長月の子守唄 ー四ー 晴明とあさがほが出会ったのは今から20年以上も前のことだった。 化生の子と噂され、傷ついた心を抱えていた晴明と、神々の愛児(めぐしご)として、生きていく知恵を持たない少女が恋に落ちるのに長くはかからなかった。 晴明はあさがほに名を与えた。 桔梗・・・その名が彼女の真名となった。 「あなたを妻として迎えたい。」 晴明がそのように考えても仕方のないほど、二人は惹かれあっていた。 晴明に欲がでたのはそのころであった。 師、賀茂忠行、賀茂保憲親子の薦めるまま陰陽寮の陰陽生(おんみょうのしょう)となった。 彼の才あれば陰陽師となるのは容易いことであった。 愛する桔梗のためであれば、自分について回る悪意の噂など気にもならなかった。 晴明は桔梗を養うだけの力を得るために、帝に仕える道を選んだのである。 「せいめい様、ききょうのこときらいになった?」 陰陽生として忙しく働く晴明は、久しぶりの逢瀬で桔梗に問われた。 「なぜ?私はあなたのことを嫌いになどなれないよ。どうしてそのようなことを聞く?」 晴明は優しく桔梗を引き寄せながら問うた。 「だって・・・ききょうはまいにち、せいめい様にあいたい・・・。」 桔梗はうつむいて涙を零した。 晴明が内裏に参内するようになってからは、桔梗に逢えるのも限られていた。 「泣かないでかわいいひと・・・。私はね、あなたを守るために尊い方にお仕えしているのだよ。」 晴明は桔梗の涙を拭ってやりながら、優しく言う。 「・・・?」 しかし桔梗には理解ができない。 晴明は苦笑しながらも、桔梗にわかりやすいように説明する。 帝に仕えることで、京を守ることで、愛する桔梗を庇護し、守るのだと。 桔梗はまだいまひとつ理解できないようであったが、それでも自分を守るというのが、京を守るのだということであると納得したようであった。 「じゃあ、せいめい様、きょうをおまもりくださいね。」 一生懸命に微笑む桔梗が紡いだ言葉は、そのまま呪となり、晴明を呪縛した。 だから彼は今でもその呪に捕われている・・・。 帝に仕え、京を守護し続ける・・・。 あるときから、桔梗はとある受領の求婚を受けるようになっていた。 受領といえども、陰陽生の晴明と比べれば、身分も高く、財力もあった。 どこで見初めたのか、たびたび桔梗のもとに訪れては、高価な袿や扇を桔梗に贈っていた。 もともと桔梗は里村全体で養われていた。彼女は祖母とともに暮らし、里村の者たちの庇護のもとに暮らしていた。 しかし、桔梗の世話の大半をする祖母は年老いていたし、ここ数年は飢饉にみまわれて、土地を捨てて、この地を去るものも少なくなかった。 桔梗の行末を心配しているものは少なくなかったのである。 だからこの受領の求婚は願ってもないことであった。 受領の妻であれば何不自由のない生活が約束されている。 身分も、財力もない晴明より、この受領の求婚は歓迎された。 しかし桔梗は、そのときすでに晴明の子を身ごもっていた。 晴明は焦っていた。なんとしても早く桔梗を手元に呼び寄せる必要があった。 そんな折、晴明はとある人物と出会った。 今をときめく藤原中納言であった。家柄もよく、帝からも信頼厚い青年であった。 のち、土御門邸の主人、藤原左大臣となる人物である。 彼は晴明の噂を気にもとめず、気軽に晴明と打ち解けた。 そして、彼の引き立てもあって陰陽師となり、徐々にその力を発揮する場を与えられるのであった。 そして、引き立てられたがゆえに晴明は日々、忙殺されるようになる。 桔梗の産み月が近づいていた。 「お前の真価が問われる時ぞ。よいか、これはよい機会だ。この機会をものにせよ。」 藤原中納言は晴明に念を押した。 今年の梅雨は雨の量が少なく、長月にはいったというのに長雨も少ない。 そのため農作物の出来が悪く、民たちは苦しんでいた。 帝はこれを憂いて陰陽師らに祈雨祭を行わせることにした。 その祈雨祭で、晴明が祭司を行うことになったのである。 異例の抜擢であったが、彼の師であり、兄弟子でもある賀茂保憲の推挙もあった。 しかし、祈雨祭ともなれば雨が降るまで続けられる。桔梗の出産が近づいている今、晴明にとってはありがたい反面、辞退したい思いもあった。 だが、彼は帝を、京を、守護するという呪に捕われている。 道はすでに決まっているのだ。 自分の力でもって雨を降らせればよいのである。 彼にはその自信があった。 そして晴明は祈雨祭の準備に忙殺され、桔梗のもとへ通うことが出来なくなった。 内裏に泊り込み、祭司としての務めを果たすために彼は必死であった。 その甲斐あって、祈雨祭は滞りなく行われ、すぐに雨が降った。 何日も準備に追われ、祭司として責任を持って務めを果たした晴明を、ゆっくり休むようにまわりは促したが彼は最愛の妻、桔梗ののもとへ馳せ参じた。 だが、そこで彼が見たものは。 愛しい人の亡骸であった・・・。 晴明が祈雨祭を行う前日から産気づいた桔梗は出産に臨み、丸一昼夜陣痛で苦しんだ後、息を引き取ったという。 晴明は生れたはずの子がいないことに気づいた。 桔梗の祖母に詰め寄って、生れたばかりの赤子の行方を聞いた。 祖母はゆるゆるとその口を開いた。 桔梗が出産に臨んだ折り、桔梗に求婚していた受領が訪れたという。 彼は彼の懇意の僧を呼び、祈祷をさせたという。 しかし、祈祷の甲斐なく桔梗が息を引き取ると、生まれたばかりの赤子を連れて行ってしまったという。 晴明は怒り狂った。 しかしその受領に対して自分はどうしていただろう? 桔梗を守るといいながら、帝を、京をまもるために、最も愛する人の最期に側にいられなかった。 桔梗を守ることができなかったのである。 身分も、財力もその受領にかなわない。 晴明は誓った。 必ず、身分も、財力も身につけ、その子を取り戻すと。 自分に力がないためにすべてを失った。 ならば、 すべてを取り戻すために力をつけることを心に誓ったのだった。 「私は大きな間違いを犯してしまった。」 晴明は数珠を握り締めて苦しげにうめいた。 「私は己が力量も鑑みず、泰山府君を行い桔梗を甦らせようとしたのだ。」 晴明の言葉に僧侶が顔を覆った。 あかねも泰明から聞いたことがある。 死者を呼び戻す祭祀だ。 「桔梗様は甦らなかったのですね・・・?」 あかねは涙が零れそうになるのを必死で抑えながら、晴明に確認するように聞いた。 悲しすぎる出来事である。 死んでしまった桔梗も、受領に連れ去られた赤子も、何もかも失った晴明も。 晴明を責めることがどうしてできよう? 「陰陽寮の者に相談せず、、北山の大天狗に相談をした。あれなら力になってくれると思ったからね。しかし天狗にも猛反対された。しかし、私は泰山府君を行うことを止めなかった。そして、力の足りない私が行った泰山府君の祭祀で、桔梗は甦ることはおろか、怨霊と化させてしまった・・・。」 もともと神々の愛児(めぐしご)といえど、人間である以上、負の感情をわずかながらに持っている。 泰山府君を行った結果、桔梗の負の感情だけがこの世に返って来ることになってしまった。 北山の大天狗は桔梗の負の感情を墓標に封じた。 そして、亡骸に残った陽の気を琥珀の玉に移した。 「この琥珀は私が桔梗に初めて贈った品なのだよ。」 晴明はひびの入った小さな琥珀の玉を光にかざした。 「私の母が私に授けたものだ。もともとは小さな玉の首飾りだった。それを二つの数珠にしてひとつを桔梗に、もうひとつを私がもっていた。私が桔梗に贈れるものといえばそれくらいのものだった。皮肉にもその玉のひとつに桔梗の気を封じなければならなかった・・・。」 桔梗の気の封じられた玉の数珠と、新しく大ぶりの琥珀の玉を組み合わせ、首飾りをひとつ作った。 それが泰明の首飾りとなった。 「泰明の行方はわかっていた。ある受領の子として育てられていることはすぐにつきとめられた。しかし、私には泰明を取り戻すための力がなかった・・・。」 晴明は天下の権勢を担っている藤原一族に勧められるまま妻を迎え、藤原一族の高い信頼を得ながら位階昇進を果たした。 晴明があれほど切望した、富と力を手に入れたのである。 しかし、富と力を手に入れたことで、そのしがらみに縛られ、泰明を取り戻すことができなくなったのであった。 そして月日が流れた。 3年前、ある男が一人の青年を晴明のもとへ連れてきた。 男は、泰明を連れ去った受領の長男で、受領が亡くなったあと家督を継いだという。 その男は連れていた青年を弟だという。 しかし明らかに男はその青年に怯えていた。 青年には見えざるものが見えるのだという。 故に、一族から気味悪がられ、行く末も心配であるから稀代の陰陽師、安倍晴明に預けたいということであった。 もともとは父がどこからともなく連れてきた子供で、美しく、賢い子供であったために、父に溺愛されていたが、青年の力が目覚めると、父もこの青年を遠ざけるようになったという。 晴明は我が目を疑った。 間違いなく自分と桔梗との間にできた子であったから。 その青年は桔梗にそっくりであった。 しかし、桔梗の陽の気にあふれた明るさは無く、凍てついた冬の湖のように冴え冴えとして、陽の気が感じられなかった。 青年の心は、その凄まじいまでの力によって精神を引き裂かれ、笑うことも、泣くことも、怒ることもなく、感情を自ら押さえ込み、傷ついた心を守っていたのだ。 晴明はその青年を預かった。 桔梗にわずかにも陰の気があったように、この青年にもわずかであるが陽の気があるはずである。 晴明は再び北山の天狗の力を借りて、この青年の過去の記憶を忘却の淵に沈めた。そうすることによって、癒されぬ過去の傷が、彼を蝕まないようにするために。 つまり、文字通り新しく生まれ変わらせることにしたのであった。そして、この青年が自らの力で陽の気を見つけ出すまで、暴走しそうなほどの凄まじい陰陽の力の一部を封印した。 陰陽の均衡が取れないうちに、陰陽の力を振るうことはその青年自身の精神を引き裂くからであった。その封印が顔の呪いである。 名もそれまで呼ばれていた名を改めた。 「泰明」 晴明の付けた名はそのままその青年の真名となった。かつての桔梗のように。 その青年は晴明によって、新しい人生を歩む魂を造りだされたのである。 晴明は泰明に母、桔梗の陽の気が封じられた、琥珀の玉の首飾りを授けた。 泰明が陽の気を自ら見つけ出すことができるまで、桔梗の陽の気が泰明の陽の気となるように。 泰明が言う「師によって造られた」というのはある意味正しい。 それは、泰明がこの先生きていくために、父として、師として、してやれることであった。 「桔梗の負の感情は私への恨みと、泰明への妄執です。私は私の責任で彼女を調伏せねばならない。」 「待ってください。桔梗様は陽の気も解放されているはずです。なのに何故調伏するのですか?」 あかねは晴明の言葉に驚いた。 泰明が墓標を訪れたことで陰の気の解放が起こったと同時に、泰明の首飾りが切れて玉にひびが入ったのは桔梗の陽の気も解放されたはずである。 「だからですよ、龍神の神子殿。」 晴明はふっと自嘲的に嘲った。 「陰の気と陽の気が合わさったことで、桔梗の妄執は強くなってしまった。彼女は自分が何を欲しているか知ってしまったから。桔梗は泰明から絶対に離れないでしょう。」 影に、日向に桔梗は泰明から離れることができない。 それは時に泰明を守り、傷つける。 「晴明様、封印は・・・封印は無理なのでしょうか?」 調伏など・・・、愛し合ったもの同士が、調伏する側と、される側になるのはあまりに刹那的である。 「それは無理だ。私にも泰明にも封印の力は与えられていない。封印の力があるのは何千年も生き続ける大妖や、仙人、神々だけ・・・。北山の天狗とてひとつの怨霊を何度も封印することはできない。」 「私にはまだ龍神様が与えてくださった、封印の力があります。この玉をつなげて、首飾りに封印できないでしょうか?」 あかねは晴明に訴えた。 自分の身のうちに宿る龍神の力。 あかねがこの京で暮らしていくことを決めたとき、龍神は神子であるあかねに封印の力を残していった。 あかねがこの京で安全に暮らしてゆけるように、と。 晴明はゆっくりと首を振った。 「その力は龍神があなたを守るための力。このようなことにあなたが使っていいものではないのです。」 晴明は大きく息を吐いた。 ーー自分で播いた種は自分で刈り取らねばならない。 晴明は言葉にすることなく、心の中で決意をしていた。 桔梗を追い詰めたのは他ならぬ晴明自身である。 これは晴明と桔梗の問題、泰明も、あかねも、まして北の方をも巻き込んではいけないこと。 「神子殿、私は祭祀の準備をしなければならない。あなたにしていただきたいのは、ひび割れたこの玉の代わりに、こちらの数珠の玉を用いて首飾りを作り直していただけまいか。あなたの想いをこの首飾りに・・・。さすれば泰明も母を求める心から解放されるでしょうから。」 そう、母が子を求めるのと同じように、子も母を求める。 まして生れて直ぐ離れ離れとなった母子ならば、その執着は想像以上のものであろう 晴明があかねに助力を求めた理由、それは泰明が母を求める心と、あかねを求める心とを天秤にかけたとき、あかねのほうが勝る、と信じられたからである。 あかねは晴明の決意に、封印のことはそれ以上何も言えなかった。 ずっと晴明の中で決めていたことなのかもしれないと思うと、それがどんなに悲しいことでも自分が口をはさむことではないと感じた。 あかねは黙って頷いた。 晴明は穏やかな微笑を浮かべると、小刀をあかねの手に握らせた。 「よろしく頼みますぞ。」 晴明はそういい置くと、静かに立ち上がり、祭祀の準備をするため房を出て行った。 続いて僧侶も晴明のあとに従って出て行った。 ひとり房に残されてあかねは小刀を置いた。 チリン・・・ そのとき彼女の中で鈴の音が鳴った。 次へ 表紙 |