炎熾戀抄 三 安珍は暁慶僧正について紀伊の守の邸へと従った。 紀伊の守の妻が髪をおろすという。 紀伊の髪の妻は永泉の知己ということで、暁慶僧正自らの手で出家させるということであった。 安珍は暁慶僧正の世話になっているので、たとえ永泉の知己といってもいやな素振りを見せることもなく付き従った。 法要には永泉も並び、共に経をあげた。 その後、紀伊の守の妻の容態が思わしくないということで、そのまま祈祷に入ることになった。 寝ずの祈祷となるのは間違いなかったので、順番に休憩を取りながらの祈祷である。 安珍は休憩のために与えられた房で疲れた体を休めるために入った。 しかしこうしている間も、他の僧たちは読経しているかと思うと、休めといわれても休む気にもなれず、ひとり座禅を組んで小さく経を上げていた。 そのとき紙襖の向こうから小さな笑い声が聞こえてきた。 くすくすという小さな笑い声の主はそっと顔をのぞかせた。 愛らしい少女がそこにはいた。 「お坊さま、休憩のときくらいお休みになればよろしいのに。」 少女はするりと驚く安珍の側へとやってきた。 「わたくしはきよ、といいます。お坊さま、あなたのお名前は?」 きよ、と名乗った少女はそっと安珍の手をとった。 あまりに突然の出来事で安珍は口をきくこともできず、ただ、ただぼんやりと少女を見つめるだけである。 愛くるしい表情の少女はそんな安珍の様子がおかしくて、ころころと微笑んだ。 年の頃は十五、六くらいであろうか。 裳着をすませたばかりらしく額髪をあげ、濃紫の袴は彼女が乙女であることをあらわしている。 質のよい袿は安珍など目にしたことのないような見事な綾織で、白に紅色を襲ねた雪の下の襲ねは安珍の目から見ても豪奢であった。 これだけの贅を尽くした衣をまとっていることから、この少女がこの邸の姫であることは安珍はすぐに理解した。 しかし理解するとますます困惑してしまった。 安珍は身分も何もない、それこそ地方の農村からやってきた修行僧である。 貴族と接するということは今までほとんどなかった。 それこそ物語に聞く、深窓の姫は男に顔すら見せないものだと思っていたから。 一方きよは。 病床に臥す母のためにやってきた僧正一行の中に素晴らしく美しい顔立ちの僧侶を見つけた。 冬の空に輝く月のように怜悧なその横顔、何より仏の道を志す、その美しい横顔とは対照的に燃えるような熱意を秘めたその瞳に一瞬に魅了されたのである。 彼らが寝ずで祈祷をすることを知ったきよは、こっそりと自分に与えられた房を抜け出して僧侶たちに与えられた控えの間を窺っていたのである。 「僧正様のご一行の中であなたを見つけたとき、とてもどきどきしましたの・・・。」 少女は自分の心を素直に吐露した。 安珍の手を握ったまま、毬のような胸へと誘う。 「お坊さま、どうして私はこんなことをしているのでしょう?」 夢見るような少女の瞳に安珍は知らず少女の身体を弄っていた。 安珍もまた、この少女のように一瞬にして捉われたのである。 深窓の貴族の姫。 安珍には絶対手の届かない存在。 御仏の道を志す熱意溢れる青年僧。 きよには絶対手の届かない存在。 互いに手の入らない存在としてあったものが二人の目の前に衝撃的に訪れたのである。 安珍はきよの唇を激しく塞いだ。 きよもそれに応えるように、安珍の袈裟を脱がす。 夜の帳の中で密やかに交わされたそれは愛と呼べるものであったのであろうか。 その答えは二人にもわからなかった。 ただ。 互いが手に入らないものとして求め合ったのだとしても。 誰に許しを得たらよかったのであろうか――。 ****** 紀伊の守の妻が亡くなった。 永泉は悲しみにくれたが、彼女の最期の願いであった出家が成し遂げられたことで、もうこれ以上思い悩むのは止めることにした。 それでも物思いに沈むことは多く、主上の催す管弦の宴や歌合せの誘いにも顔を出さず、ひっそりと仁和寺にて読経三昧の日々を送っていた。 あかねは詩絞から作り方を教わったというおはぎの入った折箱を手に仁和寺にやってきていた。 供には当然のように泰明がついている。 ふさぎがちの永泉を見舞いに来たのであった。 小坊主に永泉への取次ぎを頼んでいる間、泰明は苔むした寺の境内を歩いていた。 そして泰明は一人の修行僧に目が留まった。 細面の美しい青年僧であった。 しかしその横顔は苦悩を背負っていた。 しかし泰明にはそれ以上にその青年を取り巻くモノが視えていた。 「そこの・・・。」 泰明がその青年僧に声をかけようとしたところ、その青年僧は別の僧侶に呼びかけられ、用事をいいつけられたのか寺の奥へと消えて行った。 「泰明さーん!永泉さん、会ってくれるって!早く行きましょう!」 あかねが本堂の近くでぶんぶんと両手を振りながら大きな声で泰明を呼んだ。 泰明は先ほどの青年僧が気になりつつもあかねのもとへと戻った。 僧にしては特徴のある青年だから、永泉なら何か知っているかもしれないと思い直すと、泰明はあかねとともに永泉の待つ房へと入っていった。 永泉の房はがらんとしている。 それは彼が僧籍に下ったときにすべてのものを捨てたからであった。 地位も財産も何もかも――。 それほど広くないはずの房がこれほどがらんとして思えるのは本当に何もないからであろう。 二階厨子と火鉢、敷居がわりの几帳がふたつ。 円座の側には脇息が置かれている。 どれも質素な造りのものである。 「わざわざお訪ねしていただいて申し訳ありません、神子、泰明殿。」 永泉は申し訳なさそうに小さくなっている。 「何言ってるんですか。最近内裏の方にも顔を出していないって友雅さんが心配していたんです。風邪とかひいてるんじゃないかって思ったけど、思ったより元気そうで安心しました。」 あかねの溌剌とした話しぶりに永泉は心にかかった重い靄のようなものが晴れていくのを感じた。 「永泉が心配なら友雅が自分で様子を見にいけばいい。何故神子が訪問する必要があるのだ?」 泰明は冷たく言い放つと永泉はますます恐縮してさらに身体を縮こませた。 「もう、泰明さん、なんでそんな言い方するんですか?私だって心配だったんだからこうして元気そうな永泉さんに会えて嬉しいんです。永泉さん友雅さんはね、宮中の用事がとても忙しくてなかなか出られないんですって。気にしないでくださいね。」 あかねはフォローするように永泉に言う。 「友雅は抹香くさいところは性に合わぬそうだ。」 あかねのフォローもなんのその、泰明は友雅が言ったそのままのことを永泉に伝える。 「泰明さんっ!」 永泉は苦笑いした。 いかにも友雅らしい。 友雅は宮廷の華やかな雰囲気がよく似合う。 自分もあのように振舞えたら、もしかしたら兄に仇なすものとはならなかったかもしれないと思う。 ――いけない、最近の私は僧侶である私を否定したいと思うようなことばかり考えている・・・。 永泉は軽く頭をふると、あかねに向き直った。 「神子、いいのですよ、無用なお気遣いはなさらずに。泰明殿とて私が病気などではないことがわかっていたからそのように仰るのでしょう。」 永泉はそういうと泰明に向き直った。 すると泰明はじっと永泉の顔を見ていた。 永泉はどきりとした。 まるで自分が神子への想いをふりきれていないことを見透かされているような気がしたのだ。 永泉は自分の動揺に自分でも驚いていた。 それはあきらめたはずの想いに未だ捉われている自分に気がつかされて。 泰明の眼差しは真実を映す鏡のようである。 永泉の動揺を知ってか知らずか、泰明は小さく溜息をついた。 これ以上永泉を恐縮させても仕方がないとでも判断したのであろうか。 「永泉、細面で切れ長の瞳をもつ青年僧がここにいるだろう?」 泰明は先ほど境内の庭で見かけた青年僧のことを永泉に尋ねた。 永泉は何故泰明がこのようなことを聞くのかわからなかったが、素直に仁和寺にいる僧侶の面々を思い返した。 切れ長の瞳を持つ細面の青年僧、ということで永泉には一人だけ心当たりの人物がいた。 あの雪の舞う日、失望させてしまった熱意溢れる青年僧。 「ええ・・・、います。その方が一体何か・・・?」 永泉は慎重に切り出した。 泰明は人を意味もなく誹謗中傷するような人物ではないことはわかっていたが、長年人の顔色を窺って生活することを余儀なくされていた永泉はついそのようになってしまうのである。 「先ほど境内でその者を見かけた。その者、妖しに憑かれている。早くせねばそのものの命が危うい。」 永泉は驚いて腰を浮かした。 あかねも驚いて身を乗り出す。 泰明は静かに瞳を閉じた。 気を探るように先ほどの青年僧の気を探る。 しかし御仏を奉るこの仁和寺には清涼な気が溢れていて、先ほどの青年を取り巻いていた禍々しいまでの気が感じ取れない。 やがて泰明は静かに首を振った。 「掴めぬ・・・。そのものに会いたい。早く祓いをせねばこの京に穢れがもたらされる。」 泰明の言葉に永泉は顔色を変えた。 かつて鬼によって穢されたこの京に再び穢れがもたらされるかもしれない、と思うだけで胸がつぶれそうになる。 「永泉、穢れの一つや二つこの京にはもとからあった・・・、いや、この京自体、穢れの上に成り立ってできている。そのことはお前もよく知っているはずだ。」 永泉はぎくりとした。 そう、かつて桓武帝の御世、この京に都を移す折に起こった政争事件のことを泰明が言っているのがわかったからである。 そのとき謀略によって憤死した早良親王の祟りを恐れ、陰陽師の指導のもとに四神が配されたこの都はできたのである。 北に玄武の船岡山。 南に朱雀の巨椋池。 東に青龍の鴨川。 西に白虎の山陰道。 京の鬼門封じには比叡山。 そして内裏の鬼門を守るのは他でもない稀代の陰陽師安部晴明。 京の繁栄の裏にはいつも必ず陰陽師たちの暗躍があった。 それを知らない永泉ではない。 「泰明殿、その方は御仏のお仕えすることを誇りとし、真の修行者たるために努力を惜しまない方なのです。何か・・・、何かの間違いではないのですか?」 永泉は早口にまくしたてた。 安珍が妖しに取り憑かれているなどとはにわかに信じがたい。 しかしまっすぐに永泉を見る泰明の眼差しに迷いはなく。 永泉は肩を落とした。 一体どこであの真摯に御仏に仕える青年僧が、妖しに憑かれたというのであろうか。 「彼を呼びましょう・・・。」 永泉はがっくりとうなだれ、苦しげに呟いた。 妖しのものに憑かれているならばなるべく早く祓いをしなくてはならない。 永泉は小坊主を呼ぶと安珍を呼んでくるように頼んだ。 もちろん永泉や、永泉の客人らが安珍を探していることを他の者に悟られないように念を押して。 「泰明さん、お坊様でも憑かれることってあるんですか?」 あかねは泰明の袖の端を掴むとそっと尋ねた。 あかねの問いに答えたのは泰明ではなく永泉だった。 「いくら出家した身とはいえ人であることにはかわりません。僧正のように霊力のある方であれば物の怪に憑かれることはまずないでしょうが・・・。」 永泉は溜息をついた。 あのまっすぐな瞳をもつ青年僧とはあれきり顔を合せていない。 避けられているのだと思うと永泉も自然と避けていたようであった。 だから異変に気がつかなかった。 もっと自分が気をつけていれば、と思うと悔やまれる。 そのとき先ほどの小坊主が簀子縁に戻ってきて、額を床にこすりつけんばかりに平伏した。 「安珍はどうしたのですか?」 永泉は静かに小坊主に尋ねた。 小坊主はますます頭を下げた。 小坊主の様子から安珍が見つからなかったことが三人にはすぐに理解した。 「どこに行ったか教えろ。」 泰明がにべもなく小坊主に問う。 そんな泰明の言葉に小坊主は小さな背中を更に小さくする。 「も、申し訳ありませんっ!だっ、誰も安珍がどこへ出かけたかわからないのです。」 小坊主はどもりながら必死に答える。 泰明はそんな小坊主の様子を気にすることもなく、押し黙ったまま何事かを考えているようである。 永泉は小坊主に労いの言葉をかけると、早々にこの場を離れるように促した。 そして小坊主がいなくなると、そっとあかねのほうを見遣った。 またも京に不安がおこればこの少女を犠牲にするのかもしれないと思うと、永泉の中でちりちりと胸の焦げるような想いが湧き上がってくる。 また彼女の涙を見るのであろうか。 また彼女に悲しみを背負わせることになるのであろうか。 柔らかな髪は肩で切りそろえられ、丸く柔らかな頬を縁取っている。 華奢な肩、小さな手、どれ一つとってもその身に龍神を宿し、京の命運を担ったものとは思えないほど、あかねの身体は華奢でほっそりとしている。 抱きしめてしまえばきっとこの腕にすっぽりと収まってしまう。 ころころとよく変わるそのあどけないほどに素直な感情を見せるその表情。 流す涙すら美しく、その微笑は天上の甘露。 そう、彼女を守るためならば何ものをも恐れない。 そんな不思議な強さを与えてくれる人。 ――きっと泰明殿も・・・。 永泉はちらりと泰明に視線を向けた。 そしてどきりとする。 泰明がじっと永泉を見つめていたのだ。 何の感情も読み取れない、冷たい視線。 永泉は目の前が真っ赤になるような気がした。 神子がこの京に留まった唯一の理由。 泰明とともに在ること。 わかってはいるのだ。 神子と泰明は、神子と八葉というだけの絆で結ばれていないことは。 わかってはいたが理解していないのだ。 ――私は神子をまだ・・・。 永泉は小さく溜息をついた。 僧籍にありながらいまだに想いを振り切れずにいる自分が情けなくて。 京に穢れがもたらされようという時に。 神子のことばかり考えている自分が永泉は恥ずかしかった。 「永泉。」 泰明は静かに立ち上がった。 「何かあったら私に連絡しろ。」 そういうと小首を傾げてきょとんとしているあかねの手を取ると立ち上がらせる。あかねが何か言おうとして口を開きかけるが、それを待つような泰明ではない。 そのままあかねの手を取ってさっさと永泉の房を出る。 「あ、泰明殿、神子・・・。」 永泉は慌てて立ち上がると二人の後を追いかける。 そして門のところで泰明は繋いであった馬に身軽な動作でまたがる。 次にあかねの手を取って軽々と馬上へ引き上げる。 その様子を見て永泉は一抹の悲しさを覚えずにはいられなかった。 永泉には割り込めない、そんな二人の世界である。 「永泉さん、じゃあ何かわかりましたら連絡くださいね。」 あかねがにっこりと微笑む。 すると泰明の表情が傍目にもはっきりとわかるほど憮然とした。 「神子ではなく、私に知らせろ。」 あかねはあちゃ〜という表情で苦笑いをする。 つられて永泉も微笑む。 あかねの笑顔はどんな笑顔であっても微笑ましく、愛らしい。 「わかりました。何かわかりましたらすぐに泰明殿にお知らせいたします。」 永泉はようやく泰明の顔を真っ直ぐに見た。 同じ玄武として。 どれだけ憧れ、どれだけ羨ましく思ったであろうか。 しかしそれと同時にどれだけ泰明を信頼し、尊敬したであろうか。 今また京に穢れがもたらされようとしている。 泰明とであればその穢れを取り除くのは容易なことのように思える。 「神子の守ってくださった京です。できる限りのことをいたしましょう。」 永泉は微笑んだ。 神子の守ってくれたこの京を。 自分もまた守ることができたなら、神子と見えない何かで繋がれるのではないかと、そんな淡い期待もあってでた言葉。 「永泉さん、お兄さん・・・、帝にも顔を見せてあげたほうがいいよ。永泉さんのことをとても心配してるから・・・。ね?永泉さんは一人じゃないから。」 あかねの言葉の最後のほうは切なげな表情であった。 あかねの優しい心遣いが痛いほど身にしみる。 一人じゃない。 永泉にとってはどれだけ心強い言葉であろう。 しかし違うのである。 神子を愛する自分が。 あかねという一人の女性を愛することを止められない自分が、一人になることを望んでいるのだ。 己の不甲斐なさを見られたくなくて。 自分の罪が消えずに雪のように降り積もっていることを知られたくなくて。 永泉は微笑んだ。 その微笑は雪のように儚くて、あかねは不安を感じずにはいられなかった。 雪がちらちらと舞いだす。 馬首を土御門へと向けた泰明が、そっとあかねを袖の中に包み込んだ。 戻る 次へ 表紙へ |