炎熾戀抄 二


「紀伊の守の邸?」

友雅は怪訝そうに眉をひそめた。
友雅は主上の催す歌合せの会に永泉を誘って欲しいと主上自らから頼まれて、仁和寺に文を出したところ、永泉が出かけていると連絡を受けた。
帝が今日中に歌合せの面々を揃えるという意向を受けて、友雅は永泉がどこへ出かけたか知っていそうな人物を探して、鷹通の仕事する治め部省へとやってきたのである。
鷹通は静かに文机に向かったまま、丁寧な字で書類を書き続けている。

「永泉様は兵部卿宮の頃、紀伊の守の妻とご交流があったようです。」

鷹通の言葉に友雅はしばし黙った。
紀伊の守の妻がどういう人物だったかを思い出そうとする。

「亡き常陸の宮の姫君ですよ。」

鷹通はすらっと述べた。

「知ってるなら教えてくれてもいいじゃないか。相変わらず君という男は人が悪いね。」

友雅は心底嫌そうな顔をして鷹通を睨んだ。
しかし鷹通はそんな友雅の視線すらあっさり受け流す。

「私は書類上の戸籍を知っているだけですよ。あなたに意地悪をするのであれば、もっと手の込んだことが必要でしょうに。」

鷹通は筆を置くと友雅に向き直った。
どうやら作成している書類が一段落したらしい。
友雅は鷹通にちらりと嫌味な視線を向けたが、紀伊の守の妻が亡き常陸の宮の姫君と聞いてようやくすべてを思い出したために何も言わなかった。

先々帝のまた従兄弟にあたる常陸の宮という宮がいた。
妻は一人だけであったが、その妻はとても病弱で子宝は期待できなかった。
あるとき一時の遊びで身分の低い下女と交わった。
しかしその一夜の過ちで下女が孕んだのである。
常陸の宮はその下女の産む子を自分の妻の養子にすることに決めた。
しかし下女が子を産む前に、常陸の宮の妻は儚くなってしまった。
常陸の宮は嘆き悲しんだが、その下女の生んだ子、姫を自分が引き取り男手一つで育てることにした。
しかし世の中はなかなかうまくいかないもので、常陸の宮自身が今度は病に臥してしまう。
その頃にはすでに常陸の宮は京の人々から忘れ去られた存在となっていた。
それ故か常陸の宮の邸は見る影もなく崩れ落ち、荒れ果てた邸で病床の父と二人、姫君は暮らしていた。
あるとき、姫君は攫われるように受領の妻となる。
母の身分がものをいうこの時代、いくら父が宮家とはいえ、所詮は下女の産んだ娘、と女房らから軽んじられたためであろう。
身分の低い受領が宮家の姫を娶ることとなったのである。
姫は夫の下向に従って紀伊へと下った。
一人娘まで攫われるように手元から失くしてしまった常陸の宮には何も残っていなかった。
所領は心無い下郎どもが踏み荒らし、奪い去り、邸の調度品は使用人たちが掠め取っていってしまった。
いや何より掌中の珠とも大事にしていた姫ですら取られてしまった常陸の宮の嘆きはいかばかりであったろう。
そして時は流れ。
今の帝の時勢になり、時の兵部卿の宮が右大臣の権謀に操られている時であった。
心優しい兵部卿の宮は時勢に忘れ去られた常陸の宮のことをとても気にかけ、折に触れては訪れ交流を図っていた。
祖父と孫ほどに年の違うもの同士であったが、風雅をこよなく愛する常陸の宮と兵部卿の宮は通じるものがあったのであろう。
時勢に流され政界の陰謀術数の駒とされる兵部卿の宮と、世に忘れ去られた常陸の宮。
二人の交流は人に知られることもなく、京の人々の噂の口の端に上ることもなかった。
兵部卿の宮は常陸の宮の一人娘とも文でやりとりしていた。
しかし兵部卿の宮自身が権謀術数渦巻く政界の荒波に呑まれ、常陸の宮とも、常陸の宮の姫とも行き来が途絶えがちになった。
そして兵部卿の宮が出家をした頃、常陸の宮は身罷ったのである。
兵部卿の宮は出家し永泉と名を改め、人の思惑に操られ、敬愛する兄に対する謀反ともいうべき事態を引き起こしてしまったことを嘆いた。
自分の身に降りかかった出来事は、兵部卿の宮であった時代の人との交流をすべて絶たせてしまったのである。



「紀伊の守は今京に上がってきているから、細君もご一緒に京へ帰ってきているのであろう。それで旧知の姫に会いに行った、ということなのかな?」

友雅の推理に鷹通は溜息をついた。

「それだけではないようなのです。紀伊の守の妻は病に臥しておられて、髪を下ろされるそうで、それで永泉様のつてをお頼みなったようなのです。」

友雅はふうん、といった顔で髪を優雅にかきあげた。

「知らないようなふりをして、君は京の出来事をよく知っているんじゃないか?」

友雅は鷹通を揶揄するように視線を投げた。
鷹通は小さく溜息をつくと友雅の視線から逃れるかのように、天井の梁を見上げた。

「噂というものは聞きたくなくてもいろいろ耳に入るものですよ。あなただって然り、でしょう?」

友雅はつかみどころのない笑顔を見せると小さく肩をすくめた。

「さあてね?ところでありがとう鷹通、助かったよ。主上にそのままお伝えしないほうがよさそうだ。せっかく主上と永泉様、左大臣様はじめ朝廷内の均衡が取れている時だからね。」

友雅はそういうと優雅に立ち上がった。
鷹通は一瞬悲しそうな顔をした。
鷹通は治部少丞として政界からは遠く離れた身である。
しかし友雅はそうではない。
左近衛府少将として、帝の側近く仕え、権謀術数渦巻く政界を渡り歩かねばならない。

「亡き常陸の宮様の細君は右大臣様ゆかりの姫君でしたからね・・・。」

鷹通は常陸の宮と永泉がどこで繋がったかも知っていた。
だから。
八葉として龍神の神子を助け、京の英雄と賞賛され、還俗までも帝に薦められた永泉が、右大臣家に関わる行為をしているとみなされれば。
永泉が帝の座を狙っているという大逆を考えていると思われてしまう。
たとえ帝がそのように思っていなくとも、右大臣家に敵対する左大臣がそのように判断すれば。
そうなれば永泉は僧籍の身でありながら、今度こそ京を配流されかねない。
権力とは程遠い、あの歌と笛を愛する風雅な人が。
鷹通は友雅が、永泉が、悲しい立場にいることが切なく感じた。
自分の力ではどうしようもないところで自らの運命が決まってしまう、そんなことが悲しくて。

「そんな顔をするものじゃないよ、鷹通。私も永泉様も鷹通が思うほど不器用ではないよ。」

友雅は優雅に笑った。
鷹通が何を考えていたかお見通し、というわけである。
鷹通は友雅に言い当てられて一瞬顔を赤くした。
そんな鷹通を満足そうに見ると、友雅はいつものように飄々とした素振りで治部省を後にした。
帝への奏上はどのようにしておこうかなどと考えながら。









******








その人から文が届いた時、永泉はとても驚いた。
かつて母とも姉とも慕った常陸の宮の姫。
その人が今、病に臥して苦しんでいるという。
その人の父が亡くなったとき、自分は何もできなかった。
祖父のように多くのことを教えてくれた常陸の宮。
歌を愛すること、感情を歌にして吐露することを教えてくれた人。
その人の姫君が死を迎えようとしている。
常陸の宮へ何もできなかった分、その姫君の望むことを叶えたかった。
永泉は紀伊の守の邸へと急いだ。
宮家の姫でありながら受領の妻となったのはどれほど姫にとって屈辱であっただろうか。
しかし貧窮した姫が金持ちの受領に身を任せることが少なくない時勢である。
何も常陸の宮の姫だけがそのような運命を辿っているわけではないのだ。
頭ではわかっていても、哀れで仕方がない。
だから彼女が望むことを少しでも手助けしたかったのである。
永泉は暁慶僧正のもとに訪れ、出家したい女性がいるので尼剃ぎをして欲しいと願い出た。
暁慶僧正はいつにない永泉の頼みに是と答え、共に紀伊の守の邸へと参じることを引き受けた。
僧正ともなるとひとりで行動することはない。
修行中の僧侶を何人か引き連れての一行となる。
永泉は一足早く紀伊の守の邸へと到着した。
雪がはらはらと舞い散る紀伊の守の邸の奥にその人は臥していた。
美しかった黒髪もやせて細く、病のせいか美しかった面もやせ衰えて頬骨が浮き上がっている。

「ああ・・・深泉様・・・。」

紀伊の守の妻が永泉の姿を見て涙を零した。

「来てくださったのですね・・・。このようなお見苦しい姿ですがどうぞお許しください・・・。このようなところに足を運ばせてしまって・・・。」

永泉は紀伊の守の妻の臥す床の側に静かに座した。

「宮、そのような・・・。私こそ何もあなたにしてあげられなかった・・・。本当に申し訳なく思います・・・。」

永泉はその女性のやせて骨ばった手を取った。
命の火が消えかかっているのをその冷たい手から感じ取れる。
紀伊の守の妻はは弱々しくはあったが首を振った。

「いいえ、深泉様・・・。わたくしはあなたが思うほど不幸せではなかった。夫は私を愛してくれましたし、姫も生まれました・・・。ただ悔やまれるのは父上様のこと・・・。申し訳ないことをしたと・・・、親不孝をしたままわたくしは儚くなるのかと思うととても辛くて・・・。」

永泉は言葉に詰まった。
自分がなんとおろかな間違った考えを持っていたかを知らされて。
宮家に生まれたものであれば、臣下にくだるということが屈辱的なことであると理解していた永泉は、受領の妻となった宮家の姫を憐れんでいたのだ。
しかし紀伊の守の妻は夫を愛し、不幸せではないという。
父への親不孝をしたことを悔いて、出家をしたいのだと伝える彼女に永泉は恥ずかしくなった。

「宮、私は恥ずかしい・・・。私はずっとあなたの境遇を不幸だととらえていました・・・。」

紀伊の守の妻は儚げに微笑んだ。

「深泉様・・・。父からどのように聞いたかはわたくしにはわからないけれど・・・、わたくしは間違いなく紀伊の守を愛したから下向したのです・・・。」

すべてを捨てて紀伊の守についていった。
一瞬永泉は神子を思い浮かべた。
もといた世界に帰らなかった龍神の神子。
すべてを捨ててこの世界に残った。
それは唯一人、彼女の愛する人がこの世界の人であったから。

「宮・・・。」

そのとき女房が暁慶僧正の訪れを伝えた。
永泉は紀伊の守の妻に何を言おうとしたのか自分でもわからなかった。

「深泉様・・・いえ、永泉様。わたくしは幸せだったのですわ・・・。唯一人愛する人と結ばれて・・・。」

紀伊の守の妻はそういうと静かに意識を失っていった。
永泉は女房らに促されるように部屋を後にし、暁慶僧正を出迎え、紀伊の守の妻が出家をするための法要の準備をはじめた。
急に決まったことなので大した準備はしていなかったが、それでも袈裟を取替え、安珍に与えた紫水晶の数珠とは別の数珠を手に、永泉は暁慶僧正のもと、忙しく立ち回らねばならなくなった。
それでも脳裏には一人の女性の姿が浮かべられて。
紀伊の守の妻と神子が重なる。
唯一人の人のために何もかも捨てられる、そんな強さが彼女達のどこにあるのであろうかと。
願わくば、自分の想う彼の人が、自分のためにすべてを捨ててくれたなら、と永泉は思わずにはいられなかった。



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