長月の子守唄 −弐ー


北山に程近い里村、否、里村だった場所に小さな墓標が立っていた。
荒れ果てた土地であった。
墓標の周りだけはかつてはわずかに開墾された地であったのか、石も少なく、草が生い茂っている。
そして、そこには今を盛りと桔梗の花がたくさん咲き誇っている。



「神子様が泰明さんを好いてくださって本当に嬉しいわ。」
屈託なく笑う晴明の北の方にあかねは親しみを覚えた。
「え〜、そんな・・・私が勝手に好きになっちゃっただけですよお。」
あかねは照れながら扇を弄んだ。
「だって、ほら、泰明さんはあのように人を寄せ付けない方でしょう?殿もとても心配されていて、でもよかったわ。泰明さんが好きになった方が貴女のような方で。」
「わ、わ、わたしのようなって・・・。私何にもできないんですよ。いっつも泰明さんを困らせてばかりで。」
「あら、困らすことができるならいいじゃありませんの。あの方を困らせることをできるのは殿くらいですもの。」
ーー晴明しか泰明を困らすことができない・・・。
あかねは微笑ましくなった。
晴明の北の方の話す泰明はあかねの知らない泰明だった。
「泰明さんは一人前の男性なのだから、殿ももう少し尊重して差し上げればいいのだけど、まるで子供をからかうように遊ぶんですもの。泰明さんも困ってしまうわよねえ。」
北の方はほほっと笑った。
「で、都合のいい時だけ、泰明さんにお仕事をおまかせになって・・・。あら、でもめずらしいわね。殿が泰明さんに何も言わないでお仕事に出かけるのは。」
北の方は自分で何気なく言ったことに疑問を感じたらしく、小首を傾げている。
「急なお仕事と泰明さんから私は聞きましたけど。」
あかねは不思議そうに聞き返した。
「いえ、それは私が泰明さんにお教えしたの。常ならいくら急のお仕事でも、まず泰明さんにやらせようとなさいますもの。」
ーーそれでいつも泰明さんが忙しいのね。
あかねは内心、泰明に気の毒に、と思った。
「泰明さん、大変ですね。でも晴明様って、泰明さんを本当に信頼してらっしゃるんだなあ、って思っちゃった。」
あかねはにっこりと微笑んだ。
北の方も嬉しそうである。
「殿が泰明さんを私に引き合わせた時は今でも覚えていますわ。可哀相なくらいはりつめた態度で、いまにもくずおれそうで。殿は何もおっしゃらないし、泰明さんも何もおっしゃらないけど、とても大変な目にあわれてきたのだと思いましたわ。強すぎる陰陽の気は、力の振るい方を知らねば、その人の精神を引き裂くほどの毒にしかなりませんもの。」
あかねはその言葉におやっと思った。
泰明は師、晴明によって造られた存在だといっていた。北の方はそれを知らないのであろうか。
そのとき、牛車の小窓が叩かれた。
あかねは慌てて小窓を開けると、泰明が声をかけた。
「北の方様、神子、間もなく到着する。」
「あ、はーい」
牛車の中にいたあかねと北の方、北の方の侍女は牛車を下りやすいように身支度を整え始めた。
間もなく牛車が止まると泰明が牛車の御簾を上げた。
到着した先は一軒の寺であった。
周りには他に何もなく、ぽつんと佇むその寺は規模も小さく、庵のようである。
寺の門では一人の僧侶と小坊主が出迎えていた。
身軽な姿のあかねは袿姿の北の方が牛車を下りるのを手伝った。
「ようこそおいでくだされた。ささ、こちらへ。」
僧侶と小坊主に案内された先は、こじんまりとした堂であった。
「神子様、泰明さん、私はこちらで経を上げますのでどうぞご自由にしてらして。終わったらそちらの方にお知らせに上がってもらいますから。」
北の方はにっこりと微笑んだ。小坊主は元気よく平伏した。
「わかった。では私たちは寺の辺りを散策する。お師匠の代わりをよろしく頼む。」
泰明はそういうとあかねの手を引いてさっさっと堂を出て行った。
北の方は堂に据えられている阿弥陀仏に向かうと、懐から数珠を取り出し、僧侶のあげる経をともにあげはじめた。

「北の方様とずいぶん親しくなったようだな。」
堂を出て、草深い寺の庭を横切りながら、泰明はあきれたようにつぶやいた。
「うん。とても楽しい方だよね。晴明様と泰明さんのこといろいろ教えてもらっちゃった。」
あかねはにこにこ笑いながら泰明と並んで歩く。
まさに前日泰明が思った通り、二人は妙なところで気が合うようである。
「泰明さん、大変なんだね。でも晴明様にそれだけ信頼されてるってことだよね。」
「大変か、あまりいままでは感じなかったが、最近はそうでもないな。ときどきお師匠が疎ましいと思うことがある。」
泰明はふっと笑うとあかねに向き直った。
「決まってお前のことを持ち出されるときだ。」
あかねのいくらか伸びた髪を、泰明の男性にしてはややほっそりした指が梳く。
あかねはちょっと悩んでいたが、その言葉の意味に、遅ればせながら気がついてぱぱぱっと顔を赤らめた。
つまり、泰明が晴明を疎ましいと思うとき、それは自分とのことをからかわれるということであった。
「あははは・・・やだなあ、もう・・・。」
あかねは照れ笑いを浮かべて、恥ずかしいのか泰明の視線から逃げるように視線をあたりに泳がせた。
「あ、ねえ、泰明さんあっちのほうにお花が咲いてるよ?見に行っていい?」
崩れかけた塀の向こうは荒地であったが一部草が茂り、紫色の花がゆらゆらと風に揺れているのをあかねが見つけた。
「あまり遠くに行くな。迷うぞ。」
泰明はすでに崩れた塀を軽々と越えて、寺の敷地から出て行くあかねに声をかける。
「大丈夫ですよ、すぐそこだもの。」
あかねが駆け出すので、仕方なく泰明も崩れた塀を越えてあかねを追いかける。
そのとき泰明はぞくりとする感触を覚えた。
ーーなんだこの感覚は?
あかねが見つけたところに小さな墓標が見えた。
誰かの墓である。
たまらなく懐かしい、慕わしい気持ちがこみあげてくる。
ーー私はここを知っている?
何故そんなことを思ったのか泰明にはわからなかった。
ここは泰明が今まで知らなかったところである。
ここに寺があることも、ましてこの地を訪れることも初めてであった。
吸い寄せられるように墓標へと導かれる。
様子のおかしい泰明に、あかねは不思議そうに顔を覗きこんだ。
「どうかしましたか?泰明さん」
墓標の周りを彩る花は桔梗の花であった。
墓標には何も記されていない。
泰明はあかねの言葉など耳に入らないようで、知らず、首から下げられた首飾りを握り締めていた。

ピシッ・・・!

乾いた音がしたと思ったら、泰明の首飾りが切れた。
「あっ!」
あかねは小さく叫んだ。
泰明も驚いて転がる玉(ぎょく)を見つめた。
あかねはあわててひとつひとつ玉を拾った。
泰明も我に返ってあわてて玉を拾う。
「首飾り、切れちゃった・・・。」
あかねは何故かそれが自分のせいのような気がして、申し訳ない思いがした。
「お前のせいではない。」
泰明はあかねの心中を察したのか、苦笑した。
「形あるものはいずれ壊れる時が訪れるのだ。神子が気にすることではない。」
そのときであった。

キャアアアア!

絹を引き裂くような鋭い叫び声が寺の堂の方から聞こえたのだ。
はじかれたように二人は顔を上げた。
「神子、この玉を集めておいてくれ。私は様子を見に行ってくる!」
泰明は自分の拾った玉をあかねに渡した。
そして、ふと気がついて懐から符を取り出した。
「もっていろ。」
あかねにそれを押し付けると泰明は堂へ向かって走り出した。
「気をつけて泰明さん!」
あかねは走り去る泰明に叫んだ。
そして早く自分も泰明のもとへ行くため、急いで玉を拾い集めた。
「これ・・・。」
あかねがひとつの玉を見つけて光にかざした。
泰明の首飾りの玉のひとつ。
ひびが入っていたのだ。
「い、いそがなくちゃ。」
あかねは急いで残りの玉を拾い、袂にしまうと自分も泰明の向かった堂へと走り出した。




経をあげはじめてどれくらいたったときであろうか。
何かが割れるような音がしたと感じたときだった。

ゴオッ!

一陣のすさまじい風が吹いたそのときであった。
目の前に人ならぬ少女が北の方の前に現れたのだった。
驚いたのは僧侶も同じであった。
従っていた侍女は、恐怖のあまり突っ伏してしまっている。
僧侶は数珠を振り上げ、人ならぬ少女に対して、よりいっそう声高に経をあげた。
すると人ならぬは少女は僧侶を一瞥(いちべつ)し、きっと睨んだかと思うと僧侶は声が出せなくなってしまった。
北の方はぶるぶる震えながら数珠を握り締めた。
怨霊であった。間違いなかった。
ただ、晴明の邸で見るものは、すべて晴明によって式神にかえられたものばかりであったので、調伏されていない怨霊を見るのは初めてであった。
人ならぬ少女はゆっくりと北の方へ視線を向けた。
知らず北の方は悲鳴を上げた。
なぜなら。
その人ならぬ少女は、泰明に酷似していたのである。
人ならぬ少女はゆっくりと北の方の方へ向き直った。
そして確かめるようにじっと顔を見つめる。
『どこ・・・?』
声ならぬ声が北の方の頭に響く。
『どこにいるの・・・?』
北の方は人ならぬ少女の言っていることがわからなかった。
『せいめいさま・・・。』
人ならぬ少女は両手で顔を覆って泣き出した。
北の方は直感した。
この少女こそ晴明が20年以上、墓守をしてきた人であったのだと。
『・・・なぜ?』
人ならぬ少女はゆっくりと顔を上げると、北の方の持っていた数珠を見つめた。
その顔が憎悪に歪む。
はっとして北の方は手にしていた数珠を握り締めた。
それは、晴明から北の方に贈られた琥珀の数珠であった。
晴明の気が感じられるのであろう。女はその数珠を持っている北の方を睨みつけた。
シュルッ!
少女の身体からあふれ出た黒い瘴気が北の方を包んだ。
「?!」
黒い瘴気はぎりぎりと北の方を締め付け始めた。
「いやっ・・・!」
北の方はもがいた。が黒い瘴気は緩むことはない。
苦しげに少女のほうを見ると少女はまた泣いていた。
『せいめいさま・・・。せいめいさま・・・。』
声ならぬ少女の声は間違いなく晴明を慕っているものと感じられた。
北の方は渾身の力をこめて、手にしていた数珠を少女のほうに投げつけた。
とたん、黒い瘴気が緩む。
ごほごほと激しく咳き込んで北の方は衿をかき合わせた。
『見つけた・・・。』
少女の声ならぬ声。
と同時に堂の外で泰明の声が響いた。
「北の方様!」
「来てはいけない!」
北の方は反射的に叫んだ。
しかし、泰明は構わずに堂に入っていった。
そして。
「逃げて泰明さん!」
北の方は懸命に叫んだが遅かった。
少女は泰明を見つけると、黒い瘴気を勢いよく泰明に伸ばした。
「?!」
泰明が何も言葉を発することもできないまま、黒い瘴気が泰明を取り囲み、そしてそのまま少女も、黒い瘴気も、泰明も消えてしまったのだった。


あかねは走った。
もしかするとこの泰明の首飾りは封印の呪具なのかもしれないと思ったのだ。
だとしたら。
何が封印されてるかはわからないが、封印が解かれた今、この玉に封印されていたものは危険なものであることには違いなかった。
まだ自分には封印の力が残っている。
龍神の神子の役目を終えたとはいえ、その力がまだあかねの中に残されていた。
呪具に怨霊を封印したことはなかったが、解放されてしまった怨霊を早く封印しなければならない。
堂には北の方と僧侶、侍女と小坊主しかいなかった。
「泰明さん!」
あかねは泰明を探してあたりを見回した。
しかし、あかねより先にここにきていたはずの泰明の姿は見えなかった。
はっとして阿弥陀仏の前でぶるぶる震えている北の方を見つけた。
「北の方様!」
あかねは駆け寄ると、北の方はそのままあかねに身体を預けて泣き出した。
自由を取り戻した僧侶も駆け寄る。
侍女も小坊主もその場でぶるぶる震えている。
「と、とりあえず、ここをでましょう。どこか休めるところを・・・。」
あかねは北の方を抱きしめながら僧侶に言った。
僧侶は小坊主に指示をして、彼らはとにかく堂を出ることにした。

みな一様に震え上がっていた。
何が起きたのか聞きたいところであるが、今彼らが話をしても支離滅裂な内容だろう。
震える声で僧侶があかねに伝えたことは、怨霊が現れ、北の方に危害を加えようとしたこと、そして泰明を見つけると黒い瘴気が泰明を包み、怨霊とともに泰明が消えたことであった。
ーー泰明さん・・・!
あかねは心臓がぎゅっと絞られるような気がした。
しかしここで、自分までみなと一緒になって、震えているわけには行かないと思い直す。
ーーしっかりしなきゃ。泰明さんは力ある陰陽師だもん、信じなくちゃ。
そのとき懐にある、泰明が置いていった符を思い出した。
そっと取り出すとたちまちその符は人型を取った。
「式神・・・!」
僧侶は驚いてあかねを見た。
あかねは苦笑した。
「私が使ってるわけではありませんよ。」
人型をとった式神は平伏している。
「泰明さんがどこへ連れ去られたかわかりますか?」
あかねは式神に問うた。
式神は顔を上げると、すっと眼を細めた。
気を探っているのであろう。
しばしその状態が続いたが、やがて式神はゆっくりと顔を振った。
「特定できません。・・・。ただ、危害は加えられていないでしょう。気は安定しています。」
あかねは溜息をついた。
泰明がいなければどうしていいのかわからない。
不幸中の幸いと言えば泰明が危害を加えられていないということであろう。
しかし、いつどのようになるかわからない。
「神子様・・・。」
今まで泣いていた北の方がようやく泣き止んで顔をあげた。
「私のせいですわ。私が泰明さんに供を頼んだから。どうぞお許しくださいませ。」
北の方はその場で手をついてあかねに頭を下げた。
「北の方様、お顔を上げてください。大丈夫ですよ、泰明さんは力のある陰陽師だもの。それより、北の方様は大丈夫ですか?」
平伏しながらも泣きつづける北の方の肩をそっとなぜた。
「いいえ、いいえ、私が気づかなかったから・・・。何故殿が20年以上も大切にされてきたのか、私がわかっていなかったから・・・。」
北の方はぐっと顔を上げた。
「こちらで弔われていたのは泰明さんの母君様ですわ、神子様。」
北の方はぽろぽろ涙をこぼしながら、声を振り絞るように話し始めた。
あの怨霊が泰明に酷似していたこと、晴明から贈られた数珠をもつ自分に憎悪を抱かれたこと、
そして泰明を見て、『見つけた・・・。』と言ったこと。
あかねはわけがわからなかった。
泰明は陰陽の理から外れた存在であると聞いた。
師、晴明によって造られたという。
あかねにとってはどうでもいいことであるが、今更泰明に実は母がいましたと言われてもピンとこない。
泰明が嘘をいうはずもないし、しかしその泰明は連れ去られてここにはいないし。
ーーう〜っどういうことなんだろ?泰明さん、わけわかんないよ?私どうしたらいいんだろ?
あかねは頭を忙しく働かせるが、いい考えが浮かばない。
「神子様。」
はっとして式神があかねに声をかけた。
式神は外の気配を覗っている。
外から馬のいななきが聞こえる。
「晴明様です。」
式神の言葉に北の方が顔を上げた。
「御免つかまつる!」
ひときわ大きな、すずやかな声音が響いた。しかし、明らかにその声には焦りが感じられた。
足早に彼らのいる房に足音が近づいてくる。
そして、房に現れたのは狩衣姿で、旅支度を解いていないままの安倍晴明その人であった。

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