夏の衣 泰明は巧妙に施された結界に近づく妖しの気配に気がついた。 ふと顔をあげると、目の前のその人も半眼を閉じ、気配を探っている様子が伺える。 「泰明。」 晴明が泰明の名を呼んだ。 「比丘尼が来る。」 晴明はすっと立ち上がった。 優雅な身のこなしは殿上人のもの。 賢そうな柔和な顔立ちは文官のものでありながら、鋭い眼光と無駄のない動きは武官のそれ。 そして常人には見えぬ鬼神を使役する彼は、まさに今までにない比類なき力を持つ陰陽師であった。 「お師匠の知っている人物か?」 泰明は晴明の顔を見上げた。 なぜなら晴明の声音に懐かしさを交えたものを感じたからであった。 晴明は泰明の問いにふっと微笑んだ。 「知っていると言えば知っているな。」 晴明はすっと一瞬遠い目をし、そして瞳にいたずらっぽい光を湛えた。 「龍神の神子に会いに来たのかもしれぬぞ?」 晴明の言葉に泰明の眼差しが一瞬のうちに険しいものへと変わる。 晴明の知り合いだろうが、妖しだろうが、問題の起こりそうな輩を神子に近づけたくない泰明は、晴明の言葉にものの見事に反応を示した。 晴明はそれを見てさらに口元を綻ばせる。 そうやら弟子の表情が変わるのが楽しくて仕方ないらしい。 師のそんな心を察して泰明はさらに表情を強張らせる。 晴明は扇ですっと口元を隠すと 「神子殿をお守りするのが八葉の役目だったな。せいぜい働けよ。」 晴明は勝ち誇ったようにそれだけを言い置くと部屋をあとにしてしまった。 残された泰明は小さく溜息をついた。 どうやら龍神の神子に平穏という言葉は縁遠いのかもしれないと感じて。 もともと龍神の神子というだけで十分平穏でないのかもしれないが。 泰明は土御門に滞在する恋人、龍神の神子の元へ向かうべく立ち上がった。 土御門の庭に降り立って、一人の少女が空木の下で降る雪のような花弁を見上げていた。 「あかねちゃん。」 久しぶりに土御門に訪れた詩紋が少女に向かって声をかけた。 「あ、詩紋君!お久しぶり〜!」 少女は金の髪の少年のもとへと駆け寄った。 「また外に出ていいの?藤姫に怒られない?」 詩紋の心配そうな顔を見てあかねは屈託なく笑った。 「もう、詩紋君たら。せっかくのきれいなお庭なんだもん。見てるだけじゃつまらないでしょ?あの白い花がね、風が吹くたび雪みたいに降ってくるの。きれいよね。」 あかねは詩紋の心配をあっさり受け流して風に吹かれて白い花弁が舞うのをうっとりと見つめた。 詩紋も空木を見る。 確かにはらはらと風に舞い散る白い花弁は見ているだけではなく、自らも風に吹かれながら見上げたくなる。 そのときだった。 空木の下で一人の少女が立っているのを詩紋が見つけたのは。 年のころはあかねと同じくらいであろうか。 肩より少し長い髪に千早を身に着けた少女が立っているのだ。 そして。 少女は詩紋と視線が合うと少女らしくない、嫣然とした微笑みを見せて、すーっとその姿を風に舞い散る空木の花に溶け込ませ、消えてしまったのである。 詩紋は我が目を疑い、ごしごしと目を擦った。 「どうしたの詩紋君?」 あかねが不思議そうに詩紋の顔を見上げた。 詩紋ははっとしてあかねを見た。 どうやらあかねは先ほどの少女を見ていないようであった。 しかし泰明によって厳重に結界の施された邸にあのような怪異、というべきなのかはわからないが、現象が起きるのは考えられないことである。 「あかねちゃん、部屋へ入ろう。お土産があるんだ。」 詩紋はあかねを促した。 この邸に異変があれば泰明が察知してすぐに訪れるであろう。 あかねがまた外に出ていれば泰明からあかねが小言をもらうのは目に見えているので、詩紋はとにかくあかねを部屋に入れなければならないと考えた。 が。 時すでに遅し。 「神子。」 冷たい刺さるような声音があかねを呼んだのである。 とにもかくにもあかねは自分の部屋へと戻った。 しかし泰明はそのままあかねが御簾内へ入るとそれを確認して、「すぐに戻る」の言葉を残してあかねに背をむけて庭へと降り立ったのである。 「あかねちゃん、何ともない?」 詩紋は恐る恐るあかねに尋ねた。 空木の木の下で見たあの千早姿の少女は少女の姿の、何か、であった。 何かまではわからなかったが、詩紋にはそれがこの世の理からはずれたものであることだけは理解できた。 世の理からはずれたもの、というと泰明もそうであるが、詩紋の目から見れば泰明は普通の人と変わらない人間である。 同じ八葉でもあるし、先ほど感じたような恐さを感じることはない。 ーー恐い。 詩紋は身震いをした。 そう、詩紋は恐かったのだ。 なぜなら詩紋には感じられたから。 あの少女の現身は、間違いなく人間であるから。 世の理からはずれた「人間」であったから。 「なんともないよ?どうしたの詩紋君、顔が真っ青だよ?薬湯を持ってきてもらおうか?」 あかねは側に控えていた女房に目配せをした。 すると一人の女房が立ち上がって廊の向こうへと姿を消した。 しばらくして女房が薬湯を持って詩紋の前に差し出した。 詩紋はそれを手にしてゆっくりと飲み干した。 人心地つくと詩紋は大きく溜息をついた。 こんなんじゃいけない。あかねを守るのが八葉の役目だというのに。 「詩紋、比丘尼の姿を見たのか?」 泰明が御簾内へと入ってきた。 あかねと詩紋が泰明の言葉に首を傾げた。 「びくに?なんですか?泰明さん。」 あかねは小首を傾げた。 「人魚の肉を喰らったという娘のことだ。不老長寿を得て諸国を遍歴しているという・・・。」 「八百比丘尼伝説のことだ!本当のことなんですか?泰明さん?!」 泰明の言葉に詩紋が驚いたように声をあげた。 あかねはますます首を傾げた。 「オビクニ伝説?人魚の肉???」 あかねはわけがわからないまま詩紋と泰明の顔を見比べた。 「事実かどうかは私も知らぬ。なぜ入京したのか理由もわからぬ。そして神子の元に訪れた理由もな。」 泰明はそういうとすっと半眼を閉じた。 「あのね、あかねちゃんも聞いたことがないかな?昔話で父親の持って帰った人魚の肉をそれと知らずに食べてしまい、歳をとらなくなった少女の昔話。」 詩紋はあかねにわかりやすく八百比丘尼伝説を話した。 歳をとらなくなった少女は村を出て諸国を遍歴し、橋を架けたり、道を開いたりと世の人々に尽くした。 800歳のとき、若狭の領主に200歳分の寿命を譲って入定したという。 「もちろん伝説だからどこまで本当の話かわからないけどね。」 詩紋はそういって小さく肩をすくめた。 「比丘尼は詩紋のいうような女性ではない。あるときは白拍子の姿をとり、あるときは呪術を使う陰陽師として諸国を遍歴している。千早を身に纏うのは巫女を名乗ることもあるからだ。」 泰明は忌々しげにそういうと懐に忍ばせていた符を取り出し、小さく呪いを唱えるとその符を御簾へと投げた。 符は薄い紙でできているにもかかわらず、御簾を大きく切り裂いた。 あかねと詩紋は驚いたようにばっさりと切れた御簾を見遣った。 そしてそこには。 切れてだらりと下がった御簾の向こうに千早姿の美しい少女が立っていた。 「盗み聞きするほどのことか?比丘尼。」 泰明は立ち上がるとあかねが影になるような位置へと移動した。 「晴明とはよく似ているけど、中身は似ても似つかないわね。」 少女は髪をさらりとかきあげてにやりと笑った。 「それより。」 比丘尼は泰明へ、否、あかねへと指をさした。 「龍神の神子に興味があるの。」 比丘尼は破れた御簾を軽々と飛び越えて部屋の中へ入ってきた。 あかねの肩を抱く詩紋が小刻みに震える。 「カンがいいのねえ、この子。私が怖いと見えるわ。そう思わない?晴明の最後にして最強の弟子さん。」 比丘尼は詩紋の震える表情を見ておもしろそうに笑った。 泰明は不機嫌な顔で比丘尼を見据えるが比丘尼は歯牙にもかけていないようである。 「龍神の神子、ね。私はね、すでに何百年と生きてきた身。でも人間なの。陰陽の理によって生まれた人間よ?父も母もいたわ。そう、人魚の肉を食べてしまったから私はこの世の理からはずれたものとなってしまったけれどね。」 比丘尼はおもしろそうにあかねに語る。 あかねは泰明の背に隠れるようにしていたが、視線は比丘尼を見つめたまま、比丘尼の話を聞いていた。 「神子に何用だ?比丘尼。」 泰明はすっと懐に手を忍ばせた。 その様子を見て比丘尼が笑い出した。 「何も。龍神に選ばれた神子とはどんな娘かと思ったのよ。同じ神子だしね。」 比丘尼は突然ふっと真顔になった。 「無粋な陰陽師がいるから今日のところは失礼するわ。」 比丘尼はちらりと泰明の懐に忍ばせる手を見遣った。 そして。 「!」 泰明は一瞬手の甲に鋭い痛みを感じた。 「バカにしないでね。晴明に陰陽道の呪術のいくつかを教えたのは私なんだから。」 そういうと比丘尼は一瞬にして姿を消した。 「泰明さん?!」 あかねは泰明の手を取った。 泰明の手に走る赤い火ぶくれにあかねは驚く。 「さして難しい術ではない。問題ない、神子。」 泰明はそういうと手の甲を舐めた。 ーーお師匠に術のいくつかを教えた、か・・・。 比丘尼の目的もわからぬままこのまま比丘尼を放置しておくのは危険と判断する。 しかし比丘尼は明らかに神子に会うのを目的としていたようである。 「泰明さんの結界を破って侵入するなんてすごい術の使い手なんですね。」 詩紋がようやく声をだした。 さきほどまでの比丘尼との対峙は彼に極度の緊張を強いたようである。 「大丈夫?詩紋君。」 あかねは泰明の手を取りながら青ざめた表情の詩紋を見た。 「うん。あの人、人なんだよ。人なのに人としての生を全うできないんだ。だからかな、すごく恐く感じたんだ・・・。」 ようやく女房らがばたばたと部屋へ駆け込んでくる。 どうやら先ほど比丘尼との対峙で、彼女は女房らが入れぬように結界を張っていたようである。 「式の身で・・・。かなりの使い手だな・・・。」 泰明は忌々しげに呟いた。 「え?式?だってあの人人間なんでしょう???」 あかねは泰明の言葉に耳を疑った。 泰明は首を振った。 式の身でありながらすさまじいまでの陰陽の気を感じた。 現身の身であればどれほどの力を発揮するのであろうか。 今までにないことであった。 もしあのものが呪詛を行ったのであれば、間違いなく呪詛返しはできない。 泰明は生まれてはじめて敗北感を味わっていた。 そして。 自分の中に生まれる渇望。 もっと、力が欲しい。 何ものからも神子を守れるだけの力が。 泰明は神子の顔が見れなかった。 ただ黙ってひぶくれを巻いた白い布の端を握り締めた。 「神子、あのものに近づくな。」 泰明色違いの双眸に静かな決意を湛えていた。 2002.6.9 ★八百比丘尼伝説をからめたお話がスタートですv 今回のテーマは・・・「泰明さんの浮気」ですv 実はすでにお話が出来上がっておりますが、毎度のことながら一度にアップしようとしてしまいました。(汗) とりあえず、この第1話目はこれ以上触らないだろう、と踏んでアップしました 次へ |