夢の浮き橋



泰明は松の木のもとに立っていた。
話や文献でしか知らないはずなのに、潮騒の音や、潮の香りまでする。
それは詩紋や天真に聞いた、海の向こうの国の話のせいだろうか?
とにかく泰明は海辺の松原で待っていた。
誰を?
そして誰かが泰明の名を呼んだ。
泰明が振り返ったその瞬間ーー。

「夢・・・。」

泰明は瞼を開けた。
外はまだ暗い。
夜が明けきらないというのに、泰明はするりと夜具から抜け出した。
知らず、右目の下の宝珠を探る。
常人には見えないこの宝珠。
確かに冷たく硬い、小さな玉の感触。
その宝珠の存在を誇らしく思うとともに、いつから疎ましく思い始めたのであろう?
ふと思考が危険なほうへ向かっていると気がついて、泰明は小さく被りを振った。

ーー私はどうかしている。

泰明は妻戸の閂を抜くと簀子縁に出た。
夜の明けきらない夏の空気が冷たく心地よい。
鬼の呪詛によって今日も雨は降らないであろう。

ーー今日も暑くなりそうだな・・・。

泰明は白み始めた東の空を見遣った。
玄武解放まで・・・。
自分のこの思いは神子に届いてはならないのである。












あかねはぱっと起き上がった。
そしてあたりを見回した。

「夢・・・。」

珍しく朝早い目覚めである。
現代にいたころも朝は確かに弱かったが、夜明けとともに朝が始まるこの京の生活ではあかねはいつも寝過ごしてしまうのだ。
自分では遅く起きているつもりはないのであるが、夏の夜明けは早い。
夜明けとともに起きだすという、こちらの世界の習慣にいまだ慣れないあかねなのである。
というわけであかねの世話をする女房たちは、なるべくあかねを夜明けとともに起こすということをしない。
だからこんなに朝早く目の覚めた日でも、滅多なことで女房たちはあかねのもとに訪れないのである。
あかねはそっと外の様子を窺った。
主人の朝の準備をする女房らが忙しく立ち回る衣擦れの音。
朝稽古をする武士団の掛け声などがあかねの耳に届く。

「朝かあ〜。こんなに朝早く目が覚めたの、はじめてかも・・・。」

あかねはうーんと身体を伸ばした。
そして御帳台を出て簀子縁へと外へ出た。
白み始めた東の空が朝焼けで赤く染まっている。
暑い夏でもこの時間は涼しく清々しい。
あかねは大きく息を吸った。

「神子様っ!そのようなお姿でっ!」

あかねはぎょっとして声のほうを振り返った。
女房のひとりがあかねの側へ裾をからげんばかりに走りより、あかねを妻戸の内へと押し込んだ。

「そのような単姿でお外にお出になってはいけません!」

他の女房もあかねが起きだしたことに気がついて角盥(つのだらい)に湯の用意をしたり、朝餉の準備をはじめたりと忙しげに立ち回り始める。
あかねは顔を洗って手ぬぐいを受取りながら昨夜の夢を思い返していた。

ーーまさかなあ・・・。

あかねは首を捻った。
あかねの見た夢。
それは波の音の聞こえる浜辺の夢であった。
どこまでも続く松原を、白砂をさくさくと踏みしめて、あかねは急いでいた。
なぜか潮の香りまでしたからであろうか?
妙に現実感のある夢であった。
白砂に足をとられそうになる感触。
松の幹に手をついたときの、でこぼことした感触、
夢の中、あかねは見知った人物の後姿を見つけた。
なぜだかその人が自分を待っていてくれているような気がして。
だからその人の名を呼んだ。

ーー泰明さん。

その人が振り向いた瞬間、目が覚めた。
その後姿は確かに泰明なのに、一瞬だけ、ちらりと見えたその人の顔にはーー。
安倍晴明によって施されたという呪いも、右目の下にあるはずの宝珠もなかったような気がしたのである。
あかねは水干の袖に手を通しながら知らず頬を染めた。

ーー私ってば・・・。

いくらあの双ヶ丘で泰明に告白めいたことを言われたからといって、即恋愛関係になっているように意識するのは少し飛躍しすぎである。

「神子様、朝餉のご用意が出来ましたわ。さ、どうぞ。」
「あ、はーい!」

女房の呼ぶ声に、あかねは考えを振り払うかのように元気よく返事をした。
今日も怨霊を封じる日々が待っている。
京の五行の気を高め、来る玄武解放に向けて力をつけなくてはいけないのだ。
そしていつもと変わらない一日が始まる。






泰明は夢を見ていた。
今ならはっきりとわかる。
これが夢であることを。
泰明は海をみたことはなかったし、自分をまっすぐに見る彼の人の笑顔は自分だけに向けられたもの。
何度も心の中で願っていたこと。
夢は叶えられない自分の欲望を成就させているにすぎない。
しかし、夢の中の自分は冷めた自分の感情など無視して彼の人を抱きしめ、口付ける。
その感触があまりに現実味を帯びていて、口付けとはこんなにも己の中にわき出でる欲求に火を灯す行為であることだと思い知らされる。
このまま彼の人を抱きしめて、自分だけのものにしてしまいたい。
夢だとわかっていても抑えられないほどの欲動に、泰明はとまどい、躊躇する。

「泰明さん・・・。」

彼の人の唇から零れる自分を呼ぶ声に、狂おしいほどの恋情に身が焦がれる。
愛するとはかくも甘美で悩ましいものであるのであろうか?
愛する?
泰明は自分で自分の感情に驚いた。
そして覚醒。
泰明は暗闇の中眼を開いて呆然と天井の梁を眺めた。

「愛する・・・?」

泰明はそっと右目の下の宝珠に触れた。
そう、この宝珠が疎ましいと思うときは決まって神子のことを考えるときである。
神子が神子でなく、泰明が八葉でなかったら。
抱いてはならない欲望であった。
ただのあかねという名の少女と、陰陽師の泰明という存在であったなら二人は出会わなかったであろう。
お互い名も知らぬまま、存在すら知らぬまま時を過ごしたのであろうか?
そんなのは耐えられない。
あかねという少女の中に、ずっと消えない自分という存在を刻み付けたい。
見えない糸で神子を絡めて、自分の側にずっと留め置きたい。

「・・・苦しい・・・。」

泰明は小さく息を吐いた。
何度繰り返しこの夢を見たであろう?
自分でもさばききれない大きな感情のうねりに、自分で自分をもてあまして胸が苦しくなる。
夢でよかったという思いと。
夢であったことの悲しさと。
神子と八葉という境界線が泰明を苦しめる。
穢してはならない、聖なる斎姫。
手折ることが許されない神に選ばれた花。
そして役目を終えれば七夕の織女星のように、天へ、自分の世界へと帰っていってしまうのであろう。
自分の思いなどで繋ぎとめられることもなく。
神子が神子でなく。
泰明が八葉でなかったら。
泰明は褥をするりと抜け出した。
そして素早く身支度を整える。
替えの真新しい単を手にすると、泰明の足は御手洗川へと向かった。
己の中の欲望を振り払うために。








あかねは夢を見ていた。
宝珠も顔の呪いもない泰明に抱きしめられている夢を。
どちらかというと女性のようにほっそりとした体つきだというのに、自分を抱きしめる腕の力強さに驚きながら、それ以上に温かくて居心地がよくてうっとりと瞳を閉じる。
泰明のほっそりとした指先を頬に感じ、そっと顔を挟み込まれ口付けられると、心臓が激しく高鳴って、頭の芯がじんじんと痺れるような感覚を覚える。

「泰明さん・・・。」

夢なら醒めないで。
もっとあなたを・・・。

ーー私はあなたが好き・・・。

あかねは泰明の背に回した手に力を込めた。
そのときだった。
不意に泰明の姿が消えたのである。

「泰明さん?!」

あかねは突然掻き消えるように姿を消した泰明を探してあたりを見回した。

「泰明さん!どこ?!」

あかねは白砂の海岸を泰明を求めて歩いた。
泰明を求めて歩く速度が速くなる。
何度も砂に足を取られそうになって、あかねは転びそうになる。

「泰明さん・・・。どこ・・・?」

あかねは涙を零した。
先ほどまでの温かな抱擁と、切なく甘いひとときの口付けはまるで嘘だったかのように。
海鳴りだけがあかねの耳に聞こえて。
あかねは白砂の海岸で、とうとう座り込んでしまった。












泰明は禊を終えてから土御門の邸に顔を出した。
夏の早朝の川の水は思った以上に冷たく、泰明の中に生まれた欲を洗い流すにはぴったりであった。
冷たい水で自らの気をひきしめて、八葉として京を守る任についていることを改めて自覚しなおした。
そして控の間にて待っていたところ、藤姫が現れた。

「おはようございます、泰明殿。実は神子様がまだお目覚めでなく、ここ最近のお疲れもあるかと思いますので今日はゆっくり一日お休みいただこうかと思います。ですのでお引取りを・・・。」

藤姫の言葉に泰明は眉を顰めた。
毎日のように京に跋扈する怨霊を封じるため、あかねは奔走していた。
確かに疲れているであろう。
泰明はあかねの気を探った。
眠っている。
眠っているが、その眠りはひどく悲しげであった。
悲しい夢でもみているのであろうか?
それならば早く目覚めさせて、夢に囚われないようにすべきである。
しかし・・・。
泰明は躊躇った。
それは今朝方泰明が見た夢のせい。
あかねの夢を知りたくなかった。
自分があかねを夢で引き寄せたように、あかねもまた自分とは違う誰かを夢で引き寄せていたら。
しかし悲しい夢に囚われて、気を乱すあかねを放っておくわけにもゆかない。

「藤姫、神子の気が乱れている。」

泰明は藤姫にひとこというとすっと立ち上がって控の間を出ていった。
驚いた藤姫があわてて泰明を追う。

「泰明殿!神子様はお休み中ですわ!失礼ですわよ!」

藤姫が必死に泰明を留めようと袖を掴むが、泰明は難なくそれを振り切るとあかねの部屋へと御簾をあげて入った。

御帳台の中で眠る神子の気は相変わらず乱れている。
驚く女房らを尻目に泰明はあかねの傍らに膝をつき、様子を伺った。

「・・・やすあきさん・・・。」

あかねの瞳の端から一滴の涙がつーっと零れた。
遠巻きにしていた女房らは互いに目配せをしてその場から去って行った。
最後に藤姫が部屋をあとにし、あかねの部屋にはあかねと泰明だけになる。

「神子・・・。」

自分の名を呼ぶあかねに泰明は軽い眩暈を覚えた。
もしもあかねもまた夢で自分を引き寄せていたのであるなら。
夢から醒めて夢路を後にした泰明を探して、あかねは夢路を惑っているのであろうか?
泰明はあかねの額にそっと手を置いた。

「目覚めよ、神子。私はここにいる。」

あかねは泰明の声が聞こえた気がしてはっと顔をあげた。

「泰明さん・・・?」

どこ?
あかねはあたりを見回した。
でもあたりには誰もおらず、海鳴りの音が聞こえるだけ。

「神子、私はここにいる。」

あかねの耳にはっきりと届いた泰明の声にあかねは自分がまだ夢を見ていることを自覚した。

「夢だわ・・・。目覚めなくちゃ・・・。」

しかしどうやったら目が覚めるのかわからない。

「泰明さん・・・。」

あかねは途方にくれた。
早く目を覚まして今日も忙しい一日が待っているはずなのだ。
けれど。
どうやったらこの夢から醒めるのかわからない。
泰明の姿を探して松原を歩きつづけ、もうすでにくたくただった。
夢で疲れるなんておかしな話ではあるが、もしかしたら身体が疲れているのではなく、心が疲れているのかもしれない。
ではなぜ?
抱きしめて口付けてくれないあの人の想いがわからないから。
多分、思いは通じ合ったのだと思う。
けれど顔の呪いはそのままで、今までとさしてかわらない態度をとられてしまったら。
やっぱりひとりよがりな想いだったと思ってしまうから。
神子である自分が悲しくて。
八葉である泰明が悲しくて。
そんな関係でしかいられないことが悲しくて。
寂しくて、悲しくて、夢の中であかねは泰明を呼んだ。
だから泰明には宝珠も、顔の呪いもなかったのだ。

「やすあきさん・・・。私は・・・。」

あかねはまた涙を零した。

ーー八葉であるあなたも、顔の呪いのあるあなたも、すべての泰明さんが好きなの・・・!

あかねの涙が次々に零れ出す。
かすかに紡ぐ自分を呼ぶあかねの声に、泰明はそっと指先であかねの涙を拭った。

「私の夢を見て泣いているのか?」

泰明は胸がしめつけられるような苦しみを覚えた。
神子であるあかね。
八葉である自分。
この境界線を越えたらどうなるのか泰明にはわからなかった。
聖なる斎姫を穢して、自分が無事であるとは思えなかった。
それより。
神子をともに煉獄の炎のなかに引きずり込んでしまうことの方が恐かった。
龍神の怒りをかい、永遠に修羅に生きることになろうとも、あかねだけは。
神子だけは守りたかった。
しかし。

「龍神よ、御身の下す懲罰の全てを私が引き受ける・・・。」

この胸の苦しみを。
神子であるあかねを愛している自分を。
禊などではもう抑えられはしない。

「神子、愛している・・・。」

泰明はあかねの唇に自らのそれを重ねた。
夢で得た感触よりもはるかに柔らかく、しっとりとして。
思った以上に神子であるあかねを、包み込むように穏やかで優しい感情が湧き出てくる。
汗で頬に張り付いた髪を優しく梳く。
愛するという感情は時にこうも優しく穏やかな気持ちにさせるのかと、泰明は内心驚いていた。

「目覚めよ、神子・・・。愛している・・・。」

そしてもう一度口付けを・・・。

あかねは不意に金縛りにあったように動けなくなった。
温かで、柔らかで、胸の締め付けられるような感触を唇に感じて。
まわりがすべて暗転して。
そして。
あかねはゆっくりと瞼を開いた。
目の前には大好きな人。

「泰明さん・・・。」

「目覚めたか、神子。」

泰明の微笑みにあかねは涙を零した。
欲しかった泰明の抱擁を感じてあかねは泰明の狩衣を掴む手に力を入れる。

「夢じゃないよね・・・?」

「夢ではない。」

あかねの問いに泰明が答える。
ゆっくりと重ねられる口付けにあかねの心が震える。

「神子、愛している・・・。私と共に居て欲しい・・・。これから・・・ずっと・・・。」

耳元で囁かれる泰明の切なげな言葉に、あかねは小さく頷くのであった。









「海を見にいきたいですね。」

あかねは微笑んだ。
あれから1年の時が過ぎて。
夏を迎えた京の都で。
簀子縁で二人微笑んで。

「海か・・・。そうだな。」

卯の花襲ねの小袿に緋袴姿のあかねは楽しげにあれこれと海の話をし始めた。
泰明は立てた膝に肘を乗せて昨年の夢を思い出していた。
あの松原はどこなのであろうか?

「もう、泰明さんったら聞いてるんですか?」

ふと見るとあかねがぷうっと頬を膨らませて泰明を上目遣いに睨みつけていた。
そんな様子すら愛らしくて。
泰明は寄りそっていたあかねを不意に胸の内へと強く抱きしめた。

「やっ!やすあきさん!」

あかねは真っ赤になってじたばたと暴れる。

「神子と一緒ならどこへでも行こう。海の向こうの唐土(もろこし)の国も、さらにはるか西の胡の国も・・・。」

こうして二人、一緒にいられることに感謝して。
神子は泰明のもとに還ってきた。
これからの時間を共に刻む為に・・・。





2002.6.30





★あとがき
このたびサイトをオープンされたちょる様に捧げます。
タイトルの「夢の浮き橋」は「源氏物語」にも使われておりますが、夢の中で通う道のことです。
平安時代では夢はお互い逢いたいと思うと、夢の中で相手に逢うことができると考えられていたようです。
しかし、現代夢判断の自分の欲望を叶えるのが夢、という考え方もすでにあったようです。
二人の見る夢が現代夢判断でも、平安時代の考え方にもあてはまるように書きたかったのですが、ああ、力不足・・・。><;;
七夕も近いことだし、七夕に絡めてお話を、と思ったのですが、
なんだかよくわけのわからん創作になってしまって、本当にごめんなさい。<(_ _;;;;;)>