柴桑の陽だまり(蝶戀歌番外編 周瑜編)
ここで周瑜を倒さなければ、この先へ、荊州へと帰還はできない。 周瑜は自分と決着をつけることを望んでいる。 そう考えては下馬したのである。 劉備や孫尚香が慌ててそれぞれの武器を構えようとした瞬間、矢が一本、護衛兵の騎乗する馬の首を貫いた。 それに驚いて孫尚香も劉備も、従う護衛兵たちもみな息を呑む。 は背筋にひやりと冷たいモノが走る。 周瑜は本気でここで戦おうと、ここを通すまいと、今ここに来ているのだと改めて認識する。 孫尚香がちらり、と背後を見た。 かすかな馬の嘶く声がした。 同時に槍が降る矢を次々と叩き落とす音。 瞬時に孫尚香の瞳に希望が宿る。 趙雲がこの場に来てくれる。 と運命を共にするものが。 「っ!今・・・!」 孫尚香が趙雲の気配を感じて声をかけた。 その一瞬だった。 孫尚香の声に気を取られたがわずかに視線を逸らしたその瞬間。 周瑜が懐からの細剣の柄に向かって小刀を投げつけ、あ、と思う間もなくは剣を取り落とし、そして気がつけば周瑜に抱え込まれるように古錠刀真打の刃をその白い喉もとに当てられていた。 そしてそれが趙雲の視界に入るのは同時だった。 「っ!」 驚いた趙雲が慌てて手綱をひく。 「趙子龍か。呉国姫を攫った逆賊に仕える忠臣・・・。」 周瑜が薄く笑う。 「姫、挟撃されることを見越してこの時期に脱出を決めるその洞察力、お見事です。さすがは弓腰姫。そして母君をも丸め込んだのでしょう。でなくば呉候はあなたがたを建業からみすみす脱出させるわけないですからね。」 周瑜の腕の力が強くなる。 は思わず喘いだ。 趙雲の視線が鋭くなる。 「所用で水軍には参加せずところ、呉候より連絡を受けたのです。」 の白い喉にちりっとした痛みが走る。 薄く、わずかに古錠刀真打の刃がの喉の皮膚を裂いたのである。 趙雲が怒りに思わず目をむく。 その槍を握る手が白くなる。 周瑜と趙雲の睨みあいが続く。 その最中、孫尚香はちらり、ちらり、と崖の上の弓兵の姿を見ていた。 見覚えのない鎧姿が気になっているのだ。 ――呉の兵ではない・・・? いや周瑜に従っているのであれば呉の兵であるには違いない。 しかし呉の兵を見慣れている孫尚香には何故彼らが呉の鎧を纏っていないのか、それが気になったのである。 そしてはっとする。 わずかに目を細めて周瑜の後ろに槍を構えている護衛兵を見る。 見たことのある人物であった。 「校刀手・・・。」 孫尚香が怒りに思わず肩を震わす。 「ほう、姫、ようやく気がつかれたか。」 周瑜が揶揄するように哂った。 校刀手(シャオトーソー)、つまり私兵である。 群雄割拠のこの時代、兵の多くは校刀手が非常に多い。 劉備に従う趙雲たちも、ようは校刀手みたいなものである。 何せ天子は魏が奉じていて、それ以外に仕える兵は校刀手なのだからである。 しかしそれはそれなりに統率があって、周瑜が呉候、孫権の配下である以上、周瑜の校刀手は呉の兵力のはずである。 この場合、軍費は呉候が出す。 しかし、呉の兵でありながら周瑜にしか仕えない、校刀手もある。 彼らは周瑜の命によってしか動かず、周家に仕える郎党なのである。 軍費は周瑜が出している。 彼の実家は裕福なため、このような私兵を雇うことも十分可能なのである。 「なかなかやってくれるじゃない、あなたの校刀手はすべて権兄様の配下となっていたと思ったわよ。」 孫尚香が怒りを唇に乗せる。 「私とてもちろんそのつもりでしたよ。しかし私の意志とは裏腹に、私だけに仕えてくれるものもいるということですよ。」 周瑜が酷薄に哂う。 私兵を使ってここにきたということは。 力強い腕にきつく締め上げられて、の意識が朦朧としてくる。 霞みそうになる意識のなかで必死に頭を働かせる。 周瑜は呉のために動いたのではない。 それは孫尚香が怒りに肩を、唇を震わせていることでなんとか理解する。 しかしそれを改めて認識してはますますわからなくなった。 「通して、周瑜。あなたは権兄さまに命令されたからここに来たんじゃない、を攫いにここに来たんでしょう!」 孫尚香のヒステリックな叫びがの耳にこだまする。 ――ああ、そうだ。 は目を瞑った。 校刀手を連れてここで待ち伏せをした周瑜。 それは目的が周瑜自身の目的があるため。 呉候の妹姫、孫尚香を連れ戻すことなど彼の目的ではないのだとようやく理解する。 ――私は・・・今の私は・・・。 はきつく目を瞑った。 何故気がつかなかったのだろう。 いや気がついていたかもしれない。 「・・・行って・・・。」 は消え入るような声で告げた。 周瑜がちらり、とを見て薄く哂う。 「その通りだ、。そなたがここに残るのであれば、姫、私はあなたを見なかったことにしましょう。」 周瑜の言葉に孫尚香がきりっと唇を噛む。 「できぬ!」 劉備がさっと剣を抜いて一気に周瑜へと突進する。 「いけません!殿!」 劉備の突然の行動に趙雲が制止するも遅く、劉備の動きにあわせていっせいに弓兵から矢の雨が降らされる。 孫尚香は手にしていた日月乾坤圏で、趙雲は劉備を庇って転がるように馬から下りて岩場の影に隠れる。 「周瑜、やめて!」 は叫んだ。 の叫びに満足するはずもないのに、周瑜はちらりと崖の上の弓兵を見て合図すると、弓は一斉に止んだ。 幸い矢の雨にさらされながらも、劉備の馬も趙雲の馬も無事である。 気がつけば周瑜の腕はを抱く力をわずかに緩めていた。 は泣きたくなった。 どうして、と思う。 「孫尚香様・・・、殿、趙雲・・・行って・・・行ってください・・・、私はここに・・・ここに残ります・・・。」 の言葉に皆が言葉をなくす。 「よく言った、。その通りだ。を置いていけば私はあなたがたを見なかったことにしよう、ふたつにひとつだ。この場を武力でもって通るのであれば、我が校刀手を相手にしていただく。」 周瑜の言葉に孫尚香が震える。 「何も言わず、何も聞かず、どうぞ先へ行ってください。私が孫尚香様に、殿に、今できるのはこれだけです。お願いです、趙雲、この先もお二人を守ってどうか・・・、」 は趙雲を見た。 岩場の影から劉備を庇うように出てきた趙雲の頬はわずかに矢傷を負って、血が滲んでいる。 趙雲はを見つめた。 お互い運命の人と、未来を誓い合ったばかりなのに、この事態はどうしたことか。 認めたくても認められない。 を置いていくなど絶対にできない。 しかし、この場でを取り返すとなると、あの崖の両側から狙っている弓兵たちの、容赦のない矢の雨が待っている。 それだけならまだしも、武将としてもかなりの腕前の周瑜が目の前にいる。 劉備を、孫尚香を、を守ってこの場を切り抜けることができるのか、趙雲にもわからない。 「行かぬというのならここで死んでもらうまで。姫、あなたもです。」 周瑜はちらりと腕を見た。 がさっと顔色を変える。 「やめて!やめて周瑜!!」 は暴れた。 いや暴れようとした。 「!」 不意に周瑜がの身体をさらにきつく抱きしめると、の唇を塞いだ。 趙雲が一気に殺気だつ。 それをおさえたのは劉備だった。 「やめろ趙雲、そなた犬死する気か!」 趙雲の槍を押さえる劉備が叱咤する。 趙雲はぶるぶると震えた。 愛する存在が今目の前で連れ去られようとしている。 そのことに趙雲は怒りで目の前が真っ赤になる思いだった。 あいかわらず弓兵は劉備、孫尚香、趙雲を狙ってきりきりと弓を引いている。 一触即発の状態だった。 「ありがとうございました、殿・・・趙雲、孫尚香様・・・。」 は涙で潤んだ瞳でそう告げた。 最後の別れのような言葉を。 「趙雲、本当に、ありがとう・・・。」 ――あなたを愛して、私は愛することを知ったわ。自由を知ったわ。そして人を愛する喜びも、悲しみも。 「行って、私は大丈夫だから。」 すでに周瑜の腕は緩んでいる。 逃げ出そうと思えば逃げ出せたのかもしれない。 けれど、は周瑜と真正面から向き合うことを選んだ。 もしかしたらずっと逃げてきたのかもしれない。 兄のように、憧れてきた美周郎。 「必ず見つけ出す!そして必ず私のもとに連れ戻す!」 趙雲は叫んだ。 劉備が、趙雲が急いで馬に乗る。 そして脇腹を蹴ると孫尚香も合わせて走り出した。 走り出したとたん、どこから現れたのか、さらに後方から弓をもった騎馬兵たちが現れて劉備たち一行を追いかけ始めた。 雨の如く矢を射掛け、彼らが後戻りできないようにしつこくあとをおいかけて矢を射掛ける。 はその様子を呆然とした面持ちで見ていた。 趙雲の最後の言葉に涙が零れる。 「、ここに、私のもとに残ると決めたのはそなただ。」 周瑜の腕が解かれる。 へたりこむようにが膝をついた。 その様子に周瑜が小さく溜息をつく。 護衛兵のひとりが周瑜の騎馬を率いて側までやってきた。 それに気がついて周瑜がを抱き上げる。 そのまま馬に横向きに座らせると、自分も跨った。 鎧を身につけ、戦に向いた軽装で、馬にもひとりで騎乗しているのに、横座りをさせる周瑜には羞恥を覚える。 「そなたは私にとって武将ではない。」 周瑜の言葉には俯いた。 いまさらながら羞恥を覚えざるをえない。 丹陽を出てから、ずっと武将として生きてきた。 さして長い時ではなかったはずだが、それでもにとって、それが日常になるほど戦場に身を置く自分をあたりまえのように思ってきた。 「今更・・・。」 は呟いた。 しかしそのあとが言葉にならない。 いまさらなんだというのだろう? 自分のほうこそ今更である。 結局周瑜を選んだのは、他ならぬ自分なのだから。 「あるべき姿に戻っただけだ。」 周瑜はそういうとの頭をそっと自分の胸元に押し付けた。 「飛ばすぞ、しっかりつかまっていろ。」 周瑜はそういうと馬の脇腹を蹴った。 大きく嘶いた馬が駆け出す。 は瞳が潤んだ。 けれど泣き声をあげることはできない。 連理の枝とも、比翼の鳥とも、ずっと趙雲とともに生きていくと思っていた。 けれど結局最後の最後で周瑜を選んでしまった自分の情けなさに。 後悔してはならない、義父の言葉が重かった。 今更殿、劉備のもとへ、趙雲のもとへ戻りたいとは思わない。 けれど、自分の心の弱さに自分で自分をもてあます。 それが涙になって、周瑜の胸元を濡らした。 「後悔はさせぬ。」 周瑜がを抱く腕に力を込める。 声もたてず泣くを哀れに思い、だからこそ先は短くとも絶対にに後悔をさせないと決意を新たにする。 死ぬためにを取り戻したのではない。 生きるためにを取り戻したのだから。 柴桑にある瀟洒な邸はもともと周瑜の邸だったのだとははじめて知った。 季節は春を迎えていた。 のとなりには周瑜がいる。 あれから周瑜は都督を降り、一線を退いている。 病状のことを孫権に奏上したのである。 湿気の多い南の建業ではなく、この荊州に程近い柴桑で、は周瑜と二人穏やかな時を過ごしている。 時折、周瑜の助言を請う呉の武将や文官たちが現れるが、それでも穏やかな時を過ごしている。 小喬は離縁をして喬国老のもとへ返されたらしい。 表向き、周瑜の病状が篤いという理由である。 実際に周瑜の病は重かった。 しかしは周瑜を看護しながら、穏やかな時をここで過ごしている。 「もうすぐ夏か。」 劉備が蜀の地からの救援を求められて、長江を上ったことを知った。 諸葛亮も一緒だという。 荊州は軍神関羽が守ることになった。 趙雲も諸葛亮に従って蜀へ行くことをは知った。 今でも胸が痛む。 本当に愛していたから。 真実、趙雲を愛していたから。 の様子に周瑜がをそっと抱きよせる。 「思い悩むな。身体に障る。」 周瑜の言葉にはっとする。 のお腹にはすでに周瑜との赤子が宿っている。 「早くこの乱世が終わればいいのに・・・。」 はお腹を撫でて呟いた。 どうかこの子は。 乱世などとは無縁な平和な世を過ごして欲しいと思う。 「そなたに、ずっと返そうと思って返していなかったものがある。」 周瑜は思い出したように、厨子を中を探った。 出てきたのは象牙でできた小箱である。 ふたをそっとあけると、金色の玉珥が入っていた。 「これは・・・!」 あの赤壁の戦いの折、この邸で周瑜と剣を交えた折になくしたあの玉珥である。 「返さねばと思いつつ時を過ごしてしまった。今更ではあるがこれをそなたに返そう。」 はその象牙の小箱を受け取った。 「私も、あなたに言ってないことがたくさんあるの・・・。私、あのときあなたが私を見てくれたこと、とても嬉しかった。心が躍ったの。私があなたの感情を乱させることができて、すごく嬉しかったの。だってあなたは・・・、」 は最後まで言えなかった。 ふさがれた唇に抵抗することも出来ず。 やがて唇が離れ周瑜がを抱き寄せる。 「私も知らなかった。私の中でそなたがどれほど大きなものなのか、そなたの姿を見ただけで、私はすべての理性を失ったのだ。」 離れてしまったから、再会してわかること。 自分でも認められず、気づかずに、どれだけ彼の人を愛しているかということを。 「この乱世の世で、再びそなたとめぐり逢えた・・・。私は今まで死ぬために生きてきたが、そなたと再会して私は思いなおした。私は生きたいと、そなたとともに生きたいのだと。」 何度も繰り返される啄ばむような口付けにはそっと周瑜の肩に手を回した。 何度も何度も。 どれだけ繰り返しても。 千も万も繰り返しても。 きっと私はこの人とめぐり合って、愛するのだと。 ――FIN |