去り行く人のために 2


土御門のあかねに与えられている東北の対に戻ったあかねは、ぼんやりと御簾越しに庭を眺めていた。
間もなく本格的な夏(暦上は秋)となる季節柄、藤や、橘はその花を散らし、今は緑の葉陰も濃く影を落としている。変わって咲き乱れるのは、山紫陽花、唐葵、睡蓮と、花々も本格的な夏の訪れを告げている。
さらさらと遣水の涼やかな音があかねの耳を打つも、物思いに耽っている彼女の心に届くはずもなく、心地よい涼を運ぶ水音はただ流れるままである。
あかねは昼間の水干姿から袿へと着替えている。
あかねが思い悩むのは、昼間市井で出会った、アキラという少年のことだった。

ーー私は何もできない・・・。

神子の願いを叶える龍神。
アクラムが黒龍を召喚した時ですら、あかねは龍神を呼ぶことはしなかった。
あれ以来、あかねの中の龍神が彼女を呼ぶことはない。
あかねの中から聞こえる鈴の音は響かない。
多分、それでも。
あかねが龍神に願えばその身と引き換えに、願いは叶えられるのであろう。

ーー龍神の神子だなんていって浮かれてたんだ・・・私・・・。

四神を解放し、アクラムの野望を阻止し、愛する人と共に在りたくて生まれ育った世界を捨てた。
こちらの世界に残るにあたり、あらゆる人があかねに最良の状況を与えてくれた。
藤姫の父である左大臣はあかねを養女として迎えてくれたし、友雅や、鷹通、藤姫らは貴族の姫としての教養を教えてくれる。
こちらの世界に召喚された天真、詩紋、蘭もこちらの世界に残っており、変わらず友人として接してくれ、寂しい思いをしないで済んでいる。
他の八葉も折につけ、あかねの元を訪れたり、文を寄越したり、時折あかねを外に連れ出してくれている。
そしてあかねが心から愛する人、泰明も足繁く、あかねのもとを訪れてくれている。
皆、あかねを寂しがらせないように、この世界で生きていけるように、心を砕いてくれている。

ーーなのに私は皆に何にもできないでいる・・・。

あかねは恥ずかしかった。
龍神の神子、京を救った斎姫。
皆の賞賛を浴びて、いい気になっていたのかもしれないと思った。
本当は自分の身を捧げることを要求する龍神に、その身を捧げることもできない臆病な少女なのだと改めて気づかされる。

ーー私は何もできない・・・。

イノリは刀鍛冶として、天真は検非違使として、詩紋は寮試を受けるため勉強して、その他の八葉は皆自分の本来の役目に戻り、この京で生活している。
藤姫も星の一族として、今回の事件の記録を作っているし、蘭は自分が傷つけた京の民のために、仏道修行をする名目で尼僧院に身を寄せている。
事件の記憶が薄れ次第、天真と共に暮らすことになっているが、桂の尼僧院で暮らす彼女は誰よりも働き者であると聞く。

あかねが何もしていないわけではないのだ。
毎日のように手習いをし、歌を詠み、琴を習い、貴族の姫君の教養を覚えるのに必死である。
でもそれは、養女として迎えてくれた左大臣家の面子を立てるためでもあるし、位階的には低いけれども、京の貴族たちの絶大なる信頼を受けている安倍晴明の、最後にして最強の弟子とも言われる泰明の妻として必要な素養でもあるのだ。
もちろん、泰明はそんなことに頓着しないのではあるが、だからこそ必要なものなのである。
しかし今のあかねは、京に住む一般の庶民から見れば『龍神の神子』であるゆえの優雅な生活でしかないだろう。

ーーやっぱり私は何もできない・・・。

抱えた膝に頭を乗せ、盛大な溜息をつく。

「でもなあ・・・。」

あかねはポツリと呟いた時だった。

「それ以上お前はどうしようというのだ?」

唐突に泰明の声が降ってきてあかねは驚いて顔をあげた。
そこには愛しい陰陽師、安倍泰明がいつの間にやらあかねの脇に立っていた。

泰明は跪くとあかねの左手を取った。

「これ以上噛んでは指まで痛めてしまう・・・。」

あかねは泰明に言われてはじめて自分の左手の親指を見た。
考え事をするときのあかねの癖。
いつの間にやら爪を噛んでいたらしい。

「や、はずかし・・・。」

あかねは恥ずかしくなって、泰明に取られていた左手を袖の中に隠した。

「何を考えていた、神子?気が乱れている・・・。」

泰明はあかねの顔を覗き込んだ。
知らず、あかねの頬が染まる。
いつものことながら、この泰明の色彩の異なる瞳に覗き込まれると、それだけでドキドキしてしまうのだ。
まっすぐにあかねを見つめる泰明に、あかねはいつもどこか恥ずかしいような気持ちを覚える。

「や、やだ何でもないです。ちょっとつまんないこと考えてただけで・・・?!」

最後まであかねが言葉にできないまま、あかねは泰明に抱きしめられて口を塞がれた。
そのまま、啄ばむような優しく、甘い口付けが何度も繰り返される。

あかねは頭の中が真っ白になって、泰明の着物にしがみついた。
それに応えるかのように泰明の、あかねを抱く力が強くなる。


そのとき小さな咳払いが二人の耳に届いた。

「泰明殿、神子様、あの・・・失礼ではあるのですが、そういうことはいくら御簾内でも、このような端近では人目につくというものですが・・・。」

古参の女房の声だった。

二人の死角になる位置で、控えめに注意を促す。
土御門邸はそれでなくとも人の出入りの多い屋敷なのだ。
いくら人の出入りの少ない東北の対といえども誰が見るともしれない。


女房の注意に驚いたあかねは、あわてて泰明から離れた。
女房に見られたことで、顔から火が出そうなほど、真っ赤になる。

ーーあ〜〜バカバカッ!もう!見られちゃったよ〜〜〜。ううっ!

あかねが恥ずかしがる様子に、仕方なく泰明も小さく溜息をつく。
自分の腕からすり抜けていった、甘く柔らかなぬくもりに未練を覚えながら。

それを見届けたのか、古参の女房が他の女房たちを呼んだ。
たちまちのうち、あかねと泰明は几帳越しに席を設けられてしまった。
いくら婚約しているからといっても、やはり結婚していない(いや結婚していてもなのだが)女性は男性に顔を見せないようにしなければならないのだ。

「では失礼いたします。」

どうやら泰明の来訪を知った古参の女房が、席を作りに来ようとして、先ほどの現場を見てしまったようであった。
仕事をすませた女房たちは、主であるあかねに挨拶をして下がっていった。
しかし完全に下がったわけではなく、しっかりと二人の死角の位置で一人の女房が控えている。
泰明は下がれと言わんばかりに女房を睨みつけたが、さすが躾の行き届いた土御門の女房である。
泰明の顔を見ず、素知らぬ顔で控えている。

それでも泰明の扱いは破格なもので、あかねが左大臣家の姫となってからは、御簾内に席を許されている男性は泰明と友雅だけなのである。
友雅はあかねの教養の先生(?)であるからであるが、泰明は純粋にあかねの恋人として扱いが破格なのである。
かつてのように、八葉全員があかねと直に会うことは本当に限られているのだ。

「今日は泰明さん早いんですね。」

あかねはつとめて明るい声を出して、几帳越しではあるけれど泰明に微笑んだ。
そんなあかねの様子に泰明は小さな溜息をもらした。

「何を考えていたのか聞くなということか?神子。」

泰明が几帳を通してまっすぐにあかねを見つめる。
先ほどぼんやりと爪を噛んで庭を見つめていたあかねの気は、あきらかに乱れていた。
しかしあかねが話そうとしないので泰明の疑問を招いたのである。
どんな疑問かは想像に難くない。
泰明が一番恐れること。
それはあかねが自分の生まれた世界に帰りたいのでは、と考えたからに他ならない。
几帳越しとはいえ、真摯な眼差しを受けてあかねは内心苦笑する。

ーーこの人には隠し事できないんだわ、きっと。

「泰明さん・・・。ありがとうございます。私を心配してくれてるんですよね・・・。でも今、私が考えてることは自分で答えを見つけなくちゃいけない気がするんです・・・。だから・・・。」

不意に泰明が几帳をずらす。
そして。
泰明はあかねを抱きしめる。
夏だというのに菊花の冬の香りが、あかねの鼻腔をくすぐる。
それはあかねの安心できる香り。

「わかった。神子がそういうのであれば聞かぬ。けれど八葉として務めを終えても、私はおまえを護る存在だ、忘れるな・・・。私はおまえとともに在りたい・・・。」

泰明の腕に力がこもる。

ーーああこの人はおそれているんだわ・・・。

泰明の腕の中で、すっかり泰明に身体を預ける。
女房が二人に聞こえるようにわざとらしく咳払いするが、二人には届かない。
そのうち女房は恥ずかしくなったのか、衣擦れの音も高く、その場を去っていった。

ーー大丈夫なのにね?

あかねはくすりといたずらっぽく微笑んだ。

「ありがとうございます、泰明さん・・・。私こそずっと側にいさせてくださいね?」

泰明があかねの髪を撫で、口付ける。

「神子・・・。」

あかねの言葉は泰明に心地よい甘さを与える。
なのに。
どれだけ口付けても、どれだけ抱きしめても、どんなに愛の言葉を口にしても、飽き足りない想いを泰明は感じる。
あかねが不安そうにしていれば、あかね以上に自分の心が千々に乱れる。
あかねを攫って、どこか、自分しか知らない秘密の場所へ囲ってしまいたくなる。何ものからもすべて護って。

不意にあかねが泰明に抗った。

「泰明さん?」

あかねが苦しそうに顔を上げた。
どうやら泰明はかなりの強さであかねを抱きしめ、そのためにあかねは息をするのも苦しくなったらしい。
あかねが酸素を求めてあえぐ。
その姿さえいとおしいと泰明は感じずにいられない。
なのに。

「泰明さん、本当に今日は早いんですね。まだ日も高いですよ?」

あかねは泰明の緩んだ腕からするりと逃れて、泰明の心も知らずに話を元に戻してきた。

泰明は本日二度も自分の腕からすり抜けていった存在に、歯痒い気持ちを覚えながらしぶしぶ口を開く。

「今日は、めずらしく何も依頼が無かったのだ。」

あかねは乱れた袿を整えながら小首をかしげた。
珍しいこともあるのね、といった顔つきである。
実際珍しいことなのであるが。

「京の人は大変ですね。病気が多くて。でも今日は依頼がなかったってことは、それだけ病気の人がいないってことですよね。」

あかねが何気なく言った言葉に、泰明は好奇心を刺激されたらしい。

「神子のいた世界では病がないのか?」

泰明はあかねの言葉に聞き返した。
陰陽師である泰明にとって、病の床にある人と接するのは多い。
それだけにあかねの言葉に興味を覚えたのである。

「あ、いえ、ありますよ。でも病気を治すのはお医者さんなんです。医療技術っていって、いろんな機械とかお薬とか使って治療したりするんですよ。う〜んとね、あ、注射なんてのがあるの!」

あかねはしかめっつらで自分の腕を指した。

「ちゅうしゃ・・・?」

好奇心旺盛の泰明は、あかねたちのいた世界の話を聞くのが好きだった。
あかねや天真、詩紋は自分の知らないことをたくさん知っている。

「うーんとね、病気のときもしたりするけど、予防接種なんてのもあって、こーんな長い針を腕に刺してお薬を直接入れるの。もお、それが痛いのなんのって!」

あかねは注射が大嫌いである。
針先を見るだけで失神しそうになる。

「針を腕に刺すのか?それは痛いに決まっている。」

泰明が驚いたように言う。

「うん。痛いの。でも予防接種はかかると死んだり、重い障害が残る病気になるのを防ぐものだからしなくちゃいけないんだ。」

あかねはへの字に口を曲げた。
よほど嫌な思い出でもあるのだろう。

「重い病を防ぐ?そんなことができるのか?」

泰明が聞き返す。
泰明にしていれば病にかからないのがやはり一番良いことだと思える。
あかねのいう注射が痛いものであることは、あかねの様子で十分想像はできるが、重い病にかかるよりはよほどましである。
だから余計に興味を持ってあかねに聞き返した。

「うん、えーとね、何があったかな?インフルエンザとかBCGとか・・・。」

泰明の聞いたことのない言葉である。
それに気がついて、あかねはあわてて泰明にわかるように説明する。

「インフルエンザっていうのは風邪とよく似た症状で高熱が出る病気なんですよ。ひどいときは脳・・・頭の中にまで炎症がいって死ぬこともあるんです。BCGっていうのは結核を防ぐもので・・・結核っていうのは肺の病気ですね。咳が出て、ひどくなると血を吐いたりするんです。どれもうつる病気なんですよ。」

症状を聞けば泰明にもどんな病かはわかる。どれもとても重く、危険な病である。

「神子、恐ろしくないか?この世界ではそれらの重い病を防ぐ手立てはない・・・。」

泰明はあかねをひどく危険な世界に留め置いていることに気が付いた。
あかねが病が防ぐことができる世界から来たのであれば、あかねにとってこの世界は危険でしかない。

「大丈夫ですよ?主要な予防接種は小さなころにやってるし・・・。天真君がもがさ、というのに近づかなければいいとは言ってましたけど。」

天真はあかねよりも博識である。
もがさというのは天然痘のことで、あかねの世界では絶滅した伝染病である。天然痘の予防接種は種痘というものだが、天然痘絶滅宣言が出されてから生まれたあかねたちは、この予防接種を受けていないのだという。
だから気をつけろと天真に念を押された。
念を押されたものの、天然痘という病気がどんな病気なのかは全く知らないあかねにとっては気をつけようもないのであるが。

「もがさか。あれは昨年流行した恐ろしい病だ。庶民だけではなく、貴族のものも多く死んだ。天真の言う通りだ。決して近づいてはならない。」

泰明は眉宇を顰めた。
昨年もがさで亡くなった多くの人々の累々たる死体の山を泰明は見て知っている。
貴族のものも多くかかった。
しかし、怨霊が憑いているわけでもないので調伏など当然できもせず、ただ病平癒の祈祷くらいしかできなかったのを覚えている。そして疫神を鎮める祭礼を行った。

「これからの季節は流行り病が出てくるだろう。神子、あまり市井を出歩くな。そのもがさにあっては危険だ。」

泰明の言葉にあかねははじかれたように顔を上げた。

ーーあの子のおばあちゃんが病気っていってたっけ・・・。まさかもがさっていう病気だったら・・・。

その考えがあかねのなかで閃いた瞬間、いてもたってもいられなくなり、思わずあかねは立ち上がった。

「神子、どうしたのだ?」

神妙な顔をしたかと思えば、不意に立ち上がって、今にも外に飛び出しそうな勢いである。
実際あかねは妻戸のほうへ歩き出していた。

「イノリ君の子分さん・・・、アキラ君っていうんだけど・・・その子のおばあちゃんが病気なの。もしそのもがさっていう病気だったら・・・。だったらあの子にうつっちゃう!」

今にも飛び出してゆきそうなあかねを止めるため、泰明はさっと立ち上がって、あかねの二の腕を掴んだ。

「もう夕刻だ。今から出かけるのはおまえのほうが危険だ。」
「でも・・・!」
「ならぬ!」

泰明の強い語調にあかねは泣き出しそうになった。

「だって・・・、私は何もできない・・・。」

口にしてしまったとたん涙があふれて止まらなくなる。
ぽろぽろ涙がこぼれだす。

「神子・・・。おまえが考えていたのはこのことなのか・・・?」

泰明は溜息をついた。

ーーおまえはおまえの持つ力を知らなさ過ぎる・・・。

人を慈しむ心。
それはどんなものにも優るとも劣らない力。
しかし、それはときにあかね自身の身を危険を晒すこともある。

ーーだからこそ八葉が選ばれるのか・・・。

泰明の腕を振り解こうとするあかねの動きを封じながら、泰明は内心苦笑した。

「とにかく今から行動するのは危険だ。おまえがその者に何かしてやりたいと思うのであれば、明日にしろ。それが今のおまえにできることだ。」

あかねが顔をあげる。

「今の私にできること・・・?」

泰明はあかねから力が抜けるのを確認すると、泰明は袖であかねの頬をぬぐう。

「そうだ。明日、おまえが何かしたいと思うのなら私も付き合おう。」

ちらり、と師、晴明の不機嫌な顔が脳裏を掠めるが、あえてそれを無視する。どうせいつも師、晴明の肩代わりの仕事が大半なのだ。たまにはきちんと本人にやらせてもかまいはしないだろう、と。

「じゃあ・・・、明日その子のおばあちゃんの様子を見に行きたいの・・・。もしもがさっていう病気だったら・・・。」

あかねの顔が曇る。

「わかった。神子、一体今日は何があったのか話してくれるな?でなければ協力できない。」

有無を言わさぬ泰明の態度に、あかねはぽつぽつと今日の出来事を泰明に語ることとなった。

2001.10.29


この創作、実はパソがフリーズしたときにクラッシュ!というわけで書き直しを迫られました。で、みるみるの頭の中では裏モードになってたときに(書く予定だったの(ToT))この創作の書き直しを迫られましたので、なんだか妙に泰明さんが欲求不満状態です(笑)で・・・まだ続くんだな、これが。すみません。もう少しお付き合いくださいませ。
 

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