ひとしれずこそ・・・2 宇治の左大臣の別邸は特にきらびやかというわけではないが、わざと質素なつくりにしてあるものの、趣味のよい庭木の配置や室内に置かれた調度は品のよい品々であった。 庭には白、ピンク色などの椿が咲き乱れ、なるほど今を盛りに美しく咲き乱れている。 「まあ、まあ、まあ!」 藤姫は御簾に張り付くように庭を見た。 めずらしくこんなにはしゃぐ藤姫をあかねは見たことがない。 なんだかんだいっても十歳の子供なのである。 いつもしっかりした風に見せているが、これが本来の藤姫なのであろう。 はしゃぐ藤姫を見れただけでも、あかねは宇治へ来てよかったと思った。 「藤姫、あまり端近に出ると誰かに見られちゃうかもよ?」 あかねはくすくす笑いながら藤姫に、いつも自分がもらっているお小言を言ってみた。 「あら。わたくしったら。」 藤姫はあかねの言葉にぱっと扇を広げ背筋をまっすぐに伸ばした。 あかねはくすくす笑って藤姫を見た。 「もう、神子様ったら!」 藤姫が真っ赤になりながらあかねに恨めしげな視線を送る。 あかねはそんな藤姫が可愛くて堪えきれず笑い出した。 追儺までには京に帰らねばならないが、ほんの短い滞在でも京から離れれば心は少し浮上するようで、泰明のことが気にかかりつつもあかねは宇治にきてよかったと思った。 藤姫もはじめての外出で子供らしい一面を見られるし、何しろ京のような大勢の目がない。 供の友雅のほかにお付の女房が二人。 あかねにとって久しぶりに寛げる時間であった。 「神子様、そういえば新年のお歌の練習はされましたか?ちょうど友雅殿もおりますし、お歌の練習をしましょうか?」 藤姫は思い出したようににっこりと微笑んだ。 あかねは藤姫の言葉にがくりと肩を落とす。 歌はあかねの苦手とするものである。 いや、もちろん苦手なのは歌だけではないのであるが。 それでも適当なところからの歌は適当に女房らが代歌で返してくれるのでよいのであるが、代歌では失礼にあたる人からも歌が届けられたりするのである。 あかねは溜息をついた。 いやそんなことより。 本当に歌を贈って欲しい人から歌が届けられたときにはきちんと自分で返したい。 たとえそれが新年の挨拶の歌であって、恋歌ではなかったとしても。 そんなあかねを見越したように藤姫はにっこり微笑んだ。 「今すぐにでも新年のお歌が詠めるようであれば必要ないのですけれどね?」 藤姫の言葉にあかねは頭を抱え込んだ。 「あうう・・・。」 確かに今新年の歌を捻ろといっても全く思い浮かばない。 それどころか、古今集の賀歌すら思い出せない。 「お歌の練習が必要ですわね。」 藤姫の提案はどうやら通りそうであった。 あかねにしてみればせっかく宇治に来たのであるから、少しは外歩きをしたいなどと考えていたのであるが、どうやらそれは叶いそうにないようである。 泰明は宇治へ行く道すがら懐かしい気配を感じていた。 まさか。 左大臣は今日泰明が宇治の別邸の祓いを行うことを知っている。 宇治の別邸を建てる決定をしてからこちら、ずっと泰明が方位を占い、家相を観たりしてきた。 その最後の仕上げともいうべき家の周囲に結界を張り、祓いを行うというのに何故その場にあかねがいるのであろうか。 あかねの気は探らなくとも伝わってくる。 清浄なる神々しい神気。 あかねでなくば、持ち得るはずのない気である。 本来なら会いたくはない。 今は。 くるくるとかわる表情も愛らしく、ただまっすぐに自分を捉えて離さない少女。 今会ってしまったら、泰明は自信がない。 会ってしまったら抱きしめずにはいられなくなる。 その桃色の唇に自らのそれを重ね、その華奢な身体を折れるほど抱きしめてしまうであろう。 けれど。 今は会わないと決めたのだから。 心に誓ったのだから。 泰明は馬に揺られながら深く溜息をついた。 ーー神子・・・、私は・・・。 泰明は最後に見たあかねの不安げな顔を思い出していた。 あかねは御簾をひょいと持ち上げた。 冬の冷気が容赦なく室内に入り込んでくる。 それでもあかねは頓着しないでそのまま御簾から出ると、簀子縁に出た。 階のわきには椿が植えられており、庭に出なくとも階を半分ほど降りれば椿の花を間近で見ることが出来る。 赤紫色が雪の積もった庭にひときわ匂いやかに美しく咲いている。 花弁や、肉厚の葉に結晶して残る雪が一段と美しい。 あかねはそっと椿に手を伸ばした。 そのときだった。 「神子殿?」 不意に背後から友雅に声をかけられ、あかねは御簾から出ているうしろめたさもあってか、どきりとして思わず体がびくっとした。 そしてそのままバランスを崩して階から転げ落ちそうになった。 「きゃ・・・・!」 あかねは思わず目を瞑った。 階は意外と段数があって、結構高い位置から落ちるわけだから、それ相応の痛みがあってしかるべきなのである。 しかしあかねは目をぎゅっと瞑ったまま何かに抱きとめられる感触を覚えて、そろそろと目を開いた。 最初に見えたのは誰かに抱きとめられたらしく、冬の枯色(かれいろ)の襲ねの衣が視界に飛び込んできた。 そしてあかねの最も好きな香り。 同じ香は数あれど、その香だけは絶対間違いようのない香りが、あかねの鼻腔をくすぐった。 「神子はいつも転んだり、落ちたりするのだな。」 抑揚がないように聞こえるけれど、その声には明らかに呆れと戸惑いが滲んでいることがわかる。 周りの人がどういおうとも、自分にはこんなにもはっきりとその人の感情が伝わってくる。 「泰明さん!」 あかねは思わず声をあげた。 なぜなら。 泰明の腕は抱きとめる、というよりも、あかねの身体をしっかりと抱きしめていたから。 泰明の自分を抱きしめる腕の力があかねの心を激しく揺さぶった。 泰明に抱きしめられたかったから。 ずっと心は泰明にこうして抱きしめてもらいたかったから。 それが突然、思いも寄らない形で叶って、あかねの心臓は激しく動悸した。 あかねの瞳に思わず涙がこみあげてくる。 それは止めようと思っても止まらなくて、あかねは泰明の着物にしがみついた。 「やすあきさん・・・。」 泰明はあかねの髪をそっと撫でた。 指先から伝わる痛いほどの泰明の優しさを感じる。 「神子・・・。」 泰明は自分の腕の中に落ちてきた少女を愛おしく思わずにはいられなかった。 会わないと、しばらくは距離を置こうと決めていたのに、腕の中に愛しい少女がいれば容易く自分の理性などどこかへ消えてしまう。 それどころか今までのすべてを投げ打って、この少女を連れてどこか誰も知らない所へ行けたなら、などと埒もないことを考えてしまう。 「泰明殿。」 二人が我に返ったのは友雅のからかうような声であった。 あかねは慌てて、顔を上げて友雅のほうを見た。 「友雅さんっ!いきなり声をかけるのはなしですよっ!危ないじゃないですか!」 あかねはきっと友雅を睨んだ。 友雅は優雅に笑ってあかねを見た。 「藤姫に見つかったらまたお小言をもらうよ?姫君。まあ、本当なら泰明殿より私が神子殿を助けたかったのだけどね。ああ、そんなことより藤姫が探しているのだよ、神子殿。」 あかねはそれを聞くとギョッとした顔をした。 「わっ!藤姫と碁の約束してたんだっけ。」 あかねは一瞬名残惜しげに泰明の顔を見た。 泰明の呪いの施された秀麗な美貌には微かに優しさが滲んでいるのを確認して。 「泰明さん、ゆっくりしていってくださいね。」 あかねはそういい残すと、階を昇ろうとして足を止める。 雪の結晶のついた椿を一枝手折る。 「友雅さんが手折ったことにしておいてくださいね。」 そういうと、あかねはぱたぱたと藤姫の待つ別室へと駆け出していった。 残された友雅と泰明はお互いを見合った。 友雅は優雅に含み笑いをして。 泰明は無表情に。 口を開いたのは友雅だった。 「左大臣様もお人が悪い。」 くっと友雅が笑った。 「心配する必要はないよ。左大臣様から聞いているから。だからこうして私が供に来ているのだからね。」 友雅の言葉に泰明が訝しげに眉宇を顰めた。 宇治へ出立するときの晴明の言葉を思い出す。 どうやら左大臣も晴明も泰明の決意など露ほども思っていないのか、しばらく二人が距離を置いていれば(距離を置いたのは泰明なのであるが)会うことができるように算段をするらしい。 泰明は溜息をついた。 何よりこの左大臣と晴明の謀に友雅まで加わっていることが情けない。 それほど自分は晴明や左大臣にとって子供なのだろうかと思うと情けなくなってくる。 「そんなに落ち込むものではないよ、泰明殿。よいお師匠ではないか。左大臣様は父として神子殿をお世話して差し上げたい、という親心というもの。」 友雅はふふ、と笑うと泰明をしげしげと見た。 恋をする男というものはいつも悲しい存在だねえ、などと思いながら。 「恋すてふ・・・。」 友雅はつぶやくと、そのままついと泰明を置いて邸内へ姿を消してしまった。 その場に残された泰明は友雅の歌の意味がわかると苦笑した。 だからこそ、今は。 泰明は仕事に取り掛かるべく、符を懐から出した。 もどる 次へ |