天涯の華   其の参


 春日在天涯
 天涯日又斜
 鴬啼如有涙
 為湿最高花
《其の四へ》

 
  女楽が行われる前日に麗華は出仕をした。
以前のような女官姿ではなく、もう少し華やかな衣に簪をいくつか挿した。
あまり飾ることは好きではないが、もう漢室の身内ではない。
けじめをつける必要があった。
 
「ああ、久しぶりね麗華。」
 
伏皇后はそういうと麗華を抱きしめた。
 
「ねえ、聞いて麗華。とうとう帝のお子が授かったのよ。」
 
伏皇后は嬉しそうに麗華の手を取った。
麗華は驚いて皇后の腹のあたりを見る。

「いやね、私じゃないわ。菫貴妃よ。帝のお子を授かったの。」

伏皇后の言葉は明るかった。
しかし麗華は言葉が出てこない。
なぜなら献帝が女を寝間に入れないことは伏皇后はじめ、身内なら周知のことだったから。
側室になったばかりの娘が1、2度寝間に招かれることはある。
しかし、その側室たちに献帝が手も触れないことを麗華も伏皇后も知っているのだ。
側室たちはきつく口止めをされる。
帝を貶めるような真似を麗華は絶対にさせなかった。
 
「皇后様、それは…、」
 
伏皇后は麗華の言葉をそっとさえぎった。
 
「こちらに、麗華。帝が麗華が来たら目通りするよう仰せつかっております。」
 
麗華は伏皇后に促されて帝の私室へと入った。
伏皇后に従っていた女官が下がっていく。
人払いしたのである。
 
「帝におかれましてはご機嫌うるわしゅう…」
 
麗華は献帝の前にひれ伏し、口上を述べようとした。
 
「麗華、挨拶はよい。そなたに頼みたいことがある。」
 
献帝は麗華の側に歩み寄ると麗華の顔を上げさせた。
 
「朕はもうこれ以上曹操に操られている気はない。」
 
献帝はまっすぐに麗華を見た。
 
「菫貴妃が懐妊した話は聞いておるな?賢いそなたならば何があったかわかるはずだ。」
 
麗華は思わずうつむいた。
菫貴妃の身ごもった子は献帝の子ではない。
誰の子かまではわからぬが、自分の子を捏造までする漢室を愚弄するやり方に献帝は動いたのである。
 
「貴妃は泣いて私に謝罪をした。何人もの男たちが貴妃を手篭めにしたそうだ…、可哀想に…。」
 
麗華は思わず伏皇后を見た。
とんでもない出来事のはずなのに、伏皇后は笑っている。
麗華は目を閉じた。
伏皇后は伏皇后なりに献帝を愛している。
幼い頃から正妃となる教育を受け、献帝のために自分があるのだと教え、諭されてきたのだ。
側室の存在が許せなかったのだろう。
時折、伏皇后が側室への嫌がらせをしていることは気づいていた。
 
「貴妃の身で大きな顔をしているからよ…、うんと反省するがいいわ。」
 
しかし子は献帝の子ではない。
なのに伏皇后は喜んでいる。
 
「だって麗華。私もあなたも帝の子を産めなかったから仕方ないじゃない。子の血筋なんてどうでもいいのよ、帝のお子なら。」
 
伏皇后は笑っていた。
帝がそれをたしなめる。
 
「しかし皇后の言うことは一理ある。漢室にはやはり時代を担う子が必要なのかもしれない。劉備のような輩が皇叔などと名乗りでてくるのだ。朕が認める朕の跡継ぎが必要なのだと思った。」
 
それは麗華も反論できなかった。
漢室なんていうところに身を置いていればおのずとわかってくることもある。
血の問題ではないのだ。
皇帝の子を名乗る跡継ぎがあればよいのだ。
 
「奴らが貴妃を辱めたのは許せないことだ。しかし奴らは貴妃を辱めたことは言えまい。表向き漢室を守っているのは曹操だからな。貴妃の子を朕の跡継ぎとして認めることで朕は政権をこの手に取り戻す。」
 
麗華は恐れ多くも皇帝の顔をまじまじと見上げた。
確かに帝は曹操の庇護で暮らしている。
政治とは無関係な立場に置かれ、曹操が皇帝の名を借りて政治を、戦争を起こしている。
麗華は胸が苦しくなった。

 
――勝ち目がない…。
 

麗華は幸か不幸か政情を理解していた。
漢室の栄光はもう取り戻せないということも。
下手をすれば皇帝を自ら毒牙にかけるだろう、あの曹操という男は。
 
「帝…。」
 
麗華は手を胸の前に合わせるとぎゅっと握り締めた。
拳が震える。
きっともっと状況が悪くなる。
 
「菫貴妃様を離縁することはできますまいか…。」
 
麗華は搾り出すように言った。
今までどおりの漢室を維持するだけなら今後も可能だ。
いつか曹一族の力は弱まるときが来るだろう。
他の勢力を借りて漢室を建て直せるかもしれない。
それまで自分が生きているかどうかは甚だ怪しいが。
しかし今ここで事を起こしては漢室復興は絶望となる。
それを献帝に納得してもらうだけの言葉を麗華は持たない。
 
「麗華、無理だ。すでに貴妃の懐妊については曹操も知るところである。今更離縁などできないのだ。」
 
菫貴妃が手篭めにされたという事件を暴露すれば、漢室はそのままかもしれないがさらに漢室を蔑ろにするものがあらわれよう。
かといって懐妊していることが周知の貴妃を離縁するのは難しい。
 
「ならば…ならばこのまま、お子が生まれるのをお待ちになり、その子をわが子として愛されませ。いつか漢室が復興する後の世に漢室をお残しくださいませ。」
 
麗華はすがるように献帝に奏上した。
 
「麗華、私は…私はもうこのままでいるのが辛いのだ…。」
 
伏皇后がそのときはじめて俯いた。
そして手巾で目頭を押さえた。
そう、伏皇后もまた献帝と心は同じ。
この傀儡状態に憤りを感じ、そしてもうその気持ちを抑えられないところまできているのだ。
もしかしたら麗華が側にいなくなったせいかもしれない。
政情を正しく見極める麗華は皇帝のブレーンでもあった。
伏皇后を通じ、帝が帝であり続けるために、この緊張関係を保ってきたのだから。
麗華はただ黙ってひれ伏した。
もうこれ以上、麗華が漢室のためにできることはなかったから。
 
 
女楽が催される。
なので男性の列席はない。
曹操とその妻たち、幼い公主にいたるまですべて女性たちしかいない。
その中で伏皇后だけがいやに明るかった。
その明るさが翳を落とす。
麗華は帝の前で琵琶を奏でるのが最後になることを予感した。
 
「麗華、舞を。」
 
伏皇后に促され、滅多にしない舞を披露する。
もともと幼い頃から叩き込まれていたせいか、当代一の名手ほどではなくともなかなかに上手いと評判だった。
麗華は被布を翻し、舞を舞った。
風に吹かれて散りゆく空木の花の様に儚く、そして幻想的な舞であった。
宴もたけなわとなり、女たちにも酒が振舞われる。
幼い公主たちは侍女らに連れて帰られ、側室らがなよやかに酔いながらそぞろ話に花を咲かせる。
こんなときは麗華も宴に参加してもよい。
しかし女官長という仕事が身についてしまっている麗華は酒を飲むこともなく、側室たちの世話をやき、泥酔したものたちを女官らに命じて退出させる。
一通り仕事が済むと麗華は伏皇后を探した。
帝と共に退出してもらって、宴をお開きにするためだった。
麗華は伏皇后を探した。
よっぽどのことがない限り、帝が下がらなければ下がらない皇后である。
たとえ下がったとしても、必ず周囲に伝え、自らの代わりを勤めるものにいい含める。
麗華はあたりを見回したが伏皇后がいないのである。
献帝は玉座でうとうととしはじめている。
女官を呼んで献帝の退出を願うと麗華は伏皇后を探しに庭園へと出た。
鮮やかな朱赤の衣に金の縁取りがされている。
夜目にすぐわかるような鼈甲の簪にいくつもの金銀の歩揺。
すぐに伏皇后を見つけることが出来た。
声をかけようとして不意に口を塞がれた。
麗華は驚いて背後を見る。
曹丕であった。
 
『静かに…』
 
曹丕は口の動きだけで麗華に伝えると、自らは麗華を引き寄せたまま、木立の陰に身を潜め闇に溶け込んだ。
伏皇后は庭園で落ち着かなげにうろうろとしていた。
手には書簡が握られている。
そのとき男があたりの様子を窺いながら伏皇后に近づいた。
 
『…菫承か…』
 
菫承は菫貴妃の父である。
曹操を頼って献帝を曹操の庇護のもとに連れて来た人物で、その後も献帝のもと、曹操の威を借り政敵を次々と謀略したなかなかの曲者である。

伏皇后は菫承に書簡を渡すとそそくさとその場をあとにした。
菫承も書簡を急いで懐にしまうと、急いで庭園から立ち去っていった。

誰もいなくなった庭園で麗華はようやく解放された。
 
「何をなさいますか?」
 
麗華は胸元を押さえて肩で大きく呼吸をした。
 
「そなたこそこのようなところで何をしている。」
 
曹丕は麗華を睨んだ。
二人はしばし睨みあうと、どちらからともなくため息をついた。
 
「今見たことは忘れろ。」
 
曹丕はそう言うと背を向けた。
当然麗華は納得できなくて今度は麗華が曹丕の腕を掴んだ。
 
「どういうことでございますか?」
 
麗華の嘘をつくことを許さないまっすぐな視線に曹丕は苦笑した。
 
「見たままのことだ。仲達にも言わぬほうがいいな。そなたは何も知らない、何も見ていない、それだけだ。」
 
「そんなこと納得できません。」
 
曹丕の言葉に麗華が強い口調で言い返した。
曹丕が小さくため息をつく。
 
「ならばここであったことを誰にも言えぬようにするというのはどうだ?」
 
麗華は眉を顰めた。
曹丕は麗華に向き直ると不意に麗華を抱きすくめた。
 
「月光のもとで咲く花か…。」
 
耳元で囁かれ麗華の身体は慄いた。
 
「何を…!」
 
麗華は身を捩って曹丕の腕から抜け出そうとした。
 
「何故あのときそなたをわが腕に抱かなかったか、今でも私は悔やんでいる…。」
 
曹丕の薄い唇が麗華の首筋に赤い花びらを散らしていく。
 
「おやめください…っ!」
 
身体の芯が熱くなる。
これ以上このまま曹丕の好きにさせたら、自分の理性が持たない。
 
「そなたが恋をしたのは一体誰だったのだ?いまだその思いは叶わぬか?」
 
曹丕の言葉が耳に甘く囁く。
麗華は目を閉じた。
 
――私が…恋?
 
麗華は目を閉じた。
目を閉じて最初に浮かんだのは夫、司馬懿であった。
あの宴の折、名の問いかけに答えてしまったこと。
そう、あのとき、司馬懿を一目見たそのときから麗華は恋に落ちていたのだ。
あれを恋というのなら…。
麗華の目から涙がこぼれた。
一生叶わぬ恋であろう。
このまま優しく、薄情な一夜の夢を与えてくれる曹丕の腕に抱かれていたくなる。
唇を重ねられて麗華の理性が切れそうになる。
優しい口付けに麗華は司馬懿を思った。
 
――こんな風に愛してくれたら…
 
そんな気持ちが麗華を苛む。
曹丕に抱きしめられながら、夫司馬懿を思う心が止められない。
耳朶を優しく弄ばれ、曹丕の指先が項を、胸元を優しく愛撫していく。
麗華は浅い吐息を吐いた。
 
「残念ながら私はそなたの月光には成れぬな…。」
 
曹丕は麗華の耳元で囁いた。
その言葉は麗華に冷水を浴びせるような冷たい言葉だった。
 
「他の男を想いながら私に抱かれるつもりか?私は誰かの代わりになるつもりはない。」
 
曹丕の言葉に麗華ははっとして慌てて曹丕の腕から身を離した。
 
「そなたが私を愛し、私だけを想うのであれば司馬懿からそなたを奪うことは簡単なことだ。だがそなたの心が私にない以上、私はそなたを受け入れることは出来ない。」
 
麗華はその場でくず折れた。
振える手で手巾を出すと、口元を拭った。
 
「私にその身を差し出すのなら、私だけを見よ。」
 
曹丕はそういい残すと麗華を置いてその場を去った。
麗華は泣いた。
はじめて自分の境遇を哀れんで。
夫に恋しながらその思いが叶えられないなんて笑い話にもならない。
自分でも夫に恋しているとは露知らなかった。
麗華はふらふらと邸内へと入る。
女官長時代とは違い、客間に部屋が用意されている。
その部屋へと周囲を気にしながら戻る。
こんな自分を見られたくなかったし、曹丕とのやりとりは夫、司馬懿はもってのほか、誰にも話せないことであった。
曹丕の思惑通りになったのである。
 
 
 
 
 


事が起こったのはそれから間もなくのことだった。
献帝は連判状を集め、曹操を討つという計画をたてていたと騒ぎになった。
当然麗華はこの事態に驚いた。
しかし誰にも何もいえなかった。
伏皇后にも、献帝にもあれから会っていない。
司馬懿からはあの女楽以降外出をとめられ、事が起こるのを外でみているしかなかった。
謀反を担いだ菫承は処刑、その娘の菫貴妃は縊り殺されたという。
献帝は最後まで菫貴妃の助命を嘆願した。
ただ巻きこまれただけ、そしてきっかけとなっただけだったから。
伏皇后は幽閉、献帝は許昌を追い出されることになった。
そして逗留先で幽閉されることとなる。
麗華は泣いた。
守ろうとした漢室はもう復興は無理であろう。
司馬懿は麗華に何も言わなかった。
もし麗華が献帝の謀反を知っていたならばただでは済まされない。
しかし麗華は何も話さないし、何も知らないと司馬懿は尋問を重ねようとする武官らに突っぱねた。
不思議なことに麗華に対する尋問はそれ以上行われることはなかった。
曹操の前に引き出されて尋問を受けても仕方がない立場であるのに。
また司馬懿は麗華を疑わざるを得なかった。
今、曹操は病床にあった。
実質嫡子曹丕がことの事態の収拾にあたっていた。
だから曹丕がもと伏皇后の女官長である麗華をかばっているのではないか、と疑ったのだ。
実際そのとおりであった。
しかし司馬懿の思惑とは少し違う。
この事件は起こるべくして起こった事件なのである。
菫貴妃を襲わせた主犯は曹操である。
この事件で献帝を試したのだ。
自分の死期を悟り、自分が祀り上げた献帝の処遇を確実にする必要があった。
漢室の力を搾取し、徹底的に叩かなければならなかった。
だから献帝のブレーンでもある麗華を引き離し、防御の薄れたところへ事件を起こさせ献帝を激昂させた。
動いた献帝を押さえ、漢室の力を最後まで搾り取る、これが曹操のやり方だった。
しかし策半ばで曹操自身が病床につく。
この策は曹丕に継がれ、今は曹丕自らが陣頭指揮を執ってこの事態に対応している。
麗華を献帝から引き離したのは曹操であり、曹丕である。
だから曹丕が麗華を庇っている、と世間には映っていた。
周囲はいまだ麗華が曹丕の愛人であるからと思われていたのである。
司馬懿が麗華と曹丕の関係を疑うのも無理はなかった。



司馬懿は病床の曹操を見舞った。
身動きとることも叶わないのに、曹操は司馬懿を見て嗤った。
 
「好きにするがいい、仲達。」
 
曹操の言葉に司馬懿は怯んだ。
 
『好きにするがいい』
 
それ以来司馬懿は自分が何を望み、何を得たいと思っているのか自問自答を繰り返すようになった。
曹丕が曹操に代わって政務を執るようになると、司馬懿は格段に忙しくなった。
もう公子、公主たちの指導係ではなくなっていた。
曹丕は司馬懿を重用した。
実際曹丕と司馬懿は司馬懿が出仕した頃から親交厚く、曹丕は司馬懿の知略を積極的に採用した。
曹操が亡くなると、曹丕は山陽公となって許昌から追放を受けた献帝に禅譲を迫り、ここに完全に漢室は途絶えた。







麗華の司馬懿の妻としての生活が続いた。
諦めの日々であった。
あの夜、庭園で交わした曹丕との会話以降、麗華はすべてを諦めるしかなかった。
ただ、司馬懿の飾り物の正妻でしかなかった。
冷たい夫との距離に麗華自身の心も凍らせるしかない。
すべて拒否したあの日から、麗華の運命は決まっていたのだ。
曹丕の治世はあの冷淡で非情な性格からは想像もできないほど落ち着いたものだった。
袁家を殲滅した曹丕は袁家の袁煕の妻であった甄氏を正妻に迎えていた。
以前戦は続くものの、許昌はつかの間の平穏を迎えていた。

司馬懿は妻をさらに何人か迎えていた。
高官ともなると人付き合いのなかで妻に迎えることもある。
麗華は側室たちを上手く統制し、主人の伽をさせていた。
自分自身は司馬懿に愛されていない身なので、側室たち、下働きのものたち、邸の管理、財産の管理など家内一般の管理をするだけだった。
そしてそれは以前、献帝に仕えていたときの仕事とさして変わらぬものであった。

ときどき、夫の司馬懿とも話し合うことが合った。
事務的な会話のみの冷たい空気であった。
しかし、ただそれだけでも麗華には慰めとなった。
今の麗華は司馬懿の生活を支えることで、司馬懿を愛する自分を納得させていたのだ。
近くて遠い存在となっていたのである。

そんな平穏な日常のある日のことだった。
 
「奥方様、恐れ入りますが禎瑛様が…!」
 
夜も更け、今日の寝間の当番は一番新しい側室である禎瑛であった。
すでに寝間にて主人を迎えさせる準備が整い、寝間に呼ばれた側室は身支度を整えている頃合であった。
まだ主人の司馬懿は帰宅していない。
麗華は自室で一人、刺しゅうをして過ごしていた。
帰宅する司馬懿の出迎えは麗華の仕事である。
見向きをされなくとも、必ず麗華は司馬懿を出迎えた。
そんな折、召使の一人が麗華の部屋に転がり込んできたのである。
 
「落ち着きなさい、禎瑛に何かありましたか?」
 
うら若く、分別もあまりあるようではない娘を司馬懿の側室として教育をしているのは他ならぬ麗華である。
一番新しいとはいえ、寝間での作法も行儀も叩き込んでいる。
何も問題は起ころうはずはない。
 
「禎瑛様がお怪我されまして…!」
 
麗華は眉を顰めた。
意に適わず側室になったものには、時折見せ付けのように自傷行為をするものもいる。
麗華はすぐに司馬懿の寝間へと向かった。
美しく整えられた寝間の入り口のところに女性が一人座り込んでいた。
その美しいはずの横顔に麗華は驚いた。
 
「麗華様…!」
 
ぽろぽろと涙をこぼして禎瑛は麗華に抱きついた。
 
「虻が…!」
 
禎瑛の頬は虻に刺され、かわいそうな程に腫れていた。
 
「驚かれて転倒され、足も痛めてしまわれたようで…。」
 
麗華はため息をついた。
それは不運である。
寝間へと続く回廊を歩いていたら、紙燭の明かりに誘われた虻が飛んできたのだろう。
 
「お可哀想に…、皆で禎瑛殿をお部屋に。」
 
麗華は召使たちに命じて今日の寝間の当番から禎瑛をおろした。
いくらなんでもあのように腫れ上がった顔を主人に見せるには、禎瑛は若かったし本人も辛いだろう。
すでにそれぞれの自室に下がっている側室たちの顔を思い浮かべる。
そのときだった。
 
「何をしている?」
 
すぐ側に響いた声に驚いて麗華が振り返った。
司馬懿が帰宅していたのである。
 
「帰宅しても誰も出てこぬと思ったらこちらのほうで声が聞こえた。何かあったのか?」
 
麗華ははっとしてひれ伏した。
 
「申し訳ありません。本日の寝間を預かる禎瑛が虻に襲われ、その際に怪我をしたものですから…お出迎えできず申し訳ありませんでした。」
 
司馬懿はため息をついた。
まあ、そんな類なのであれば問題はない。
 
「すぐにお手水のご用意を。あちらへ…。」
 
麗華は立ち上がって司馬懿を母屋に誘おうとした。
司馬懿が手を洗って口を漱ぐ間に寝間をもう一度整えさせ、側室の一人を急いで準備させるつもりだった。
 
「こちらで頼む。今宵は疲れた。」
 
司馬懿はそういうとそのまま部屋に入り込んで手近にあった椅子に腰かけた。
麗華はすぐに召使たちに目配せした。
 
「禎瑛の様子は?」
 
司馬懿は冠をはずし、襟元を緩めると怪我をした側室について麗華にたずねた。
麗華は召使が持ってきた盥を部屋の入り口で受け取ると卓子に置いた。
 
「薬師を呼びました。虻ならよいのですが、毒のある虫だったら大変なのでお薬を用意してもらうように言付けております。」
 
麗華はさらに召使から布を何枚か受け取る。
 
「足をお怪我していらっしゃるので、しばらく出歩くことは難しいかと。」
 
麗華は司馬懿の手をとり、丹念に指先を洗っていく。
この部屋に主人がいる限り、召使たちは入れない。
麗華が一人ですべてやらなければならなかった。
何よりこの部屋で主人を出迎えること事態ないことだった。
麗華は勤めて平静を保とうとしたが指先が震える。
緊張がぎこちなさを生む。
 
「どうした?」
 
麗華の緊張が司馬懿にも伝わったのだろう。
司馬懿の言葉に麗華は小さくため息をついた。
 
「このようなときは母屋にて騒ぎが静まるのをお待ちいただきとうございます。」

麗華は小さく恨み言を言った。
この部屋は麗華が立ち入ることのない部屋だ。
ここに司馬懿と二人でいるのは辛いことである。
しかしそんな麗華の心など司馬懿は心にもないだろう。
麗華は司馬懿の手を拭いた。
いつも周りに誰かいるのに、たった二人きりだとひどく緊張する。
 
「疲れているのだ。あちこち移動させられるのはたくさんだ。」
 
憮然とした言葉の端々には確かに疲労が色濃い。
 
「薬酒をお持ちしましょうか?」
 
司馬懿は上着を脱ぎ、単も脱いだ。
それを麗華が受け取る。
そしてそれをそのまま戸口に控える召使に渡し、代わりに清潔な布と単を受け取った。
正直麗華は戸惑った。
ここから先は麗華はやったことがない。
主人の身体を拭き、単を着せるのであるがいつも側室が行っている。
何より司馬懿の肌に触れることが恥ずかしい。
 
「どうした?」
 
麗華は司馬懿の言葉にはっとすると、召使に薬酒を頼んで急いで扉を閉めた。
 
「申し訳ありませぬ。御酒にすべきか、薬酒にすべきか、迷ってしまいまして。」
 
湯の張った盥に布を浸して絞る。
袖が邪魔で湯が袖にかかった。

「袖が濡れたな。」
 
司馬懿が麗華の腕をとった。
 
「お気遣い、申し訳ありませぬ。」
 
麗華は俯いた。
この部屋で上着を着て主人の世話をする側室はいない。
単姿であればさして気にかかろうはずもない。
 
「今宵はそなたか。珍しいこともあるものだな。」
 
振える手で司馬懿の背中を拭いていた手が止まった。
麗華の恐れていた言葉であった。
知られてはならない。
ずっと山陽公の妻であり、曹丕の愛人として扱われてきた。
もし自分を司馬懿が抱いて、自分が男を知らない身体だったとわかれば司馬懿は自分に対してつまらない同情をかけるだろう。
そしてもっと心の中で蔑まれるのだろう。
そう思うだけで麗華は辛かった。
 
「…すぐに代わりのものを呼びますゆえ、お許しください。」
 
麗華の言葉に司馬懿の心に火が付く。
どうしてこの女はこんなにも頑なで、自分という存在を傷つけるのかと。
正妻という立場にありながら、表向きその責を果たしながら本当の意味でのその責を果たそうとしない。
司馬懿は麗華の腕を取った。
明らかにわかるほど麗華が動揺した。
 
「私の妻であることがそんなに不満か?」
 
少女のように怯える麗華に司馬懿の嗜虐心が刺激される。
 
「その尊い身体が今は私のものであることを身をもって知るがいい。」
 
そのまま司馬懿は麗華の手を捻り上げた。
 
「…っ!」
 
麗華の手から布が落ちる。
そのまま司馬懿は麗華を抱きすくめた。
麗華は気が遠くなるような気がした。
首筋に這う司馬懿の唇に麗華は心臓が跳ね上がった。
上着の帯が解かれ、衣を脱がされる。
肌に触れる司馬懿の唇が、指先が熱い。
たちまち息が上がって熱にうかされたようになる。
そして司馬懿と目が合った。
 
「…お許し…ください…。」
 
最後の抵抗を麗華が見せる。
潤んだ瞳の麗華に司馬懿は薄く嗤った。
 
「もう、許しはせぬ。」
 
そのまま司馬懿は麗華を抱き上げて臥牀へと連れて行った。
そのとき、麗華の髪が結われたままだと気がつく。
司馬懿はそのまま麗華の髪から簪や櫛をはずして放り投げた。
艶やかな黒髪が流れるように臥牀に散らばる。
そうするとますます麗華が少女のよう見えた。
耳朶を優しく愛撫しながら麗華の唇を塞ぐ。
振える身体を宥めるように、司馬懿の唇が、指が麗華の肌の滑らかな肌を滑る。
麗華の肌に触れるだけで司馬懿の心が高鳴る。
今まで優しいその肌で彼を受け入れたものは多かった。
側室だけでなく、一夜の遊びで肌を合わせたものも多かった。
しかし、こんなにも自分を興奮させ、渇望させる女はいなかった。
なぜそれが麗華なのか。
自分を蔑む雲上人のように手に届かぬ天女。
なぜそのような女性に恋をしたのか、自分で自分が馬鹿馬鹿しくなる。
しかし、こうして手の届くところにいればいとも簡単に自制心が焼き切れ、麗華の心など構うことなく欲しくなる。
きっと麗華は出て行くだろう。
明日の朝になれば儚く消え去ってしまうだろう。
だから消えないように、深く深く自分という存在を麗華に刻みつけ、二度と麗華が誰かを思うことのないように、ただ、ただ、深く麗華を愛することしか考えられなかった。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
夏の夜は短い。
司馬懿は傍らに眠る麗華を見て驚くばかりだった。
臥牀の布にまぎれもない血液を見つけて司馬懿は驚いた。
麗華の頬に汗で貼りついた髪の一筋をはらう。
疲労をにじませてはいたが、穏やかな寝顔である。
司馬懿は単を羽織ると露台へと出た。
すでに東の空が紫色になっている。
夜明けが近い。
手には先ほど書いたばかりの手紙である。
 
「主上に。」
 
本日の出仕を休む手紙であった。
病を偽り、しばらく出仕を控え、麗華と向き合うつもりであった。
露台の下には庭を世話する下男がおり、彼は司馬懿からの手紙を受け取ると司馬懿にいつも付き従っている配下のものへと手紙を持っていった。
司馬懿はしばし夜明け前の庭園を見つめた。
夜露に濡れた庚申薔薇が馨しい芳香を放っている。
司馬懿は庭に下りた。
庚申薔薇の花びらを一枚とると再び部屋へと戻った。
まだ眠る麗華の素肌の胸元に花びらに乗った夜露を一滴零した。
ぴくり、と麗華の瞼が動いてそっと目を開いた。
夢から醒めたばかりのような、瞳で司馬懿を見つめる麗華に司馬懿は笑った。
すべて自分の杞憂であった。
何故なのかはわからない。
ただ麗華は誰も知らなかったし、自分以外に肌を許した男はいなかったのだ。
 
「目が覚めたか?」
 
「私は…」
 
麗華は起き上がろうとしてそのまままた司馬懿に肩を押さえられて臥牀に押し戻された。
 
「そのままでよい。」
 
唇を重ねる。
そして麗華はそんな司馬懿をそのたおやかな手で抱きしめたのだ。
 
「何故今まで…」
 
司馬懿は麗華に口付けながら、麗華に問うているのか、自分に問うているのかわからなくなる。
何故今このように抱かれる気になったのか?
何故今更のように麗華を抱く気になったのか?
何故今まで誰にもその肌を許してこなかったことを言わなかったのか?
何故こんなにも自分がただ一人の女に溺れるのか?
柔らかな肌の触れ合いをこんなにも愛しく、こんなにも心沸き立たせることはなかった。
 
「ずっと…あなたに恋をしていたのです…」
 
早くなる吐息の中でかすれるような声で司馬懿の耳元で麗華が囁いた。
その言葉に司馬懿は麗華を強く抱きしめた。
首筋に舌を這わせながら、髪をかきあげる。
 
「愚かな…何故私を忘れようとしなかったのだ…」
 
嘲笑するように司馬懿は麗華の顔を覗き込んだ。
潤んだ麗華の瞳から涙がこぼれた。
 
「忘れることなんてできないくらい…あなたが恋しかったのですわ…。」
 
指先で麗華の涙を拭いながら、司馬懿は深く口付けた。
 
「そなたは…愚かだ…、そして私も…。」
 
夕闇迫る許昌の城内で、献帝の御前での宴ではじめて会ったときから二人は恋に落ちていたのだ。
許されない女官への問いかけをした司馬懿、それに答えた麗華。
お互いの気持ちはそれだけでもう通じ合っていたのだ。
曹操が二人を娶わせることがなければ、もしかしたら恋に落ちてもおかしくない二人だったのだ。
 
「そなたは曹丕と懇意にしていると噂があった。」
 
司馬懿は麗華を攻め立てながら意地悪く麗華に問うた。
 
「それは…!」
 
追いつめられながら麗華は司馬懿の肩に爪をたてる。
 
「確かに曹丕様からのお声掛りはありました…。でも私は曹魏のもとへは絶対に行かないと…行けないと誓っておりました…。」
 
献帝を蔑ろにする曹操。そしてその子曹丕。
献帝に長く仕えてきた麗華にとって、曹魏の誰かの妻になることは献帝への裏切り行為だったのだ。
 
「あなたのことは全く考えていませんでした…。自分の心に気づいていなかったので…。ただ曹丕様のものになることは曹魏の漢室への辱めです。絶対に許されないことです。」
 
真白の闇に放り出されてしばらく後、麗華は泣きそうな声で呟いた。
 
「あのときの私は、漢室の復興のみを考えておりました…。でも…女の浅知恵では献帝がただ長くあの状況を続けられるかぐらいしか考えられませんでした…曹操様を憎みながら、曹操様の庇護がなければ帝も、私たちも何もできない赤子同然なのだとわかっていました…。」
 
憎い曹操に操られ、司馬懿と娶わせられたとき、いかに麗華の心が傷ついていたのか司馬懿は慮った。
それがあの新婚初夜に麗華が激高した理由だった。
 
「あなたは何も関係ないのに…あなたに私は当たってしまった…。本当にごめんなさい。」
 
麗華は泣いた。
もしあんなことをしなければもっと早く司馬懿と良好な関係を築けたはずなのだ。
司馬懿は麗華を抱きしめた。
 
「もう泣かなくてもよい…。」
 
自分の中で麗華を貶めていた気持ちがあった。
惹かれながらそんな自分を戒めるかのように麗華を心の中で貶めていた。
醜い嫉妬から。
でももうすべて終わったことだ。
肌を合わせればこんなにもお互い求め合っていたのだから。
政治も何も関係なく、一人の人間としてただ求めていた。
もう一人ではない。
司馬懿は強く、強く麗華を抱きしめた。
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