夏の衣3


あかねは鷹通に席をはずして欲しいと告げた。
泰明とのことは鷹通に聞かれたくないことであったから。
神子装束を纏っているとはいえ、鷹通からみれば比丘尼は得体の知れない人物である。
鷹通は心配そうにしていたが、比丘尼が名を名乗り、丸腰であること、そして話の内容が聞こえない程度に離れた場所で様子を伺うことで納得をして移動した。
それを確認してあかねは比丘尼に話し掛けた。

「泰明さんと会っているのですか?」

あかねの声が震える。
比丘尼と泰明の仲を疑う自分が恥ずかしい。
でもこれ以上不安な心を抱えたまま、知らぬふりを通すことも出来ない。
比丘尼はおもしろくなさそうにあかねを見遣った。

「だったら何?」

比丘尼は軽く結わえた肩より少し長い髪をほどき、歩揺のついた髪飾りをはずした。

「安倍泰明、あなた彼のことが好きなのね。」

比丘尼はおもしろそうにあかねの顔を覗き込んだ。
あかねは頬を染めた。
八葉をはじめ、泰明とあかねが婚約している仲であることは京では周知の事実ある。
あるといっても面と向かって、それも泰明との関係のありそうな女性に言われるのは気恥ずかしいものがある。

「悔しい?私は人間だけどあなたよりも遙かに永く生き、遙かに多くのことを知っているわ。龍神の神子にはない力だって持っている。」

比丘尼は歌うように袖を一振りした。
側に控えていた楽器を持つ童が姿を消す。
あかねは驚いて目を見開いた。

「驚くようなことじゃないでしょう?彼も使役してるじゃないの。」

式神であった。
泰明や晴明が式神を使役しているのは知っていたし、その様子も何度か目にしたことがある。
しかしやはりこの女性が式神を使役する陰陽師であることに改めて思い知らされ、あかねは驚いたのである。

「陰陽師として働く彼が私を欲したとしても不思議はないでしょう?私は彼に与えるものをたくさん持っているから。」

比丘尼はあかねを挑発するようにちらりと流し目をあかねにくれた。
比丘尼は手にしていた鈴をかざし、呪言を短く唱えた。
鈴は比丘尼の手の中で一羽の白い鳥に姿を変え、瞬く間に飛び去っていった。

「私なら泰明を晴明を超える陰陽師にしてあげられるわ。」

比丘尼は楽しげに、歌うようにあかねを傷つけるような言葉を捜して紡ぎ出す。
比丘尼の言葉はあかねの心をじわじわと締め付け、いくつもの毒のある刺であかねの心が血を流させる。
あかねの身体の中で血が沸騰するような思いが沸きあがる。
頭の中でいつのまにかシャンシャンと鈴の音が響くも、比丘尼によって冷静な心を失わされたあかねの心にその音は響かない。
あかねが激しく動揺してるのを見てとって、鷹通が二人の間に割って入ろうと一歩足を踏み出したとき、鷹通は比丘尼と視線が一瞬合った。
鷹通は比丘尼に一瞬見据えられて、動けなくなった。
何か術を施されたわけではない。
それは畏怖。
そのとき鷹通は比丘尼がただの巫女や白拍子でないこと悟った。
しかし時すでに遅し。
鷹通は動けないまま、その場に立ち尽くすことになってしまったのである。
比丘尼はあかねに容赦なく痛烈な言葉を浴びせつづける。

「泰明は感情がない、欲がないだなんて誰が言ったの?彼は作られた存在だけど人間だわ。感情だってあるし、泰明の中には陰陽師として力をつけたいという欲求だってあるのよ?」

比丘尼はさらりと髪をかきあげた。

「泰明がいつまでも晴明の庇護のもとにいるのをよしとしないことをあなたは理解していた?」

比丘尼の言葉があかねの心に突き刺さる。

「泰明が好きだなんて言っておいて、泰明の何を理解していたの?守られるだけの白龍の神子として、その存在理由に満足して、八葉である泰明の本質を見極めていないじゃないの。」

比丘尼はすっと半眼を閉じた。
視界の端であかねの様子を確かめながら。

「あなたは泰明のために何をしてあげられるの?」

比丘尼の言葉のひとつひとつがあかねの心を的確に傷つけていく。

ーーもう少し。

比丘尼はゆらゆらと陽炎のように立ち上がるあかねの背後の気配を確かめていた。
真白の龍が牙を剥く瞬間を見定めているかのように。

「あなたは何もできやしないのよ。守られているだけの、甘えた存在なんだわ。」

一語一語、あかねを傷つけるのにふさわしい言葉を選んで比丘尼はあかねを苦しめていく。
そして。
比丘尼はきっと眦を吊り上げた。

「泰明はあなたより私を選んだのよ。」

決定打だった。
あかねはその言葉に一瞬我を忘れた。
その瞬間だった。
泰明が走りよってあかねの身体を抱きしめたのだ。

「神子、いけないっ!」

あかねの中の白龍が暴れ出そうとしていた。
傷つき、血を流したあかねの心は白龍と同化し、あかねの自我が白龍に取られそうになっていた。
地面に亀裂が走り、あかねの、まわりに白い炎のような陽炎がゆらめき、時折青白い電流のようなものが閃く。

「神子殿!」

鷹通も泰明に続いてあかねと比丘尼のもとへ走り出す。
突然泰明が現れたことで比丘尼は動揺した。
そのせいであろうか、鷹通は金縛りが解けるように、自由に動けるようになったのだ。
鷹通が駈け寄って、比丘尼を捕らえようと手をのばしたが、比丘尼は逃げるでもなくつまらなさそうに鷹通を一瞥した。
そして鷹通に触れられるのを厭うかのように、軽く鷹通の手を払いのけた。
しかしだからといって逃げるわけでもなく、ただあかねと泰明の様子を見ていた。

「あかねっ!だめだ!比丘尼の言葉は真実ではない!目を覚ませ!」

泰明があかねの身体をきつく抱きしめた。
あかねの発する電流のような閃きが、泰明の顔といわず、服といわず、切り裂き、傷つけていく。
しかし泰明はそれに構わず、あかねの中のモノが鎮静化するまであかねを抱きしめ続けた。
あかねの中で騒ぐ血が徐々におさまっていく。
あかねを包み込むように揺らいでいた白い陽炎が徐々に消えていく。
比丘尼の顔が苦々しげにゆがみ始める。

「や・・・すあきさ・・・ん・・・。」

あかねははっとしたように自分の身体をきつく抱きしめる泰明を見た。
頬が、狩衣が、袖が、切り裂かれ、傷ついた泰明があかねを切なげな瞳で見つめていた。
あかねは何がおこったのかわからなかった。
ただ、一瞬意識を失いかけたことは覚えている。
気がつけば泰明の腕の中にいた。
あかねは泰明の腕の中で安堵を覚える。
ずっと欲しかった温かいその腕に。

「比丘尼、よせ。いくら神子でもおまえを封印することは出来ない。」

泰明の憐れむような声音に比丘尼は瞳をカッと見開いた。
比丘尼が大きく袖を振る。
とたん突風が吹き荒れ、泰明の長い髪を乱れさせる。

「邪魔しないで!泰明!龍神様なら・・・白龍の神子なら私を封印できるはずだわ!」

比丘尼の激昂する言葉をあかねは泰明の腕の中で聞いた。

ーー封印・・・?

比丘尼の言っている意味がわからなかった。
確かにあかねは今でも封印の力を持っている。
比丘尼は封印されたいとでもいうのであろうか。
あかねは強く抱きしめる泰明に抗った。

「神子・・・。」

先ほど一瞬意識を失いかけたからであろうか。
あかねは頭がふらふらする感覚を覚えた。
しかし泰明や比丘尼の言っていることを理解するために、あかねは首を振って頭を思考に持っていく。
泰明の腕はあかねを離しはしないものの、足元のおぼつかないあかねを支えるように腕の力を緩めた。

「比丘尼さん・・・、封印って・・・あなた封印されることを望んでいたの・・・?」

比丘尼はあかねを睨みつけた。
しかしその瞳には憎しみなどなかった。
その瞳は悲しみに満ちていて。

「不老不死の苦しみを皆知らぬ。人の世の理をはずれた人間がどれほど辛く、苦しいか誰にもわからぬ。私は死して輪廻転生の輪に戻ることが許されない!」

比丘尼は叫ぶようにまくしたてた。
比丘尼の激昂に合わせるかのように風が吹きすさぶ。
あかねは思わず目を瞑った。

ーー比丘尼さん、なんで・・・?

不老不死。
御伽噺のようであるが、確かに比丘尼は不老不死の自分に苦しんでいる。
死を望む比丘尼があまりにも切なく感じられる。
そんなあかねの思考を静止させるかのように、髪が、水干の袖が強い突風に吹き上げられる。
泰明は片手であかねを抱いたまま、もう片方の手で印を結ぶ。

「じんばら はらばりたや・・・。」

泰明の言葉に吹き荒れていた風が収まり、先ほどの嵐のような突風が嘘のような夕暮れのオレンジ色の太陽が姿を現した。

「躬都良(みつら)様・・・。」

比丘尼は呟くように言うと、ぽろぽろと涙を零した。
あかねは泰明を押しやるように泰明の腕から離れ、比丘尼の側に駆け寄った。
比丘尼はぺたりと地面に座り込み涙を流していた。
その涙は不思議なことに真珠となって地面に転がっていく。

「私は人間を封印することはできません。」

あかねは比丘尼の零した真珠となった涙をそっと手に取った。
小さな真珠はあかねの手の中でふたたび涙となって消えていく。
不思議な光景であった。

「龍神様・・・。」

あかねは再び涙と化して消えていった真珠が龍神の業のように思えた。

「龍神様・・・。龍神様なら比丘尼さんを人の世の理の中にもどしてあげられるの・・・?」

あかねは独り言のように呟いた。

「出来ぬな。」

冷たい声音があかねの背後から響いた。
鷹通は悲しそうな表情で、泰明は冷たい表情で比丘尼を見つめていた。

「比丘尼殿、それは無理です。」

鷹通は比丘尼の肩に手を置いた。

「神子殿のお力は京に跋扈する怨霊を救う力なのです。比丘尼殿、あなたは見たところ人間ではありませんか。神子殿は人間を封印することはできません。」

鷹通の憐れを含んだ言葉に比丘尼が激しく頭を振る。
泰明が比丘尼の前に進み出て膝をついた。

「柿本躬都良、比丘尼の夫(ツマ)か。」

泰明は小さく溜息をついた。
その溜息が意味するものは何なのかあかねは急に不安になる。

「躬都良に会いたいと願い、封印されることを望んだか。」

泰明の声は憐れを含んでいるようであった。
あかねは心臓がぎゅっとしめつけられるような気分になり、息をするのも苦しく感じられる。
泰明は比丘尼を憐れに思っている。
そう考えるだけであかねは苦しくてたまらなくなる。

「人でありながら人の世の理からはずれた・・・。」

泰明の言葉がひとつひとつ切なくあかねの耳に届く。
人の世の理からはずれた出生でありながら、人の世の理に生きる泰明。
泰明と比丘尼は正反対の立場でありながらとても似ていた。
それはともにその生の一部人の世の理からはずれたものを持っているからであろうか。

ーーだから・・・?

あかねは泣きたい気持ちになる。

「千年・・・。」

鷹通がぽつりと呟いた。

「千年生きれば人は仙人になるといいます。比丘尼殿、仙人になればあなたは自分の生を自分の自由にできるのではないでしょうか?」

鷹通の言葉に比丘尼は首を振った。

「躬都良様に会いたい。千年なんて・・・お願い、白龍の神子。それまで私を封印して。躬都良様に会えるそのときまで・・・。」

しかしあかねには人間を封印することはできない。
龍神にお願いをすれば比丘尼を輪廻転生の輪に戻すことができるのかもしれないが、即ちそれはあかねの白龍同化を表すことになる。
あかねはじっと比丘尼の顔を見つめた。

ーー泰明さんの愛している人・・・。

ーーならば私は・・・。

あかねは小さく息を吐いた。
そして。

「いいよ、龍神様にお願いするよ、比丘尼さん。」

あかねは比丘尼の手を取った。
これ以上嫉妬して醜い自分でいるよりも、比丘尼を助けることできれいな心を保ったまま、泰明の前から姿を消した方が自分が傷つかないですむと考えて。
ただ、こんな自分が白龍を召喚できるかどうかはわからないけれど。

「神子!」
「神子殿!」

泰明と鷹通があかねの言葉に驚いて険しい顔になる。

「ご自分が何をおっしゃっているのかわかっていらっしゃるのですか?!」

鷹通があかねの肩を掴んだ。

「だめよ、白龍の神子。あなたは白龍を呼べない・・・。そんなことを、・・・は許さない・・・。」

比丘尼が力なく首を振った。

「そのとおりだ。神子。」

泰明のこれ以上はないというほど怒った顔にあかねはたじろいだ。

「私が神子に白龍を呼ばせぬ。」

泰明の瞳は鋭く煌き、比丘尼を射抜いた。










遙か記憶の彼方にある忘れられない一生に一度の恋。
寿命という人間の生を全うした彼を何度反魂の術で甦らせようとしたであろう。
陰陽師としての修行を積み、何度も何度も試みた。
しかしやはり躬都良は甦らなかった。
魂がこの世に戻ることを望まなければいくら反魂の術を施しても死者は甦ることはない。
諦めた比丘尼は今度は自分の生を全うするべくどれだけ自らを傷つけたであろうか。
何度も首を斬り、心の臓を衝き、水に潜り、そのたびに傷ついた身体は再生し、息を吹き返した。
死の苦しみを何度も味わいながら死を許されない自分。
比丘尼はいつしか自らの生を誰かの手に委ねることを望んだ。
自分の知らないことを知るために禁中に忍び込んだり、大貴族の邸に忍び込んで自らの生を終わらせる術を探した。
そんな折見つけたのが龍神の神子の記述であった。
龍神に選ばれた神子は怨霊を封印する力があるという。
比丘尼は龍神の神子の降臨を待った。
いつ降臨するかわからない神子をずっと待ちつづけていたのである。
諸国を流浪し、時には白拍子に、時には術者として身を潜ませ、息を殺して神子の降臨を待った。
封印を施してもらう為に。
そして鳥の声を聞いたのである。
龍神の神子の降臨を。
唐へと渡っていた比丘尼は急ぎ山背の国へ帰ろうとした。
しかし遣唐使船が廃止されていたため、比丘尼はなかなか山背の国へ帰る術を見つけられなかった。
やっと船を見つけて乗り込み大宰府に到着したとき、比丘尼は龍神の神子がすでに京を鬼の脅威から救ったという噂であった。
異世界から降臨したという神子がいまだ京に留まっているとは思えなかったが、それでも比丘尼は京を目指した。
藁にもすがる思いで自らの生を終わらせてくれるかもしれない神子を求めて。
そして封印の力を持つ神子に会えた。
しかし、神子の力は怨霊を封印する力。
人の世の理からはずれたとはいえ、人間である比丘尼は封印できなという。

けれど神子は自分のために龍神を降臨させるといった。
それは叶わぬ夢。
なぜなら。
神子の八葉で、恋人である泰明がそれを許さないから。
陰陽師としての天賦の才を持つ晴明の作り出した最後にして最強の弟子。
叶わないとは思わないが、人の思いの強さほど強いものはない。
泰明が神子に白龍を呼ばせない、というのであればそれは間違いなく真実。
泰明は全身全霊をもって神子を白龍降臨の贄とさせないであろう。
しかし。
死を許されない生は辛い。
愛する人と別れ、再びあいま見える望みもない。
時の流れに取り残されて、人としての苦しみを味わいながら、輪廻の輪は永遠に止まったまま。

「比丘尼、徳を積め。天にお前の徳を照覧せしめ、入定を促すのだ。」

泰明の言葉が静かに響く。

「さすれば千年の時を待たずしてお前に安息が訪れるであろう。」

その言葉が真実となるかどうかは泰明にもわからなかった。
ただ、比丘尼の運命が天が定めたものであるならば、稀なる運命を担うこととなった比丘尼を天が照覧しているであろうと考えたから。
比丘尼に課せられた運命が天の意向であるなら、きっとその運命には意味があるのだと。
自分が陰陽の理を曲げて出生しながら、人となったように。
あかねと出会うためにこの世に生まれ出でたのだと今は理解できるから。

「いつか再び躬都良と会える時が訪れよう・・・。」

泰明の言葉に比丘尼が顔を上げる。

ーー比丘尼。

ーー比丘尼。

黄昏時の逢魔が時。
人ならぬモノが比丘尼の前に現れる。

「躬都良様・・・。」

ーー私はずっと比丘尼の側にいるよ。

「比丘尼を守護するモノとしてずっと比丘尼の魂と同化していたか。」

古代じみた古めかしい衣装に身をつつんだ美しい青年の姿が浮かび上がる。

ーー比丘尼、私はそなたを愛するあまり、そなたの反魂の術でも現身に戻ることはせず、そなたの中にいることを望んだ。なぜなら再び私は生を受けても、身を引き裂かれるような辛い別れをまたそなたに味あわせてしまうから・・・。

青年の顔には苦渋の色が窺える。
それは苦しい選択を強いられたものの表情であった。
比丘尼が不老不死の身で、躬都良が死を受け入れるただびとである限り、躬都良が何度蘇生したとしても死の苦しみが、別れの苦しみが二人の間に永遠に繰り返されることとなる。

「躬都良様・・・!」

ーー愛しているよ、比丘尼。私はいつでもそなたとともに・・・。

闇があたりにたちこめはじめると、人ならぬその青年は闇に身を溶け込ませるかのように消えていなくなってしまった。
しかし本当にいなくなったのではない。
比丘尼の中に、永遠ともいえる生をともに全うするために。
その魂に寄り添い、守護するモノとして。





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