天涯の華   其の壱


 春日在天涯
 天涯日又斜
 鴬啼如有涙
 為湿最高花
   
 《其の弐へ》 

 
  麗華がその人と会ったのは春まだ浅い、夕闇迫る許昌の城内であった。
夕闇迫る許昌の城内で、献帝の側に座を占め、皇帝の威光を翳めさせる強い覇気を放つ曹操から身を隠すように伏皇后は小さく控えて俯いていた。
この伏氏の血縁で、伏氏に最も近く使えているのが麗華である。
本来献帝の側に仕えるのは洛陽であったなら宦官が仕える。
しかし、洛陽を落ち延び、曹操の庇護の下にある献帝には自分の居城などないに等しく、曹操の居城であるこの許昌の城の片隅で妻伏氏と共にひっそりと生活していた。
名ばかりの皇帝として。
その皇帝に仕え、身の回りの世話をするのはすべて伏皇后の女官たちで、献帝には宦官などひとりもいなかった。

その献帝に並んで座す曹操の傲慢さに麗華は反感を覚えつつも、この緊張した関係がいつ崩壊するのかわからない不安さをもてあましていた。

献帝の後ろからそっと横ににじりより、出された杯に酒を注ぐ。
曹操の側には曹操が連れて来た夫人が優雅な所作で杯に酒を注いでいた。
ひそやかなざわめきが広間に広がっていた。
傀儡と成り果てた献帝を嘲笑する声が聞こえるような気がして、麗華は唇をかみ締めた。
そのとき、献帝がくすりと笑った。
麗華をなだめるような、そんな柔らかな微笑だった。
麗華ははっとしてそそくさと献帝の側から離れ、伏皇后の側に戻った。
そのとき、場が一瞬波打ったようにどよめいた。
広間に現れたのは一人の青年だった。
男にしては細く、優雅な足取りはまるで女性のように柔らかな物腰だった。
鋭い目つきがそれを返って際立たせ、彼が決して一筋縄でいくような男ではないことを示していた。
青年は迷わぬ足取りで献帝と曹操の前まで歩を進めると、優雅な物腰で裾を蹴さばき、その場に膝をついて伏した。
皇帝への最敬礼である。
しかしそれは誰が見ても献帝への礼ではなく、曹操への礼としか見えなかった。
 
「よく来た、司馬懿 。」
 
曹操がにやりと笑って立ち上がった。
 
「必ず来てくれると信じていたぞ。」
 
曹操はそういうとつかつかと伏す司馬懿 の側に膝をつき、顔を上げさせた。
しかしその男は冷たい底知れぬ無表情があるだけであった。

「献帝であらせられる。」

曹操が後ろをふりかえった。
献帝は申し含められたようなお仕着せの言葉を口にした。
 
「曹操から話は聞いている。出仕を許す。今後は曹操と共に国政にあたるように。」
 
献帝の言葉に再び青年が伏した。
 
「姓は司馬、名は懿 、字は仲達と申します。この許昌への出仕のお召し、ありがたく存じます。」
 
低く、抑揚のない言葉は彼が不本意な出仕を促されたことを物語っていた。

「曹操、私はこれにて失礼する。」
 
献帝は立ち上がった。
申しあわせていたのだろう、曹操は別段とがめるでもなく立ち上がって下がっていく献帝を見送った。
伏皇后も続いて下がる。
麗華も共に下がろうとした。
そのとき伏皇后がやんわりと麗華を制した。
 
「皇帝陛下の御座所にございます。客人をもてなすように。」
 
この許昌城内のこの建物は皇帝の住まいとなっている。
曹操とはいえ、自由にしていてよい場所ではないのだ。
献帝に仕える者たちがこの邸を取り仕切らねばならない。
女官の筆頭である麗華にその役目があるのだ。
麗華は小さくため息をついた。
そしてわずかな女官らに皇帝と皇后の側仕えを命じ、自分はその他大勢の侍女らと共に広間で曹操はじめ、曹操の配下と配下となったものをもてなす為に宴会のはじまった広間へと戻った。

あちこち酌をしてまわる。
皇后に仕える女官なら本来このようなことは彼女の仕事ではない。
ゆえに悲しさと悔しさで腸が煮えくり返るようあった。
武将文官たちのえげつない言葉の揶揄、皇后筆頭女官である自分への、まるで端女のような扱いに屈辱を感じずにはいられなかった。
順に酌してまわって、麗華は今日の客人のもとに酒を運んだ。
近くで見ると端整な顔立ちの男だった。
隙がなく、まるで鋭利な刃物を思わせるような男であった。
 
「皇后陛下の女官長であらせられるか。名はなんという?」
 
麗華自身に問われた言葉に麗華は俯いた。
本来こういう場では女官たちは一切言葉を交わさない。
交わさないがゆえに男たちは思い思いの言葉を女官たちに浴びせ、その反応をみようとする。
何も答えない女官たちの顔色を変えさせようと、男たちは女たちにひどい言葉を浴びせるのだ。
 
「悪かった。私のようなものには口を聞いてはならぬのだったな。」
 
司馬懿は苦笑した。
そして麗華から注がれた酒を飲み干した。
 
「麗華、と申します。」
 
麗華はそう答えた自分に驚いて思わず口元を袖で覆った。
なんて軽率な、という自分のしたことに驚きを隠せなかった。
司馬懿もしばらく驚いたように麗華を見ていたが、やがて唇の端を吊り上げて薄く笑った。
 
「私のようなものを喜ばせてはならぬ。皇帝陛下の御為であるならなおさら。」
 
司馬懿の言葉に麗華は震えた。
なんでこのようなものに自分の名を告げたのか麗華は自分でもわからなかった。
かけられた言葉が他の男たちと違ったからだろうか。
麗華は自らを恥じ入るように身を翻してその場を去った。
麗華の後姿を後悔がやや入った視線で司馬懿 は見送った。
知っていて声をかけた自分、なのに思いがけず言葉が返ってきたと思ったら心に闇が差し込んだような気がしたのだ。
麗華が悪いわけではない。
今日のところは献帝の名において出仕を促された身。今日だけは客人として許される日である。
その立場に甘んじて声をかけた司馬懿自身も非礼だったのである。
しかし司馬懿が声をかけたのには理由があった。
一目で目を引くその美しい容姿もさることながら、ひどい男たちの言葉に怯みもせずに言葉もなく上手くかわしながら、滑らかに仕事をこなしていく彼女に興味を持たずにはいられなかったのだ。
一目で司馬懿の好む、頭のよい女性であることがわかった。
だからつい声をかけてしまった。
声をかけて自分の愚かな行為に気がついたのだ。
そしてその愚かな問いかけに答えた彼女に腹が立ったのだ。

名残惜しげに麗華の去ったほうを見遣る。
彼女の姿はもうどこにもなかった。
司馬懿はため息をつくしかなかった。






麗華は自分の愚かさに腹が立って仕方がなかった。
何故答えてしまったのか、と。
今までの自分では考えられない愚かな行為である。
出仕したばかりの小娘でもなかろうに、女官長という立場にありながらのこの行為。
自分で自分が許せなかった。
邸内を出てすっかり月夜になった庭園をそぞろ歩く。
今日は献帝の邸内での宴会ということで庭園などに出てくる者は誰もいないはずであった。
麗華は東屋の中に設えられた椅子に座った。
そこからは庭園内に設けられた鏡のような美しい池があり、蓮の花が月明かりに照らされて青白く光っていた。
 
「そこにいるのは月に昇った麗しの嫦娥ではないか?」
 
人の声に麗華ははっとした。
なんという日だろう。
今日の自分のしていることは軽率極まりないことである。
麗華は袖で急いで涙を拭うと、声の主を探した。

東屋から少し離れた木立のところに一人の青年が立っていた。
その人物は麗華もよく知る人物、曹丕、字は子桓。
あの曹操の息子である。
もともとは庶子であったが、嫡子曹昂の戦死後母親が正室になったために嫡子となったのである。
麗華はその場で膝をついた。
本来そのようなことはしなくてもよい。
女官長である麗華は皇帝の勅使として何度も曹操のもとに出向いてもいるし、本来の身分から言えば麗華のほうがはるかに高い。
しかし曹操のおかげでこの許昌で生活ができることを考えれば、膝をつきたくない相手でも膝を折らねばならなかった。
 
「私にそのような真似はせずともよい。心の中で反発しながら膝を折られるのは好きではないのでな…。ところで麗華、このようなところにいるとは珍しいな、宴で何かあったか?」
 
曹丕は鞘に入ったままの剣の先を麗華の顎にかけ、上を向かせた。
膝を折るなといいながらのこの所業に麗華の身体が怒りで震えた。
 
「何もございませぬ…。」
 
曹丕は薄く笑った。
美しいが愚かな女だった。
帝に仕えるその誇りだけで生きている。
そんな誇りなど意味のないものを。
 
「麗華、立て。」
 
曹丕の言葉に麗華は立ち上がった。
もとより、曹丕の言葉に誰が逆らえよう?
自分が人形のような扱いを受けていることで、すでに麗華の心は傷つけられていた。
芍薬の花のような美しい立ち姿に曹丕は迷うことなどなかった。

「今宵、私の側に。」

曹丕の言葉に麗華は目を見開いた。
伏氏に仕えてきた麗華は、伏氏が皇后となってからは伏氏の代わりに献帝に伽をする役目がある。
それは皆が皆知っていることで、ごく当たり前の慣習でもある。
つまり皇后ほどではないが、献帝の寵愛を受けているといっても過言ではないのだ。
もしかしたら献帝の子を身ごもっているかもしれないのだ。
なんという傲慢な申し出なのか、と麗華はまっすぐに曹丕を睨んだ。

だが曹丕は怯むことはなかった。
麗華の中には自分と同じように熱い炎が燃え盛っていることは知っている。
女としての愛を誰かに捧げることを願っていることに気がついていた。
曹丕は不敵に嗤った。
そして不意に麗華の腕を掴むと抱き寄せた。
梅香の香りが麗華の鼻腔をくすぐる。
庭園に咲く梅の移り香だろうか。
心が折れそうになるくらい甘い囁きに陶酔しそうになる。
しかし麗華は渾身の力を込めて身を捩った。
以外にも拘束はすぐに解かれ、はずみで麗華はその場でくず折れた。
 
「私を愛することだ。その身だけでなく、その心をも曹魏のものとなれ。」
 
曹丕の言葉に麗華が唇を噛み締めた。
今の漢室と曹魏の関係そのもののようであった。
嘲笑うように曹丕が麗華の横を通り過ぎた。
 
――私は絶対に曹魏になど屈しはしない…!
 







 
「仲達、そなたに妻を与えたいと思うが希望はあるか?」
 
司馬懿は曹丕をはじめ、公子たちの教育一般にあたっていた。
文官としての採用であったが、曹操ははなから文官としての司馬懿を期待しているわけはなかった。
曹操は自分の死後、公子たちが信頼のおける軍師を選ぶことができるように司馬懿の出仕を促したのである。
実際公子たちは司馬懿の教えをよく理解し、信頼関係も築きつつある。
すでに育てるという意味合いからは大きくはずれてしまっているが、長子曹丕も司馬懿に信頼を置いているようであった。
曹一族を支えるものとして、司馬懿に曹一族の息のかかる妻を与えることで、そのつながりを強固なものにする必要があった。
 
「いえ、私にはすでに妻はおりますゆえ、そのようなお気遣いはいりませぬ。」
 
司馬懿は丁重に断った。
まだこのときの司馬懿の中では曹操は乱世の奸雄、皇帝を思うままに操る皇帝位の簒奪者でしかなかった。
 
「そのように言うのは今だけだ、仲達。悪いことは言わぬ。わが意を得、差し出されたものは受け取るがよい。」
  
曹操はにやりと笑って踵を返した。
司馬懿は立ち止まって曹操を見送る。
曹操の真意は一体なんだというのであろう?
今まで思い描いていた曹操と、現実の曹操には差がありすぎた。
乱世の奸雄になどに自らの智略を与えるわけにはいかぬ、と何度も曹操の誘いを断ってきた。
そうして曹操はとうとう献帝の名において出仕を命じてきた。
ほかではあまり聞かない話である。
皇帝の名を出されて司馬懿は観念し、出仕に同意はしたが軍事には関わらない、文官としての出仕を条件とした。
そして曹操はそれを呑んだ。
数多いる曹操の子をはじめとする公子たちのほか、文官、武官の子息たちにも勉学を教える立場となった。
もとより歳があまり離れていない曹丕とは以外にも酒を酌み交わすほどに親交を深めることとなった。
 
 
かつて曹操のもとには客将として関羽という武将がいた。
三国一の猛者で、一騎当千の士である。
その彼を曹操は惚れ込んで配下になる用に散々説得をした。
しかし義に篤い関羽は劉備のために曹操のもとを離れた。
曹操は無理強いをしてでも本当は関羽という武将を手に入れたかった。
しかし義に篤い関羽を手に入れる為には正攻法でしか方法がなかった。
結果曹操は関羽を手に入れることはできなかった経緯がある。
今度は司馬懿という軍師が欲しくなった。
もう曹操は二度とあのような思いをする気はなかったから、どんな手をつかってでも司馬懿を手に入れることを考えたのである。
皇帝の威光をあえてかさに着て、皇帝の名において出仕を命じた。
然るに司馬懿は渋々ながらも応じた。
あとは司馬懿の気持ちに火をつけるだけでよかった。
真正面からしか向き合うことを知らない関羽と違い、司馬懿は条件をつけて出仕に応じた。
つまり司馬懿は保身という鎧の中に野心という猛獣を飼っている、と曹操は見抜いたのである。
もしこれが関羽だったらどのように出るだろうか?
時々曹操はふ、と考えることはある。
しかし考えてもせんないこと。
司馬懿は今曹操の手元にいる。
 
「人間とは弱いものだな、仲達…。」
 
曹操は一人嗤った。
自らもまた覇道をゆくものとして、司馬懿のうちに秘めたる本人ですら気づかぬ野心を嗤った。
 
「さあ、この天下、一体誰のものとなるか…。」
 
曹操は許昌の街並みを見た。
そしてその向こうの遙かに広がる大地に思いを馳せる。
 
「劉備よ。敵はわしだけではないぞ…!」
 
曹操は自らの手のひらを見た。
老いてしわが目立つようになった。
自分に残された時間は少ない。
この曹魏を背負って立つものは公子だけではない。
数多の文官、武官。
すべてがこの国の統一を狙っている。
《表紙へ》 《其の弐へ》