あなたの側で 神泉苑での最後の戦いのあと。 アクラムが蘭を使って黒龍を召喚し、黒い霧があたりを包んだとき、泰明に促されるまま、八葉全員が力を合わせて瘴気を祓った。 しかし、あかねは八葉全員にありったけの気を送ったために、激しく身体の気を消耗をしてしまった。 ぐらりと傾ぐ身体を誰かが支えてくれたような気がして。 意識を手放す寸前、誰かが低く、甘く、切ない声音で、耳元に何かを囁いたような気がした。 あかねは薄らいでいく意識の中、小さく頷いたが、それが何だったのかよくわからなかった。 ぼんやりと重たい瞼を開ければ、そこは見慣れた土御門の邸にしつらえられた自分の部屋であった。 御帳台の薄い紗の帷(とばり)の向こうでは藤姫が心配そうにあかねの姿を見守っていた。 ーーう・・・ん・・・?ここは・・・・? 「神子様?」 藤姫があかねが身じろぎをしたのに気がついて、おそるおそる声をかけた。 あかねは藤姫の声に押されるように、身体を起こそうとした。 「いたたっ・・・。」 身体を起こすため、右肘をついて身じろぎをした瞬間、あかねの身体はそのわずかな動きにも悲鳴をあげた。 「神子様っ!起きてはなりませんっ!」 藤姫があわてて御帳台の帷の中に入って、あかねのわずかに起き上がった身体を小さな手で押し留める。 「急に身体を動かしてはいけませんわ。神子様は3日も眠っていたのです!」 藤姫の言葉にあかねは驚いた。 「は・・・?」 本当はもっと驚いていたのだが、ひどく喉が渇いて上手く声がでず、間の抜けた声で問い返す。 藤姫があかねの身体に袿を改めてかけなおす。 「神子様、神子様は神泉苑にて、黒龍の瘴気をはらうため、八葉に神子様のすべての五行の気を与えられたのですわ。そのため、神子様は倒れられたのです。覚えておられませんか?」 あかねはぼんやりする頭で自分が何故倒れたのか思い出していた。 「そうだ・・・。私・・・。」 あかねは白龍を召喚しようとしたのだ。 しかし、泰明がそれを許さなかった。 白龍を召喚すればあかねはあかねでなくなるかもしれないからだ。 『神子、八葉に力を。』 泰明の言葉に促されるように、あかねは八葉の全てに自らの気を送った。 そんなこと、自分ができるとは思わなかったが、八葉すべてに龍神の神子の五行の気がゆきわたり、八葉の力は黒龍の力を凌駕したのだ。 「思い出されましたか?今まで以上のお力を発揮されたのですもの。ゆっくり休んでくださいませ。何か欲しいものはございますか?ご用意いたしますわ。」 藤姫の言葉にあかねは白湯を頼むと、藤姫が押し留めるのに構わず、長く眠って軋んだ身体を、徐々に伸ばすように身体を起こした。 身体はあちこち長く眠っていたせいでわずかな動きにも悲鳴をあげたが、徐々にゆっくりと身体を伸ばし、ゆっくりと動かすたびに痛みが薄れていく。 力が入らないのは、眠っていた間、食事を一切摂らなかったせいであろう。 それでも身体を動かすのに、さして苦にならなくなるのに時間がかからなかった。 「神子様、もう少しお休みになってくださいませ。」 と藤姫が心配するのを尻目に、あかねは袿を羽織った。 そこへ女房が白湯を持って現れたので、藤姫から白湯を受取ると、あかねはゆっくりと飲み干した。 冷たい井戸水そのままで飲むよりも、温かな白湯はあかねの喉を優しく潤す。 そこへ別の女房が先触れで現れた。 「藤姫様、安倍泰明様がお見えです。」 女房の言葉にあかねはどきりとした。 最後の戦いで、あかねがともに戦うことを選んだ人。 あかねの白龍召喚を止めた人。 あかねは知らず頬が火照った。 「神子様、神子様がなかなかお目覚めにならないご様子だったので、泰明殿に診てもらおうと思ってお呼びしたのですわ。お通ししてもよろしいですか?」 藤姫はあかねが飲み終えた白湯の入った杯を片付けながら、あかねに尋ねた。 あかねはぎょっとして鏡を探してあたりを見回す。 寝起き姿で鏡を見ていないけれど、きっと顔も髪もくしゃくしゃであろう。 いくら3日も眠っていたとはいえ、寝起きのみっともない姿を晒せないからだ。 「え、えっと、ちょっと待って・・・ってあうう・・・、どうしよう・・・。」 あかねの慌てる様子に藤姫がきょとんとした表情で見つめた。 「神子様、お身体に異常がないかどうか泰明殿に診ていただくだけですよ?」 医者が患者を診るのに、何を恥ずかしがる必要があるのか。 藤姫はあかねのたじろぐ姿を、まるで医者に行きたくない子どもを見るように苦笑した。 「神子様、さ、横になってくださいませ。楓、泰明殿をお呼びして。」 藤姫はてきぱきとあかねの身体を横たわらせ、女房に命じて泰明を招きいれた。 しばらくしてふわりと菊花の芳しい香りが御帳台の中のあかねの鼻をくすぐった。 懐かしく、あたたかく、あかねのほっとする香り。 あかねは我知らず頬を染めた。 どきどきと高鳴る心臓が自分の体の中で激しく鼓動し、全身が心臓になったかのような錯覚を受ける。 ぎゅっとあかねは目を瞑って泰明の気配が近づくのを待った。 やがて御帳台の帳(とばり)の向こうに泰明の気配を感じた。 あかねはどきどきする心臓をが聞こえないように、思わず襟元を掴む手に力を込める。 やがて泰明の声が耳に届いた。 「神子、目覚めているのか・・・」 泰明の声はどこか遠く、淡々としている。 あかねはその泰明の言葉に意外な気持ちを覚えた。 「大事はないようだな。気も安定している。次に神泉苑に時空の扉を開けることができるのは、神子がこの京に召喚された日と同じ子の日だ。それまでに体調を整えておくがよい。」 冷水を一気に浴びせられたような気分だった。 あかねは一瞬身を硬くしたが、すぐに泰明が自分に背を向けたことに気がついて飛び起きた。 あかねが身体を起こしたことを泰明はわかっているであろうに。 泰明は振り向きもしなかった。 何故、とか、どうして、と問いただしたいが、何をどういっていいのかあかねには皆目見当もつかない。 ただ、あかねは呆然としているだけで。 泰明の言葉はどこか事務的で、何の感情も読み取れなかった。 それより。 泰明の口から聞きたいのはそんな言葉ではなかった。 もっと・・・。 もっと何? あかねは被っていた袿を手に、御帳台の帳を払うと簀子縁へと飛び出した。。 しかし泰明はというと、すでに透渡殿を車宿りへと歩をすすめ、その背中はまるであかねを拒絶しているかのようで、あかねは泰明を引き止めることができなかった。 ーー泰明さん・・・。 追いかけることなどできなかった。 追いかけたところで自分に何ができるだろう? 京を去る自分と、京に残る泰明。 二人の道はほんの一瞬、重なっただけで、住む世界の違う二人は永遠に交わることなどないのだ。 あかねは涙を流すこともできないで、この世界で見つけた幻のような恋の終わりを感じた。 夢をみているような、そんな恋。 これが現実なのか、夢なのか、あかねにもわからなかった。 ただ、わかるのは。 泰明との別れだけ。 あかねは力なくずるずると柱によりかかるように座り込んだ。 恋の終わりに何もすることができなくて。 「神子様、気も安定しているとのこと。よろしゅうございましたね。神子様がもとの世界へ帰ることができるよう、この藤も力を尽くさせていただきますわ。」 あかねの心を知らず、藤姫はにこにことあかねの着てきた現代の装束、つまり制服を調える。 そう、あかねはもとの世界に帰るのだ。 この世界はあかねにとって泡沫の夢。 高校の制服を目にすればあかねは胸がずきりと痛むののがわかった。 それこそが夢から覚めるための必要なもののように思えて。 切なく悲しい思いが込み上げてくる。 あかねはどこか遠い表情で、藤姫に向かって小さく微笑んだ。 その表情はまるで遠くへ消え去っていくもののそれで。 藤姫はその儚いあかねの表情に胸をつかれ、手にしていたあかねの制服をぎゅっと握り締めた。 ************** 神泉苑―― 泰明は広大な池の水を見つめていた。 神泉苑に開く時空の扉を調べる為に。 かつてこの地に開かれた時空の扉からやってきた龍神の神子。 京の危機に際して現れ、京が安寧になれば去るもの。 それだけの存在。 そう、龍神の神子とはいえ、普通の人間。 元の世界には家族もあれば、友人もいる。 もしかしたら恋人だっていたかもしれない。 ぱしゃん。 泰明は知らず水面を叩き、鏡のように映った自分の姿を水の波紋に歪ませた。 今の自分の醜さを見たくなくて。 神子の気が安定しているなどと、何故言ったのか。 あのとき、御帳台の向こうの神子の気が激しく乱れていたというのに。 だが泰明にはわかっていた。 神子の気が乱れた理由が他ならぬ自分自身であることを。 だから動揺した。 このままではいけないと感じて。 神子を元の世界に帰さねばならないことはよくわかっている。 陰陽の理があるように、あるべきものはあるべき場所へと戻らねばならない。 あかねの居場所はここではない。 泰明の知らないどこかである。 だからあんなことを言った。 はじめてついた嘘だった。 「・・・くっ・・・。」 泰明は水の中で拳を握った。 知らず笑いが漏れる。 苦い、苦い笑い。 こんなこともあるのかと、どこか他人事のように感じながら。 神子と出会ってからこちら、はじめて経験させられることばかりである。 自分の中の感情に気づかされたのも。 人になりたいと思ったことも。 人を愛するということも・・・。 嘘をついたことも・・・。 泰明は笑いながら目の奥が熱くるのがわかった。 気がつけば自らの頬に熱く流れる涙を感じる。 ーーそうだ。涙を流したのも神子と出会ってはじめてだった・・・。 気がつけばぐるぐると神子と出会ってからの自分を思い出す。 表情のよくかわる、無鉄砲で、それでいて情に篤い。 彼女の周りの人々は彼女の特質ゆえに翻弄されるが、同時に和まされ、励まされる。 人を惹き付けてやまない、それこそが龍神の神子。 いつから彼女に惹かれたのか自分でもわからない。 いや、はじめて出会った時からかもしれない。 上賀茂神社にはじめて二人で出かけたときのこと。 北山ではじめて自分が師によって作り出されたのだと告白したときのこと。 火之獅子社で自分の穢れた欲望に気づかされたときのこと。 双ヶ丘で自分の中の感情に気づかされたときのこと。 すべてがあかねではじまり、あかねに終結する。 泰明は胸をかきむしられるような焦燥感に苛まれた。 あれからずっと・・・。 神子を敬愛しながら、あかねという一人の少女にこれほどまでに心囚われて。 ーー神子・・・、お前はなんと残酷な存在なのだ・・・。 泰明は握った拳で何度も水面を叩いた。 水面に揺れる睡蓮がそのたびにその身をふるわせる。 怯えた少女のように。 ーー神子、私はずっとおまえの側にいたい・・・。 あのとき自らの手に抱きとめた、くず折れた少女にそう語りかけた。 なぜあんなことを言ったのか。 抱きとめた少女を手に、天真の言葉が泰明に現実をつきつけた。 『おい、時空の扉はどうやったら開くんだよ!』 そう、あかねは詩紋、天真、蘭とともに本来あるべき世界へ帰らねばならないのだ。 少女を抱く手に思わず力が込められた。 神子ハ役目ヲ終エタ後、元ノ世界ヘ帰ル。 わかっていたはずなのに、わかっていなかった。 神子がこの京の人間ではないことを。 泰明とは違いすぎることに。 人となったとはいっても、陰陽の理を曲げて生まれた泰明とは、神子は違いすぎる存在なのだ。 このままあかねを攫ってしまえたら。 どんなによかったであろう。 しかし、あかねの幸せを考えたら身勝手な自分の思いを貫くことなどできなかった。 目が覚めたら、きっと泰明の投げかけた言葉など忘れているだろう。 いや聞いていないかもしれない。 だから自分の中の思い出だけでいい。 あのとき、泰明の手の中で微かに頷いた神子の思い出だけで。 自分の想いは確かに伝わったのだと。 そう思うだけで。 そのことを彼女が覚えていなくとも、泰明だけが知っていればいいことだった。 握った拳を水の中で開く。 そのまま水を掬って。 指の隙間から零れ落ちる雫が波紋を描いて儚く消えてく。 幸せというものはこの指の隙間から零れていく水のようで。 この手に確かにあったと思っていたものなど、ないに等しいのだと。 落ちる雫を眺めながら、泰明は自らを嘘の鎧を纏った。 そんな泰明の姿を天真がじっと見つめていた。 ************ あかねは夏の日差しの強くなった土御門の庭を眺めていた。 訪れない泰明。 あかねがもとの世界に帰れるようにと、日々奔走する藤姫。 京に平和が戻り、あとは時空の扉に開く子の日を待つ生活。 すべてが上手くいったというのに、あかねは焦燥感ばかりが募った。 もうすぐ普通の高校生に戻れるというのに。 もうすぐ不便な京の生活が終わるというのに。 あかねの恋も、鬼が京を去ったように、去ってしまったというのに。 何か大事なことを忘れているような気がして。 「あかねちゃん。」 詩紋があかねのもとを訪れた。 手には書物と思しき巻物をいっぱい抱えている。 「詩紋君、どうしたのそれ?」 あかねは詩紋が落としそうになった巻物を支えて、それらを詩紋が文机の上に置くのを手伝った。 「ありがとう、あかねちゃん。」 詩紋はにっこり微笑むと、天使の如くの微笑を見せた。 そして巻物のひとつを詩紋は手にとると、結んでいた紐を解いた。 ぱらり、と丁寧に床に巻物を広げる詩紋。 あかねは身を乗り出して巻物を覗き込んだ。 「あっ・・・。」 あかねは小さな声をあげた。 詩紋の字で書かれたそれは弥生一日から始まっていた。 「詩紋君・・・。」 あかねは詩紋の顔を見た。 「うん、日記。僕、ずっとこちらに来てから日記を書いてるんだ。」 詩紋は巻物をゆっくりと広げた。 あかねにも読める詩紋の字。 文字をたどればそこにはこの世界に召喚されてからの自分達が描かれている。 八葉や藤姫との出会い。 鬼との出会い。 四方の札を探した日々。 四神の呪詛を解くために奔走した日々。 ぐるぐると巡るこの世界で起こった出来事。 辛くて悲しいこともあったけれど、嬉しくて感動したこともたくさんあった。 「僕ね、あかねちゃん・・・。」 詩紋も日記を読み返しながらあかねではなく、どこか遠い彼方を見ているような眼差しで。 「僕、京が好きだよ。京の人々が好きだよ。僕、ここに来れて、あかねちゃんを守る八葉でよかったって思う。京で僕は大切なものをいっぱい見つけた・・・。」 詩紋はそうして一回言葉を区切ると、今度こそあかねの目を見つめた。 「あかねちゃんは?あかねちゃんは大切なものを見つけた?」 あかねは知らず涙を流していた。 今までの出来事を振り返れば、自分がどんどん泰明に惹かれていったことを思い出す。 そう、その思いは何にも優る大切なもの。 「・・・す・・・あきさ・・・ん・・・。」 あかねは巻物に涙が零れないようにそっと袖で涙を抑えた。 詩紋はしゃくりあげながら泣くあかねの肩をそっと抱いた。 「ぼくね、ここに残りたい。もちろん現代での僕も大切だよ?でもね、僕、ここでやりたいことを見つけた。僕にしか出来ない僕だけができるこの世界での役割を見つけたんだ。」 詩紋は頬をうっすら染めた。 常人にはない力を持ち、髪の色も、目の色も京の人々とは違ったセフル。 迫害というのはセフルが鬼だったから迫害をされたのではない。 人が人であるために自分とは違うものを排除しようとする。 迫害する対象があれば、人は自分の現状に満足し、優位にたったような錯覚を受ける。 そんな人間の本質ともいえる悲しさゆえにセフルは迫害を受けた。 詩紋はその人の悲しい強がりの本質がわかっていた。 京の人々に平等とは何か、博愛とは何かを語ることで、少しでもセフルのように悲しい思いをする人をなくしていけたらと思ったのである。 現代でもできることなのかもしれない。 しかし、詩紋はこの京でそれを行うこと、それこそが自分が京に召喚されたのだと考え始めたのであった。 「詩紋君・・・。うっ、ひくっ、私、私・・・帰りたくない・・・。こんなこと言ったら天真君に怒られるってわかってるけど、ひっく、帰りたくないの。ここにいたいの・・・。ここで私・・・、大切なものを見つけてしまったから・・・。」 あかねはしゃくりあげながら、自分が何を思っているか、ようやく口にした。 そう、現代に帰りたくない。 藤姫も、帝も、八葉すべてがみな、神子はもとの世界へと戻ると思っている。 そう、それは泰明ですら。 「終わってないよ・・・。」 「あかねちゃん?」 詩紋はしゃくりあげながら泣く、この敬愛してやまない年上の女性の顔を見て驚いた。 そう、何日かぶりに見る、龍神の神子の目であった。 「私の恋、終わってない。だって私・・・。」 あかねは詩紋を見つめた。 詩紋は黙ったまま微笑んで、そして頷いた。 「詩紋君、ごめんね。」 あかねは立ち上がった。 「あかねちゃん、僕ね、あかねちゃんのそういうとこ、とても好きだよ。」 詩紋も立ち上がるとあかねの手を取った。 小さなあかねの手を包み込む。 あかねの手は詩紋の手の中にすっぽりおさまって。 そのことに詩紋は少なからず驚きを隠せなかった。 敬愛し、龍神の神子としてとても大きな存在に見えていたあかねが、急に一人の女性に見えて。 ーーこんな小さな手だったのかな・・・。 その小さな手に龍神の神子としての使命を担って、どれだけ苦しかっただろう。 そのあかねの重荷を支えていたのは、自分ではなくて泰明だった。 「あかねちゃん、今泰明さんは神泉苑で時空の扉について調べてるよ。さ、行って。行ってちゃんと伝えなくっちゃ。ね?」 あかねは涙で濡れた顔を大きく頷かせた。 そしてその溢れる涙を拭おうともせず、あかねは外へと飛び出していった。 「藤姫、僕はあかねちゃんの役に少しはたったのかな?」 詩紋は几帳の影に隠れるように佇んでいた幼い少女に声をかけた。 藤姫はしゅる、と衣擦れの音をたてて几帳の向こうから姿をあらわした。 静かに、音をたてないように佇む為なのか、いつも額髪を飾る花のすかし模様の入った髪飾りはつけていない。 「詩紋殿・・・。」 藤姫は鎮痛な面持ちで詩紋を見上げた。 「あのね?本当だよ。僕、ここに残りたい。ここでやりたいこと、僕にしかできないこと、見つけたんだ。」 詩紋は藤姫に向かって微笑んだ。 詩紋の心からの優しさに、藤姫はその場に膝をついて深く、深く頭を下げた。 「愚かな私をお許し下さい・・・詩紋殿・・・。」 藤姫はわかっていなかった。 確かに八葉として、友人として、詩紋はあかねを敬愛していただろう。 でも違ったのだ。 詩紋の中で、あかねは自分の人生を決めてしまうことができるほど、大きな指針だったのだ。 神子と八葉の絆の深さを、藤姫は改めて感じた。 そう、八葉は神子のためであれば命を捨てることができるほど。 「やだなあ、藤姫。深く考えないでよ。僕は、僕の意志でここに残りたいんだから・・・。そりゃ、あかねちゃんもここに残ってくれたなら、それが一番いいんだけどね。」 詩紋はうん、と伸びをした。 そう、詩紋にはやるべきことがたくさんある。 龍神の神子のことを。 鬼のことを。 正しく平等な目で語らなければならないのだと。 詩紋の表情は晴れやかであった。 ************ あかねは神泉苑へとひた走った。 神泉苑の広大な池が見えてきたときだった。 「きゃっ!」 あかねは不意に二の腕を誰かに捕まれ、走っていたのを急に止められた形になって、体がよろけた。 それを二の腕を掴んでいた人物のもう一方の腕が伸びて、あかねの腰を支える。 「あかね。」 声を聞いてあかねは顔をあげた。 天真だった。 「おまえ、目が覚めたのか?走ったりして大丈夫なのかよ?」 天真はそういってあかねの顔を見てはっとした。 涙で濡れた顔はくしゃくしゃで、あかねに何かがあったのは間違いなかった。 「どうしたんだよっ!」 天真は知らず声を荒げて、あかねの肩を乱暴に揺さぶった。 「天真君・・・っ、いたっ・・・!」 肩に感じる天真の手は強く、あかねはその痛みに思わず顔を顰めた。 天真ははっとしてあかねの肩を掴んでいた手を緩める。 「泰明、か・・・。」 天真はやるせない表情であかねを見た。 どうして? どうして俺を見ない? 天真はあかねに自分の感情をぶつけたかった。 何度もあかねには言ってきたはずだった。 いつか俺達は元の世界に帰る、と。 しかしあかねはここで、恋をした。 それは天真にとって衝撃だった。 しかし、同時にどこか自分が優位であることに違いないと信じていた。 そう。 あかねも天真も。 詩紋も蘭も。 この世界の住人ではない。 だから役目が終われば元の世界に帰るのだ。 だからいくらここであかねが恋をしても、それは仮初の恋でしかない。 叶うはずのない、先の見えた恋なのだ。 「おまえとあいつは住む世界が違う。何度も言ってきたはずだ。俺達はこの世界の住人じゃないっ!」 あかねは天真の手を振り払おうとしたが、あかねの力では天真の手を振り解くことが出来ない。 わかっている。 自分がこの世界の住人ではないことなど。 理屈なんかではない。 自分がどうとか、泰明がどうとかではないのだ。 「関係ないよっ!そんなのっ!」 あかねは渾身の力を込めて天真の手を振り払った。 あかねは肩で息をしながら自分の身体を抱きしめて天真を睨んだ。 「家族はどうするんだよ・・・おまえの家族を俺みたいな目にあわせるのかよ・・・?」 あかねはびくりとして思わず肩をすくめた。 天真が蘭の行方不明にどれだけ傷つき、苦しんだか知っている。 「知ってるよ・・・。そんなこと・・・。」 心が引き裂かれそうだった。 自分の家族との別れ。 友人との別れ。 どれだけ自分の行方不明に対し、心を痛める人たちがいるであろう? わかっているのだ。 すべてわかっている。 でもそれでもなお。 「・・・っ・・・。止められないよ・・・。止まらないよっ!」 大事な人たちを傷つけることになってもあきらめられない。 そんな恋もあるのだと、あかねは知ってしまった。 「あかね・・・。」 あかねの様子に天真は自分の恋が叶わないのだと思い知らされる。 こんなにもあかねは、一人の人を求めている。 そんなあかねをどうして予測できただろう? 高校生にもなれば恋のひとつやふたつは経験して、恋人のひとりやふたりいたことがあってもおかしくない。 でもそれはどこか恋愛ごっこみたいな恋ばかりで、いつか出会う本物の恋の前段階のようなものだと思っていた。 しかし、あかねの様子を見ていればわかる。 これが本物の恋であることを。 すべてを失っても手に入れたい恋なのだということを。 「・・・泰明は・・・、泰明が本気でなかったらどうするんだよ・・・。」 天真は苦し紛れにありえないことと知りつつ、あかねに疑問を投げかけた。 泰明のあかねを見る眼差しが、本気でないなどと言えないことを承知しながら。 「関係ないよ・・・。私は泰明さんの側にいたいだけだから・・・。私は私の気持ちに正直でいたいだけだよっ!」 天真は思わずあかねを抱きしめた。 「ごめん・・・こんなこと言ってもどうにもならないよな・・・。ようはおまえ次第なんだから・・・。」 今、自分の手の中にあかねを感じて。 そう、あかねが自分を好きであろうと、好きでなかろうと関係ない。 自分があかねの側にいたいように、あかねもまた泰明の側にいたいのだ。 ーーおまえが俺を方向付けてくれるんだな・・・。 鬼の手から取り戻した蘭は、元の世界に帰るのを頑なに拒んだ。 自分がめちゃめちゃにした京のために、何か少しでも返したい。 めちゃめちゃにしたままでは元の世界になど帰れないのだと。 京は平和を取り戻したのだからそれでいい、と何度諭してもだめだった。 どっちみち、元の世界には両親はいない。 数年前、交通事故で両親を亡くし、そのすぐあとに、蘭が行方不明になったのだ。 元の世界に帰らなくても森村兄妹には、さして都合が悪くなるようなことはない。 でもあかねや詩紋は違う。 家族が、友人が、あかねを心配して探しまわる人々がたくさんいる。 そのすべてを傷つけてでも。 「泰明は池のところにいる・・・。行ってこいよ・・・。そして言いたいこと言ってこい。」 天真はあかねの身体を離した。 あかねは天真の顔をまじまじと見る。 そして一歩、二歩、と後退りをし、そしてくるりと背を向けて走り出した。 天真はあかねの背中を見送る。 きらめく夏の日差しの中を走り去っていく背中を見つめて。 そして天真は新たな道をみつける。 「ここで暮らすっていうのも悪くないよな。」 天真は苦笑して神泉苑を出た。 ここに召喚されたのは、きっと蘭を見つけ出す為だけではなかったのだと。 天真は思わずにいられなかった。 あかねは池のほとりを目指して走る。 見知った人影が池のほとりで佇んでいる。 「泰明さんっ!」 あかねは泰明に向かって声をかけた。 「神子?!」 泰明の驚くのを尻目にあかねは泰明の腕の中へと飛び込んだ。 泰明の手が躊躇いがちにあかねの身体を抱きしめる。 「神子・・・私は・・・。」 こんな風にあかねを抱きしめてしまったら、もう離せそうにないのを泰明は必死の理性で押さえつけなければならず、自然、あかねに語りかける言葉も掠れがちになる。 一方あかねはあのときのことを思い出していた。 あのとき、意識を手放す寸前に、泰明があかねに囁いた言葉を。 「聞いて、泰明さん・・・。」 あの時、意識を手放すその瞬間、あかねが思ったことを。 あのとき伝えられなかったこの思いを。 「私ね、私・・・、ちゃんと聞こえていたから・・・。泰明さんの言葉聞こえていたから。」 あかねは泰明の顔を見上げた。 色違いの泰明の瞳をまっすぐに見据えて。 「私、ここにいる。あなたの側にいたい。」 あかねは落ち着いた声音で泰明に言った。 泰明の耳に、心に届くように。 言霊というものがどういうものなのかはあかねにはよくわからない。 しかし、この言葉が真実、まことであるように、あかねは泰明に言う。 「あなたが好きです。泰明さん・・・。」 あかねの言葉に驚いたのは泰明だった。 「神子、滅多なことを言うな!ここにいるなど・・・もとの世界に帰れなくなってもいいのか?!」 泰明の心とは裏腹な言葉が出てくる。 あきらめると、この恋は叶ってはならないものだと、散々自分に言い聞かせて、やっと自分を納得させたというのに、あかねの言葉に泰明は動揺した。 あかねの言葉が真実だったから。 まことの言の葉は力を持って泰明の嘘の鎧をいとも簡単に解き放つ。 「何よりも泰明さんが大切なの・・・。何よりも・・・、誰よりもあなたが好き・・・。」 ためらいがちにまわしていた泰明の手に力がこもる。 「神子、もう一度・・・もう一度言ってくれ・・・。」 あかねの表情は晴れやかで。 迷いのないまっすぐな瞳で泰明を見つめる。 「好きです・・・。泰明さん・・・。」 どれだけこの言葉を待っていただろう? あかねの自分を思う心が痛いほど伝わってくる。 「もう一度・・・。」 泰明はこれが夢や幻でないことを確認するかのように、再びあかねに同じ言葉を請う。 あかねも微笑みながら泰明の頬を手で包み込み、同じ言葉を何度も繰り返す。 「好きです。泰明さん。」 何千回でも、何万回でも。 どれだけでも繰り返すあなたを想うこの言葉を。 「神子・・・。もう一度・・・。」 ーーFIN 2002.8.27 文・みるみる 絵・天宮 生 |