炎熾戀抄 一 その日も永泉は仁和寺で仏道の修行に励んでいた。 仏の御前に静かに座し、経をあげる日々。 八葉の任を終えた後、兄である帝から還俗することを薦められたがそれを断って永泉は今もここにいる。 自分の中に生まれた、あの色鮮やかに咲く椿のような、色づく想いを振り切るために。 もしこの想いが叶うことがあれば還俗したかもしれない。 ――もしもなどと・・・。 永泉は未だ振り切れないこの想いにやりきれない焦燥を感じる。 経を読み上げると永泉は雪のつもる庭へと出た。 冷たい風が頬を撫でる。 永泉は溜息をついた。 恋などという気持ちをまさか僧侶の身になって感じるとは思いもしなかった。 兄との確執で深く傷ついたとき、自分は人など一生好きになれないと思ったのに。 重く垂れ込めた雲は今にも雪が舞いだしそうである。 「年の内に 積もれる罪は かきくらし 降る白雪と 共に消えなん・・・。」 呟くように永泉は知らず歌を詠んだ。 今年の内に積もった罪障は空を暗くして降る白雪と共に消えてしまってほしい、という意味の歌である。 春になって雪が溶ければ、わが身に降り積もったこの罪のような彼の人への想いもきえるかもしれない。 もともと風流の世界に身をおいていたからであろう。 自らの心情を表すのにはやはり歌が自然と出てくる。 「あなたの罪とは何なのですか?八葉という大任を無事に果せた方が?」 永泉は驚いて振り返った。 庭の端には若い修行僧が立っていた。 まっすぐな眼差し。 冬の月のように怜悧な顔立ちには溢れんばかりの熱意が窺える。 「失礼いたしました。私の名は安珍。旅の修行僧であります。暁慶僧正様のご縁でこの冬をこちらにて過ごさせていただきます。」 積もる白雪に膝をつけ、安珍と名乗った若い僧は恭しく挨拶をした。 「暁慶様の縁の方ですか。そこにいては寒いでしょう。さあこちらへ。共に御仏に仕える身です。そのように臣下の礼を私にとってはなりません。」 永泉は先ほどの歌を聴かれたことを恥ずかしく思いつつも、恭しい態度を取るこの僧を傍へ呼んだ。 安珍は立ち上がって法衣についた雪を払い、永泉の傍にやってきた。 「失礼いたしました。永泉様。お噂はかねがね聞いております。八葉のお一人としてこの京をお守りになられた方と聞き及び、尊敬しております。」 安珍はまっすぐに永泉を見た。 純粋で清らかな瞳である。 きっと、そう真実そのように自分に憧れてくれるのだと思うと、永泉は申し訳なく感じた。 「そのような・・・。私は何もしておりません。ただ龍神の神子にお仕えしただけのこと。」 永泉は与えられた自らの房へと安珍をいざなった。 八葉と龍神の神子は今や京では英雄として崇められ、噂が一人歩きするほどに飾り立てられた存在となっているのである。 「いえ、私が永泉様を尊敬しているのはそれだけではありません。」 安珍の瞳は永泉をまっすぐに見据える。 「京の英雄と謳われ、還俗を帝から薦められ、官位とて用意されていらっしゃる方なのに、このように御仏に仕えることをお選びになられた。同じ御仏に仕える者としてとても誇りに思います。」 安珍の言葉に永泉は赤くなった。 そのように思う者がいたという事実が永泉を恥じ入らせる。 「そのような・・・。私はそのようなつもりで神子にお仕えしていたのではありません。それに還俗のことも・・・そのような・・・安珍が思うようなことではないのです・・・。」 永泉はこの仏道に熱意を向ける青年僧に、何をどういっていいのかわからなかった。 「安珍、私はあなたが思うような者ではありません。数ならぬこの身が役にたつのであればと、御仏のお導きのままに神子に仕えただけのこと。任が終われば再びもとの生活に戻るだけのことです。」 永泉は小坊主が持ってきた白湯を安珍にそっと勧めた。 安珍は何故この高貴で誉れ高い僧がこのように消極的なのか理解ができなかった。 宮廷での地位を望まなくとも、大僧正になってもおかしくないほどの働きをこの目の前の風雅な僧はしたのである。 何を望んでも彼には許されるほど・・・。 なのに何故? 「先ほどの歌・・・。あなたに一体何の罪があるというのですか?京を救ったほどのお方が・・・。」 安珍は思ったまま永泉に聞く。 永泉は内心溜息をついた。 どうやらこの青年僧は自分を英雄にしたいのだと思うとやりきれない思いがした。 今まで、過去にどれだけ人の思惑に翻弄されてきた自分を思うと、ありのままの自分をこの青年に伝えたほうがいいような気持ちがする。 永泉はじっと安珍を見つめた。 答えを求める者の真摯でまっすぐな眼差し。 誰かに似ている、とそう感じたのはその眼差しのせいだけではなかろう。 ――ああ、泰明殿になんとこの方は似ておられるのか・・・。 真実を求めるものの瞳は、あの色違いの瞳で静かな力強さを持つ陰陽師を彷彿とさせた。 あれからしばらく会ってはいないが泰明はどうしているのであろう? 「安珍。」 永泉は静かに口を開いた。 「ものの見方はひとつではありません。私はそのことをある尊いお方から教えられました。自分の気持ちに正直になることも。だから私は逃げないことにしました。」 永泉は一旦言葉を切ると安珍と視線を合わせた。 そう、泰明も人と話すときは射るような眼差しをむける。 それは真実を求めるものの眼差し。 ならば。 ――ならば私も安珍に真実が伝わるように、視線をそらさずに話さなくてはならない。 「私は恋をしました。僧籍にあるものとしてはあるまじきことです。しかし私の恋したあの方は人を愛することで得られる強さもあるのだと教えてくれました。」 永泉は脳裏に浮かぶ少女を思い浮かべた。 どれだけその手をとりたいと思っただろう。 小さなその手に大きな力を委ねられ、どれだけ震えていたであろう。 初めて守りたい、そう思わせたその少女はすでに心を交わす人がいる。 彼女が龍神の神子として強くあれたのは、きっとその想い人のせい。 人を好きになってはじめて知った不思議な強さ。 「だから私は後悔などしておりません。私の想いは彼の人には届かなかったですが、私はこの罪を恥じてはおりません。ですからこうして仏道修行に勤しみ、いつか彼の人への想いとともに、この罪が降り積もった白雪のように消えていければと思うのです。」 安珍は永泉の想い人が彼が仕えたという龍神の神子であることを理解した。 だから永泉は還俗しなかった。 安珍の中で何かが壊れるような音がした。 自分が憧れてやまぬ存在であった永泉が、色欲に溺れたという事実。 それが安珍の中で何かを壊した。 「あなたは若い。これからたくさんのことを経験するでしょう。仏道に勤しむだけが真理を得る道ではありません。ですが・・・。」 永泉は懐から数珠を出した。 「あなたは良き修行者となるでしょう。あなたはあなたの求めるものを探しなさい。」 そういって永泉は紫水晶の数珠を安珍に握らせた。 「私よりもあなたはきっと仏への道は近い。がんばるのですよ。」 安珍は握らされた紫水晶の数珠を見つめた。 同じ仏の道を志す者として、安珍は永泉への失望を感じていた。 そして自分の感じた失望を永泉が理解していることが恥ずかしかった。 安珍は何も言わず深々と頭を下げると、永泉の握らせてくれた数珠をそのまま握り締めて房を飛び出していった。 永泉は逃げるように出て行った安珍を追いかけることもせず、ただそっと静かに手を合わせた。 ――安珍、それでも私は後悔などしていない。私は、私のやり方で御仏にお仕えするだけです。 ちらちらと雪が舞いだした。 重く垂れ込めた空から降る真白の雪は、永泉の罪を消し去ることを拒むかのようにふり続ける。 ******* あかねは火鉢に張り付いたまま、手を擦り合わせて息を吹きかけていた。 「寒いのか?」 あかねの様子に泰明が尋ねる。 一方泰明はというと、女房の用意した円座(わろうだ)に静かに座し、寒さなど微塵も感じさせない。 「泰明さんは寒くないんですかー?あ〜、ホットカーペットとファンヒーターが欲しいよ〜。」 あかねはそういうと更に寒さが増したのかぶるぶると身体を震わせた。 「ほっとかーぺっと?ふぁんひーたー?」 あかねの口からは時々泰明の理解しがたい言葉が出てくる。 それがどうやらあかねの世界ではあたりまえのものであることが、最近でこそ理解はできるようになったが、どういうものなのか泰明にとっては気になるところである。 というわけでまたもあかねに聞こうとしたところ。 「ホットカーペットっていうのは、温かい床のことです。ファンヒーターっていうのは燃料を使って温かい風を送ってくれる道具です。」 先回りしてあかねが説明をした。 あかねも自分の発した言葉で泰明がどんな反応を示すか、すっかりわかりきっているのである。 「こーゆー説明は本当は天真君とか詩絞君の方が上手にしてくれると思うけど、ま、そういったものです。」 にっこり微笑むあかねに泰明はわずかに頬を緩めた。 あかねの頬が知らず上気する。 ――泰明さんの微笑みって無敵だわ・・・。 あかねの思いを知ってか知らずか、泰明は火鉢にはりつくあかねの傍についと膝を進めた。 そして冷たいあかねの手を取る。 「不便をかけているのだな。申し訳ない。」 あかねはぷるぷると首を振った。 泰明の傍にいたくてこの京に残ったのはあかねの意思。 決して泰明が願ったからではない。 泰明の傍にいられるのであれば、現代の文明の利器などいらないのだ。 「不便だなんて!この京は私がいた世界よりもはるかに美しくて、素敵だと思うし・・・、何よりその・・・、えっと・・・。」 あかねは思ったまま口にしそうになって急に恥ずかしくなって俯いてしまった。 泰明の自分を見つめる視線を痛いほどに感じる。 好きな人に「好き」と容易く口にできるほどあかねは大人ではない。 いやそういう意味では泰明のほうが大人なのかもしれない。 ――ううん、違うわ。 泰明はやはり実年齢2歳なのである。 子供が好きなものを好きと伝えられるように、泰明もまた素直で真っ直ぐなのであろう。 羞恥という観念がまだあまり沸いていないのだ。 あかねはどきどきする胸を押さえながら顔をあげた。 硝子のように透明で透き通るような異彩の瞳を見上げる。 「好きな人のそばにいたいんです。たとえそれが地の果てでも、奈落の底であっても。」 あかねの言葉に泰明は一瞬目を見開いた。 そしてあかねの身体を引き寄せる。 「もっと傍に・・・、神子。こうすれば温かい。」 あかねは羞恥に頬を真っ赤にしながら泰明の胸に顔をうずめる。 ――好きな人に抱きしめられるのってこんなにも幸せなんだ・・・。 すべてを捨てても後悔しないと、あかねはこのとき感じた。 恋がこんなにも激しいものだとはあかねは今まで知らなかった。 何もかも失くして、そして手に入れた恋。 「大好き・・・、泰明さん・・・。」 あかねは小さく呟いた。 「わかっている・・・。」 泰明は少女を抱く腕に力を入れる。 どこにも遠くへなどいかせないかのように。 土御門の庭には雪が舞い始める。 冷たい雪の日も、二人でなら温かくいられる――。 次へ 表紙へ |