| 616 |
おきもせず ねもせで よるをあかしては
春の物とて ながめくらしつ
(在原業平朝臣) |
| あなとを思い続けてゆうべは起きているわけでもなく、寝ているわけではなく、今日は春のながめ(景物)とて一日じゅうながめ(物思い)てしまった。 |
| 617 |
つれづれの ながめにまさる 涙河
袖のみぬれて あふよしもなし
(としゆきの朝臣) |
| あなたのことを思い、何も手につかないで物思いをしているので、水かさを増した私の涙の河は、ただ私の袖を濡らすだけで、あなたに違う方法がありません。 |
| 618 |
あさみこそ 袖はひづらめ 涙河
身さえ流ると きかばたのまむ
(なりひらの朝臣) |
| 袖に濡れるというが、(あなたの)涙河が浅いので濡れるのであって、袖ばかりでなく、あなたのからだまで浮いて流れると聞けば、あなたを頼りましょう。 |
| 619 |
よるべなみ 身をこそ とほくへだてつれ
心は君が 影となりにき
(よみ人しらず) |
| あなたに近寄るつてがないので、私の身は遠くへだっています。けれど私の心はあなたの影となって、常に側に寄りそっています。 |
| 620 |
いたづらに 行きては きぬる物はゆゑに
見まくほしさに いざなはれつつ |
| あなたのところに行っても、あなたは逢ってくださらず、虚しく帰ってくるだけなのに、逢いたいという気持ちに誘われてこうしてでかけてしまうのです。 |
| 621 |
あはぬ夜の ふる白雪と つもりなば
我さへともに けぬべき物を |
| 恋しい人に逢わない夜が、もし白雪となって積もったならば、私までも白雪とともに消えてしまいそうです。 |
| 622 |
秋ののに ささわけし あさの袖よりも
あはでこしよぞ ひちまさりける
(なりひらの朝臣) |
| 秋の野原で露の多い笹葉を押しわけて通った朝の袖よりも、訪れながら逢わないで帰った夜のほうが余計にぬれるものなのですよ。 |
| 623 |
見るめなき わが身をうらと しらねばや
かれなであまの あしたゆくくる
(をののこまち) |
| ここは海松布(みるめ/海藻の一種)のない浦であると知らないのか、離れもせずに海人が足が疲れてたるくなるほど通っている。 |
| 624 |
あはずして こよひあけなば 春の日の
長くや人を つらしと思はむ
(源むねゆきの朝臣) |
| せっかく訪れたのに、逢ってもくれないで今夜が明けてしまったならば、これからは永遠にあなたを冷酷な人だと思ってしまおう。 |
| 625 |
有あけの つれなく見えし 別れより
暁許(あかつきばかり) うき物はなし
(みぶのただみね) |
| ありあけの月が思いやりの気持ちもなく照っているように見えた別れのとき以来、私は夜明けほど憂く思われるものはない。 |
| 626 |
逢ふ事の なぎさにしよる 浪なれば
怨みてのみぞ 立ち帰りける
(在原元方) |
| せっかく訪れても逢うこともなく、渚に打ち寄せる波が浦から戻るように、私はあの人を恨んで戻ってくるばかりである。 |
| 627 |
かねてより 風にさきだつ 浪なれや
逢ふ事なきに まだき立つらむ
(よみ人しらず) |
| あらかじめ 風が吹く前に立つ波であるからであろうか。まだ恋人に逢うこともないのにうわさが先に立っているようです。 |
| 628 |
みちのくに 有りといふなる なとり河
なきなとりては 苦しかりけり
(ただみね) |
| 陸奥国に有るといわれている名取川のその名のように、無実の汚名を着せられては苦しい思いをしております。 |
| 629 |
あやなくて まだきなきなの たつた河
わたらでやまむ 物ならなくに |
| 理由もなくてまだそんなこともないのに、無実の評判が立ったからといって、立田川を渡らないで、途中で辞めてしまうような逢瀬ではありません。 |
| 630 |
人はいさ 我はなきなの をしければ
昔も今も しらずとをいはむ
(もとかた) |
| あの人はどう思うか知らないが、私は無実の評判をたてられるのが惜しいので、昔も今もそのような人は知らないと言おう。 |
| 631 |
こりずまに 又もなきなは たちぬべし
人にくからぬ 世にしすまへば
(よみ人しらず) |
| 懲りもしないで、ふたたびあらぬ評判が立ってしまいそうである。人を憎くは思わない、愛しいと思う気持ちがこの世に住んでいるのであるから。 |
| 632 |
ひとしれぬ わがかよひぢの 関守は
よひよひごとに うちもねななむ
(なりひらの朝臣) |
| 誰も知らない私の秘密の通路の番人は、毎晩毎晩ぐっすりと眠ってしまってほしいものである。 |
| 633 |
しのぶれど こひしき時は あしびきの
山より月の いでてこそくれ
(つらゆき) |
| いくらがまんしても恋しくてたまらないときには、(山から月が出るように)私はついに家から出てきてしまったのである。 |
| 634 |
こひこひて まれにこよひぞ 相坂(あふさか)の
ゆふつけ鳥は なかずもあらなむ
(よみ人しらず) |
| 長い間恋続けて、やっと今夜逢うことができる。逢坂の関にいる木綿つけ鳥は、夜が明けないように、いつまでも鳴かないでいてほしい。 |
| 635 |
秋の夜の 名のみなりけり あふといへば
事ぞともなく あけぬるものを
(をののこまち) |
| 秋の夜の長いというのも、言葉だけでありました。いざ恋人に逢うとなると、なんということもなく夜が明けてしまったことです。 |
| 636 |
ながしとも 思ひぞはてぬ 昔より
逢ふ人からの 秋のよなれば
(凡河内みつね) |
| 秋の夜は長いと私は思っていません。昔から逢う相手によって長くもなり、短くもなるという秋の夜なのですから。 |
| 637 |
しののめの ほがらほがらと あけゆけば
おのがきぬぎぬ なるぞかなしき
(よみ人しらず) |
| 東の空が白んで、ほのぼのと夜が明けてきたので、それぞれ自分の衣を着て別れるのが惜しいことである。 |
| 638 |
曙けぬとて 今はの心 つくからに
などいひしらぬ 思ひそふらむ
(藤原国経朝臣) |
| 夜が明けてしまったとて、さて帰ろうという気になったのに、どうしていいようのない侘しい気持ちが付き添うのであろうか。 |
| 639 |
あけぬとて かへる道には こきたれて
雨も涙も ふりそぼちつつ
(としゆきの朝臣) |
| 夜が明けたといって、女性のもとから我が家へ帰る途中では、まるでしごき垂らすように、雨も涙も降っていて、びしょぬれになりながら戻ったことです。 |
| 640 |
しののめの 別れををしみ 我ぞまづ
鳥よりさきに 鳴きはじめつる
(寵) |
| 明け方の後朝の別れが惜しいので、私がまず、夜明けを告げる鶏より先に泣き出してしまった。 |
| 641 |
ほととぎす 夢かうつつか あさつゆの
おきて別れし 暁のこゑ
(よみ人しらず) |
| ほととぎすよ、一体夢であろうか、それとも現実であろうか、共寝の床から起きてまるで放心状態で別れてきた夜明け方のなき声は。 |
| 642 |
玉匣(たまくしげ) あけば君がな たちぬべみ
夜ふかくこしを 人見けむかも |
| 夜が明けたならば、あなたの噂が立つに違いないので、まだ夜が深いうちに別れて帰ってきたのを、まあ、だれがみたのであろうか。 |
| 643 |
けさはしも おきけむ方も しらざりつ
思ひいづるぞ きえてかなしき
(大江千里) |
| 今朝は本当にどのようにして帰ってきたのか、まったくわからない。今になって思い出すと、心も消え入るばかり悲しいことであります。 |
| 644 |
ねぬる夜の 夢をはかなみ まどろめば
いやはかなにも まさりけるかな
(なりひらの朝臣) |
| あなたと共寝したゆうべの夢がはかなく覚めてしまったので、帰ってきてうたたねをしたところ、いよいよはかなくなってしまうことです。 |
| 645 |
きみやこし 我や行きけむ おもほえず
夢かうつつか ねてかさめてか
(よみ人しらず) |
| ゆうべはあなたが来たのか、私が行ったのかわからない。あれは夢であったのか、現実であったのか、眠っていてのことなのか、それとも覚めていてのことであろうか。 |
| 646 |
かきくらす 心のやみに 迷ひにき
夢うつつとは 人がさだめよ
(なりひらの朝臣) |
| すべてを真っ暗にする私の心の闇で迷ってしまいました。ゆうべのことが夢であったのか現実であったのか、世間の人がきめてください。 |
| 647 |
むばたまの やみのうつつは さだかなる
夢にいくらも まさらざりけり
(よみ人しらず) |
| 恋しい人に逢うには逢ったが、まっくらな闇の中の現実は、かっきりと見た夢と比較して、いくらもまさっていないことです。 |