長月の子守唄 ー伍ー ーー我が神子よ、そなたの願いは何ぞ? ぞくり、 あかねの背中に冷たいものが走る。 いつ以来であろう? 自分の中のソレが語りかけてくるのは・・・? チリン・・・ ーーわが神子、そなたの願いは我の願い・・・。我はそなたで、そなたは我・・・。恐れることはない。 ーーダメ・・・!龍神様!私は願うことができない・・・!私の願いは私と引き換えに成立するもの。私は龍神様を呼べない・・・! あかねはぎゅっと手を握り締めた。 とたん空気が大きく震えた。 房にひとりの美しい青年が現れた。 「り・・・龍神・・・さ・・・ま?」 あかねは慄(おのの)いた。 何故龍神が人型をとって、自分の目の前に現れたのであろうか? 龍神が今もなお、自分の身を贄(にえ)として欲しているのであろうか? 人ならぬ神々しい神気、それは確かに今まで彼女の中にあったものであった。 恐ろしいけれども、温かく、懐かしい感情がないまぜになる。 「我が神子は頑なである・・・。」 龍神である青年はふっと笑った。 あかねの様子を見て楽しんでいるようでもある。 「そうだ、そなたの願いはそなたを贄とするもの・・・。」 龍神の青年はあかねの髪を梳いた。 人ならぬ龍神の大きく、優しい手に、すべてを委ねてしまいそうになる誘惑に駆られる。 けれどそれは泰明との別れを意味するもの。絶対にこの手を取ることは出来ない。 「私は龍神様に願うことはできません。私は泰明さんと生きると決めているから・・・。」 あかねはうつむいた。 何もかもを捨ててこの京に残った。あかねを必要としてくれるたった一人の為に。 「地の玄武、安倍泰明、我が神子にここまで愛されて果報者だな。」 龍神の青年は苦笑した。 龍神と神子の関係は惹かれあう同一のもの。なのに、今目の前にいる少女は、龍神である自分に惹かれながらも、なお地の玄武を愛するという。 あかねは恥ずかしくて頬を染めると袖で顔を隠した。 たとえ言われた相手が龍神であれ、冷やかされたようで恥ずかしいものである。 龍神の青年の瞳がきらりと光った。 そして、龍神の青年はあかねを引き寄せると、おもむろにあかねの唇を奪った。 あかねは驚いて飛び退った。 「なっ・・・、なっ・・・何をするんですかっ?!」 「我が力を振るう代償だ。地の玄武には内密にな。我とあれが対立する様は見たくなかろう?」 くすくすと龍神の青年は笑った。 「我が神子よ、そなたに一回だけ浄化の力を与える。そなたの作る首飾りが桔梗を浄化する。」 「でも・・・晴明様が調伏をするって・・・」 龍神の青年は笑った。 「晴明の本心ではない。あれができる最大のことをするつもりなのだ。そなたとて桔梗が調伏されるのは嫌であろう?晴明とて同じよ。怨霊にとって調伏される苦しみは耐えがたいもの。封印されたとて、その怨霊が浄化されるまでどれだけ時間がかかるか・・・。調伏、封印された怨霊は式神となりて、その業を償わねばならぬ。だが浄化の力はそのすべてを凌駕する力。その力をそなたに一度だけ与える。嫌なのか?」 調伏でも、封印でもない、すべてを凌駕する力、浄化。 そんなことが可能なのだろうか? 「そなたの作る首飾りを桔梗にかけよ。その首飾りが桔梗を絡めとリ、浄化する。恐れることは無い。代償はもう頂いたからな。あとはそなた次第だ。」 龍神の青年はすーっと姿を消していった。 チリン・・・ あかねは自分の中に龍神の存在を感じた。 龍神の青年の姿はどこにもない。 ーー浄化の力・・・。 あかねは小刀を手にした。 鞘を抜いて抜き身の刃を数珠に押し当てる。 ぷつりと糸が切れて、琥珀の玉が転がった。 「泰明さん、私の元に戻ってきてください・・・ね。」 あかねは真新しい銀糸に玉を通していった。 ひとつ、またひとつ、泰明への愛を数えるように。 ーー今また、私はお前を苦しめる・・・。 寺の庭の隅、あの崩れかけた塀の側で、晴明は祭壇をしつらえていた。 墓標の側で泰明を抱きしめている桔梗が見えている。 泰明はただ目を瞑って桔梗に抱かれるままである。意識がないのであろうか。 晴明は霊水を祭壇のまわりにをまいた。 反閇(へんばい)で祭壇の周囲を歩く。 あかねが桔梗の気に捕われないように。 この世は死したものよりも、今を生きるもののためにある。 ーー桔梗、泰明は誰のものでもない。私のものでも、桔梗のものでも。泰明は自分で道を見つけなければならない。お前が捕らえていてはいけないのだ。 反閇(へんばい)を終え、晴明は裾を蹴さばくと、優雅な身のこなしで祭壇の前に座した。 ーーさあ、桔梗、私はそなたを調伏する。許せとは言えぬ。すべての原因は私にあるのだから。 神々への祝詞(のりと)を読み上げる。 その声は朗々と響き、日の傾きかけた荒地に響き渡る。 「晴明様!」 あかねが息を切らしながら、晴明のもとへと走ってきた。 手には首飾りが握られている。 大と小の琥珀の玉を連ね、先端には紅色がかった天狗の羽がつけられている。 「神子殿。」 あかねは肩で息をしながらも、懐から琥珀の数珠を取り出した。 「少し、短くなりましたけど、数珠として十分に使えるはずです・・・。晴明様お持ちください。」 晴明は優しく微笑んでその数珠を受け取った。 そのとき、泰明の身体を抱いたまま、桔梗の怨霊が晴明とあかねの前に姿をあらわした。 あかねははじめて桔梗の姿を見た。 美しい豊かな髪、年は今の自分と同じくらい。しかし、自分より幼く感じるのは、彼女が神々の愛児(めぐしご)故であろうか。 その姿は何よりも、泰明とよく似ていた。 間違いなく泰明の母であった。 そのときになってはじめて、祭壇のまわり、晴明と自分の周りに結界がめぐらされていることに、あかねは気がついた。 桔梗の放つ黒い瘴気が、すぐそばに感じられるのに、届かないのだ。 「桔梗よ、泰明を返すのだ。死者のそなたが泰明とともにいることはできぬ。」 晴明は榊を持つと片手で印を結んだ。 「わたしのあかさまよ・・・?はなさない、もう、ぜったいはなさない・・・。」 桔梗は涙ながらに訴えた。 「せいめいさま、なぜきてくださらなかったの?ききょうはさびしい、あいたくて、かなしくて、いたくて・・・。」 きっと少女が顔をあげた。 風ならぬ風が吹き荒れる。 桔梗の背後で黒い瘴気が渦巻く。 「さびしいの、かなしいの、いたいの・・・もういやなの・・・。」 桔梗の瘴気が泰明を包む。 「わたしのあかさま・・・。せいめいさまがいなくても、あなたがいればいいの。ききょうはあなたがいればいいの・・・。」 晴明は榊を振り上げた。 「ならぬ、桔梗、泰明はこの世に生きるもの、離れよ!」 晴明は榊を振って呪いの言葉を紡いだ。 途端、桔梗の顔が苦しみに歪む。 「目覚めよ、泰明!」 晴明が叫ぶと泰明はゆっくりと目を開けた。 「お、師匠・・・?」 泰明はゆっくりと覚醒した。 「そうだ、泰明、お前はこの世に生きるものぞ。桔梗をお前の中から追い出せ。」 晴明は泰明に鋭い視線を投げた。 しかし、泰明はゆっくりと首を振った。 「できない・・・、お師匠、私は母をこの体から追い出すことはできない・・・!」 泰明は苦しげにうめいた。 母が子を思うように、子もまた母を求める姿がそこにはあった。 あかねは首飾りを握り締めた。 ーー泰明さん、私に気がついて。あなたを愛している私はここにいるの。お願い、私に気がついて・・・! そのとき泰明があたりを見回した。まるで何かを探すように。 「・・・神子っ!?」 泰明の視界にあかねが映った。 あかねは悲しそうに自分を見ている。 ーーそうだ・・・、私は・・・。 泰明は自分の身体を抱きしめている桔梗を見つめた。 この少女が母であることに、いつ気がついたのか覚えていない。 だが、間違いなくこの少女は泰明の母であった。 身体が、心が、この少女こそ母だと告げている。 「あかさま・・・わたしのあかさま・・・」 呪文のように、少女から紡がれる言葉に、泰明はまたも陶酔しそうになる。 ーーだめだ、いけない。 泰明の視界が揺らめいて、また意識を失いそうになる。 師である晴明の言葉が遠くに聞こえるが、何を言っているのか耳に届かない。 『私を見て!』 そのとき、はっきりと泰明の心に響く声が届いた。 「私を見て!」 今度ははっきりと泰明の耳に届くあかねの声。 泰明は自分を取り戻した。 母である怨霊を離そうともがいた。 「私は・・・、私のあるべき場所は神子のもとだけだ!」 泰明が身体に力をこめると、わずかながら桔梗の気が揺らいだ。 泰明はあかねのもとに戻ろうとして身体を捩った時、手に濡れたものを感じた。 怨霊が涙など流すはずは無い。実体が無いのだから。 だが、怨霊は離れようとする泰明に明らかに泣いていた。 「あなたも・・・あなたもなの・・・?」 悲しげな少女の声ならぬ声。 泰明は迷った。 あかねのもとに帰らねばならない。しかし、母も捨てることは出来なかった。 少女が苦しみだす。 晴明の呪言が炎となって少女の身体を包む。 「離れよ!桔梗!」 晴明の声高な声が響く。 ーーあなたを調伏する私を許せとは言わぬ・・・。だが桔梗、私は未来ある二人を私やお前の為に犠牲にするわけにはゆかぬのだ・・・! 調伏の炎に包まれて、苦しげに胸をかきむしる桔梗の姿に、晴明は苦しい思いをぐっと心の中にしまいこんだ。 泰明もまたどうしようもなかった。 あかねへの想いと、母である少女への想い。 どちらかを選ぶことなど、とても出来なかった。 どちらも大切であった。 ーー何故お師匠は母を調伏するのか? 泰明は晴明のほうを見た。 「泰明、そなたはこの世に生きるもの、死者の桔梗とともにいることはできぬ!」 ーー死者、ああ、そうだ・・・母は死者となっていたのだ・・・。 泰明は苦しむ少女を見つめた。 「私は・・・。」 泰明は目を瞑った。 ーーこんなにも母は自分を愛してくれている。 死者に捕われてはいけない。陰陽師の自分が一番よく知っている。 「お、師匠・・・母を調伏しないでくれ・・・!」 苦しみ、身もだえし、泣いている母を見るのは辛かった。 泰明は晴明に懇願した。 母が苦しむ姿は、あまりに悲しかった。 泰明は知らず涙を流した。 そのときだった。 あかねが晴明の榊を取り上げた。 「だめです、晴明様、こんなの、晴明様も、泰明さんも、桔梗様も、北の方様も、みんな傷つくだけです!だめです!調伏なんて、絶対ダメです!」 あかねは泣きながら榊を取り上げられまいと胸に掻き抱いた。 「神子殿・・・!」 晴明は突然のあかねの行動に驚いて、呪を紡ぐ言葉を途中で止めた。 「桔梗様は晴明様を、泰明さんを愛してるんでしょう?晴明様も、泰明さんも、桔梗様を愛してるんでしょう?こんな、こんな風に傷つけあうのは絶対ダメだよ!」 晴明は苦笑した。 ーーこれが龍神の神子の素質。すべてを愛し、赦す力。なんという、力なのか。 「神子殿、だが、桔梗を泰明から離すためには、私のできることは調伏しかないのだ・・・。」 晴明の目には涙が光っていた。 それは調伏が、晴明の本心でないことの証であった。 「なら私が・・・!私が浄化します!」 あかねは叫んだ。 龍神が口付けひとつの代償に、たった一回だけ与えてくれた力。 自分にできるか半信半疑ではあったが、もうこれ以上、皆が傷つくのを見たくなかった。 「神子殿、浄化とは・・・」 晴明はあかねの言葉に驚いた。 あかねに封印の力があることは知っている。 しかし、浄化とは、神のみに与えられた力。 「調伏も、封印も、桔梗様を解放できない・・・!ならば、浄化します・・・!」 浄化の力。 龍神がその力をあかねに与えたならば。 「だめだ神子っ!お前を贄に龍神の力を使ってはいけない!」 泰明が叫ぶ。 「神子殿、龍神があなたに与えた力はあなたを贄とするもの・・・。あなたがいなくなってしまっては、泰明がこの世に生きる意味がなくなってしまう・・・。」 晴明もあかねが龍神の力を揮うのを止めようとする。 あかねは大きくかぶりを振った。 「たった一度だけしかできないの。その代償はもう龍神様に払ったの。大丈夫だから・・・私は大丈夫だから!」 泰明は呆然とした。 あかねはすでに龍神に代償を払ったという。 それは即ち、あかねが贄として捧げられているということであった。 泰明はあかねがいなくなることだけは耐えられなかった。 それならば。 あかねが自分のもとからいなくなるならば・・・! ーー許せ母上! 泰明が渾身の力をこめて黒い瘴気から離れようとしたときだった。 黒い瘴気がするすると消えていく。 桔梗相変わらず泣いていたが、その顔は微笑みにあふれていた。 「桔梗・・・!」 晴明は桔梗を見つめた。 その笑顔を見るのは何年ぶりであろう。 思い出の中の桔梗はいつも泣いていた。 忘れていた桔梗の笑顔であった。 泰明も驚いていた。 今この桔梗からは、自分に対する妄執が感じられなかった。 『浄化を・・・龍神の神子様・・・。』 声にならない声があかねの心に響いた。 「き・・・桔梗様・・・。」 桔梗はゆっくりと泰明から離れていった。 『大切に、なさいませ・・・。あなたが愛する人を・・・。』 桔梗は泰明から離れていく間際、泰明の頬をなぜた。 実体の無いそれが、とても温かく、いいかおりがした。 桔梗は座して平伏した。 『神子様・・・。龍神様のお力を・・・。』 「神子殿、いけない!」 「よせっ!神子!」 泰明と晴明の声が重なる。 ーー龍神様、あなたのお心のままに・・・! あかねは桔梗の首に、泰明の首飾りかけた。 瞬間、光があたりを包んだ。 あかねは優しい歌声を聞いた気がした。 それは子守唄・・・。 野辺で大きなお腹を抱えた少女が、桔梗の花を手に唄っている。 邪気の無い微笑で、お腹の赤子に歌う少女が、見えた気がした。 次へ 表紙 |