一瞬たじろぐ、
その隙をついて女房の一人が泰明の袖を掴んで力いっぱい御帳台から引きずりだす。

「いっ、いきなり入ってこないでくださいっっっっ!!!」

頼久の心遣いに感謝である。
あと一瞬袿を羽織るのが遅かったら単姿をもろに泰明に見られていたであろう。
単は薄い絹でできており、砧を打ったその生地は柔らかく身体のラインを的確に表し、単の下の肌をくっきりと表してしまうのだ。
袿を羽織っていなければ泰明にあられもない姿を晒していたことであろう。
あかねはどきどきと脈打つ胸を押さえ、とにかく落ち着こうと一生懸命深呼吸した。
そのときだった。
背筋を冷たい空気が走った。

――何?

あかねは身体が震え始めた。
嫌な空気がこの京のどこかで流れているのを感じる。

「神子。」

今度は御簾の向こうから泰明が声をかける。

「異変に気がついているのだろう?早く支度をしろ。出かける。」

あかねははっとした。
泰明の深夜の来訪の意味がわかったのである。
この京の異変を泰明も感じ、あかねとともにこの怪異を解決するべく訪れたのである。
あかねは急いで服を着替えた。
動きやすい水干に袖を通す。
御帳台を出て鏡を見る。
櫛でさっと髪を梳き、寝癖をチェックして簀子縁へと飛び出す。
そこには女房に半ば強引に押さえられている泰明がいた。

「ごめんなさい、泰明さん。ちょっと驚いたものだから・・・。」

あかねの視界の端に頼久が庭の隅で膝を付いているのが見えた。
あかねは頼久に向かって軽く一礼する。
あのとき頼久が来てくれなかったらとんでもない醜態をさらすところだった思うと感謝せずにはいられない。
そうしている間にもあかねの背筋はざわざわとした悪寒を感じずにはいられない。

「泰明さん、龍脈に・・・。」

あかねが言いかけると泰明は頷いてあかねの手を取った。
泰明にとっては大した行為ではなかったかもしれない。
あかねは身体からすーっと悪寒が引くのがわかった。

――穢れなんだわ・・・。

八葉は神子を護る存在。
泰明があかねに触れただけで穢れはあっという間に消えていく。
鬼との戦いが終わったというのに。
あかねは神子で、泰明は八葉であると認識させられる。
深く強い絆を感じずにはいられなかった。

「神子、行くぞ。」

泰明があかねの手を引っ張る。
目指すは京に走る龍脈上にある龍穴、神泉苑である。



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