夜闇の待人 暗い・・・。 寒い・・・。 ここはどこ? 私は何でこんなとこにいるの・・・? 花梨は知らず自らの腕で身体を抱きしめた。 紅葉が舞い落ちたような気がする。 それとも昼間だというのに見えた流れ星? 何かが目覚めよと言った。 目覚めてあるべき姿を正せと言ったような気がする。 不可思議に輝く玉を八つ見たような気もした。 そして何かを問われて、花梨は思ったまま何か答えたようなのだが、不思議と何も思い出せない。 気が付けば真っ暗なこの場所でたった一人でいる。 何が自分の身におきたのか見当もつかない。 「パパ・・・、ママ・・・。」 いつでも自分を守ってくれる存在を口にすれば、自分の震える声にさらに感情がかきたてられて、涙がこぼれそうになる。 真っ暗なこの空間の中、出口も光もまったく見えない闇の中。 花梨はただ、自分で自分の身体を抱きしめたまま立ち尽くしていた。 そのときだった。 一瞬金色の糸が煌いたような気がした。 こんな真っ暗な空間だからかもしれない。 何かにすがりたくて、花梨はその金糸を追った。 「待って!」 花梨は消えそうになる金糸の糸に思わず叫んだ。 たった一本のすがる糸。 それが消えそうになるのを黙って見ていられなかった。 「おまえは何故泣いている?」 「えっ?」 花梨は慌てて手のひらで頬を拭った。 手に感じる濡れた感触に、はじめて自分が泣いていたことに気がついた。 そして突然男の姿が目の前に現れた。 紅い唇。 教科書で見たような着物姿。 異質に感じられるのはその金の髪と、肩にかけられた毛皮のせいだろうか? 仮面をつけているせいで男がどんな表情をしているのか掴めない。 ーーこの人は誰・・・? 「ここはおまえの来訪を望まぬものが作った所。おまえの墓場かもしれぬな。」 男は嘲るように言った。 その言葉は花梨には聞き捨てならなかった。 きっと男を睨みつける。 「いやよ!ここから出るにはどうしたらいいの?」 思ったことを口にすればさらに涙がこぼれた。 不意に男の手が花梨の髪に差し入れられる。 「助けてほしいか?ならば代わりに私の望みを叶えよ。」 傲慢とも思えるほどの優しい声が耳元で囁かれる。 「な・・・、何を・・・?」 花梨は男の声にぞくぞくするほどの恐怖と、甘さを感じて震える声で聞き返した。 この男が望むもの。 それが何なのか、花梨には見当もつかない。 男は優しく微笑んだ。 しかし、その優しさの中に危険なものを感じる。 花梨の頭のどこかで警鐘が鳴る。 ーーキケン、キケン、キケン・・・。 どうしてこの男が危険だろうか? 「おまえを助けてやろう。ここから出してやろう・・・。その代償はおまえのその力だ・・・。」 男が花梨の腕を引き身体を寄せる。 そして唐突なほどに、花梨の唇に温かい唇が降ってきた。 花梨は驚いて身を捩った。 温かい唇の感触とともに、花梨の心が恐怖で締め付けられる。 そして一瞬の浮遊感を感じたあと、どこまでも、どこまでも落ちていった・・・。 泰継は何かしら気の乱れを感じて庵を出た。 空気が張り詰めている。 木々の声がざわめく。 清浄なる気の集まる北山で何かが起こるとは思えない。 なのに泰継の心がざわめく。 ーーなんだ? 泰継は懐から人型のような、鳥のような、不可思議な形の符を取り出すと息を吹きかけた。 符はそのまま真白の鳥の姿をとり、一声高く声を上げると空気のざわめく源へと飛び去った。 泰継も庵を出て木々の間をすり抜け、空気の気の乱れる場所へと急ぐ。 一足先に式神の鳥がくるくると旋回している。 泰継は式神の旋回する真下の様子に思わず目を見開いた。 白く輝く光。 その光はやがて人型を取る。 最初はうっすらとその輪郭を現し、徐々にその姿をはっきりとさせていく。 姿形がはっきりしてくると、その人物からは神々しい神気がはっきりと感じられる。 それは畏怖を感じさせるものであった。 しかしその強い神気を裏腹に姿をはっきりとさせてきた人物は、華奢な身体の短い髪が印象的なごく普通の少女であった。 泰継の位置からはその少女の後姿しか見えないが、なぜか心がざわめくのを感じた。 頼りなげな少女に宿るその強すぎる神気が、彼女を壊してしまいそうに感じられたからであろうか? 泰継は不意に右頬が熱く感じられた。右目の下に思わず手をやる。 ーーなんだ・・・? 手に感じる感触は玉を感じさせる。 自分の右頬にそんなものはない。 そのとき少女の身体がぐらりと傾いだのが見えた。 泰継はその少女を助けるべく少女の身体を抱き寄せた。 「おまえは何ものだ?妖しか?化生のものか?」 泰継は自分で自分の言葉に驚いた。 これほどの神気を持つものが怨霊などではないことはわかりきっているというのに。 少女は泰継の言葉に反応を示した。 「いやっ!」 少女はその身を捩り、泰継の腕から逃げようと抗った。 まるで何かにおびえているようである。 泰継はそう感じるとますます少女を抱く腕に力を入れた。 「落ち着け。」 泰継は眉を顰めると短く少女に言った。 「いやっ!離して!助けてくれなくていい!」 「助ける?」 泰継は少女の身体を向き直らせた。 抗ってはいるものの、驚くほどその力は弱く、彼女がひどく疲労しているのがいて取れた。 「助けるといっても無理だ。おまえは何から助けてもらいたいのか私にはわからない。」 泰継の言葉に少女がはじめて顔をあげた。 涙で濡れた頬に髪がはりつき、なんとも頼りなげである。 けれども泰継を訝らせたのはその瞳であった。 おびえた光を宿し、今こうして泰継に触れられてることをに恐怖を感じているようであった。 「あなた・・・、誰・・・?さっきの人とちがう・・・。」 少女は泰継の顔を見て尋ねてきた。 少女の瞳はまだおびえていたが、どうやら彼女をおびえさせた原因と泰継が違うと判断したようであった。 「それは私が聞きたい。おまえこそ誰だ?名はなんという?」 そのときだった。 「兄様!見つけましたわ!」 甲高い女童の声が響いた。 星の一族、紫姫の声であった。 そう、彼女は龍神の神子である。 そして泰継は彼女を守る八葉となった。 今思い出しても頬が火照ってくる。 花梨は両手で頬を押さえて溜息をついた。 北山で花梨が出会ったのは安部泰継という陰陽師であった。 自分があの暗闇で出会った、傲慢なほどの美しい男とは似ても似つかないというのに、自分は確かにおびえて泰継に迷惑をかけた。 あのときの花梨は本当に一人で立っていられないほど、ふらふらだったのだ。 星の一族という紫姫と深苑によれば、生身の人間がその身に龍神をおろしたためにおこった疲労だろうということであった。 そのあとのことはよく覚えていない。 とにかく眠くて、だるくて気が付いたら紫姫と深苑の邸に寝かされていた。 側には陰陽師、安部泰継が控えていて、花梨は羞恥でいたたまれない思いを味わった。 いくらなんでも乙女の寝顔を見られるのはこのうえなく恥ずかしいものである。 そのうえ、どうやら泰継がここまで運んでくれたらしいこともわかった。 「ああ・・・最悪だよ。」 花梨は溜息をついた。 泰継は八葉ということで、あれから毎日花梨のもとに訪れては京の散策に同行してくれる。 出会いが出会いだったため、いつも気恥ずかしい気分を覚える。 けれど接するうちに不思議な安心感を覚えた。 いつも冷静で、論理的な泰継は本当のことしか言わない。 それゆえに、彼に言われるひとこと、ひとことが花梨の心に染みる。 泰継に龍神の神子と認められたときは、とても嬉しい反面、何か悲しさも覚えた。 ーーなんでだろう? 龍神の神子として認められて何が悲しいのだろう? 花梨は首を傾げた。 神子を守る八葉として泰継は大切にしてくれる。 なのに花梨は、以前のように神子として認められてないときのほうがよかったような気がしてならないのだ。 龍神の神子と八葉。 その関係に何故悲しいのか花梨にはわからない。 ーーも、もしかして私、泰継さんが好き・・・? ぱぱぱっと頬を赤らめる。 今はそれどころではないというのに。 考えを振り切るように、花梨は大きくかぶりを振った。 そのとき、ぞくりと寒気が走った。 何度かあったことのあるこの感触に、花梨は表情を強張らせた。 「あ・・・頭・・・いたっ・・・。」 花梨は眉を顰めた。 頭の中で警鐘なのか、鈴の音が響く。 ーーアクラムが私を呼んでる・・・? 花梨はどこというあてもないまま四条の邸の庭から、外へと抜け出した。 頭痛はひどくなり、それと同時に身体の中から聞こえる鈴の音も大きく感じる。 ーー行っちゃいけないのに。 ーーなんで私は・・・。 夜の京を花梨はどこへ行くのかもわからないまま、足の向くままに歩く。 ーーだめ。行っちゃだめ。 頭の中で響く警鐘は頭痛をはるかに凌駕する。 けれど足は止まらない。 ーーいや、いや! 見えない糸に手繰り寄せられるように着いた先は羅城門跡。 夜の闇に浮かび上がるひとりの男の姿に花梨は身震いを覚えた。 金の髪が夜闇に浮かび上がる。 獣皮の衣は異様にも見えて。 男が振り返る。 「神子・・・?」 何故自分がここにいるのか、アクラムは何度も自分に問う。 自分がいたはずの100年前の京。 あれほどに欲しいと切望した京。 その京に住まう民は、今自分達の手で滅びを迎えようとしている。 許せなかった。 今滅びをむかえようとするなら、何故自分が京を手に入れようとしたときに滅びの選択をしなかったのかと。 ーーならば再びこの手で滅ぼしてみせる。 アクラムは拳を握り締めた。 自ら滅ぶなど許さない。 必ず自分の手で滅ぼしてみせる。 この羅城門のように京が廃墟になればいいと思った。 だから、だからこそ龍神の神子を召還した。 ーー私は神を信じない。信じるものは己の力のみ。 二人の龍神の神子を操り、京は滅びへと進み始めた。 二人の龍神の神子はどちらも京を滅ぼしたくないと願っている。 その思いを逆手に彼女達の手で京を滅ぼす。 今度こそ滅ぼして見せる。 ーーどうだ龍神、おまえ達の神子の手でこの京は滅びるぞ・・・。 しかしアクラムは満足を得られないどころか、心の中に空虚な思いを抱く。 この京が滅びるというのに、自分の思い通りにことが運んでいるというのに。 以前は京を手に入れればそれで満足すると思っていた。 実際100年前の京では怨霊を使って京を震撼させた折は、自分達鬼への仕打ちに対する報復として満足を得られていた。 なのになぜだろうか。 アクラムの心には空洞ができ、徐々にその空洞は広がりつつある。 アクラムがその心の空洞の存在に気が付いたのはいつであろう? この心の空洞は何かを考えているときに、神子があらわれたのである。 「何故おまえがここにいる?」 アクラムは冷たい声で花梨に問うた。 花梨は先ほどまでの頭痛が嘘のように消えていることに気が付いた。 ーーあれはやっぱり・・・。 花梨はアクラムを見据えた。 「あなたが呼んだんでしょう?」 花梨の硬い声色にアクラムはふっと自嘲した。 アクラムは仮面をはずした。 ーー白龍の神子は聡い。 アクラムは自分の本質を見抜いている花梨に内心動揺を覚えながらも、心惹かれずにいられなかった。 彼女の前では仮面などなんの意味もない。 花梨は明らかにアクラムという存在に脅え、敵愾心を持っている。 そして アクラムの心に生まれた空洞の存在を、理解はしていなくとも知っている。 ここに花梨が来たのがその証拠である。 花梨は自らの意思でここに来たのだ。 龍神の神子の本質ゆえに。 神子である自分を利用する者にさえ、その慈悲深さを与える為に。 「呼んだ・・・か。そうだな、呼んだかもしれぬ。呼ばなかったかもしれぬ。だが、おまえは今ここにいる・・・。」 アクラムは花梨を見た。 ふと気が付く。 花梨ははだしであった。 「はだしではないか?足から血が出ている。」 アクラムは花梨のすんなりした白い足に目をとめて眉を顰めた。 そしておもむろに花梨を抱き上げた。 「きゃっ!何するのっ!」 花梨は驚いて声をあげた。 しかし、夜更けの羅城門に花梨の声を聞くものはいない。 アクラムは花梨の抗議の声も聞かず、羅城門跡の石段に彼女を座らせた。 袖に手を入れ、単の衣を裂く。 傷だらけの花梨の足に巻いていく。 花梨の足は信じられないほど冷たかった。 見れば花梨の身体はかたかたと震えている。 唇も青ざめている。 自分という存在に震えているのではなく、寒さに震えているのだと悟ったとき、アクラムは自分でも信じられない行為に出た。 自らの纏う獣皮の衣で花梨を包み込み、 そして、 抱きしめた。 花梨は驚いて身を捩ったがアクラムはそれを無視した。 「寒いのであろう?こうしていればすぐに温まる。おとなしくしていろ。」 アクラムの声に花梨の頬が染まる。 実際とても温かいのであるが、油断してはならない相手にこんなことをされては花梨は混乱するばかりである。 「放して!もう、私帰りますからっ!」 アクラムの胸を叩いて花梨が抗議した。 しかしアクラムは意外な思いを味わっていた。 こうして花梨を抱きしめると、先ほどまでの空虚な心が満たされるような感覚を覚えるのだ。 花梨が抵抗しようとも、欲しいものを手に入れたような、そんな満足感が。 しかし、次の瞬間にはもっと渇望する思いがアクラムの中で生まれる。 ーーもっと、神子がほしい・・・。 今まで一度として感じなかったこと。 自分が誰かを欲するなど考えたことはなかった。 自分の理想を実現させ、利用する道具として、誰かを欲することはあっても、自分の為に、自分の心を満たす為に誰かを欲したことはない。 花梨を包み込む手をわずかに緩め、花梨の顔を見る。 朱に染まった花梨はきっと自分をにらみつけている。 「神子・・・。」 アクラムは花梨の頬をはさむと強引に口付けた。 驚き、身体を強張らせる花梨を抱く腕に力が入る。 花梨が腕の中でどんなに暴れて身を捩ろうともアクラムはあっさりとそれを封じ込めた。 そのときアクラムはある気配が近づくのを感じた。 ーー八葉か・・・。 アクラムの中で何かが弾ける。 八葉を見つけよ、と言ったのは自分。 八葉は神子を守る存在。 神子の異変を察知して駆けつけてきたのであろう。 それがアクラムにはおもしろくなかった。 疎ましいとさえ思う。 それが神子が特別に心を寄せていると思われる地の玄武であればなおさら。 「神子・・!」 アクラムは花梨の身体を押し倒した。 花梨は唇を解放されて、大きく息をつく。 そして叫んだ。 「やだっ!やめてよっ!なにするのっ!」 花梨は目尻に涙を浮かべて両手を突っ張って抵抗する。 しかしそんな花梨の抵抗など、アクラムにとって無に等しい。 花梨を拘束するのは実に簡単なのだ。 呪いをかけてやればそれでよい。 だがアクラムはそうしなかった。 呪いを使って花梨を手に入れる気になれなかったのである。 花梨の両手を抑え、抵抗を封ずると、花梨の頬に、首筋に口付ける。 白い肌に鬼の色。 紅色の印が刻まれる。 「やめてっ!!」 花梨が叫んだ。 「神子っ!」 「来たか。」 崩れた柱の影から現れたのは泰継であった。 アクラムが身を起こして花梨の拘束を解く。 花梨はあわててアクラムの獣皮の衣から抜け出し、そこが安全かどうかも判断できぬまま、崩れかけた塀の向こうに身を隠した。 しかし泰継にはアクラムに組み敷かれた花梨の姿が目に焼きついて離れない。 泰継は目の前が真っ赤になるような気分を覚えた。 「神子に何をした・・・。」 泰継の声は低く、冷たく、怒気を孕みアクラムに投げられた。 怒り。 自分の中でこのような感情があろうとは思っていなかった泰継は、今の自分がこの金の髪の男を殺してしまうのではないかというくらい怒りに満ちていた。 それをしなかったのは、ひとえにこの男のもつ力の強大さゆえだった。 禍々しいまでの強大な気の持ち主。 今までこんな気を持つものに出会ったことなどなかった。 今自分が怒りに任せてこの男と戦っても、神子を守れはしないことはすぐに理解した。 「今すぐ去れ。」 泰継は短く言う。 「ふ・・・八葉が。神子の大事とあらばどこからでも駆けつける、というわけか?」 アクラムは仮面をつけた。 神子と八葉の関係は理解しているつもりだった。 神子が力をつけるためには八葉が必要であることはわかっている。 しかし何故かその関係はアクラムの癇に障る アクラムは冷たい視線を泰継に向けた。 「神子は自らの意思でここに来たのだよ、地の玄武。」 アクラムは泰継をせせら笑うかのように、挑発した。 アクラムの言葉に泰継は眉を顰める。 「もう一度言う。今すぐに去れ。」 泰継が低くつぶやいた。 その表情には明らかに怒りが見て取れる。 泰継の表情を見て、アクラムはとたんにこの地の玄武を挑発してもおもしろくないと感じる。 自分が欲しいのは神子である。 明らかにアクラムの目の前にいる男は、神子である少女に特別な感情を持っていることが見てとれたからだ。 そして、神子の為であれば、自らの命をさしだすことすら厭わぬことも。 ここでこの男を挑発しても、神子を手に入れにくくするだけである。 「興ざめだな。」 アクラムはそういい残すと姿を消した。 残された泰継は安堵とも言えぬ溜息をついた。 泰継は姿を消したアクラムの言葉を何度も頭の中で反芻する。 ーー神子の意思。 本当に神子は自分の意思でここに来たのであろうか? 泰継は花梨の隠れている崩れかけた塀の向こうへと足を進めた。 しゃがみこんで震えている花梨の姿を認めると、とてもそんな風にはみえない。 明らかに花梨はアクラムに脅えていた。 「神子。」 泰継が声をかける。 すると震えていた細い肩がびくりとする。 「わからないのっ!わからないんです!何でここに来たのか!」 花梨は叫ぶようにそのままの姿勢で泰継に言った。 「神子、私は・・・。」 北山の庵でひとり、陰陽道の書を読んでいるときに花梨の異変を感じた。 ひどく心乱れているようであった。 花梨の気は容易に探れる。 しかし今回のように自らが気を探らないのに、花梨の気が伝わってきたのは初めてだった。 花梨の力が強まっている証であろう。 そして気をたどって行き着いた先にはあの男がいた。 金の髪、碧い瞳のあの禍々しい気を纏った男。 度々花梨と会っていたことは感じられていた。 しかし自分が四条の邸に結界を張るまでの力がなかったためのこと、自分を責めても花梨を責めることはできない。 だから気をつけるように、油断しないように、と星の一族の姫とともに注意をすることしかできなかった。 「神子。」 泰継が何かを言おうとしたとき、花梨はすくっと立ち上がった。 しかし足が震えているのは隠せない。 「帰ります!ごめんなさい!」 花梨は震える足に鞭を打って一歩踏み出した。 「神子?!」 泰継は思わず花梨の二の腕を掴んだ。 そのときはじめて花梨がはだしであることに気が付いた。 自分のように常日頃からはだしで歩くのとは違う。 足に巻かれた白い衣には血が滲んでいる。 「触らないでください!」 花梨の激しい声に泰継ははっとして顔を上げ、彼女の顔を見た。 花梨はぽろぽろと涙を零しながら震えていた。 「さわらないで・・・ください・・・。」 花梨の懇願するような声に泰継は花梨の腕を放した。 そして泰継は気が付いた。 花梨の首筋につけられた紅い跡を。 泰継の中で再び血が沸騰するような感覚を覚える。 ーー神子を・・・穢した・・・。 そう考えるだけで、あの金の髪の男をどうして殺さなかったのかと悔やまれる。 自分に勝ち目がない、そんなことはわかりきっていたが、それでもあの男を少なからず傷つけることはできたかもしれない。 「すまない・・・。神子・・・!」 泰継はぎゅっと目を瞑った。 どう、彼女に詫びていいかわからなかった。 ただ、自分の目の前にいる少女に対して申し訳なく、そして花梨を穢したあの男が、報復できなかった自分が許せなかった。 泰継は花梨を抱きしめた。 「やめて!泰継さん!私!わたしは・・・!」 花梨が抗った。 けれど泰継の香が鼻腔をくすぐり、そのあたたかな胸に抱かれて、花梨は切なくてとうとう泣き出してしまった。 「なんで?なんで泰継さんなの・・・?」 アクラムに組み敷かれた姿を、アクラムの残していった紅い跡を。 泰継に見られたことが何より恥ずかしい。 こんな自分の姿を見られたくなかった。 さらにアクラムの残していった言葉。 許せなかった。 でも否定できなかった。 身体が勝手に動いてしまったのだから。 アクラムが自分を呼んでいると確かに感じ、そして自分はここに来たのだから。 ーーなんで・・・!なんでよりによって泰継さんなの・・・! ここに来たのが泰継であったことが恨めしい。 他の八葉であったら、こんな辛い気持ちを味わうことはなかったろう。 何より、泰継に抱きしめられて安心している自分が許せない。 「神子が悪いのではない。」 何をどういったらいいのかわからなかった。 アクラムに組み敷かれた花梨の姿は、改めて花梨が女性であることを泰継に認識させた。 そしてはじめて味わう嫉妬という感情に泰継はとまどった。 ーーあの男が憎い。 そして、花梨が哀れで、そしていとおしくて、そしてはじめて知ったこの思い。 「神子・・・、許せ。私は・・・!」 ーー誰にも神子を渡したくない。 皮肉にもあの男に気づかされた事実。 そして、それと同時にわきあがる想いに泰継はどうしていいのか、自分で自分をもてあます。 「神子・・・。」 苦しそうな泰継の声に、花梨が恐る恐る顔をあげる。 異彩の瞳はきつく閉じられ、唇を噛みしめている。 「許せ・・・神子・・・!」 泰継が異彩の瞳を開いた瞬間、その瞳に決意が満ちる。 そして。 「や・・っ!」 花梨の唇を塞ぐ。 思いのほか冷たい花梨の唇に泰継は熱を注ぎ込むように、激しく口付けた。 花梨が抗ったのは一瞬のこと。 激しい口付けは、徐々に優しく啄ばむように何度も繰り返される。 何度も繰り返される口付けに花梨も、泰継も熱を帯びてくる。 ーーもっと。 泰継の口付けが徐々に髪に、頬に、移動してゆく。 そのとき、花梨ははっとした。 自分の肌に残された紅い穢れに。 「だめだよ・・・泰継さん・・・。だめ・・・、だって私・・・。」 花梨は自分の身が恨めしかった。 何故アクラムがあんなことをしたのかわからない。 ただ、わかるのは、自分がこんな風に泰継の口付けを受ける資格がないということである。 花梨は腕を突っ張って泰継の腕から逃れようとした。 花梨のその様子に泰継はわずかに身を離す。 「何も言わなくていい。神子、おまえの神気は穢されてなどいない。ただ・・・。おまえの心があの男に穢されたのは事実だ。だから神子・・・。」 泰継は花梨をあやすように背を撫でる。 「忘れろ、とは言わない。」 泰継はまっすぐに花梨を見つめる。 ーーどうしてこんなに愛しいのだろう? ーー何故今まで自分の心を見ようとしなかったのだろう? 「あの男に組み敷かれた神子を見て私は気づかされた。私の中で神子は神子以上に花梨というひとりの人間なのだと。」 泰継は花梨の髪に手を差し入れた。 この髪一筋とて、あの男には二度と触れさせたくないと思う。 泰継の言葉に花梨は顔を覆って泣き出した。 花梨が一番欲しかった言葉。 なのに、どうして今なのだろう? これがアクラムにあんな振る舞いをされる前だったら。 きっと花梨はここに来なかったに違いない。 「遅いよ・・・、泰継さん。もう遅いよ・・・。」 花梨は震える声で答えた。 自分がアクラムに穢された以上、泰継の言葉は空しく響く。 「おまえの心の穢れは私が必ず祓う。神子、私を信じろ。」 泰継の言葉に花梨は力なく首を振る。 「だめだよ、泰継さん・・・。だって私は・・・。」 ーー穢されてしまったから。 肌に残るアクラムの感触を今でも思い出せる。 そんな自分がたまらなく汚いものに思える。 「神子!」 泰継が花梨を抱きすくめた。 どうしたら彼女の穢された心を癒すことができるのであろう? 泰継にはわからなかった。 ーー人間であれば癒せるのであろうか? 泰継は人ではない自分をはじめて恨めしく思った。 人間ではないから花梨の心を癒せない自分。 そして泰継ははじめて思ったのである。 ーー神子を癒せる人になりたい・・・。 一陣の冷たい風が吹く。 京では本来雪が降ってもおかしくない季節である。 しかしまだ雪は降らない。 しかし神子が力をつけるとともに、京に少しづつ冬の足音が近づいてくる。 ーー今の私は京みたいだ。 花梨は思った。 滅びを望む民の住む京。 そして滅びを恐れる民の住む京。 消えたいと願い、消えたくないと願う。 アクラムの行為に、悔しく、恥ずかしくて消えてしまいたい自分。 泰継の言葉に喜び、このまま泰継の側いて、消えたくないと思う自分。 泰継は花梨を抱き上げた。 そして、泰継は口を開きかけて一瞬、ためらう。 言ってよいものかどうか。 一度口にしてしまえばそれは真言となって、今まで過ごしてきた時間以上の、膨大な年月を苦しむ日々がまっているかもしれない。 でもそれでも。 ーー私はおまえに言いたいのかもしれない。 「私は・・・私は神子の為に人間になりたいと思う。」 「泰継さん・・・?」 不意に抱き上げられて一瞬驚いたが、泰継の言葉に花梨はさらに驚く。 以前から泰継が人間ではないと聞かされていたが、人間になりたいという泰継の言葉を聞くのははじめてだった。 「私は神子の心を癒せる人間になりたい・・・。」 花梨は心が震えるのがわかった。 でも今は。 「もう少しだけ待っててください・・・。もう少しだけ・・・。」 花梨は瞳を閉じた。 「ありがとう、泰継さん・・・。」 ーーでもお願い。もう少しだけ・・・。 相反する自分の心を抱えたままで。 今、花梨にとって心の整理が必要であった。 ただ、泰継の腕の中は花梨にとって安心できる場所となって。 花梨は身体を泰継に預けた。 泰継は花梨を抱く腕にわずかに力をこめた。 たとえ、千年もの時をこれからひとりで過ごさなくてはならなくとも。 今こうして花梨を抱きしめている自分は幸せだと思うから。 ーーこれが愛する、ということなのかもしれない・・・。 2001.12.1 やった〜〜〜!書き上げた! ず〜〜っと考えていた泰継×花梨←アクラムのお話です! |