蝶戀歌11 のもとに美しい衣や装飾品が届いたのはそれから間もなくのことであった。 孫権、呉国太、喬国老らからのささやかな祝いの品である。 正式には荊州に戻ったときにお披露目、となるのであるが、孫権主催でささやかな宴も行われた。 その席には陸遜をはじめ数多の文官や武将らが招かれていた。 はその間中、趙雲に寄り添い、招かれていた文官や武将のほうへ申し訳程度の挨拶のみで、あとはちらりとも見ようとしなかった。 否。 見れなかった。 陸遜を見るのが怖かったからである。 呉国らしい、軽やかで柔らかな生地を幾重にも重ねた衣がのほっそりとした身体をまとって、は落ち着かなかった。 恥ずかしげに瞳を伏せて趙雲の側に寄りそうを、劉備も孫権も孫尚香も、みな嬉しそうに、楽しそうに見る。 いつもはひとつにまとめた髪も、優雅に結い上げ、歩揺の簪をいくつも挿し、こぼれそうなほど花が飾られ、頒布(ひれ)にひとつふたつ落ちている様は、美女で名高い貂蝉もかくやというほどであろう。 孫権などは惜しそうな顔をしているのもは戸惑わずにいられない。 劉備と孫尚香の婚儀の前の、ささやかな宴であった。 宴が終わって、は孫権に呼び止められた。 側には陸遜が控えている。 「、養父殿にお会いしなくてよいのか?」 孫権の言葉にははっとして顔をあげた。 養父の前丹陽太守の呉m。 懐かしく、大好きな養父である。 乱世のこの世、すでに太守の座を退いたという噂を聞いただけで、その後どうなったのかはは知らなかった。 丹陽に生きて残っているのか、この乱世において死んだのか。 袁術のもとから戦の混乱に紛れて逃げ出したとき、真っ先に向かおうと決めたのは故郷の丹陽である。 養父のいる確証は何もなかったが、それでもにとっては懐かしい土地である。 「呉m殿は今建業にいらっしゃる。しかし身体を壊されてあまり容態が思わしくはない。もしよければ会いに行ってやらないか?」 の顔色が変わった。 養父の容態が思わしくないと聞いて。 「孫権様、お養父様は・・・ご病気なのですか?」 孫権は難しい顔をした。 「病気・・・らしい。私も呉m殿がここ建業にいると先ほど知ったばかりなのだが・・・。呉mはそなたを袁術にもとに送り出してから、ひどく後悔されて何度も袁術にそなたの返還を要請していたんだが、聞き入れられなかったそうだ。あるとき心の病を起こされたそうで、周瑜のすすめもあって建業にお越しいただいたらしい。」 そこから先は陸遜が言を継いだ。 「都督がずっとこちらでお世話されていたようです。ただお忙しい身であるので、建業に来た折にしかお顔を合わせられなかったようですが。実はあなた方が建業に来ていると都督にお知らせをしたとき、殿が建業にいるのなら、養父殿に合わせてやって欲しいと都督から先ほど使いが戻った次第です。」 陸遜の声は事務的だった。 でもには気がつかない。 周瑜が自分の養父の世話をしていたと聞かされたからである。 確かに周瑜の叔父と呉mは仲がよかった。 だからといって世話をするものであろうか。 はじめて周瑜の心を知ったような気がした。 待っていたのだ。 ずっと、ずっと。 が戻ってくるのを。 義父ともなるはずだった呉mの世話をしながら。 は涙が零れた。 期待に応えられなかった自分を恥じて。 「、気に病むことではない。そなたが幸せであれば周瑜も呉m殿もきっと満足なのだから。亡くなった兄上も、私も、尚香も、みなそなたの幸せを願っている。そう、そなたが尚香の幸せを望むようにな。」 孫権の言葉はどこまでも優しかった。 頒布で目頭を押さえ、は首を振った。 自分の、自分の望む道を選んだ。 これがその罰なのだ。 周瑜を傷つけ、養父を苦しめ。 そして小喬を苦しめ、喬国老を、大喬を、孫策を、孫権を、孫尚香を。 呉にいる人たちを傷つけて苦しめた。 自分で自分の道を選ぶことを決めたのに、その代償はあまりに大きかった。 「そなたが幸せであればそれでよい。顔を見せてやれるな?。」 孫権の言葉には頷いた。 なんという大きな代償。 愛する人を手に入れるために、自分はなんとたくさんの人を苦しめたのだろう? 「呉m殿は周瑜殿のお邸の近くに居を構えています。明日、私がご案内いたしましょう。都督殿からの指示を受けていますので・・・。あなたの背の君もご一緒に。」 陸遜はそういうと離れたところで劉備と談笑している趙雲をちらりと見遣った。 冷たい視線だった。 その晩、は眠れなかった。 自分の選んだ道によって、誰かが傷つき、誰かが悲しむこともあるのだと、改めて気がつかされて。 考えれば考えるほど思考は無限の螺旋を描く。 はそっと起き上がった。 手近にあった衣を羽織ると窓辺に立った。 そのとき青白い月明かりに照らされて、趙雲がじっとの部屋を見ていた。 は驚いて窓辺から身を乗り出した。 「趙雲?!」 趙雲は驚いてを見上げた。 そしてくすりと笑うと手を差し伸べた。 「おいで、一緒に月を見よう。」 この趙雲の言葉にはぎょっとした。 ここは2階である。 つまり高さがあるのだ。 いくら屈強な武将といえども、が降ってきては趙雲とて無事ではない。 はおろおろと部屋を見て、趙雲を見て、を繰り返した。 部屋の扉の向こうには護衛兵たちがいる。 多分自分が出て行っても何も言われはしないだろうが、やはり心配してどこへ行くのかとか聞かれるであろう。 それでなくとも先日はひとりで城下へ出て怪我をするという羽目に陥ったのであるのだから、お役目大事の彼女たちがいくら趙雲と一緒といえどいい顔をするとは思えない。 しかし趙雲の微笑みと差し伸べられた腕を断るには、は趙雲を好きになりすぎている。 「受けとめますよ。だからおいで。」 趙雲の言葉にはためらう。 ためらってそして。 そっと足を窓辺にかけた。 ふわっ 月光に照らされて空から舞い降りた月の姫さながらに。 は見事趙雲の腕の中に収まった。 「大丈夫だったでしょう?」 趙雲の言葉には頬を染める。 何もかも。 のすべてを受け入れて温かく包んでくれる人。 は小さく頷くと趙雲の胸にほお擦りをした。 「、忘れないでください。私はあなたがたとえこの呉に残りたいと言っても、私は決してそれを許さない。泣き叫ぶあなたを連れて荊州に帰ることをなんとも思っていません・・・。それほどに私はあなたを愛しています。きっと、あなたが思う以上にずっと・・・。」 は顔を上げた。 「もしあなたがこの呉で周瑜殿の妻としてのあなたとはじめて会ったなら、私は誰の怒りを買おうともあなたを攫ってるでしょう。あなたが誰を愛していようとも。」 趙雲の表情は真剣だった。 わずかに憂いを含んだその瞳には揺るがない意志の強さが表れている。 趙雲の言葉には思わず首に手をまわして抱きついた。 「私は私の大切な人たちを傷つけてきてしまったわ・・・。いつか私はあなたを傷つけるかもしれない。それを思うと私はたまらなく怖い・・・。私はあなたにそんなに想われるような資格などない・・・。」 の震える言葉に趙雲は折れそうなほどの細い体を抱きしめる。 「あなたに傷つけられて殺されるなら本望ですよ・・・。」 趙雲の言葉にが周瑜とのことを思い出す。 を殺そうとした周瑜。 死の近い周瑜。 もしかして周瑜は・・・? は涙が溢れて止まらなかった。 「そんな・・・、そんなこと言わないで・・・。」 私はあなたにそれほどまで想われる資格などないのだから。 「生き抜いて。殿の拓く未来を、あなたの腕で確かなものにして。死ぬなんて絶対に許さないから。私のために死ぬなんて絶対に許さないから。」 劉備の拓く未来に趙雲は欠かせない存在だろう。 でもはどうであろうか? 呉との縁の深さゆえに、劉備を、趙雲を危険に晒している今の状態。 一触即発の、衣の下に互いに刃を隠し持っているようなこの緊張状態。 この状態をもたらしたのは他ならぬ自分。 すべての元凶は自分であるような気がしてならない。 「諸葛亮様が私を殿の供に、と命令されたのはどうしてだかわかりますか?私は殿を、を、すべてを守って無事に役目を終えて荊州へ帰還できると確信されているからです。だから私はあなたのためにも、殿のためにも、絶対に死にません。私はあなたを、殿を連れて荊州へ帰るのですから。」 宥めるように趙雲がの背中を撫ぜる。 こんなにも儚く、消えそうなほどに。 細剣を振るう姿とはまったく別人のようながそこにはいる。 いつも背中を預けて戦ってきた。 けれども彼女のなかには誰も拭うことのできない不安があって、それが彼女を苛んでいる。 を抱きしめながら趙雲は周瑜や陸遜が脳裏浮かぶ。 あの彼らの冷たい表情の裏に、呉の現在と未来の智将はどれほどの情熱を秘めているのだろうか。 を不安に思わせるほどの、何もかも焼き尽くさずにはいられないほどの情熱を。 朝も昼も夜も。 が不安に感じる暇などないほどに彼女を抱きしめていたかった。 どこかに閉じ込めて、自分だけを見つめて、彼女だけを見つめて。 愛しているという言葉だけではなんと足りないのだろうか。 心を推し量ることなどできはしないけれど、彼女の心に一部の隙もないほどに愛を注ぐには、現実はあまりにも狭量である。 今の彼らには劉備と孫尚香の婚儀のあと、どうやって呉を脱出するかを考えなければならないのだから。 陸遜の案内で、周瑜の邸のすぐ近くにある呉mの居である邸についたのは昼下がりのことだった。 趙雲とともに馬に相乗りし、訪れた邸は閑静な住宅街といった感じである。 使用人に案内されて呉mの部屋へと訪れる。 臥牀に背をおこしてもたれているその姿はかなり弱った姿ではあっても、間違いなくの養父であった。 「お養父様っ!」 は臥牀に駆け寄った。 呉mは両目に布を巻いていた。 使用人の話によると、目の痛みを先日から訴えられすでに視力はなくなっていると医師の診断がなされていたそうである。 病によるものだとの診断である。 「・・・、まさか・・・。」 呉mが骨ばった手をの方へ、声のしたほうへと手を伸ばす。 は伸ばされた呉mの手を握り、ほお擦りした。 の流した涙で呉mの手の甲が濡れる。 「親不孝をしてしまい、本当に申し訳ありませんでした・・・。は生きてお養父様にお会いできるとは夢にも思っていませんでした・・・。本当に、本当に嬉しいです。」 呉mを引き取って面倒をみてくれていた周瑜に感謝する。 周瑜の好意がなければ、こうして再び親子が再会することは困難だったであろう。 呉mは袁術に組したものとして、この呉で迫害を受けても当然だったのであるから。 久しぶりに親子はゆっくりと話をした。 が劉備に仕える武将となったこと、趙雲という背の君をもったこと。 孫尚香が劉備と結婚すること、など色々と。 そして日も落ちようというときになって。 部屋には二人っきり、陸遜も趙雲もいない。 「、誰がおまえの背の君なのか?」 呉mの言葉には驚く。 「趙雲よ、お養父様?」 呉mの言葉の意味が掴めず、は小首を傾げた。 「・・・そうか。それならいいんだ・・・。」 呉mはそっと両の目にかけられていた布をはずした。 「目が見えなくなると、今まで見えなかったものも見えてくるものだ。、心眼を大切にしなさい。」 もう開かない呉mの目。 ははっとした。 揺れているの心を呉mは見透かしたのであろうか。 そして呉mは懐から小さな玉を取り出した。 そしてその玉をにそっと握らせる。 「汝後悔する事勿れ。」 呉mの視線は真っ直ぐに射抜くようで。 「私は今お前に枷をつけた。後悔するなというのはある意味非常に厳しい言葉だ。なぜなら人生後悔ばかりだからだ。しかしそなたは絶対に後悔してはならぬ。お前はお前の道を選んだのだ。だったらその選んだ責任を最後まで負いなさい。絶対後悔はしてはならぬぞ。」 は目を見開いた。 後悔してはならない。 意味がわからなかった。 ああすればよかった、こうすればよかった、と考えてはいけないということなのであろうか。 「それが自分で道を選ぶものの責任だ。」 呉mがの手を握る。 その手は力強く、切なる願いが込められているようで。 不意に扉を叩く音が響く。 続いて涼やかな声音も。 「殿、そろそろ日暮れです。夜道は危険ですから早めに城へお帰りください。」 陸遜の声だった。 親子の会話に水をさすことを承知しながら、控えめに、しかも有無を言わせぬ声音であった。 「お義父さま・・・。」 呉mの手がの手を離す。 「愛しい娘よ、そなたは大人になった。私の手を離れたのだ。もう二度と会うことはないであろう。だが私との約束を忘れてはならぬぞ、その玉にかけて。」 は手の中の玉と呉mの顔を見比べた。 背の君を持つということ。 それは親のもとから離れるということなのだと、その形見として渡されたのがこの玉であるのだと、はようやく理解する。 そして涙を零した。 二度と会うことがないと。 なぜそのような悲しいことを義父はいうのであろうかと。 それは周瑜を選ばず、趙雲を選んだからなのであろうかと。 は小さく首を振った。 「また・・・、またお会いしとうございます、お義父さま・・・。」 兄のように慕った孫策を亡くし、義父までこのように自分を突き放すのかと思うとあまりにも悲しい。 呉に帰らなかったことで孫家一族から離れて故郷をなくしたような気になっていたが、義父の呉mからも別れを告げられて、は本当の意味での故郷を失った。 は呉mに縋った。 いつでもここに来ていいと、これからもずっと家族であり続けると、呉mにこそ言って欲しかった。 自分の大切な居場所。 呉mの義娘であることが。 「そなたは私の娘だよ、真実そう思っている。だが私はもう先は長くない。だからこれを最後だと思ってよく聞きなさい。心眼を大切にしなさい。心の眼の選んだ結果は後悔するものではないはずなのだから・・・。」 呉mの言葉はの胸には響かない。 ただひとり、無条件で自分を愛し、慈しみ、育ててくれた人。 その義父が背を向けた。 先が長くないと、そんなのには言い訳にしか聞こえない。 「いつかわかるときが来る。」 呉mの口元が悲しげに緩んだ。 いつかとは? 一体いつなのだろうか? 「、もうそろそろ・・・。」 部屋に趙雲も入ってきた。 先ほど声をかけた陸遜は壁にもたれてふたりのやりとりをどこか遠くに眺めているだけであった。 呉mがの手に乗った玉を包み込んで、に玉をしっかりと握らせる。 「そなたの母がそなたを私に託してくれたときに、お守りとして持たせたものだ。そなたの行く先を照らすであろう。」 はそっと手を開いてその玉を見た。 薄紅色の柔らかな色彩の美しい玉であった。 「自分を大切にしなさい。」 趙雲がそっとの側によって肩を抱いた。 「幸せにします。」 頭を下げた趙雲を呉mは遠くを見るような眼差しで微笑んだ。 その眼差しを趙雲は不思議な思いで見た。 まるで期待などしていないように思えて。 「いきなさい、そして二度と私のもとに来てはいけない。」 小さな、小さな、ささやくような寂しい声音。 しかし趙雲の耳には届いていた。 には聞こえていただろうか? 趙雲はなんと答えていいのかわからず躊躇する。 とおい眼差しの呉m。 誰よりも娘の幸せを願っているはず。 開いたままの扉の向こうには護衛兵であるの供が何人か心配そうに右往左往している。 趙雲はの肩を抱いて扉の向こうの護衛兵へとを任せた。 そして再び呉mの枕元に来る。 呉mの表情は冷たく厳しかった。 「私が冷たいといいたいのであろう?だがな、趙雲といったか、幸せというのは与える物でも与えられる物でもない。自らが感じることなのだ。あれが幸せを求めて劉備殿のもとへ馳せ参じ、そなたと契りを結んだのであれば、あれの幸せなのだろう。他者がどんなに何かをお膳立てしてもそれはあれにとって幸せなことではない。だから趙雲殿、あれが幸せだと思えるようにあれを受け入れてやって欲しい・・・。」 苦しそうに呉mが息を継ぐ。 「私のもとに帰ることができるなどと甘ったれた考え方を改めさせてやってくれ。あれが選んだ道なのだ。死の近い私はあれにはもう何もしてやれない・・・。かえってあれを苦しめるだけだ。」 ぽつり、と呉mの手の甲に涙が落ちた。 愛娘を突き放して悲しくない親などいるであろうか。 趙雲ははっとした。 は選んだと言った。 選ぶということはすなわち責任を持つということだ。 趙雲はそっと瞳を閉じた。 「が私を選んでくれたように、私もを選びました。もう何も心配しないでください。が私を選ぶと言ったのですから。」 呉mは言葉なく頷いた。 手の甲を涙で濡らしながら、その骨ばった頬を涙で濡らしながら。 その様子を陸遜は視界の端で見ていた。 ――が選んだ男。 忌々しい思いだけが陸遜の胸を焦がす。 腕の中の彼女はあまりにも儚げで、柔らかく、その微笑は天から舞い降りた天人のようで。 ――なぜ呉m殿は心眼を大切にせよとに言ったのでしょうか・・・。 心眼が大切なことはもちろん陸遜だってよくわかっている。 同じ武将であるだってよくわかっているはずのことである。 それをあえて言った呉m。 呉mは何が言いたいのであろうか? 聞いてみようと思ったが、案内役だけの自分が首を突っ込むことは躊躇われた。 ふと視線をあげると呉mがまっすぐに陸遜を見ていた。 陸遜は驚いて目を見開いた。 その視線はさながら射抜くような視線。 何も見えていないはずなのに。 その両の目からは光が失われているはずなのに。 「案内役、ありがとうございました・・・。」 陸遜が自分に気がついたことを悟って、呉mが臥牀の上で深々と頭を下げた。 「い、いえ・・・。それではお身体を大切にしてください。」 陸遜はとってつけたようにそういうとくるりと背をむけて部屋を出て行った。 いつのまにか趙雲はに寄り添っている。 陸遜は鼓動が早くなるのを感じた。 ――見透かされている? 今までにない居心地の悪さを感じる。 誰も自分のこの思いなど知らないはずだった。 誰にも漏らしたことも、気がつかれたことなどなかった。 あの周都督にすら気づかれていないのに。 それともあのような出来事のあとで、いつの間にかを見る自分は熱っぽい眼差しで彼女を見ていたのであろうか。 今は劉備を討てるかどうかの緊張の時。 をどうこうする前に、この緊張状態をいかに綱渡りするかということに賭けられている。 陸遜はを手に入れたいひとりの男である前に、呉の武将であり、智将であった。 次代を担う若き軍師であった。 劉備と孫尚香の婚儀が行われた。 劉備が趙雲とを連れてこの建業に来てすでに半年を経とうとしている。 「それでね、劉備様の驚いた顔ったら!」 孫尚香がきゃらきゃらと笑う。 それもそのはずであろう。 孫尚香は弓腰姫と呼ばれるのは伊達ではない。 彼女も、彼女の侍女たちもすべて武芸に秀でており、彼女の部屋には武具が所狭しとならんでいるのだから。 もちろんそれを知っているのはだからこそであるが。 「あまり殿を驚かさないでくださいね。でも見たかったかも、その殿のお顔。」 がくすくすと笑う。 「あら!だって趙雲が驚いたんじゃないの?どうせ枕元に剣とかいつも置いてるんでしょ。」 孫尚香がにやりと笑う。 途端が真っ赤になってそっぽ向く。 「・・・短檄もです・・・。」 どうにも孫尚香のことは笑えないと自分でも気がつく。 の言葉に孫尚香が一瞬きょとんとした表情をしたかと思うと、はじけるように笑い出した。 「そっかー、短檄もできたんだっけ。うん、すごいわ!」 は恥ずかしそうにそっぽ向く。 「でも驚かれませんでしたもの。」 つん、とが言う。 孫尚香は一瞬ぽかんと口を開いた。 改めてが趙雲と契りを結んだ仲なのだと改めて聞かされたようで、今度は孫尚香が顔を真っ赤にした。 「あはは、あ、いや、あ〜、そうだよね、あはは・・・。」 苦し紛れに笑って孫尚香がごまかす。 二人ともお互い顔を赤くして俯いた。 しかし、そんな和やかな雰囲気の中で、も孫尚香も鋭い視線を感じていた。 「あ、ね?私の私室にこない?結婚祝いでおもしろいものとかもらったからに見せてあげる!」 孫尚香がぱっと顔を輝かせての手を取った。 「あ、でもそんな姫様のお部屋になど私のようなものが・・・、」 「何いってるのよ!さ、行こう!」 の思慮深い辞退をものともせず、孫尚香はを連れて自室へと引っ張っていった。 あたりの様子を伺うように孫尚香が扉を閉める。 そして窓を見る。 梢に人影が一瞬走る。 「こっちの衣装部屋にあるのよ、さ、来て!」 孫尚香が窓のない衣装部屋へと連れて行く。 衣装部屋とはいえど、結構広く、婚礼衣装のほか、武具の類、婚礼祝いの品々が所狭しと並んでいる。 「劉備様はなんておっしゃってるの・・・?」 声音を低くして孫尚香が呟いた。 も俯く。 「離れがたい、と・・・。殿も孫尚香様を愛していらっしゃいますから・・・。」 が苦しそうに呟いた。 先ほどから二人の周りにいた人影は孫権がつけた斥候である。 劉備が脱出するそのときを狙って討つつもりなのである。 「私も・・・、私も劉備様と離れたくない・・・!」 孫尚香は苦しげに呻いた。 婚儀をあげる前まではこのようなことはなかった。 しかし劉備は荊州を治めており、自分は呉の姫である。 劉備がこのまま呉に留まればよし、荊州へ帰ろうとしたならば討つ、と孫権は決めているようである。 「でも姫様は呉の姫・・・、荊州にお連れするわけには・・・。」 は孫尚香の背を撫ぜた。 本当なら孫尚香を荊州に連れて行きたい。 しかし、それは孫権の怒りを二重に買うことになる。 せっかく婚儀をしたというのに、すぐに別れてしまうことが悲しい。 「、私、劉備様についていきたい。ねぇ、私も荊州に行っちゃだめ?」 孫尚香が顔をあげた。 弾くようにが首を振る。 「なりません!そのようなことをしたら呉国太様はじめ、皆様とても悲しまれます!それに・・・、」 は言いかけて口を噤んだ。 荊州への期間は逃亡といってもいい。 人数が少なければ少ないほど目立たない。 孫尚香を連れての荊州逃亡はには不可能に思われた。 「だって、こうしててもいつも見張りがこの城についてるわ。私が一緒でなければ多分あななたちこの城すら出られない・・・。」 その通りだった。 わずかづつではあるが、商人などに紛れ込ませて共に従った兵たちを脱出させてはいるが、自分たちが城外へ出ることはかなり難しいような状況である。 さらに報告には近々周瑜が表向き孫尚香の結婚祝い、その実劉備たち一行をどうにかするつもりで建業に戻ってくるらしいという情報まで入っている。 まさに四面楚歌の状態である。 事態は刻一刻と深刻化していた。 「もうすぐ元旦だわ。私、母様に会いに行く。母様は今建業のはずれ、長江近くに居を構えていらっしゃるの。そこから劉備様の祖廟に遥拝しに行きましょう。元旦だし、劉備様のもとに嫁いだ身、劉備様の祖廟を遥拝するとしてもおかしくないわ。」 なるほどその通りである。 気がつけばもうそんな季節になっていたのだ。 「そしてそのまま・・・?」 の言葉に孫尚香が頷いた。 「母様にご挨拶をしてから行くというのがミソね。これだとどんな言い逃れでもできるわ。追捕がきても追い返すこともできる。」 孫権は呉国太に弱い。 呉国太がこういった、ああいった、と言えば呉候である孫権が命を下して追捕しても、追捕してきたその将は呉国太の言に従わざるを得ないのだ。 「ありがとうございます、孫尚香様・・・!」 は深々と頭を下げた。 自分たちだけではこの城を脱出することすらできないであろう。 「周瑜が帰ってくる前になんとしてでも脱出しなくちゃね。」 は一瞬脳裏に冷たい表情の美周郎が浮かんだ。 孤独な周瑜。 死の近い周瑜。 彼は妾の小喬すら遠ざけて柴桑で水軍の指揮を揮っているという。 「元旦に一旦水軍は建業に来るの。呉候である権兄さまに挨拶に来るのよ。多分周瑜はそれを率いてくるから、元旦過ぎにしか周瑜は来ないはず。」 ふたりは大きく頷いた。 そしては趙雲にそれを告げ、孫尚香が劉備にそれを告げる。 決行の日は決まった。 そして元旦がやって来る。 孫尚香は輿に乗るようにと孫権が輿を用意させていた。 劉備は馬に、趙雲とにいたっては徒歩である。 もちろん孫尚香はそれを見越して、事前に母呉国太のもとに逃亡にふさわしい馬と武具を用意させていた。 「本当に荊州に行くの?」 呉国太の言葉に孫尚香が頷く。 「私は劉備様に嫁いだ身です。劉備様に従うことこそ妻の務め。たとえそれがいかに苦難の道であろうとも、私はつき従います。」 孫尚香の視線はどこまでも真っ直ぐで晴れやかだった。 呉国太は折れた。 そして一行に帰還準備をさせると荊州へと娘を送り出した。 途中、呉国太のつけた護衛たちもが同行する。 そして。 それは孫権のもとへと報告された。 「なんだと?!」 孫権は烈火の如く怒った。 孫尚香も孫尚香なら、その行為を助長した呉国太も呉国太である。 孫権は間に合わないと感じながらも急いで追捕の兵を送った。 しかし、すでに呉国太のもとで馬に乗り換えて長江河畔を一気に下る劉備たちにはなかなか追いつけない。 孫権は鷹匠を呼ぶと、柴桑で出発準備にあたっているはずの周瑜へ鷹を使って文を託した。 挟み撃ちにするつもりなのである。 「しかしこの時刻であればすでに周都督は水軍を建業へ向かって走らせております。挟撃は無理でございます!」 鷹匠は震えながら答えた。 元旦になれば柴桑の水軍は建業目指して出発をする。 元旦らしく華やかに飾りつけを施し、呉の威厳を、威容を長江河畔に見せ付けながら。 孫権はイライラと手にしていた杯を投げつけた。 硝子製の美しい瑠璃色の杯が粉々に砕ける。 「なんとしてでも追え!」 孫権は怒りに震えながら各々の武将に声をかけた。 その様子を陸遜は何も感情の感じられない表情で物影から見ていた。 彼は追う気などなかった。 追ったところで彼らは捕まらないであろう。 孫尚香も、も、孫権が思う以上に洞察力があって思慮深い。 ただ心配なのはのことであった。 陸遜が個人的に情報を得ている兵から気になる情報を得ていたからである。 周瑜が柴桑を出ていないらしいと。 どうやら水軍を率いているのは甘寧であるらしいとの情報が入ってきていたからであった。 元旦の日、孫策の弔問すらまだしていない周瑜が建業に訪れないのはあまりにもおかしい。 何かの間違いなのかもしれない、と思って孫権には言い出せずにいた。 孫権は必ず周瑜が建業に来ると思っているから、この情報は嘘だと、何かの間違いであると捉える可能性のほうが高い。 陸遜はしばし考えた。 なぜ周瑜は建業に来ないのか。 あれほど渇望したがいるのに。 それとも周瑜に何か考えがあるのだろうか。 いくら考えても陸遜には思い浮かばない。 そうであろう。 周瑜はそのときひどい喀血をしたあとだったからである。 「急ぎましょう!」 先頭にはと孫尚香、劉備。 最後尾には趙雲。 すでに脱出させていた兵士らとも合流を果たし、劉備たち一行は長江河畔をくだっていった。 もちろん柴桑を出発した周瑜たちの水軍に出会う可能性があるため、目立たぬように、森の中を、山の中を潜り抜けながらの逃亡である。 「うまくいきそうね!」 孫尚香は口元が綻んだ。 元旦でなければ周瑜と孫権との挟撃を受ける可能性は十分高い。 この街道を越えれば劉郎浦である。 荊州はもう目と鼻の先である。 街道の両側は崖になっており、急な斜面である。 それを必死になって馬を走らせる一行。 斜面を登りきったときだった。 は前方に人影を見て思わず馬を止めた。 「っ?!どうしたの?」 孫尚香がの馬に馬首を並べて止まる。 が息を呑んで前方を睨む。 その様子に孫尚香がの視線の先を見た。 そして。 「ここから先はこの周公謹が相手だ。」 すらりと古錠刀真打の刃先が光る。 長い髪がさらりと揺れて。 不意に周囲に殺気を感じて孫尚香が崖を見上げた。 いつの間にか崖の上には弓矢を番えた弓兵たちが自分たちを両側から狙っている。 「ここを通して・・・!」 が震える声で周瑜に言った。 ざっと周瑜の後ろからも兵たちが現れる。 夕闇迫るこの街道で、はすらりと細剣を抜いた。 この苦境を乗り越えて見せる! どうしてここに周瑜が?(周瑜エンドへ) |