長月の子守唄 ー壱ー


京に秋の気配がやってくる。
忘れられない愛しい人を亡くしたあの日が近づいてくる。



「播磨ですか。」
晴明はしばし考え込んでいた。
確かに過去に播磨の守として任国へ下ったこともある地である。
土着の陰陽道の根付いている地である。
「何、そんなに長くかかることもなかろうて。帝を脅かすほどの脅威ある陰陽道がかの地で根付いているかどうかの調査だ・・・。なまなかのものではその脅威がどれほどのものかわからぬ。だからおぬしに調査せよといっているのだ。」
別に行くのは構わないのであるが、時期が悪かった。
もうすぐ晴明にとって忘れられない人を亡くした日が近いのだ。
「おぬしが行かぬなら、泰明でも構わぬ。あれの力はおぬしに匹敵するほどの力を持つからの。」
師とも、兄とも身内同然の暦博士、賀茂保憲の言葉に晴明は驚いた。
それはさせられない。
晴明こそが泰明の側を離れることに不安を感じているのだ。
今の泰明は不安定な状態にあるといえる。その泰明を下向させるのはもってのほかである。
「賀茂殿、せめて神無月に入ってからではならぬのか?何も急ぐことはなかろうて。」
賀茂保憲はほう、と溜息をついてぱたぱたと扇を振った。
「神々が出雲へ参られる時期だというのに、それでは遅いではないか。神無月になってからでは帝のお心が休まらぬ。そもそもおぬしが播いた種ではないか。きちんと責任を取れ。」
確かに播磨の国で、にわか陰陽道の教えを説いた自分が悪い。でなければ土着し、帝に害なすような不穏な動きが起こるはずなどないのだから。
しかし、どうしても時期が悪い。
呪いの解けた泰明が初めて迎える彼の人の命日なのだ。
何も起こらないかもしれない、しかし、何か起こるかもしれない。
帝の命が下っては遅い。勅命では自由に身動きも取れない。ならば、なるべく早く調査に出かけて、なるべく早く京に戻る方がいいのであろう。
晴明は深く溜息をついた。
帝に仕える身、今はそれすら疎ましい。
彼の人との誓いがなければ、今ごろとうの昔に京を出奔していたであろう。
しかし、晴明はあの日交わされた誓いに縛られている。
京を、帝を守護することを。
無邪気な笑顔で交わされた子供じみた誓いに。
「わかった・・・。」
晴明は渋々播磨行きを決めねばならなかった。



もうすぐ夏が終わる。
いまだ残暑は厳しいが、時折風の中に秋の気配が感じられる。
自分が誕生して3年になろうとしている。
そろそろ桔梗も満開になろうとしている。
何故だろう、最近の泰明は、本当にこの世に生れて3年なのだろうかと考えることがある。
間違いなく3年のはずであった。
だが自らの身体は3年弱という月日では、あまりにも足りない時間を経た身体である。
眼を開けた時、目の前には師匠、安倍晴明がいたのだ。
桔梗の咲き乱れるあの庭で、確かに自分は生れたはずであった。
人となったからであろうか。この不思議な感覚は。
自分の出生などどうでもよかったことなのに、龍神の神子であるあかねとと心を通わせたからだろうか。
不思議だと、自分の生れた意味を知りたいと思った。
何故自分は21歳の姿なのだろうか。
何故自分には子供時代がないのか。
妙なことを考える自分にとまどうばかりの泰明である。

きっかけは些細な出来事であった。
市井(しせい)に出たいと言うあかねを説得しきれずに市へと出かけた折、迷子の子供を見つけたのだ。
あかねは当然のことながらその子供の親を探して回り、泰明もそれに付き合わされた。
ほどなく子供の親は見つかり、事なきを得たが、市井からの帰り道、あかねは饒舌に自分の子供時代の話をしはじめたのだ。
想像するに、元気よく走り回り、親御を心配させたりしたのであろう、愛らしい姿が泰明には想像できた。
そして、あかねを土御門に送った帰り道、自分の子供時代がないことが、改めて異様なことのように思えたのだ。
今まで作られた存在であることに何ら疑問を持たなかった。
何故自分は造られたのか、今ここに存在するのか。
泰明は晴明に聞いてみたいと、はじめて思ったのだ。

一条の晴明の邸に着くと、何やら母屋(もや)のほうが騒がしかった。
自分の住まう西の対に向かわずに、まっすぐに晴明のいる母屋へと向かう。
そこには晴明の北の方が台風一過、後片付けに追われていた。
「あら、泰明さん。」
北の方は泰明に気がついて足を止めた。
「何事だ?」
泰明は眉宇を顰めた。
「申し訳ありません。先ほど殿が帰られまして、急に播磨へ下向されると言われたので、慌ててご用意をしたものですから・・・。」
北の方は騒がしくして申し訳ないというように肩をすくめた。
「まさかもう播磨へ下向したのか?」
母屋の様子は旅支度をするためだろうか、いくつか櫃(ひつ)が出され、呪具などが転がっていた。
何かあったのかと思うが、心当たりが見つからない。
せいぜい、播磨で土着の陰陽道が根付いているらしいと聞いたが、急を要するものではないように思われた。
少なくともその日のうち発たねばならぬほどに。
「ええ、たった今。ずいぶんお急ぎみたいで、至急の御用なのかもしれませんわね。」
北の方は明るく笑うと、そっと頭を下げて部屋の片づけを再開しはじめた。



晴明が播磨へ下向して1週間が過ぎようとしていた。
重陽の節句も滞りなく終わり、もうすぐ秋分の日を迎えようとしていた。
自分の中の疑問に答えてくれる人物は、いまだ京に戻ってきてなかった。
「泰明さん」
そんな折、北の方がめずらしく西の対までやってきたのである。
泰明の住まう西の対は北の方の生活の場である北の対や、晴明の住まう母屋と違い、式神を使役させている。
北の方はその式神を恐がっているし、さして何か行き来するような間柄でもないので、北の方が西の対に来ることはほとんどないのである。
「今日はお願いがあって・・・。殿が播磨からまだお戻りにならないでしょう?それで、ちょっとお頼みしたいことがあって。」
泰明は眉を顰(ひそ)めた。
北の方が自分に頼みごというのは今までなかった。晴明の留守は何度かあったがそんなことは初めてである。
「何かあるのか?お師匠が帰ってきてからでは不都合なことなのか?」
聞く人が聞けば実に素っ気無い、礼に失した話し方である。
しかし、晴明の北の方はそんなことに頓着することもなく穏やかに微笑んだ。
「ええ、ある方の命日が明日なのですけど、殿はまだお戻りにならないので、私が代わりに行こうと思って。子供たちは小さいし、できればあなたに供をお願いしたいと思って。」
「命日?誰のだ?」
泰明は知らなかった
去年、晴明はそんなものに出かけたのだろうか?記憶にない。
「ここ3年ほどは殿もお出かけになっていませんわ。まあ、去年は鬼の件があって、殿が事前調査とかでずいぶんお忙しくしていらしたし、その前は疫病も流行ったし、嵐も何度も起こったでしょう?それで内裏にずっと詰めてらしたし・・・。」
去年、一昨年、そういえば確かに忙しかった。それは自分にも覚えがある。
師、晴明とともにずっと内裏に詰めていたから。
「で、誰の命日だというのだ?」
北の方は小さく溜息をついた。
「私にも教えてくださいませんの。でも殿のご様子からとても慕わしい方だったご様子ですわ。」
ーーもし恋人とかだったらどうするのだ?
泰明は屈託のない、この晴明の北の方にあきれた。
師、安倍晴明は稀代の陰陽師であるが、その美しい容貌で数々の浮名も流している。
北の方が知っているかどうかわからないが、今でも彼の恋人は何人もいる。
「あら、女人ではないかと思われてますの?そうかもしれませんわね。でもその方は20年以上も前に亡くなった方なの。いくら女人でも殿が大切に20年以上も墓守をされているのですもの。私だって大切にさせていただきたいわ。」
北の方はごくあっさりと言ってのけた。
いつも晴明の浮気が発覚すると、怒って実家に帰ってしまうのに、どうやら20年以上も前のことでは、亡くなったのが女人であっても許せるのかもしれない。いやそれどころかともに大切にしたいと思うのかもしれない。
まったくもって女人とは不可思議なものである。
「わかった。では供をさせてもらう。明日でよいのだな?」
北の方がそこまで思っているのならば好きにさせようと思った。
「ありがとう、泰明さん。それでね、もしよろしければなんだけど、龍神の神子様もご一緒にどうかしら。ちょうどすごしやすい季節柄だし、少し遠出するのもいいかと思うのだけど。」
北の方は扇で口元を隠して入るものの、にこにこと、さも嬉しそうにとんでもない提案をした。
そんな提案をしたら、間違いなくあかねは喜んでついてくるであろう。
それこそ物見遊山に出かけるかのように。
別に構わないが、構わないのであるが。
ーー何故女人とはかくも面倒なことを言い出すのであろうか。
泰明は溜息をつきたくなった。
「だめかしら?ねえ、泰明さん?まあ、そうだわ。では私が文を書きましょう。泰明さんからお誘いするより、私からお誘いするべきですものね。書き物を貸してくださると嬉しいのですけど。」
すると控えていた女房姿の式神が、さっと筆と薄様を北の方に差し出した。
北の方はちょっと驚いたようではあったが、気をとりなおしてそれらを受け取ると、さらさらと文をしたためはじめたのだ。
泰明は軽い眩暈(めまい)を覚えた。
あまりこの北の方と接することがなかったからよく知らなかったが、あかねと同じくらいの行動派であるのかもしれない。それとも女人とはこのようなものなのかもしれない。
先ほど筆と薄様を北の方に差し出した女房姿の式神が、今度は桔梗の花を差し出す。
いつのまに用意したものやら、どうも式神たちは龍神の神子の名を聞き、浮かれているようである。
「では泰明さん、このお文を神子様にお届けくださいましね。」
縹色(はなだいろ)の唐紙に桔梗の紫色が美しい。
文の使いを泰明に頼むあたり計画的としか思えない。
「よろしくお願いいたしますとお伝えくださいね。」
北の方は立ち上がると、袴の裾裁きも軽やかに西の対を去っていった。
泰明は届けなければならなくなった文を見て、知らず、溜息をついた。




案の定あかねは晴明の北の方の申し出を喜んだ。
「20年以上も前に亡くなられたか方かあ・・・。いったいどんな方だったのかしらね?」
あかねは嬉しそうに桔梗の花を眺めながら思いを馳せている。
「女人とは限らぬであろう。大体私はお師匠の恋物語などに興味はない。」
泰明は憮然としている。
あかねはくすくす笑って泰明の背後からそっと身体を抱きしめた。
「もう、でも女の人でも晴明様が大切にされていた方ならお参りしたい、っていう北の方様って、本当に晴明様を大切にしてらっしゃるんですね。女性として見習いたいなあ。」
あかねは屈託なく笑った。
どことなくその雰囲気は晴明の北の方によく似ていて、きっと二人は明日、意気投合するであろうと容易に想像できた。
「明日、朝に迎えにいくから準備をしておけ。お前の供は頼久に頼まねばならぬな。藤姫に私から頼んでおこう。」
あかねはうーんと腕組みをして悩んだ。
藤姫が当然頼久を連れて行くべきだと言うのはわかっていた。
今の自分の立場を考えると、軽率な行動は養父、左大臣にまで迷惑がかかることもよくわかっている。
でも、あまり仰々しくならないほうがいいだろうし、今回の自分はおまけみたいなものである。
「泰明さんがいるし、いいや。そのかわり、水干を着ていっていいかな。そのほうが動きやすいし。」
藤姫には泰明が同行することで納得してもらおう、と決めてあかねはにっこり笑った。
泰明がいれば特に問題が起こるとは思えないし。
「いいでしょ?女装束二人も連れてたら泰明さんも大変だし。」
泰明は溜息をついた。
もしかしたら自分が甘やかしているのではと考えずにはいられない。
なんだかんだといってあかねの思うようになっている気がする。
「私は構わぬが十分注意をせよ。わかったな。」
あかねはにっこりと笑うと
「はい」
と答えた。

というわけで、あかねは心配する藤姫をよそに、うきうきと明日の準備を整え始めた。
「神子様、いくら泰明殿がご一緒と申しましても、あちらは晴明様の北の方様もご一緒です。くれぐれもお気をつけくださいませ。ああ・・・やっぱり頼久を連れてゆきませぬか?」
藤姫はおろおろとあかねの様子を止めることも出来ず、見ているだけである。
「うーん、ありがと、藤姫。でもだからこそ仰々しくなっちゃまずいと思う。何も何日も留守にするわけではないし、ねっ?」
あかねはにっこり笑って心はすでに明日へと飛んでいる。
外に出られるのはもちろん嬉しい。
けれども晴明の北の方に会うのもまた楽しみのひとつであった。
こちらの世界では知り合いが少ないこともあって、ある意味つまらないのである。
聞けば晴明の北の方は三十路を少し超えたばかりの、なかなか親しみやすいかただという。
お友達、な年齢ではないが、誘ってくれたことが嬉しくて、ついつい浮かれてしまうのだ。
「あ、何かお花も用意した方がいいよね。なにがいいかな。」
女房たちはくすくす笑いながら、
「明日の朝ご用意しておきましょう。姫様、大丈夫ですよ、比類なき力をお持ちになる陰陽師の泰明様がいらっしゃるのだし。」
と二人の仲に入る。
藤姫も大きく溜息をつくと、それ以上反対はしなかった。



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