萓草〜わすれぐさ〜


「きゃあっ!」
あかねは突然腕を引っ張られた。
身体が傾いで彼女の腕を引っ張った人間の胸に引き寄せられる。
嗅ぎ慣れない香のかおりが鼻腔をくすぐる。
けっして嫌なかおりではないのだけれど、彼女の腕を引っ張って抱き寄せた人物は間違いなくあかねの知らない人物だった。
本能的に恐怖を覚えて、あかねは大声をだそうと口をあけた。
するとあかねの口を男の手とすぐわかる、骨ばった大きな手が覆った。
「やっ・・・!」
必死になってあかねは身を捩った。すると耳元で囁くような男の声がした。
「龍神の姫、どうかお声をあげないで・・・。あなたにひと目会いたくて、こうして忍んできた哀れな私に情けをおかけください・・・。」
聞いたことのない男の声である。
あかねはぞっとした。
ーーこれっていわゆる夜這い!?
とにかく逃げなくては、と考えた。こんなところで見ず知らずの男のものになりたくなかったし、自分が京に残ったのはこんなことのためではないのだ。
というわけで、あかねは男の指に思いっきり噛み付いた。
「っ!」
男の手が口から離れた瞬間、あかねはあらん限りの大声で叫んだ。
「きゃあああっっ!!!」
少女特有の甲高い声は邸内に響き渡った。警護のものが駆けつけてきた。
今日に限って、いつもあかねの警護にあたっている源頼久は当主、左大臣の住吉参詣に父とともに出かけていていない。かわりに任を任された者が最初に駆けつけてきた。
ついで、あかねの側に仕える女房たちがわらわらととんでくる。
「神子様!?いかがされました?!」
口々に言いながらあっという間に人は集まって、最後にとんできたのは天真だった。
天真は妹の蘭や詩紋、あかねとともに京に残ったのだ。現在は頼久の住む左大臣家の武士棟に住み、友雅の計らいで検非違使として働いている。ちょうど勤務が終わって帰ったところにこの騒ぎであった。
「あかね!?」
人並みをかきわけ、天真があかねのもとへとやってきた。
「天真君!」
あかねは天真を見つけると飛びついてわんわん泣き出した。



一夜明けて、藤姫は溜息をついていた。
側仕えの古参の女房、王命婦が藤姫に昨夜のあかねの対で起こった出来事を報告しているのだ。
「申し訳ありません、姫様。神子様のもとに新しく入った女房の手引きだったのですわ。」
王命婦は溜息をついた。主人の藤姫はいくら大人びているとはいえまだ幼い。本当ならあまりこんな話題はしたくないし、耳に入れたくない。 
「やっぱり、お父様にお願いするべきだったわ。頼久だけでも残ってもらうように。」
一方藤姫は敬愛すべき、姉とも慕っている女性が未遂とはいえ、このようなことが起こって申し訳ないと思っていた。
「姫様・・・。」
王命婦は何度目かの溜息をついた。
「まあ、でも神子様がご無事であられたことが何よりでございましたわ。」
王命婦が藤姫をなぐさめようとしたときだった。 
「神子が無事だったとはどういうことだ。」
不意に鋭い声が響いて藤姫も王命婦も驚いて顔をあげた。
「そこには冷たい美貌の陰陽師、安倍泰明が立っていた。
さらに忙しい衣擦れの音がしたかと思うと、年若い女房が裾をからげんばかりに息せききって泰明の背後に現れた。
「姫様申し訳ありません・・・っ!」
年若い女房は泰明の姿を見つけてはっとして口元を押さえた。
「まあ、はしたないですよ、泰明殿や姫君の前で・・・。」
王命婦は泰明の座を作りながら表面は冷静を装って泰明の先導をするはずだった女房をたしなめた。
「美濃、ここはもういいから。神子様に後ほど泰明殿が参られることをお伝えしてきて、ね。」
藤姫は美濃という、泰明の先導をするはずだった女房に言いつけると、彼女は縁に平伏してそそくさとその場を離れた。
「泰明殿、お忙しい中お呼び立てして申し訳ありません。」
藤姫は泰明に頭を下げた。
「神子になにがあったのだ?昨夜神子の気が大きく揺らいだ。すぐに神子の側に天真の気が感じられた・・・。」
泰明は用意された座に座ることもせずに立ったまま恐ろしいほど冷たい表情で聞いてくる。どうやらかなり立腹していることが藤姫でもわかった。普段表情を変えないこの冷たい陰陽師が表情を変えるのは滅多に見られないのであるが、よりにもよってなんでこのような怖い表情を見せられなければならないのかと思うと、藤姫は泣きたくなってくる。しかし、何も知らせなければ、この陰陽師は何故知らせなかったともっと怒るであろうし、あかねとの仲をこじれさせないためにも来てもらわなければならなかったので、夜が明けるとともに使いを出したのである。
「今も神子の気が乱れている。」
泰明はここでこんなことをしてる暇はない、とでもいいたげな素振りである。
「藤姫。」
かなり声に怒気を孕んだ声で泰明が藤姫のいる方を見る。
いくら御簾でさえぎられてるとはいえ、厳しい表情を向けられて藤姫は居心地が悪くなり、扇で顔を隠してしまった。
「あの・・。・僭越ながら私からご説明させていただきとうございます。姫君はまだ幼けないかたでございますゆえご容赦を。」
見かねた王命婦がつつましやかに割って入った。
「まずはお座りになってくださいませ。立ったままのお方とはお話し出来ませぬゆえ。」
さすが古参の女房である。泰明の無礼をとがめもせず、有無を言わさぬ態度で、泰明に座すようにさとした。
泰明は表情を変えることもなく、静かに無駄のない動きで円座に座した。
「さっさといえ。」
泰明にしてみればどちらが説明しようがどうでもよいことであった。ただ、あかねの気が乱れていることが気になるのだ。本来なら藤姫に会うより前に早くあかねのもとに訪れたかった。なのに、土御門邸につけば女房たちがこぞってあかねのもとに行かせてくれず、先に藤姫に会ってほしいと懇願してくる。彼女たちの必死のバリケードで思うように行動できないうえ、藤姫はイライラするほどじゃべらない。こうしてる間にも・・・と考えると泰明は不機嫌の塊となるのである。藤姫付きの女房がかわりには話すというなら、さっさと説明を聞いたほうがこの場はよいと判断したのだ。

王命婦は昨夜の出来事を泰明に説明しはじめた。
泰明はその怜悧な表情を眉ひとつ動かさず、ただ黙って聞いていた。
その様子が嵐の前触れではないかと感じるほど静かなので、藤姫は内心びくびくものであった。
王命婦の話が終わるころ、縁に先ほどあかねのもとに使いに出て行った美濃という女房が平伏していた。
「美濃、泰明殿を神子様のもとへご案内して。」
藤姫が美濃という女房に声をかけると、彼女は額を縁にこすりつけんばかりにさらに平伏した。
「姫様・・・、その申し訳ありません・・・。神子様はその・・・今は誰にもお会いしたくないと・・・。」
美濃はこの美貌の陰陽師が怒り出すのでは、とびくびくしながら言葉を選びながら慎重に言う。
「よい。」
泰明はすっと立ち上がった。
「話はわかった。失礼する。」
「え?」
藤姫が問い返す間もなく、泰明はさっさと藤姫の前を辞すると、追いかけてくる女房に目もくれず、あかねのもとに足を運んでいった。
ーーああ、こういうときはいったいどうしたら・・・。神子様をおなぐさめしていただけるといいのだけど・・・。
藤姫はどうしたらいいのかわからず、脇息にもたれて今日一番の深い、深い溜息をついた。



「あかねちゃん・・・。」
詩紋が塗籠の中にいる少女に声をかける。
詩紋は現在大学寮に入るための勉学中の身であった。
来年の春には寮試を受けるので、現在鷹通のところで居候をしながら勉学に励んでいる。鷹通の邸は書物が豊富であり、鷹通自身も勉学家のため、詩紋に教えているのだ。
天真はというと昨夜から一睡もせずにあかねのもとで宿直(とのい)をしたので、朝になってあかねのもとに訪れてきた詩紋にあとをまかせて、とりあえず今は休んでいる。
詩紋はというと塗籠の外でおろおろと控えている女房立ちよりもう少し離れて心配そうに声をかけるが、あかねからの返答はかえってこない。
ーーよっぽど怖い思いをしたんだ・・・。
そう思うとあかねを無理に引っ張りだすことも出来ず、さりとてその場から去ることも出来ず、ただそこにいることしか出来ない。
そんなときだった。
すっと匂いやかな菊花の香が薫ったと思ったら、泰明が現れたのだ。
「や、泰明さん・・・・、あの今あかねちゃんは・・・」
詩紋は躊躇せずに妻戸を開けてあかねの部屋に入ろうとする泰明を呼び止めて、激しく後悔した。
ーーうわっ、機嫌悪そう!
泰明はちらりと詩紋を見た。
「詩紋、お前はもうさがれ。」
泰明はそういい置くと詩紋に見向きもしないであかねのいる塗籠へと歩を進めた。
詩紋は泰明の行動を止めることも出来ず、ただおろおろしている。
塗籠の前で控えていた女房たちも突然の泰明の訪れにこちらもおろおろしている。
泰明は止めようとする女房たちを制して塗籠の扉を開いた。
あかねは袿を頭から被り、膝を抱えて小さく丸まっている。
「帰ってください・・・。」
背中に泰明の気配を感じてあかねは蚊の鳴くような声で言った。
「・・・。」
泰明は小さく溜息をついた。
ーーうわっ!絶対零度だ・・・。
泰明はあかねの言葉に不穏な雰囲気を見せ、それを見ていた詩紋は蒼くなった。
ただでさえ冷たい雰囲気を持つ陰陽師である。
彼が怒ったところは見たことがないのであるが、きっと昨夜あかねのもとに忍んできた男はタダですまされないだろうと、詩紋は少し気の毒になった。
泰明はおもむろにあかねの腕をぐっと引っ張り、背中に担ぎ上げた。
「な、な、な、なにするんですかっ!」
あかねは突然の出来事に驚いて、顔を真っ赤にして叫んだ。
「騒ぐな。落ちたら怪我をする。」
ぽかすか泰明の背中を叩いて抗議するあかねに短く言うと、そのまま泰明はあかねを塗籠から連れ出した。
「ちょっと!泰明さん!どこへいくつもりなんですかっ!」
あかねは叫んだ。
なぜなら泰明はそのままどんどん邸内を抜け、外へと連れ出してしまったのである。遠くから女房たちのあわてふためく声が聞こえる。
あかねはもうどうしていいかわからず、おとなしくされるがままになった。もちろん顔はふくれっつらで。



泰明があかねを連れてきた場所は糺の森であった。
森の木陰が陰を色濃く落とし、真夏の暑さをひととき忘れさせてくれる。
腰をかけるのにちょうどよさそうな石を見つけて、泰明はようやくあかねをおろした。
あかねはというと頬をふくらませたまま黙っている。
履物がなくては逃げ出すことも出来ない。
「ここで待っていろ。」
泰明はそういい置くとその場から立ち去った。
ーーもうっ!いったいどういうつもりよっ!
泰明に会いたくなかったのだ。
恥ずかしかったし、怖かったし、そして何よりもーー。
この世界での婚姻。あかねも『源氏物語』なんかで知っている。
知ってはいたのだけれど、現代とはあまりに違う結婚の形を思い知らされてショックを受けたのだ。あれではまるで・・・。
ーー冗談じゃないわ。
あかねにだって意志があるのだ。だがあの男はあきらかに自分の意志を無視してきた。あの男に抱きしめられた時の嫌悪感が再び襲ってくる。
「神子。」
びくっ!
昨夜の出来事を思い出してしまったあかねに、泰明が不意に声をかけたため、あかねはひどく動揺した。
「神子?」
蒼ざめた顔をしているあかねの顔を見て泰明はすまなさそうな顔をした。
「無理に連れ出して悪かった。」
泰明の手にはオレンジ色の百合のような花がある。
「泰明さん・・・。」
泰明はあかねの水干の袖をとると、袖の飾り紐に手にしていた花を結わえた。
「なんなんですか。これ?」
袖口近くの飾り紐に結わえられた花は百合のようであるが、百合とは違い、小ぶりの八重咲きで、実に可憐である。
「萓草(わすれぐさ)だ。これを着物の紐につけておけば嫌なことを忘れさせてくれるという・・・。」
「勿忘草?嫌な事を忘れさせてくれるの?」
あかねはまじまじとそのオレンジ色の可憐な花を見つめた。
ーーでも確か勿忘草って私を忘れないでって花じゃなかったっけ?違うものかな?
「わすれなぐさ?神子の世界ではそういうのか?嫌な事を忘れたければこれを身につけるとよいと、以前お師匠が私に教えてくださった・・・。」
あかねははっとした。
ーー嫌なことを忘れたい・・・。
泰明はいつも兄弟子たちから疎まれてきた。泰明もまた、この萓草をそっと忍ばせたことがあったのかもしれない。
「ごめんなさい。」
ーーこの人は私の痛みを誰よりもわかってくれるひと・・・。
あかねの身に起こったことを自分の身に起こったことのように感じられる人だったことを、あかねはは思い出した。
「何故神子が謝るのだ。謝るならば私だ。私は神子を守れなかった・・・。」
泰明は叱られたこどものようにうつむいて自分を責めている。
「私、恥ずかしいんです。自分が嫌な思いをしたからって、藤姫や女房さんたち、それに泰明さんにまで八つ当たりみたいに、心を閉ざして心配させてしまったことに・・・。」
あかねはこぼれてくる大粒の涙を袖に結わえられた萓草に気をつけながら、そっと袖で涙を拭いた。
「嫌な思いをしたのだ、仕方ない。だが何故私に会いたくなかったのだ?」
泰明の質問にあかねはぎょっとした。                                 
「天真や詩紋はお前の側に控えていた。何故私には帰れ、なのだ。」
ーーううっ!どうしよう!
泰明の困ったような、悲しげな顔にどう答えていいのかあかねは困ってしまった。
「昨夜、内大臣家での祈祷中に神子の気が大きく乱れたのがわかった。丁度寄りましに妖しがうつったときだったため、抜け出せなかった・・・。神子の側に天真の気が感じられたのでまかせるしかなかった・・・。」
キリッ・・・。
くやしそうに泰明は唇をかみしめている。
「私が悪い・・・。お前を守れなかった・・・。」
ようやくここにいたってあかねは泰明の質問の意味を理解した。
泰明はあかねが会いたくないと言った理由を、泰明があかねを守れなかったからだと思っているのだ。
「違いますよっ!泰明さん!」
あかねはあわてて立ち上がろうとして、自分が履物をはいていないことに気づいてバランスをくずした。
「わっ!」
ぱっと泰明があかねの体を受け止める。
「すまない・・・。」
泰明に支えられて、あかねはどうにか転げ落ちることから免れた。しかしあかねは泰明の袖をしっかりと掴んで離さない。
「泰明さんが謝ることじゃないんです!私が・・・。」
とここまで言ってあかねはうつむいてしまった。
「神子?」
ーーえ〜いっ!言っちゃえっ!
「泰明さんがす、好きだからっ!だから知られたくなかったし、どんな顔して会えるっていうの?恥ずかしくて・・・。私・・・。」
言ってるうちに首筋が熱くなってきて、何をどういったら言いかわからなくなってきて、声が小さくなる。
ーーう〜っ、言っちゃったよお!
あかねは顔が火照ってくるのがわかった。
ふわっと菊花の香が自分を包んだかと思ったら泰明があかねを優しく抱きしめる。
「私も神子が好きだ・・・。神子を守りたい。二度とこのような思いはさせない。だから神子を守らせてくれ。」
あかねは泰明に身体を預けながらこくんと頷いた。



泰明の背に負われての帰り道。
「あの人に仕返ししちゃだめですよ?」
あかねが泰明の顔を覗き込みながら言う。
「何故だ?お前を傷つけようとしたというのに?」
泰明は理由がわからない、というように首を傾げる。
「だーかーらー、私がいっぱい人を呼んで大騒ぎになっちゃったし、そーゆーのってこっちの世界では面目丸つぶれじゃない?多分、左大臣様の耳にも入るだろうし、社会的制裁を受けちゃうと思うの。もうこれ以上必要ないでしょ。それにね・・・。」
袖の飾り紐に結わえられた萓草に唇を寄せる。
「もう、忘れましたから。」
にっこりと微笑む。
「本当に忘れたのか?」
泰明は眉を顰める。
あかねはにっこりと笑った。
ーーこんなにも泰明さんにくっついているんだもん。だから・・・。
「ええ、忘れてしまったんです。」
泰明は首を傾げるばかりであった。

その後、あかねの部屋の回りにくまなく男性が侵入できないように結界が張られたのであるが、泰明以外の八葉までもあかねの側に近寄れないため、泰明のもとに苦情が寄せられることとなった・

ーーFIN




★あとがき
萓草というのは万葉集で出てくるお花です。中国のものは一重咲き((ノカンゾウ)ですが、日本の在来種は八重咲き(ヤブカンゾウ)だそう。念のため、勿忘草ではありません。(^-^)勿忘草は外来種なので泰明さんは知らないお花でしょう。

わすれぐさ わがひもにつく かぐやまの
                  ふりにしさとを わすれむがため

萓草を私の下紐につける、香久山の古いみやこを忘れるために

つまり、辛い気持ちを忘れさせてくれるというお花だそう。このお花の存在を知った時、泰明さんがあかねちゃんに萓草を結んであげてるシーンが思い浮かんでこのお話を書きました。
ああ、でもなんという、文章力のなさ(滝汗!)ここまで読んでくださった方感謝です!
2001年8月7日