天涯の華   其の四


 春日在天涯
 天涯日又斜
 鴬啼如有涙
 為湿最高花

   
「…そうか。」
 
曹丕は呟くように言うと細作を下がらせた。
このところいくつか不穏な空気があった。
例えば司馬懿の息子の司馬昭などがその例である。
確かに曹丕は司馬懿を重用している。
しかし司馬懿の子等の中で、その才を自負し、曹魏を貶めるような発言をしているという噂がたち始めていた。
もちろん司馬懿にそんな様子は見られない。
常に共にあり、政治に、軍事に、司馬懿の策に曹丕は助けられてきた。
しかし司馬懿はそれを奢ることもなく、ただ曹魏に忠誠を見せていた。
しかし火のないところに煙はたたずとも言う。
司馬懿にその気がなくとも、子等に謀反の疑いがあれば厳しく処罰しなければならない。
司馬家一族を憂えているときに曹丕が真っ先に思ったのは麗華であった。
司馬懿の正妻として家事一般を取り仕切り、側室の産んだ子等の教育にも熱心であると聞く。
おかげで司馬家の子等は皆賢く才長けたものが多い。
妻としてこれ以上の女はいないだろうと曹丕は苦笑した。
自分の妻となっていたかもしれない女性。
一度は突き放したが、今でも惜しいと思っていた。
もし司馬家を取り潰すなら、麗華だけは手元に置くことを考えていた。
 
「誘い水をかけるか…」
 
しかし司馬懿はそんな策など簡単に見抜くであろう。
いかに司馬懿を挑発するか。
そのとき曹丕の鼻腔を華やかで馨しい香が擽った。
ふと視線を上げれば美しい彼の妻がそこに立っていた。
眦に涙のような美しい泣きぼくろが美しく、その美しい面に悲哀を感じさせる。
しかしその悲しげな美貌とは裏腹に賢く才長けており、官渡の戦いの折では曹魏の奇襲を見破ったただ一人の武将である。
 
「仲達ですか?」
 
鈴を転がすような声で甘えるように言う。
曹丕の傍らに膝をついて唇を寄せた。
 
「私に策がありますゆえ、私におまかせくださいませ?」
 
曹丕は嗤った。
早くから司馬家一族に脅威を感じていたのは他ならぬこの甄姫である。
しかし甄姫は司馬懿が曹丕の信頼を得、彼の策をいかに曹丕が重用し続けてきたかをわかっていない。
 
「私は仲達を疑ってはいない、昭(甄姫の字)よ。」
 
曹丕は軽く甄姫を押しのけた。
甄姫は不満そうに曹丕を見る。
彼女は気がついていた。
自分を袁煕のもとから嵐のように連れ去り、曹丕のものとなりこうして正妻となったのに、曹丕の心の奥底が見えない。
その心の奥底に曹丕が本当に攫いたいと思う女性がいるのではないかと女ならではのカンが働いていた。
曹丕はまるでその心の奥底にいる女を埋めるかのように、次々と側室を迎えていた。
どれも才ある美しい女性ばかりである。
しかし、次々と側室を迎えても曹丕の心の奥底の渇望を埋められた女性は誰もいない。
そう、甄姫ですら。

曹丕は甄姫を見た。
その泣きぼくろを見ると、あの女性を思い出す。
彼女に泣きぼくろはなかったが、わざと傷つけて泣かせた女性を思い出すのだ。
泣かせるつもりはなかったが、曹丕の嫉妬心が彼女を傷つけた。
あれから彼女の姿を見ていない。
今はどうしているのだろうか。
彼女はあの夜のことを誰にも言わなかった。
言わないように口止めをしたからでもあるが、だからこそあの夜の出来事は甘く切なく曹丕の心を苛む。
二人だけの秘め事であった。
 
――また…誰かを見ている…。
 
曹丕が甄姫の泣きぼくろを見るたび、甄姫は曹丕の心の奥底に隠す女性に嫉妬せずにいられない。
 
――わたくしを見てくださっていない…。
 
袁煕は退屈な夫だった。
甄姫の美貌を崇めながら、平気で他の女を抱いていた。
姑の世話をまかせきりにし、自分はほとんど甄姫のもとを訪れようとはしなかった。
美しい妻を自慢してはいたが、愛してくれていたわけではなかった。
彼が愛していたのは、どこにでもいそうな平凡な女だった。
それがさらに甄姫の心を深く傷つけた。
だから嵐のように現れた曹丕に攫われたとき、愛される喜びを初めて知ったのだ。
しかしそれは嘘だった。
本当に曹丕が攫いたかったのは甄姫ではなかった。
愛されていない妻は袁煕の妻であるときで十分だったのに。
そのことに気がついてから甄姫の心の中で、曹丕の中に住んでいる女を何度も殺した。
顔も知らない、名すら知らないその女を甄姫は激しく憎んでいた。

そして司馬家の不穏な噂を曹丕が耳にするようになってから、曹丕が甄姫を通してその女性を見ている頻度が格段に増えた。
だから甄姫は気がついたのだ。
その女は司馬家に関係のある女だということを。
そして、誰かの人妻であることを。
思い当たる女性が一人だけいた。
かつて伏元皇后の側近で女官長を務めていたものが司馬懿の正妻になっている。
曹丕と面識がある司馬家の女なら彼女ぐらいしかいないであろう。
 
「仲達殿の忠誠を確かめたいのではありますまいか?」
 
甄姫は曹丕の顔を覗き込んだ。
 
「馬鹿馬鹿しいな。」
 
曹丕はそういうと不意に席を立って部屋から出て行った。
甄姫は一人残されその背を見送った。
愛されている、と一度でも思わせてくれた人。
だから甄姫も曹丕を愛した。
しかし時を重ねるごとに曹丕が遠くなっていく。
 
「私が…決着をつけさせてあげますわ…。」
 
甄姫はそういうと人差し指はめられた指輪を見た。
自分の名誉と誇りを保つ為、父から袁煕との結婚の際に送られたものである。
甄一族の名誉と誇りがその指輪だった。
自分ほど曹丕の妻として、この魏の国の皇后として相応しいものはいない。
曹丕がいかに反対しようとも、甄姫の中の甄一族の誇りが彼女を促す。
甄姫は立ち上がった。
袂に入れていた月笛を出すと優雅に奏でる。
いつの間にか彼女の側近が彼女の側に控えていた。
 
 
 
 
 
 
蜀では劉備が皇帝と称し、呉では孫権が皇帝と称した。
漢の皇帝から正式に禅譲を受けたのは曹丕だけであったが、それを認めているものが少ないという事実がそこにはあった。
いまだ三国は争いの只中にあった。
曹丕が呉への出兵を決め、許昌をあとすることとなった。
当然司馬懿も曹丕についてその戦へとでることになった。
 
「心配はない。策は十分に練ってある。」
 
不安げな麗華に司馬懿は笑った。
 
「南の地方は我が許昌の地より暑くなるのが早いです。夏場の戦線に入られませぬよう、十分にご注意ください。曹魏の軍は呉軍から比べれば暑さに弱いです。そこを孫呉に付かれませぬようお気をつけくださいませ。」
 
麗華の言うとおりであった。
だから戦端を開くのは夏が過ぎるのを待つことにした。
しかし戦が長引けば夏はやがてやってくる。
となると曹魏に不利となる。
孫呉は蜀と夷陵で戦い、勝利してはいるものの兵は疲弊しているはずである。
だからこその機会である。
なるべく早く決着をつける必要があった。
すでに孫権は劉備と和睦したとも聞く。
本来なら全力をあげて孫呉を一気に片付けたいくらいであった。
しかし蜀の動き、いや諸葛亮の動きを封じる為にも兵を分散させなければならない。
不安要素もまた大きかった。
 
「そなたも身体に気をつけるように。」
 
思いが通じ合ったばかりだというのに離れるのは辛いことである。
皇帝ともなれば妻を連れての出兵というのはあるが、臣下の身ではそのようなことは許されない。
司馬懿は麗華を抱きしめた。
温かく円みのある柔らかなその身を惜しむかのように、何度も抱きしめては口付けを交わした。
そして司馬懿は曹丕率いる軍勢とともに戦場へと南下していったのである。

許昌に残されたのは曹丕の弟、曹植ら文官らとわずかな軍勢、そして皇后甄姫ら女たちであった。
曹丕は戦場にあまり女を連れて行くことはなかった。
特に寵愛もしていない、末席の側室を連れて行くことはあったが、それは単に戦場での混乱時に女たちが攫われたり、辱めを受けることがある故、自身に近しい妻を戦場に連れて行くことをしなかっただけである。
甄姫も郭氏も才長けており、戦場に連れゆけばそれなりに功績をあげることもあろうけれども、その女を連れて行かなくとも戦場には司馬懿という優れた軍師は采配を振るう。
彼女たちの出る幕はなかった。


麗華は主不在の邸を取り仕切り、側室の子らの教育に熱心であった。
司馬家一族は皆優秀であり、曹魏一族から比べると確かに才長けていた。
しかしそれを奢る者も多く、麗華はそれを押さえるべく倫理の教育をしなければならなかった。
いまだ乱世の続くこの世の中では、奢るものは久しくはない。
出る杭は必ず打たれる。
そして出ようとする杭も。
処世術を学び、自らの爪と牙を隠す術を教える必要があった。

そんな日々を過ごすある日のことだった。
皇后甄姫の名で各諸将の妻たちを慰労する会が開かれることとなった。
麗華は躊躇した。
甄姫の名はよく知っている。
袁煕の妻であった頃から、その美貌と叡智は音に聞こえてきた。
河北の出身で、実家は高官であったはずである。
表向きの理由はよくあることだ。
甄姫が皇后になってから初めて行われる催しではあるが、皇后が諸将の妻たちを集めて彼女たちを慰労するのはよくあることである。
しかし麗華はその催しに不安を感じた。
今まで皇后の名で諸将の慰労を行ってきたのは伏皇后である。
女官長であったときはその内実を取り仕切ってきたのは自分であった。
甄姫と伏氏ではやり方が違うのは当たり前なのだが、どうにも不安を感じた。
麗華は最も長く司馬懿の妻である張夫人を呼び、この催しに参加をさせることにした。
正妻ではなかったが、もともと本来は正妻の位置にいた女性であり、司馬家の長男の母として十分に貫禄もある。
下手に自分が甄姫の前に出るよりは角が立たないであろうと考えたのである。
この考えはまさに的を得ていた。
麗華が出てくることを期待していた甄姫はいっぱい食わされた形になったのである。

甄姫は麗華が並みの女性ではないことを知ってさらに確信した。
間違いなく麗華こそが曹丕の中に住んでいる女性であることを。
臣下の妻であっても、欲しいのなら奪ってしまえばよかったものを、と辛辣な考えが甄姫の中によぎる。
同じ夫を持つ妻としての立場であったなら、また違った関係になっていただろう。
もしかしたら甄姫は曹丕の妻の一人ではなく、皇后でもなかったかもしれない。
麗華は伏氏一族の姫であり、伏皇后の側近であったことからその血筋はかなり高貴なものであったことが伺える。
麗華という人間を調べれば調べるほどに、甄姫は陰鬱な気持ちになっていった。
何故彼女が司馬懿の正妻となったのか、その経緯がわからない。
曹操の口利きという話も聞いたが、何故そのようなことを推し進めたのかもわからない。
 
「随分と賢い方のようね。」
 
甄姫は忌々しげに張夫人を見た。
多くの女性たちが集まる中、その中心にいるのは郭夫人であった。
彼女は甄姫が曹丕の元に来る前からの夫人で、ずっと側室という位置にいる女性である。
理由は孤児であり、出自がわからないというのがその理由であるらしかった。
もともとは献帝に仕える女官の一人であった。
しかし物事の状況をよく踏まえ、賢く決して表には出ようとせず、表向き甄姫を立てている。
その一歩引いた姿が好ましいのか、曹丕が今一番愛している妾妃である。
甄姫にとって悩ましい種のひとつでもあった。
しかしこのように多くの女たちが集まり、その世話役として振舞う姿はある意味甄姫にとって助かるものでもあった。
甄姫にとって、その誇りの高さから諸将の妻らに挨拶して回るなんてことはできなかったからだ。
甄姫の元に訪れて口上を述べる夫人らの挨拶を適当にすると、甄姫はさっさとその場を離れた。
その様子を郭夫人はちゃんと見ていた。
そして甄姫が何を考えているのかも。
宴もお開きになる頃、郭夫人は司馬懿の妻である張夫人に一通の手紙を託した。
麗華宛の手紙である。
そして時を同じくして、曹丕宛の手紙をも送っていた。
 
 
 
 
郭夫人はもともとは麗華の下にいた女官の一人である。
曹丕が麗華との橋渡し役として懇意になった女性で、麗華が司馬懿に嫁いだあと、曹丕の子を身ごもり曹丕の夫人として迎えられた。
しかし彼女の子はすぐに儚くなったが、曹丕を陰から支える賢夫人である。
曹丕が甄姫を正妻として迎え、皇后に取り立てればそれに対しよく仕え、陰に日向に甄姫を立ててきた。
しかし曹丕と司馬懿が出兵したのち、甄姫が麗華に対して並々ならぬ関心と嫉妬を持っていることに気がついた。
なんとかして麗華に甄姫と会わないように伝えなければならなかった。
かつての上司とも姉とも慕った。
礼儀作法一般を郭夫人に教えたのは麗華であって、今の自分があるのも麗華のおかげである。
郭夫人は曹丕にも頼った。
甄姫を止められるのは曹丕しかいないのである。

郭夫人からの手紙を麗華は読んだ。
噂では聞いていたが、あの郭女王が曹丕の妻となっていたことにある種喜びを覚えた。
後ろ盾のない娘が女官としてやっていくのも大変なことである。
その中で曹丕に見初められて曹丕の妻となったのならばそれは喜ばしいことである。
しかし理由は書かず、一切甄姫と目通りすることを避けよとはどういうことか。
自分の感じた直感に麗華は目を閉じた。
甄姫という女性をよく知らないが、どうやら自分は甄姫に敵愾心を持たれていることは郭夫人の手紙でわかった。
ならばそのとおりにしたほうがよいであろう。

そしてしばらくして郭夫人からの手紙を曹丕も本陣と定めた宛城にて受け取っていた。
甄姫が諸将らの夫人を招いて宴を催したことなど、事実のみを書き記した。
これで曹丕には伝わるはずだった。
 
そしてこの手紙を受け取った曹丕は司馬懿を呼んだ。
 
「仲達、戦況を知らせよ。」
 
曹丕の言葉はいつになく不機嫌であった。
すでに季節は冬に入り、許昌のほうでは雪が降っているとも聞く。
戦はこれからが本番であった。
司馬懿は曹丕に求められるまま、戦況を正確に伝えた。
 
「しばらく戦線から離れても問題はないな?」
 
曹丕の言葉に司馬懿が顔を上げた。
戦況はこちらに有利であるし、士気も十分上がっている。
曹休、張遼らは洞口に、曹仁は濡須口に、張コウ、徐晃らは江陵にと兵と将を配した。
 
「何かありましょうか?」
 
司馬懿は注意深く曹丕を見た。
曹丕は珍しく苛立っていた。
 
「許昌が不穏だ。一度私は戻る。そなたも供をせよ。」
 
司馬懿は平伏した。
本当ならばここでもう少し指揮系統が確立するまでいる必要がある。
しかし曹丕の言葉は絶対でもある。
難しいと知りつつ供せよ、というのであればそうするだけの理由があるということである。
司馬懿は「是」と答えるとすぐに下がった。
指揮を息子らに任せ、自らは曹丕の供となって許昌に戻ることにした。
人数は驚く程少なく、曹丕が急いでいることが見て取れた。
しかし、雪の積もり始めた道中は行きと違って難儀を極めることとなった。
 
 
そんな中、麗華のもとに伏氏(元伏皇后)が危篤の知らせが届いた。
姉妹のように互いに助け合って過ごしてきた家族のような存在である。
麗華は急ぎ伏氏の幽閉されている許昌の、かつて献帝らとともに過ごした邸へと急いだ。
伏氏の寝室へと案内をされて麗華は驚いた。
そこにはすでに息絶えた伏氏が一人、寝かされていただけであった。
 
「伏寿様!!!」
 
我を忘れて麗華は伏氏の側に駆け寄った。
すでに冷たくなっている伏氏に麗華は戦慄した。
もともと病気だという話も聞いていない。
この邸内に幽閉されて後、山陽公のもとへも行かず、伏氏はこの邸で過ごしていた。
わずかな女官らとひっそりと。
しかし苦しげに歪んだ顔で絶命している伏氏に麗華は彼女が殺されたのだということをすぐに知った。
 
「彼女はいらないから。だから死んでいただきましたのよ。」
 
寝室の入り口のところで優雅な女性が一人立っていた。
麗華はまじまじとその女性を見た。
泣きぼくろが印象的で、悲しげな表情がその美しい美貌をさらに美しく際立たせている。
 
「ようやく会えましたわね。」
 
女は優雅な足取りで麗華へにじり寄った。
麗華は後ずさった。
彼女から感じられるのは紛れもない殺気であった。
 
「なかなか貴女に会えないので随分手荒なことをしなければなりませんでしたわ。」
 
ふふっと女性は笑うと伏氏の亡骸を見た。
麗華はぞっとした。
自分を呼び出すためだけに伏氏を殺害したのだ。
麗華は礼儀も何もかなぐりすててこの場から出て行こうとした。
そのとき、扉が乱暴に開いて縛り上げられた女性が一人転がり出てきた。
 
「きゃっ!」
 
麗華は驚いて震え上がった。
髪は乱れ、着物もぼろぼろにされていたが、それでもその女性は伏氏と違って生きていた。
 
「麗華様!」
 
縛り上げられていたのは郭夫人である。
 
「女王?女王なのっ?!」
 
麗華は驚いて縛り上げられた女性に駆け寄った。
久しぶりに会うが、紛れもなくかつて自分が世話してきた女官だった郭女王である。
 
「あなたのもとにいらぬ細工の手紙を送っていたようね。山陽公に仕える女官はこそこそこそこそかぎまわることが本当に上手いこと…。」
 
憎憎しげに女性が手にしていた鞭で女を叩いた。
乾いた音がして郭夫人が悲鳴を上げた。
 
「山陽公に仕える女たちは随分頭が回るようね。その賢い頭を使って司馬家は主上に対して謀反でも起こすのかしら?」
 
「なんてことを!!甄姫様!!」
 
郭夫人が痛みに耐えて叫んだ。
麗華は甄姫をまじまじと見た。
自分に対する怒りを、謀反という話を。
全く繋がらなかった。
繋がらないながらも女ならではこじつけでつなげていた。
麗華は大きく息を吐いた。
そしてさっと衣を蹴さばくとその場に平伏した。
 
「お初お目見えいたしまする甄皇后陛下。」
 
額を床にこすりつけんばかりに頭を下げる。
 
「仲達の正妻の伏麗華ね?」
 
甄姫は満足そうに麗華を見遣った。
 
「名を覚えていただき光栄にございます…。」
 
麗華は甄姫の怒りが自分に向けられていて、そのとばっちりを郭夫人が、伏元皇后が受けたことを改めて重く感じた。
 
――伏寿様…。
 
姉とも妹とも慕った大切な家族。
愚かな女性ではあったがこのような死に方をするはずではなかった。
自分のために命を落してしまった伏氏に麗華は申し訳なく思った。
 
「司馬家の子らの教育には特に熱心と聞いています。仲達殿も曹丕様はじめ、その弟君、妹君、子どもたちの教育に携わってこられ、曹魏に対する忠誠は篤いものと思うておりました。」
 
甄姫の言葉がひとつひとつ矢のように鋭く麗華を突き刺すようであった。
 
「しかし最近仲達どのの子らの横暴な振る舞いをよく聞くようになりました。その賢さと仲達どののご威光をかさにきて曹操殿が作りあげたこの国を軽んじるような振る舞いをしていると。」
 
甄姫はそこまで言うと指を鳴らした。
すると一人の女官が盆に二つの杯を載せて現れた。
 
「表をあげなさい。そして魏に忠誠を誓いなさい、麗華。」
 
甄姫は二つの杯を取ると一つを麗華に差し出した。
麗華は震えた。
その杯には間違いなく毒が仕込まれているであろう。
 
「飲んではなりません!!」
 
郭夫人が声を上げた。
途端、甄姫のもつ鞭が鋭く郭夫人の肌を引き裂いた。
 
「さあ、忠誠を誓いなさい。あなたは曹魏に一切を委ねると。それは貴女の夫、仲達どののためにもなりましょう。」
 
麗華は甄姫を見た。
美しいその面はきつい眼差しで麗華を見据えている。
 
――私が…この人を苦しめ、そして仲達様を苦しめてしまう…。
 
麗華は杯を取った。
涙がこぼれた。
人を苦しめるつもりなんてなかった。
憎憎しげな甄姫を前にして麗華はもう為す術がなかった。
彼女の憎しみが一身にこの身に向かっている今、麗華が取る方法はただひとつ。
 
「司馬一族は曹魏に忠誠を誓っております…」
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
宮城内は静まり返っていた。
道中、雪が降り積もり思った以上に許昌へ戻るのに時間がかかってしまった。
急ぎ宮城内に入れば不気味なほど静まり返った宮廷には曹丕の側室らはほとんど部屋に閉じこもったきりで、出てこようとしない。
曹丕が一番心を許している郭夫人の姿すら見えない。
曹丕と司馬懿は嫌な静けさに不安を感じながら甄姫を探した。
ようやく見つけた下働きの女から甄姫は伏氏が幽閉されている邸にいることを知るとそちらに急いだ。

甄姫側近の女兵たちが伏氏の邸を警護している。
曹丕が近づくと女たちが止めに入った。
 
「誰も入れてはならぬと仰せにございます!」
 
鋭く止めようとする女兵士を曹丕が切った。
それほどまでに曹丕は追いつめられていた。
切り捨てられた女兵士に他の兵たちが驚いて四散する。
曹丕は司馬懿だけを伴って伏氏の邸へと入った。
 
「女王!麗華!」
 
伏氏の寝室に人の気配を感じ飛び込むと、曹丕と司馬懿の目に最初に飛び込んできたのは倒れ付している麗華と縛り上げられている郭夫人であった。
司馬懿は驚いて麗華に駆け寄ると助け起こした。
しかしすでに麗華の顔色は真っ青で、苦しげにか細い息をしているだけである。
 
「麗華!」
 
司馬懿は麗華を揺さぶった。
うっすらと麗華が目を開けた。
 
「ち…仲た…」
 
麗華が手を伸ばす。
唇の端から血が零れた。
 
「麗華!」

司馬懿が麗華の手を取る。
そして麗華はそのまま目を開けることはなかった。
 
「昭、これは…。」
 
曹丕は怒りに燃える目で甄姫を睨みつけた。
甄姫も同じように曹丕を睨む。
 
「司馬家の忠誠は永遠のものと麗華は言いましたわ。その身にかけて謀反はないと、ね、仲達。」
 
甄姫の言葉に司馬懿が冷たい視線で甄姫を見た。
愚かな女だった。
 
「女王に怪我をさせたのもそなただな?」
 
曹丕はそういいながら郭夫人の縛めを解いた。
郭夫人の衣は引き裂かれ、あちこちに血がこびりつき、頬は腫れあがっていた。
曹丕は自らの衣を郭夫人に着せ掛けた。
陰鬱な沈黙が流れる。
ばたばたと屋敷内に曹丕の側近の兵士らが入ってきた。
そしてこの状況に皆瞠目し、目を見合わせた。
 
「昭を捉えよ。後宮にて謹慎させる。」
 
司馬懿はそういうと郭夫人を抱き上げた。
 
「仲達…済まぬ…。」
 
それだけをようやく言うと、曹丕は仲達に背を向けた。
司馬懿は麗華の顔を覗き込んだ。
まだ身体は温かい。
その身体を司馬懿は抱きしめた。
涙が溢れた。
人の死に涙するのはこれが初めてだった。
 
「馬鹿めが…。」
 
司馬懿は呟いた。
こんな風に二人の愛が終わるとは思ってもみなかった。
麗華は司馬懿の謀反の疑いを晴らすために甄姫から死を賜ったのだった。
 
「そなたが生きるなら…私は謀反人になってもかまわぬものを…」
 
司馬懿の中に初めて謀反という言葉が色を帯びた。
 
 
 
 
 
麗華と伏氏の密葬が終わった。
甄姫はあれから後宮の一室で幽閉されている。
郭夫人は怪我だけで命に別状はなかったが、なかなかに怪我の症状が重かった。
司馬懿は曹丕に召されて出仕をした。
久しぶりに曹丕に会うような気がした。
かなりやつれて顔色も悪かった。
 
「仲達、来たか。」
 
曹丕はそういうとちらりと司馬懿を見た。
司馬懿は改めて曹丕に平伏した。
 
「私をお疑いでしたか…。」
 
司馬懿はため息交じりに曹丕に聞いた。
 
「いや、私は疑っていない…、そなたに関しては。」
 
曹丕は立ち上がった。
大きく開け放たれた窓に歩み寄り、冬の空を見上げた。
陰鬱な重たい雲がまたも雪をちらつかせはじめた。
 
「八達と呼ばれる司馬家を脅威とみなすものもいる。それは嘘ではない。」
 
曹丕は窓辺に背をもたれさせた。
 
「昭がそのことを知るのはごくあたりまえのことだ。あれはあれのやり方で司馬家の忠誠を試そうとしたのであろう。」
 
甄姫はどんな尋問にも一切答えなかった。
曹丕自らの問いにすらも答えない。
郭夫人の容態が回復傾向に入り、ぽつぽつと郭夫人の証言を得られるようになってから曹丕は自らの不徳によるこの事件に決着をつけなければならなかった。
司馬懿はこの事件の真相を知らなければならない。
だから喪中とわかっていて呼び出したのだ。
 
「昭が司馬家の忠誠を試すにはもっと他の方法があったろう。ただ…仲達、そなたの妻が麗華であったから…。」
 
曹丕はそこまで言って目を閉じた。
 
「私はずっと…今でも麗華を愛している…。」
 
曹丕の言葉に司馬懿が目を閉じた。
それはずっと気になっていたことでもあったし、そうだろうとは思っていた。
司馬懿は何も言わなかった。
そして曹丕もそれ以上何も言わなかった。
ただ静かに雪が降り続ける。
しんしんと雪が降り積む。
 
 
どれだけ時間がたったろう?
曹丕はようやく司馬懿を見た。
まだ曹丕は司馬懿を信頼している。
彼以上の才を曹丕は知らない。
曹丕はぱちり、と指を鳴らした。
奥の部屋から小姓の少年兵が出てきた。
司馬懿が訝しげに曹丕の様子を上目遣いで探る。
自らに死を与えられてもおかしくはない状態であったし、そのつもりで此処にも来た。
妻たちには自分に何かあったらどうするかまで教えてあったし、子等にもそのことは伝えてある。
 
曹丕はつかつかと卓子に歩み寄ると、椅子に座って用意されていた蔡侯紙に筆でさらさらと何やら書き始めた。
さして長くない書である。
 
「そなたにはこの書を読む権利がある。」
 
曹丕はそういうと司馬懿にその書を渡した。
書は甄姫宛の書簡であった。
司馬懿は丁重にその書を受け取ると目を走らせた。
そして無礼も省みず曹丕を見た。
曹丕は遠いところを見ているかのようである。
 
「恐れながら…」
 
司馬懿は口を開いた。
 
書に書かれていたのは甄昭に死を促す文言であった。
 
「私が昭を攫った為に彼女を苦しめることとなった。昭の不幸は私を愛したことだ。」
 
曹丕の言葉は虚ろであった。
麗華の死は彼にとって余りにも衝撃だったのだろうか。
それほどまでに麗華を愛していたのだろうか?
 
「仲達。私はそなたの忠誠を信じる。これが私の出した答えだ。」
 
曹丕の言葉に司馬懿は震えた。
本来なら感動するであろう、主(あるじ)の言葉だ。
しかし今の司馬懿にはその曹丕の言葉が虚しく響く。
曹丕がいまだ麗華を愛してさえいなければ、麗華は死なずに済んだのだ。
曹丕の謝罪がその妻、実際に手を下した甄皇后に死を命じたとしてもそれで麗華が返って来るわけでもない。
麗華が死んだことで司馬懿の心は決まったのだ。
司馬懿は目を閉じた。
この先何が起ころうとすでに道は決まった。
その身の内飼っていた野心という猛獣が今、司馬懿の中で目覚めたのだ、麗華の死によって。
自分にもっと力があったなら麗華を死なせたりしなかった。
愛していると、千の夜も万の昼も囁き続けたはずだった。
こんなに短く、儚く終わるような愛ではなかったはずだったのだ。
 
「…主上の気の済むようにされるのがよろしいかと…。」
 
司馬懿は声を振り絞るように言った。
しばしの沈黙が流れる。
 
「…下がれ。」
 
曹丕は小さく言って司馬懿を下がらせた。
もう司馬懿の忠誠はない。
曹丕は目を閉じた。
自分の治世は長くはないと覚悟を決めた。
 
 
 
 
 
甄姫は曹丕からの手紙を受け取った。
自らの手で決着をつけるようにと促す文であった。
甄姫はしばしその手紙を眺めていた。
麗華を亡き者にすると決めたときから、このようになることはわかっていた。
甄姫は手紙を滑り落とした。
 
振える身体がせつない。
 
「…愛してくださらないなら、せめてあなたの手で殺して欲しかった…。」
 
甄姫は初めて泣いた。
袁煕に嫁いで以降、甄一族の誇りにかけて涙を流したことはなかった。
袁煕が十人並みの女を愛し、自分を愛さなかったときでさえ、悲しいと思わなかった。
曹丕に愛されていないと気づいてからも悲しいとは思わなかった。
皇后という立場の重さを知っていたし、甄一族の誇りが愛されない自分を哀れむことを許さなかった。
甄姫は人差し指の指輪を見た。
 
「そんなにも私を愛せないの…?」
 
涙で視界が滲む。
甄姫は指輪の留め金をはずした。
ぽろり、と濃青の石がはずれて彼女の膝の上に転がった。
石の下には父から甄一族の誇りと称された薬が入っている。
甄姫は天を仰ぐとその指輪の中の薬を口に含んだ。
 
 
 
 
 
 
 
司馬懿は許昌の玉座に座して薔薇を眺めていた。
庚申薔薇は麗華を思い起こさせる。
曹魏を滅ぼし、自らが国を興した。
もう、呉という国も、蜀という国もない。
彼は天下を統一した。
皆が夢見た天下を纏め上げた。
今彼には最期のときが訪れようとしていた。
もしかしたら、麗華が死ななかったら曹魏を滅ぼして自分が天下を取ることなど考えなかったかもしれない。
 
「そなたが…私を導くのだな…。」
 
そっと司馬懿の傍らに天女が膝をついた。
司馬懿の眺めていた薔薇を一輪、手にしてそっと司馬懿に差し出す。
 
「…名はなんという?」
 
天女は微笑んだ。
 
「…麗華と申します…。」
 
薔薇の花びらの朝露が司馬懿の唇を濡らす。
それは天女の口付けであったか?
 
「私とともにあってはくれぬだろうか?」
 
あのとき、言えなかった言葉を紡ぐ。
天女は美しく微笑んだ。
 
「…はい…。」
 
天女は司馬懿の手を取った。
 
「仲達様…。」
 
 
 
 
 
 
 
 
                                了
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