夏の衣2 深夜、泰明はただならぬ気配を感じて身を起こした。 ーー来たか。 泰明は懐の符の存在を確認すると小袖を被った。 そしてふと思い直して滅多に手にしない刀を手にする。 そのとたん風もないのに大きく御簾が吹き上げられ、比丘尼がその姿を現した。 「待っていてくれたのね。」 比丘尼は方膝をついて簀子縁に居た。 「来ようと考えたのはそちらが先であろう?」 泰明はそういうと、すらりと刀を抜いた。 「物騒なものはおしまいなさいな。それが人に教えを請う態度かしらね。晴明と姿形はよく似ていても、ほんと可愛げがないわ。」 比丘尼はおもしろそうに微笑みながら泰明を艶然と見遣った。。 「刃を恐れるのか?比丘尼。さすがは人間だな。」 泰明は懐紙を咥えて刀の刃の刃紋を確認する。 視界の端では比丘尼の行動をくまなく観察しながら。 「斬られれば痛いのは人間と同じよ。恐れてはいないけどね。さ、しまって。夜は長いわ。私に教えを請うのでしょう?」 比丘尼はそっと泰明の側に忍び寄り、刀を握る泰明の手に自らのそれを重ねた。 比丘尼の触れた手にまるでぴりぴりとした電流が走るような感覚を泰明は覚える。 それは師、晴明の手に触れたときと似たような感覚であった。 ーー力あるものの証か・・・。 泰明は刀を握り締める拳を緩めた。 もし比丘尼が泰明や神子に害なすことを目的としているならば、京を守護する晴明が何も行動しないはずがない。 ふと泰明は自嘲した。 いつのまにか師、晴明をここまで信用し、頼っている自分の姿を見出したからであった。 ーー所詮はお師匠の庇護のもと生かされているというわけか。 泰明は手にしていた刀を再び握ると鞘に収めた。 「お前と私だけの秘密だ。」 泰明は比丘尼を睨みつけた。 比丘尼は艶然と微笑んだ。 その艶やかで男を誘う微笑に禁忌の神子装束である千早が色を添える。 「そう?」 比丘尼は泰明の言葉を愉快そうに聞いた。 そして心の中で嘲笑う。 ーー泰明もただの男よね。 比丘尼は自分の思惑通りに事が運ぶのを満足げに楽しんでいた。 ーーこれでいいわ。そう、これで。 比丘尼は泰明の手を取って立ち上がらせた。 泰明を比丘尼の隠れ家へと誘うために。 そして二人の姿は一条の晴明邸から姿を消した。 そしてそれは夜な夜な続くことになるのである。 あかねは言い知れぬ思いを味わっていた。 泰明が訪れない。 陰陽師の仕事は忙しい。 宮仕えもさることながら、有力貴族からも仕事の依頼を受けているからである。 だから泰明が十日も訪れないことはさして珍しいことではない。 しかしやはり十日も顔を合わせなければ文の一つくらいはやりとりしてきた。 それが最早一月にもなるのに、あかねの出す文に返事はひとつとしてこない。 当然ながら泰明からの文もないのである。 そんな重たい空気が漂う土御門の邸内で、泰明が女人のもとへ夜な夜な通っているという噂がまことしやかに流れ出した。 あかねは耳を疑った。 泰明に浮気という言葉ほど縁遠いものはないと思っていたから。 否。 泰明がもともと恋愛に対し、興味が薄そうだと感じていたからかもしれない。 泰明と心を通わせた今でもあかねは、自分が泰明の恋人で婚約者というのが信じられないくらいなのだ。 だからといって泰明が不実とかそういうのではなく、ただ甘い恋愛の絵空事をあかねは泰明に期待していないのである。 これが相手が友雅であれば、ことあるごとに贈り物をし、甘い恋歌のひとつをよこし、甘い砂糖菓子のようなひとときを夢見させてくれるのであろう。 しかし、女性への心遣いができる人ほど、他の女性の影がつきまとうのが時代は変われど世の常というものである。 友雅はそれでも関係を持った女人から恨まれるようなことがない。 それだけ女性の間を上手く立ち回っている証拠なのであろう。 しかしそれでも友雅の恋人となった女性が、恋故の苦しみを味わっているであろうことに、あかねはひそかに悲しい思いを抱いていた。 だからかえって恋愛ごとに疎い泰明が嬉しかった。 泰明の微笑は自分以外滅多なことでは見れないから。 その微笑が自分以外に向けられることがないと自信を持っていたから。 なのにこんな事態が起こった。 あかねは心の中がぎゅっと掴まれて揺さぶられているような、そんな気持ちになる。 夜な夜な女人のもとへ通う泰明。 滅多なことでは見せてくれないその笑顔を、あかねの見知らぬ女性に向けているのかもしれないと思うと胸が苦しくて、せつなくて、どうにかなってしまいそうである。 ーー苦しいよ・・・。泰明さん・・・。 八葉と神子は深い絆で繋がっている。 自分のこの苦しい胸のうちは泰明に届いているのかもしれない。 ーーわかって・・・!会いたいよ、泰明さん・・・! そのとき不意に御簾の向こうで見知った気配を感じた。 「神子殿、失礼いたします。大丈夫ですか?」 声をかけたのは鷹通であった。 あかねははっとして顔をあげた。 あわてて眦をごしごしとこする。 「た、鷹通さん?どっ、どうしたんですか?」 鷹通の言葉にあかねはどきどきした。 八葉との深い絆。 けれども泰明を恋するあまりのどろどろとした嫉妬心を他の八葉に知られてしまうことを急に思い出したのである。 「女房らから神子殿が臥せっていると聞き及びましたから・・・。ご迷惑ではありませんか?」 あかねは内心ほっとしつつも、鷹通の嘘がありがたかった。 鷹通は心乱れている自分を八葉としてのその絆ゆえに知っているであろうから。 「だ、大丈夫です。・・・ありがとうございます、鷹通さん。」 あかねの言葉に鷹通がほっとしたような吐息をついた。 そして手にしていた花菖蒲をそっと差し入れた。 「邸で今を盛りに咲いておりましたから神子殿にと思いまして・・・。」 鷹通は遠慮がちに言った。 優しげなピンク色が美しい花菖蒲に、あかねはかさついていた心が和らぐのを感じる。 『あなたを信じます。』 そんな花菖蒲の花言葉をあかねはふと思い出す。 「信じるって・・・、難しいですね。」 泰明を信じてる。 言葉にすれば簡単なのだけど、信じるとはなんと苦しく難しいことなのであろう。 「神子殿?」 鷹通が驚いて御簾越しにあかねの顔を覗き込んだ。 「ご、ごめんなさい。花菖蒲には『あなたを信じます』っていう意味があるものだから・・・。」 あかねはぱぱっと頬を染め、思わず袖で顔を隠した。 「泰明殿はお忙しい方ですからね。宮仕えだけならまだしもこちらのお屋敷の大臣をはじめ、有力貴族の方からの仕事のご依頼も多いですから・・・。」 鷹通は遠慮がちに答えた。 泰明が夜な夜な女人のもとへ通っているという噂は鷹通の耳にも届いていた。 恋愛ごとに疎そうな泰明に限ってそんなことはないと、同じ八葉として断言できる。 どうしたらあかねの気持ちを上昇させられるのか鷹通は思考をめぐらした。 そして今日、教王護国寺ーー、東寺に市が立っていることを思いだした。 「神子殿、今から東の市へ出かけませんか?外の空気にふれれば神子殿も少しはご気分がよくなるでしょう。私がお供いたしますのでいかがですか?」 鷹通はにっこりと微笑んだ。 最近めっきり外出の機会が減ってしまったあかねに外出の機会を与えれば、少しは気分転換になるだろうと考えて。 なによりこんな萎れた花のようなあかねを鷹通は見たくなかった。 やはりあかねは明るく元気であってほしいと望むから。 鷹通はあかねの『はい。』という返事に満足したのである。 東の市でなにやら人垣ができていた。 人垣の中心からは軽やかな楽の音が聞こえてくる。 「あれ?鷹通さん、あれは何でしょう?」 あかねは人垣ができているあたりを指さして鷹通に聞いた。 「田楽のようですが・・・。」 鷹通は人垣の中にあかねを周囲から守るようにかきわけて入っていった。 人垣の中心には忘れられない女性が美しい舞いを舞っていた。 白拍子であれば水干に袴、縦烏帽子姿なのであるがその女性は神子装束である千早を纏い、鈴を手に、神秘的で神々しい舞はまるで神への奉納舞のような厳かさがあった。 尼剃ぎした髪を軽く結わえ、前髪にさした金色の歩揺の髪飾りが踊るたびしゃらしゃらと軽やかな音を立て、夏の日差しに煌いている。 「シリンとはまた違った魅力のある白拍子ですね。」 鷹通は感心したように呟いた。 あかねはそのとき何もかも悟った。 彼女ーー比丘尼があかねのもとに訪れて以来、泰明はあかねのもとに訪れなくなった。 泰明の通う女性とは比丘尼であると感じたのである。 泰明は稀代の陰陽師、安倍晴明の最後にして最強の弟子と謳われているのに、比丘尼という女性の式神に怪我をさせられた。 泰明はそんな比丘尼の力に感心していた。 泰明が比丘尼の力に惹かれ、比丘尼のもとに通っていると閃いたのである。 「鷹通さん、あの、女の人でも陰陽師ってなれるんでしょうか?」 あかねは鷹通の袖を掴み、小声で聞いた。 鷹通は不思議そうな顔をしたが、あかねの切実そうな表情にわかる範囲内ですが、という前置きで話をはじめた。 「陰陽師とは宮仕えをするものを言います。私の知っている限りでは女性の陰陽師は存在しておりません。女性が陰陽師になるというのは聞いたことがありませんが、可能ではあると思いますよ。泰明殿をはじめ特異な力を備えるのは何も男性だけとは限らないですから。また他に宮仕えをしない陰陽師もおります。彼らは各地を流浪しながら妖しげな呪術を用い、占術を行ったりするそうです。彼らに女性がいるかどうかは私も詳しくはわからないのです。戸籍のないものもおりますしね。彼らのなかにはもしかしたら女性の陰陽師がいるかもしれません。」 あかねは鷹通の答えに得心がいったように頷いた。 比丘尼が本当に不老不死であるならば、諸国を流浪し、陰陽師としての不思議な力を身につけても不思議ではない。 稀な力を持ち泰明と共通の力を持つ比丘尼。 羨ましかった。 泰明と近いところに存在する比丘尼が。 あかねは比丘尼の神々しい舞を見つめた。 神秘的なのにどこか艶めいたその舞は見るものすべてを虜にしていくようで。 ーー泰明さん・・・。 あかねは悔しかった。 自分では比丘尼のように美しく舞うことなどできない。 「あの白拍子は尼なのですね。尼の白拍子とは珍しいです。」 鷹通は眼鏡のレンズをかけなおし、比丘尼の姿をまじまじと見つめた。 どうやら比丘尼の舞に見惚れておらず、冷静に比丘尼を観察していたようである。 白拍子が舞姫であることはシリンを見て知っているが、尼という存在はいまいちあかねにはぴんとこなかった。 もともとこの時代の女性は人前に姿をさらすことは少ない。 まして尼ともなれば邸うちに篭っていることのほうが多いため、あかねの目に触れにくい。 「尼さん、って・・・、」 あかねが鷹通に尼について聞こうとしたとき、周囲で拍手が起こった。 比丘尼の舞が終わったようである。 あかねと鷹通も口を噤んで比丘尼の舞に拍手した。 わらわらと人々が散っていき、比丘尼と笛や太鼓を持つ数人の童と比丘尼だけがそこに残った。 比丘尼は童たちに片付の指示を出しながら、あかねと鷹通のほうをちらりと見た。 あかねは泰明とのことを比丘尼に確かめたかった。 毎夜噂のとおりに会っているのかと。 何故俗世間を捨てた尼が泰明と逢引しているのかと。 あかねは一歩比丘尼のほうへ踏み出した。 「比丘尼さん。」 あかねは比丘尼に声をかけた。 比丘尼はあかねに視線を向ける。 その口元には笑みが刷かれ。 「あなたがくるのを待っていたわ。」 比丘尼は小首を傾げて微笑んだ。 しゃらんと歩揺のついた髪飾りが揺れて軽やかな音をたてた。 日はすでに西に傾き始めた。 2002.6.11 今回の加筆修正はかなり大幅に行っています。どうもあかねちゃんにばかりスポットをあてすぎて、上手く泰明さん側からの視点がかけていません。ああ、創作を書くのってほんと難しいわ。 さてこのあとは修羅場が待っています。あかねVS比丘尼です。(o ̄ー ̄o) ムフフ さあ、血を見るか?! 次へ 戻る |