蝶戀歌12
夕闇のせまるこの間道の坂の先に、古錠刀真打が不気味に光る。 は周瑜を睨みつけた。 騎乗していた馬をゆっくりと下りる。 ここで周瑜を倒さなければ、この先へ、荊州へと帰還はできない。 周瑜は自分と決着をつけることを望んでいる。 そう考えては下馬したのである。 劉備や孫尚香が慌ててそれぞれの武器を構えようとした瞬間、矢が一本、護衛兵の騎乗する馬の首を貫いた。 それに驚いて孫尚香も劉備も、従う護衛兵たちもみな息を呑む。 は背筋にひやりと冷たいモノが走る。 周瑜は本気でここで戦おうと、ここを通すまいと、今ここに来ているのだと改めて認識する。 孫尚香がちらり、と背後を見た。 かすかな馬の嘶く声がした。 同時に槍が降る矢を次々と叩き落とす音。 瞬時に孫尚香の瞳に希望が宿る。 趙雲がこの場に来てくれる。 と運命を共にするものが。 「っ!今・・・!」 孫尚香が趙雲の気配を感じて声をかけた。 その一瞬だった。 孫尚香の声に気を取られたがわずかに視線を逸らしたその瞬間。 周瑜が懐からの細剣の柄に向かって小刀を投げつけ、あ、と思う間もなくは剣を取り落とし、そして気がつけば周瑜に抱え込まれるように古錠刀真打の刃をその白い喉もとに当てられていた。 そしてそれが趙雲の視界に入るのは同時だった。 「っ!」 驚いた趙雲が慌てて手綱をひく。 「趙子龍か。呉国姫を攫った逆賊に仕える忠臣・・・。」 周瑜が薄く笑う。 「姫、挟撃されることを見越してこの時期に脱出を決めるその洞察力、お見事です。さすがは弓腰姫。そして母君をも丸め込んだのでしょう。でなくば呉候はあなたがたを建業からみすみす脱出させるわけないですからね。」 周瑜の腕の力が強くなる。 は思わず喘いだ。 趙雲の視線が鋭くなる。 「所用で水軍には参加せずところ、呉候より連絡を受けたのです。」 の白い喉にちりっとした痛みが走る。 薄く、わずかに古錠刀真打の刃がの喉の皮膚を裂いたのである。 趙雲が怒りに思わず目をむく。 その槍を握る手が白くなる。 周瑜と趙雲の睨みあいが続く。 その最中、孫尚香はちらり、ちらり、と崖の上の弓兵の姿を見ていた。 見覚えのない鎧姿が気になっているのだ。 ――呉の兵ではない・・・? いや周瑜に従っているのであれば呉の兵であるには違いない。 しかし呉の兵を見慣れている孫尚香には何故彼らが呉の鎧を纏っていないのか、それが気になったのである。 そしてはっとする。 わずかに目を細めて周瑜の後ろに槍を構えている護衛兵を見る。 見たことのある人物であった。 「校刀手・・・。」 孫尚香が怒りに思わず肩を震わす。 「ほう、姫、ようやく気がつかれたか。」 周瑜が揶揄するように哂った。 校刀手(シャオトーソー)、つまり私兵である。 群雄割拠のこの時代、兵の多くは校刀手が非常に多い。 劉備に従う趙雲たちも、ようは校刀手みたいなものである。 何せ天子は魏が奉じていて、それ以外に仕える兵は校刀手なのだからである。 しかしそれはそれなりに統率があって、周瑜が呉候、孫権の配下である以上、周瑜の校刀手は呉の兵力のはずである。 この場合、軍費は呉候が出す。 しかし、呉の兵でありながら周瑜にしか仕えない、校刀手もある。 彼らは周瑜の命によってしか動かず、周家に仕える郎党なのである。 軍費は周瑜が出している。 彼の実家は裕福なため、このような私兵を雇うことも十分可能なのである。 「なかなかやってくれるじゃない、あなたの校刀手はすべて権兄様の配下となっていたと思ったわよ。」 孫尚香が怒りを唇に乗せる。 「私とてもちろんそのつもりでしたよ。しかし私の意志とは裏腹に、私だけに仕えてくれるものもいるということですよ。」 周瑜が酷薄に哂う。 私兵を使ってここにきたということは。 力強い腕にきつく締め上げられて、の意識が朦朧としてくる。 霞みそうになる意識のなかで必死に頭を働かせる。 周瑜は呉のために動いたのではない。 それは孫尚香が怒りに肩を、唇を震わせていることでなんとか理解する。 しかしそれを改めて認識してはますますわからなくなった。 「通して、周瑜。あなたは権兄さまに命令されたからここに来たんじゃない、を攫いにここに来たんでしょう!」 孫尚香のヒステリックな叫びがの耳にこだまする。 ――ああ、そうだ。 は目を瞑った。 校刀手を連れてここで待ち伏せをした周瑜。 それは目的が周瑜自身の目的があるため。 呉候の妹姫、孫尚香を連れ戻すことなど彼の目的ではないのだとようやく理解する。 ――私は・・・今の私は・・・。 は趙雲を見た。 趙雲の真剣な眼差しがたまらなく辛い。 あの胸に飛び込んで、すべて守って欲しいとさえ思う。 けれど。 この場を決着させるのは自分。 はそっと太腿に手を伸ばした。 できれば避けたかった。 ぎりぎりと締め上げられて、苦しくて浅く呼吸を繰り返す。 でも言わなければ。 「・・・行って・・・。」 は消え入るような声で告げた。 周瑜がちらり、とを見て薄く哂う。 「その通りだ、。そなたがここに残るのであれば、姫、私はあなたを見なかったことにしましょう。」 周瑜の言葉に孫尚香がきりっと唇を噛む。 「できぬ!」 劉備がさっと剣を抜いて一気に周瑜へと突進する。 「いけません!殿!」 劉備の突然の行動に趙雲が制止するも遅く、劉備の動きにあわせていっせいに弓兵から矢の雨が降らされる。 孫尚香は手にしていた日月乾坤圏で、趙雲は劉備を庇って転がるように馬から下りて岩場の影に隠れる。 「周瑜、やめて!」 は叫んだ。 の叫びに満足するはずもないのに、周瑜はちらりと崖の上の弓兵を見て合図すると、弓は一斉に止んだ。 幸い矢の雨にさらされながらも、劉備の馬も趙雲の馬も無事である。 気がつけば周瑜の腕はを抱く力をわずかに緩めていた。 は泣きたくなった。 どうして、と思う。 「孫尚香様・・・、殿、趙雲・・・行って・・・行ってください・・・、私はここに・・・ここに残ります・・・。」 の言葉に皆が言葉をなくす。 「よく言った、。その通りだ。を置いていけば私はあなたがたを見なかったことにしよう、ふたつにひとつだ。この場を武力でもって通るのであれば、我が校刀手を相手にしていただく。」 周瑜の言葉に孫尚香が震える。 「何も言わず、何も聞かず、どうぞ先へ行ってください。私が孫尚香様に、殿に、今できるのはこれだけです。お願いです、趙雲、この先もお二人を守ってどうか・・・、」 は趙雲を見た。 岩場の影から劉備を庇うように出てきた趙雲の頬はわずかに矢傷を負って、血が滲んでいる。 趙雲はを見つめた。 お互い運命の人と、未来を誓い合ったばかりなのに、この事態はどうしたことか。 認めたくても認められない。 を置いていくなど絶対にできない。 しかし、この場でを取り返すとなると、あの崖の両側から狙っている弓兵たちの、容赦のない矢の雨が待っている。 それだけならまだしも、武将としてもかなりの腕前の周瑜が目の前にいる。 劉備を、孫尚香を、を守ってこの場を切り抜けることができるのか、趙雲にもわからない。 「・・・できない。」 趙雲はぽつりと呟いた。 「を置いて私に未来はない!」 趙雲は手にしていた槍を投げた。 まさか趙雲が槍を投げるとは思ってもいなかったせいか、周瑜の行動が一拍遅れた。 趙雲の槍を払わんとして、の身体を投げ出し、がん、と鈍い音をたてて古錠刀真打で趙雲の槍を横殴りにないだ。 は周瑜に身体を投げ出されたが、身軽に一回転すると、太腿の短檄をすらりと抜く。 体勢の崩れた周瑜を横目で見ながら、素早く払われて転がった槍を手にすると、今度は周瑜の喉もとに自らの槍を突きつけた。 「形勢逆転か。」 周瑜が自嘲するように哂った。 「私は私の大切なもののための戦う。周都督殿、あなたが望んだは私の妻です、あなたがたとえの元婚約者であろうとも、私は私の妻を渡したりはしない!」 あっというまの出来事で、今度は周瑜が趙雲の槍の切っ先を突きつけられているため、校刀手も矢を射掛けられない。 「弓兵をひかせてください。私があなたの相手をしましょう。」 趙雲の声に周瑜が息を呑む。 そしてちらりと周囲を見る。 心配そうにおろおろと弓兵長が崖の上から様子を伺っている。 周瑜はちらりと彼らを見上げると、小さく息を吐いた。 そして手を上げて大きく凪いだ。 弓兵たちの驚き、さざめく様子が聞こえてくる。 しかし、周瑜はそれ以上弓兵たちを見ようとしなかった。 周瑜の意志に従って弓兵たちがそろそろと引いてゆく。 主の絶対の命には逆らえないのだ。 「、馬に乗って。そして孫尚香様と劉備様を守って先に行ってください。私は・・・、」 言葉を区切ると周瑜を睨みつける。 「彼を倒してから行きます。」 趙雲は槍を再び強く握りなおす。 劉備がしばらく二人を見つめて、そして馬に跨る。 「趙雲、待っているぞ。」 劉備が趙雲の背に声をかける。 趙雲は視線を周瑜からはずすことなく、大きく頷いた。 「この先の劉郎浦でそなたを待っている。必ず参れ。、行くぞ。」 劉備の声にがはっとする。 しかし動けなかった。 この場を離れることなどできようもなかった。 「趙雲・・・、」 は趙雲を見た。 固い決意の周瑜を睨みつけるその眼差し。 けれど。 は転がった細剣を拾った。 「この決着は私にさせて。」 趙雲がちらり、とを見てすぐに周瑜に視線を戻す。 「そのとおりだ、趙雲。戦うのは君じゃない。」 周瑜がせせら笑った。 そして素早い動作で趙雲の突きつけている槍の柄を掴んだ。 「これは私との問題だ。君は素晴らしい、私の校刀手を引かせたのだからな。値千金の武将とは君の事だ・・・、」 周瑜はゆっくりと言葉を区切った。 そして射殺さんばかりの鋭い視線を趙雲に投げつける。 「ただしここから先は手出しをしないでいただこう。」 趙雲の槍を軽くいなすかのようにはらう。 一瞬、趙雲が嫌な顔をして眉をひそめた。 はゆっくりと周瑜に近づいた。 「あの続きをしましょう。」 柴桑でのあの夜の戦いを。 今度こそ決着をつけるために。 「私はもう一度・・・。」 は周瑜を見た。 美周郎。 仇名される彼は武芸にも、文学にも、音楽にも通じ、彼の婚約者となったことをどれだけ誇らしく、また気恥ずかしく思ったであろうか。 小さな頃から兄のように慕い、憧れだった婚約者。 しかしは周瑜を選ばなかった。 共に未来を歩む人を見つけたから。 趙雲は決意に溢れたに、小さく頷いた。 ここから先は、が自分で決着をつけるべきであって、自分ではないと思ったから。 趙雲は周瑜に槍先を向けながらじりじりと馬の側まで下がる。 「先に行って待ってるぞ、。」 劉備がに声をかけ、大きく馬を嘶かせた。 続いて孫尚香が。 「待ってる、。必ず来て!」 二人が馬で駆け出すと、護衛兵たちが後ろに続く。 最後尾が過ぎて。 「・・・、信じている!」 趙雲はを見た。 も今度は趙雲を見る。 そしてしっかりと頷く。 「必ず帰ります。」 の言葉に趙雲が頷く。 趙雲は馬に跨った。 そして大きく馬を嘶かせると、劉備ら一行を追って走り出した。 そしてその場にはと周瑜、そして周瑜の護衛兵の数人が残った。 一陣の風が吹く。 はかちゃり、と細剣を握りなおした。 あたりは暗くなり、空に星が瞬き始めた。 趙雲は船に乗ることもせず、劉郎浦の船着場でうろうろとしていた。 周囲にはわかりやすいように薪が点されている。 孫権らの追っ手を考えれば、夜明けまえには出発をしないといけない。 すでに呉の水軍は建業へと移動して、諸葛亮率いる荊州水軍を咎めるものはない。 しかし時間の問題があった。 いくら追っ手を引き離しているとはいえど、夜明けを待つことは危険である。 趙雲はいらいらと船着場をうろうろするしかなかった。 白地に紅の、呉の武将装束がよく似合うとは思った。 こんなにも間近で、まじまじと周瑜を見たのははじめてのような気がした。 整った風貌、怜悧な目鼻立ち。 しかしもうその瞳は開かない。 声も出せない。 はそっと周瑜の乱れた髪を梳いた。 そして周瑜を抱きしめて泣いた。 気がついていた。 こんな最期を遂げて欲しくなかった。 できたら避けたかった。 周瑜がなぜ校刀手を引き連れてここに来たのか。 「なぜ私に殺されなくてはならなかったの・・・?」 は血にまみれながら、ぽろぽろ泣いた。 武将である彼は武将としての最期を遂げられて幸せだったのだろうか。 すでに、周瑜はかなり弱っていた。 趙雲が去って、一撃、二撃、とあわせるうちに、周瑜が相当弱っていることには気がついた。 すぐに一騎討ちをやめようと思ったが、周瑜はそれを許さなかった。 周瑜の護衛兵も許さなかった。 決着はあっけなくついた。 あっさりと、本当にあっさりとの細剣に周瑜の心の臓が貫かれたのだ。 「殿はあなたに最期を看取って欲しいと、ずっと思っていましたから。」 護衛兵の言葉には涙があとからあとから溢れてくる。 「ごめんなさい、周瑜・・・。」 何も返せなかった。 何も周瑜に返せなかった。 最期の引導を渡すことしかできなかった。 『汝後後悔すること勿れ』 不意に義父、呉mの言葉が蘇ってきた。 趙雲の手を取った。 それは後悔していない。 けれど。 もし。 は首を振った。 「後悔なんか・・・しないわ・・・。」 趙雲を選んだ結果、周瑜を自らの手にかけなければならなかったこと。 それが与えられた運命なのなら。 いや、もしかしたら呉mは気がついていたのかもしれない。 周瑜以外の人を選べば、自らの手で周瑜を屠らなくてはならない運命なのだと。 厳しいことであった。 後悔してはならないのだと。 これが、自由を手にしたものの責任なのだと。 はたまらなく悲しかった。 「お義父さま・・・!」 だから今は自らが屠った相手のために涙を流す。 せめて涙を流すことが、死を悼むことが、せめてものに許された供養なのだから。 「後悔なんて・・・しない・・・、周瑜・・・。」 は周瑜を抱きしめた。 冷たいその骸を抱きしめて。 は静かに泣き続けた。 周瑜の護衛兵に付き添われては街道を劉郎浦目指して馬を走らせた。 すでに夜も更けて夜明けが近い。 周瑜の亡骸は別の護衛兵たちにまかせ、はゆっくりと街道を下った。 あかあかとした松明の燃えるのが見える。 「皆様、あちらにいらっしゃいますね。では私たちはここまでとさせていただきます。」 護衛兵は小さく頭を下げた。 は松明の明かりに向かってゆっくりと馬を歩かせた。 ひどく疲れていた。 「っ!」 船の外では趙雲が待っていた。 は顔をあげた。 途端に歪む視界。 あれほど泣いたのに、まだ自分に涙あったのかと自分でも不思議になる。 抱きしめられては小さな子供のように泣いた。 後悔はしていない。 していない。 けれどこの胸の苦しさを、悲しみを。 癒してくれるのはただひとり。 「お帰り、。」 の鎧に、衣服に、こびりついた血がなんなのか、趙雲にはよくわかっていた。 でももう何も聞かなかった。 言葉にならないほどは自分でつけた決着に傷ついているとわかっていたから。 だからただ抱きしめるしかできない。 ただ抱きしめて、自らに縋って泣くを受け止めるだけ。 この後、の義父呉mが服毒自殺を図って亡くなったと諸葛亮に知らせがいくのはしばらくのちのこと。 戦乱の世はまだ混迷を続けている。 |