天涯の華 其の弐 春日在天涯 天涯日又斜 鴬啼如有涙 為湿最高花 |
《其の参へ》 |
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皇帝である献帝一族を形の上で敬う曹操は時折献帝一族と内輪の宴会をする。 皇帝の隣に座す伏皇后がいつもより血色がいいことに曹操は気がついた。 あまり微笑など見せない、どちらかというと陰気で暗い陰を落とす伏皇后がにこやかに曹操の娘らと話している姿は稀なものであった。 曹操は目を細めた。 そのとき、麗華が曹操の横ににじりよって酌をした。 「麗華、献帝においてはなにやら目出度いことでもあったか。」 曹操の言葉に麗華は首をかしげた。 確かにここ最近の伏皇后の様子は妙に明るい。 けれども別段何も変わったようには麗華には見受けられない。 もともと伏皇后は陰気な性質なので、麗華がもっと華やぐようにと進言しつづけたということがある。 だからここ最近の伏皇后は自分の意見を取り入れてくれたのだと考えていた。 内輪の席でもあることから、麗華は素直に答える。 「いえ、特には。いつもとなんらお変わりございませぬ。」 麗華の答えに曹操は探るような目つきで麗華を見る。 麗華自身、何も探られるようなことはないので伏し目がちに俯く。 「子桓と最近懇意にしているそうだな、麗華。」 曹操の言葉に麗華は酒の入った瓶子を置くと床に手をついて伏せた。 「恐れ多うございます…。」 曹操は子の曹丕が不特定の女たちと遊んでいることは知っていた。 その中に妻に選びたい女性がいることは知らされていた。 麗華は皇后伏氏一族の名門の出で、伏氏に従って皇帝の伽を行う役目を担っている。 その娘に手をつけたということで曹操は呆れたものだが、曹丕の正妻にするには丁度いいのではないかとも考えていた。 しかし曹操は別の考えも持っていた。 このまま姻戚とはいえないまでも、漢室と血の繋がりを持つことは後漢の終焉であるこの乱世を否定するようなものであった。 そのとき、曹操は一人の男が視線に入った。 司馬懿である。 司馬懿と曹一族を結びつける為に妻となる女性を探していた。 漢室と繋がりの深い伏氏一族の娘を司馬家に与えればどうなるであろう? 司馬懿もその鎧の内側の野心を見せるかもしれない。 そして漢室に屈辱を与えることで皇帝の権威をさらに弱くすることも可能であろう。 曹丕に対しては何も思うことはなかった。 どうとでもなることだったから。 自分の思いつきに曹操はにやりと笑った。 「仲達、ここに!」 曹操は司馬懿を大仰に呼んだ。 本来内輪だけの宴席に子飼いの武将たちや、文官らは列席を許されない。 しかし司馬懿は公子たちの師として呼ばれていたのである。 それに何より曹操は司馬懿に入れ込んでいた。 重用することこそないが、未来の曹家を支えるものである。 曹操なりの重用の仕方であった。 呼ばれた司馬懿は曹操のもとにやってきた。 礼をし、伏し目がちに曹操を見る。 「麗華を妻とせよ。」 曹操の言葉に麗華は思わず顔をあげた。 そのとき同じように顔をあげた司馬懿と目が合う。 麗華の背筋に冷たいものが走った。 司馬懿の鋭い視線が麗華に突き刺さるようだった。 麗華は以前の宴席での自分の所業にさっと顔を赤らめ、また顔を伏せた。 「麗華は伏皇后の伏氏一族の娘。出自は確かだ。どうだ、今を盛りとばかりに美しく、月に昇った嫦娥もかくやといわぬばかりだ。」 麗華の身体が震えた。 どういうことだろうか? 献帝の皇后伏氏の筆頭女官として仕える身。 曹丕の妻にという言葉を自らの立場を考えて断ってきた。 それを咎められての曹丕の妻にというのならばわかるが、さして重用されてもいない、公子たちの指導係であるような男の妻になれという。 漢室を貶める侮辱も甚だしい。 司馬懿は麗華を見、そして献帝の様子を視界の端で見た。 献帝は怒りで顔を真っ赤にしていた。 それもそうだろう。 伏皇后の筆頭女官であれば、伏氏の代わりに献帝を慰める立場にある。 妻の一人となんら変わることはない。 だから女官長は皇后一族の中から選ばれる。 伏皇后が孕まなければ、代わりに皇帝の子を孕まなければならない立場なのである。 その皇帝の妻とも呼べる娘を官位の低い自分に、それも曹操という皇帝の後ろ盾が示唆する、というこの事態に献帝としては怒り心頭であろう。 曹操の意は得た。 つまり漢室の取りつぶしである。 「…私には過ぎたることです、曹操殿…。」 司馬懿は顔を伏せた。 断れるわけがない。 また断る理由もない。 そしてこの婚姻をなしにできるのは曹操一人しかいない。 献帝もまた、この婚姻に反対できるような立場にはないのだ。 「過ぎたることではない、お主の器量を考えれば麗華ほどの賢い娘を迎えるが妥当。そう思われませぬか帝。」 曹操は不敵にも献帝を見た。 献帝は曹操が望んだような狼狽振りを見せた。 力の差は歴然である。 名ばかりの皇帝は自らの力のなさを悔やむしかない。 「…曹操のよきように取り計らえ…。」 搾り出すような声で献帝はそういうと酒を飲みすぎたといって下がっていってしまった。 麗華の身の振り方はここで決まったのである。 曹操も列席する中で麗華と司馬懿の婚礼が執り行われた。 伏氏一族という、名門中の名門から妻を迎えるとあって、諸侯たちは司馬懿という男に対して脅威と畏怖をはじめて覚えたのである。 その晩、初夜を迎えるにあたり、司馬懿の中に大きな期待はあった。 はじめて会ったその日から、一目で司馬懿を虜にした女である。 その女をどうして曹操が自分に与えたのか、色々邪推をするものの、曹操の言うとおりここは曹操の意を得、差し出されたものを受け取る覚悟を決めていた。 結婚など政界を渡る術のひとつでしかない。 それがたまたま自分がいいと思った女だったというだけのこと。 どのように出会い、どのように縁あって結ばれるのか、過程など関係なく自分が気に入った女をこの手に抱くということは気分のいいものであった。 相性がよければ可愛がってもいいとさえ思った。 寝間に入って二人きりになるそのときまでは。 侍女らが下がり、単姿の麗華の肩に手をかけた。 びくりと麗華の身体が大きく震えた。 ――生娘でもなかろうに。 侮っていたかもしれない。 所詮皇帝の下がり物でしかない、と心の中で貶めていたのだろうか。 「今宵は疲れただろうが…」 そこまで言ったときだった。 不意に麗華がさっと身を翻して部屋から出て行こうとしたのである。 司馬懿は眉を顰め、部屋を出て行こうとする麗華の二の腕を掴んだ。 「どこにいく?」 そのとき麗華がはじめてまっすぐに司馬懿を見た。 まっすぐな視線には怒りが込められ、視線で射殺せるなら殺してやりたいとでもいうかのように強い視線だった。 「勝手に私を妻にするならそれでも構いませぬ。でも私の身体までは自由にはさせませぬ!この身はあなたのようなものが触れていいものではない!」 そう叩きつけるように言うと麗華は司馬懿の手を振り解こうとした。 しかしそれは許されなかった。 突如身体を攫われるように抱き上げられるとそのまま臥牀へと投げ出された。 麗華はカッとなって身を起こそうとしたが司馬懿に身体を押さえつけられた。 「私の妻となったことがそんなに不満か。曹丕殿に許したその身体に私が触れるのがそんなに嫌か。」 怒りに満ちた司馬懿の目に麗華は一瞬怯んだ。 暗く静かな怒りだった。 麗華は唇を噛み締めると身体を強張らせて逃げようともがいた。 司馬懿の中では内心侮っていた女のささやかな反抗に驚かされたのと、曹丕に許したその身体に何の誇りがあって自分には許せないのかという苛立ちに自分自身でも驚いていた。 本来このように力づくで女を組み敷くなど自分には考えられないことだ。 「曹丕殿の子ができたら皇帝の子として偽るつもりだったか?」 思ってもいない麗華を揶揄する言葉が飛び出てきた。 麗華ははっとして司馬懿を見た。 そして身体中に震えが走る。 「そのような…っ!」 言葉が続かない。 涙が溢れて視界がぼやける。 麗華が筆頭女官となったのは伏皇后が正妻として輿入れしてすぐである。 献帝が伏氏を皇后に迎えた最初の二、三ヶ月は伏皇后のみが寝間に招かれた。 皇帝の妻の一人のような存在ではあって皇帝の側近く仕えてはいたが、実際に皇帝に抱かれたことはない。 献帝はすぐに女を寝間に入れることはなくなってしまったのである。 例外的に輿入れしたばかりの側室が一、二度寝間に招かれることはあるが、それでも皇帝は側室に手を触れることはなかった。 しかし皇帝の寝間の話は皇帝の身内だけが知っていることで、曹操らの知るところではない。 これだけの側室がいて子が為せない献帝のことを嘲笑うだけである。 献帝自身、子を為すことを望んでいないこともある。 だから男色に耽っていることを麗華は知っていた。 自分に子が出来、傀儡とされる苦しみを子に味わわせたくないという心があるからであろう。 麗華は献帝の心を痛々しく感じていたのだ。 なのに司馬懿のこの言葉は激しく麗華を、献帝の心を傷つけるものだった。 しかし司馬懿はそんなことを知らない。 麗華は大きく息を吐いた。 「お好きにされるがよろしいでしょう。あなたが何をどうお思いになりましょうが、漢室を傷つけることはどなたにもできますまい。」 力を抜き、ふいっと顔を背けた麗華に司馬懿も起き上がった。 「そなたは曹操からの贈り物に過ぎない。私には別に妻がいるゆえ、好きにするがよかろう。」 司馬懿はそういうと麗華を残して部屋を出て行った。 部屋を出て、司馬懿は大きくため息をついた。 自分が身分が低く、出仕など望んでいなかったことを思い起こせばなんでこんな面倒なことになったのかと思うと曹操を恨みたくなる。 いやそれ以上に女に拒絶された衝撃は計り知れぬものであった。 そのまま元の妻のところに行こうとして足を止める。 「なんともやっかいなことよ…。」 新婚早々に元の妻のところに行けば醜聞がたつ。 そのまま書籍の並ぶ自室へと向かう。 奥の書庫には窓がない。 芯を細く切った灯台に火をつけて袖で覆うとそそくさと奥の書庫へと入った。 先日から行っている木簡を巻物に書写する作業を開始する。 しかし、当然集中などできず、何度もため息をつくために筆を硯に置くという作業を繰り返した。 自分が飾り物の妻になったことはよくわかっていた。 婚礼の夜以来、司馬懿と顔をあわせていなかった。 そんなことは当然だろう。 あんな非道いことを言ったのだから。 あれから麗華は司馬懿に申し訳なく思ったのだ。 彼は曹操から差し出されたものを受け取ったに過ぎない。 そしてそれは断れるものではなかったのだから。 彼にとっても迷惑な話だったろう。 ただあの冷たい非情さを窺がわせる視線にさらされて、身を守る術何一つ持たずにあの場になって出た言葉であった。 ただ、人を愛し、愛されたいという人間の女としての当たり前の願いを踏みにじられた気持ちばかりが先行し、司馬懿を傷つけてしまったことに麗華は心を痛めていた。 こうして司馬懿の邸の一角に自分専用の棟をもらい、曹操や献帝からの支援もあって司馬懿の妻としては十分すぎるほど贅沢な暮らしをさせてもらうことになった。 多分、司馬懿の妻はもっと質素な暮らしをしているであろう。 しかし司馬懿の妻は自分にはないものがある。 穏やかな家庭と子どもに恵まれた温かな愛がある。 麗華は身の置き所がなかった。 自分のしたことを恥じ、自分のこの境遇が哀れでならない。 そんなとき一通の手紙が麗華に届いた。 伏皇后からである。 女楽の誘いであった。 麗華はこの息が詰まるような司馬懿の邸から少しでも外に出る口実ができてとても喜んだ。 すぐに返事をすると、気持ちがとても浮き立っている自分に気がつく。 伏皇后は自分の今の境遇を気づいているのだろうか? 幼い頃からずっと仕え続け、姉妹のように過ごしてきた二人である。 今はとても伏皇后に会いたかった。 今の自分の現状を教えることは出来なくとも、誰かに側にいて欲しかった。 その夜、珍しく母屋で麗華は司馬懿を出迎えた。 「珍しいこともあるものだな。」 皮肉を隠すことなく、司馬懿は麗華に冷淡な眼差しを向けた。 麗華は臆することなく頭を下げた。 「お帰りなさいませ。」 後方では司馬懿の妻と子どもたちが密やかに伏せている。 こんな状況ははじめての出来事である。 「私に何か用でもあるのか、麗華。」 上着を脱ぎ、襟元を緩める。 侍女らが司馬懿の上着を受け取り、髪から冠をはずして髪を整える。 一通り一家の主人を出迎えたあと、司馬懿の妻と子らは下がっていった。 別の侍女が盥を用意し司馬懿の手を洗う。 麗華は司馬懿の前に優雅に膝をつくと、手にしていた布でその司馬懿の手を拭いていく。 はじめてみる妻としての麗華の行動だった。 司馬懿は麗華を見た。 女官長のときは幾分きつい面差しだったように思うが、今日の麗華はもっとずっと女の顔をしていた。 身に背負う責任の重さがいかに彼女にとって大きかったのかと思わせる。 華奢な指先に司馬懿は官能を覚える。 しかし、彼女は司馬懿がどうこうできる相手ではないのだ、と再び心に言い聞かせる。 「皇后様からお召しでもあったか?」 当たり触らぬ内容であてずっぽうで麗華に聞く。 麗華は拭き終わった手ぬぐいを丁寧にたたむと侍女に渡した。 「公主様方のどなかからお耳に入りましたでしょうか?」 公主とは曹操の娘たちのことで、幼い公主にはやはり司馬懿が勉学を教えている。 伏皇后の開く女楽は幼い公主たちはじめ、曹操の妻らも呼ばれる。 麗華は司馬懿があてずっぽうに言ったとは露知らずそう答えた。 「いや、私は何も聞いていない。」 司馬懿はそう答えると侍女が差し出した白湯を口に含んだ。 口の中を漱ぎ、白湯を吐き出すと別の侍女が布を差し出したのでそれで口元を拭いた。 「伏皇后様から女楽のお召しにございます。」 麗華は立ちあがって茶の用意をする。 「女楽?」 司馬懿は知らないのかもしれない。 季節ごとに恒例行事のように行われ、献帝を前に開かれる女だけの演奏会である。 麗華は琵琶の名手なので、伏皇后のもとでもう何度も数え切れないほど琵琶を奏でてきたのである。 「皇后様が私の琵琶をご所望されておりますゆえ、出仕することをお許しいただければと思います。」 司馬懿は麗華を見た。 やめろ、といえばやめるだろう。 今、献帝の周りには不穏な空気が流れている。 曹操が何かしかけていることは気がついていたが、もしそれに巻き込まれたら、と思うとあまりすすめられない。 しかしそのことを麗華に話すわけにもいかない。 「先ほど帝においては軽く風邪をひかれたご様子。今はよくなられたようだが、帝をお慰めするために皇后様が企画されたことであろう。ならば断る理由もあるまい。あまり長居することなく帰宅するのであれば問題ない。」 司馬懿はそういうと麗華の用意した茶を口に含んだ。 宮廷上がりの女性らしく、茉莉花が浮かべられた香茶は馨しく華やかな味と香りに一瞬陶酔する。 「素晴らしいな。」 一言、真実口から出た感嘆の言葉だった。 「恐れ入ります。」 麗華はそういって頭を下げた。 気がつけば部屋の中にはあちこち花が生けられていた。 飾られていた花は茉莉花の香りを壊さないようにするために香りの強くない花々が生けられている。 こんな小さな心配りも司馬懿は感心した。 子ができてから、妻はずっと子育てで忙しくしていたせいか、このような華やいだ雰囲気はなかったからである。 「失礼いたします。」 そう言って下がる麗華を司馬懿は見送った。 愛せたらどんなにいいだろうと思う。 雲上人の世界にいた天女。 ごく当たり前のようにその世界を広げてくれる麗華が愛しく、そして憎かった。 麗華を妻として聞こえてくるのは、皇帝の下がり物、曹丕の愛人という麗華の噂話だった。 実際曹丕は麗華に結婚の打診をしていたことは司馬懿もよく知ったことだ。 それも正妻に、と望んでいた。 周囲も曹丕が望むのであればそうなるであろうと思っていたようである。 実際はしがない文官の自分に下された。 曹丕はそのことに対して何も言わなかった。 ただ一言、 「父上の意を得たか。」 とだけ言った。 目出度いとも、惜しいとも、言わなかった。 もし曹丕が司馬懿に対して恨み言の一つでも言っていたら二人の運命は変わったかもしれない。 ただ、曹丕は何も言わなかった。 ただそれだけだった。 |
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