桜月夜

いつから夜が怖いと思うようになっただろう。
いつから独りでいることが寂しいと思うようになっただろう。
月の光が眩しすぎて、何度眠れぬ夜を明かしたであろう。

いつからあの少女の面影が目に焼きついて離れなくなっただろう。
いつからあの少女に触れてみたいと思っただろう。
彼女の涙が己の心を捉えてしまって、何度うとましいと思いながらその心地よさに陶酔したであろう。

泰明にとってあかねはそういった存在。
あかねにとって自分はどういう存在なのであろうか?
いつか聞いてみたいと思いつつ、泰明は今日もまた眠れぬ夜を独り過ごす――。





桜が舞い散っている。
さながらそれは雪のように。
泰明は独り桜の木の下に立っていた。
銀の月が桜を照らす。
それは幻想的でいや増す妖しさであった。
まるで自分の中のなにかが狂ってしまったような、時の流れに置き去りにされたような、不思議な感覚であった。
ぽとり。
桜の花が一輪、まるで泰明の元へ飛び込んでくるかのように泰明の手に舞い落ちてきた。
散るわけでもなく、きちんと五弁の花びらそのままの桜の花。
泰明はあかねのことを想った。
今頃は夢の中――。
そう思ったとき、ふっとあかねの夢を覗いてみたいような気持ちに捉われる。
泰明はそっと桜の花を手の中に包み込んだ。
そっと優しく、壊さないように・・・。
意識を土御門へと飛ばす。
柔らかで、健やかな眠りにつく神子のもとへ。
土御門の、あかねに与えられた対の屋の軒下に子猫が丸くなって眠っているのを見つけた。
誰かが差し入れたのか、藁を集めて作られた寝床で白い子猫が三匹。
泰明が飛ばした意識に気がついてか、一匹の子猫が身体を起こした。
泰明はするりと子猫の身体に自分の意識を滑り込ませる。
小さく身じろぎした子猫はやがてゆっくりと身体を伸ばした。
ぷるぷると身体を小さく震わすとくるりとあたりを見回す。
子猫はそのまま仲間をあとにして真っ直ぐに神子の眠る部屋へと向かって行った。
泰明の意思のままに。

土御門の庭にも桜が咲き乱れている。
散りゆく桜を惜しんでか、母屋では宴会が行われていたようで、それもじき終焉を迎えようかといった具合である。
宴会の出席者たちはすでに泥酔して惰眠を貪り、盛んに燃え盛る松明の明かりが、妙にうらぶれている感じがする。
あかねの住まう対の屋は格子がおろされ、猫の子一匹入れる隙間もないほどである。
扉の前で泰明は思案した。
思案してしばらく。
泰明は錠を開ける呪いの言葉を紡いだ。
しかしそれは子猫の愛くるしい鳴き声となって、呪いとは程遠いものであった。
泰明は内心舌打ちをした。
精神体のままでは言霊を使用する呪術が上手くいかないことを知って。
しかし思いもかけぬ方法で果たして扉は開けられた。

妻戸の閂を下ろされる鈍い音がしたかと思うと、妻戸が細く開けられた。

「猫・・・?」

あかねの声である。
いくら猫の鳴き声だからといって、かような深夜に妻戸を開けるとは何事か、と少々見当違いな怒りが沸いてはきたが、泰明は自分こそほめらた行為をしているわけではないので、あえてその思いを押し殺す。
押し殺したその思いが、別の形で泰明を苛むことにはなろうとも露知らず。
泰明は細く開けられた妻戸の隙間からあかねの部屋へとそのしなやかな身体を滑り込ませた。
あかねは妻戸の隙間から突如やってきた可愛らしい闖入者に思わず頬を緩めた。

「どうしたの?」

あかねは子猫を抱き上げると顔を覗き込んだ。
真白の子猫は真っ直ぐにあかねを見つめ返す。
その視線にあかねは覚えがあって、知らず頬を染める。

「もうこんなに遅い時間なら誰も起きてないわよね。」

あかねは子猫を抱えなおすと、妻戸からするりと夜闇へと抜け出した。
春とはいえ、夜は寒い。
あかねは肩からすべりおちていた袿を直す。
目の前には桜の木。
風に吹かれて桜の花びらが舞っている。

「私はね、こんな時期にこの京にやってきたのよ。」

あかねは子猫に向かって話しかけた。

「こんな桜の舞っている日だったわ・・・。」

あかねの声はどこか切なげで今にも消え入りそうである。
泰明はこんなあかねを見たことがなかった。

――神子。

そういうつもりが小さく甲高い子猫の鳴き声になる。

「うふっ、心配させちゃったかな?私は大丈夫よ。」

あかねは子猫の気遣わしげな鳴き声に少し照れたように微笑んだ。
そして子猫の背中を細い指先で撫でる。
びろうどのような滑らかな毛先を指先に感じ、あかねの手は何度も何度も子猫を撫でる。

「帰りたくないって思ったの・・・。」

あかねは桜を見上げた。

「帰りたくないの。あの人のいない世界なんて私にはもう考えられないの。」

あかねは自嘲する。
こんな思いをあかねは今まで知らなかった。
恋なんて思いはまさかこんな異世界の地で知ることになるとは思ってもいなかった。
好き、離れたくない、甘く切なく苦しい思いがあの人に伝わることがなくとも、あの人のいるこの世界で、あの人の生を感じ、あの人を思って見つめられればそれでいいと思った。
だからあかねにとって帰る、という選択肢はなかった。

「異世界から来た私はね…、この世界の気がなじみにくいんですって…。」

迷惑ばかりをかけてしまうかもしれない。
けれどどうしてもあかねはこの世界に留まりたかった。
すべてを捨ててもあの人の生きる世界で同じように生きたい。
すべてにおいて不自由で、あかねの元いた世界とは天と地ほども違うけれど。
あかねはきゅっと子猫を抱きしめた。
桜が夜風に吹かれて闇を舞い狂う。
朧な月が花影を落とし、猫の目で見つめる泰明は、今にも消えてしまいそうなあかねを不安そうに見つめた。

「どうして会ってくれないのかな…。」

今日の土御門で行われた花の宴には泰明の師、安倍晴明も来ていた。
表立って宴に来る来客たちを見ることは叶わなくとも、そこに泰明も来るはずだと信じていたあかねは訪れない泰明に肩を落とした。
少しでも近くに泰明を感じられたら。
神子としての使命を背負っているときはあんなに身近にいたけれど、いざ京が平和を取り戻してしまうとあかねと泰明の距離は遠く離れてしまった。
いっそ仮病でも使って寝込んでみようかと思ったりもする。
さすれば陰陽師の彼はもと八葉ということですぐに呼び出されるであろうから。
しかしそれはさすがに周囲に心配をかけるだけだと躊躇われ、さらには仮病とわかったあとの泰明の冷た氷のような視線を想像するだけで実行になど移せない。
側近くに仕える女房たちの風の噂に泰明の名が出ないか、一日淡い期待を抱く毎日にあかねの生活はなっていた。

あかねの切ない告白に泰明は慟哭した。
一体あかねの心を捉えて離さないのは誰であろうかと。
泰明は身じろぎをしてあかねから離れようとした。
他の男を想っている神子を身近に感じていたくなくて。

「苦しい?…ふふ、ごめんね。」

身じろぎして逃れようとする子猫にあかねは困ったようにはかなく微笑んだ。
そのとき月にかかっていた朧な雲が晴れて柔らかな月明かりがあかねを照らした。

「あら…あなた泰明さんと一緒…目の色が互い違いなのね。」

色違いの左右の瞳。
いとしい人、誰よりも側にいて欲しい人を彷彿とさせる。

「ねえ、お願い。今夜だけ、今夜だけいいから一緒にいて。来てくれなかったあの人のかわりに。」

あかねはは子猫の首をそっと撫でた。
細い指先を泰明は猫を通して感じる。
それは懇願―――。

「あの人と同じ目を持つ子猫ちゃん、今夜だけは私のもとにいて。来てくれないあの人のかわりに…。」

その瞬間泰明ははっとして顔をあげた。
とたん、音にならない音が周囲に響き渡り、泰明の意識が子猫から自分の肉体へと戻ってくる。

――神子が私を待っている…?

泰明は震えるほどの衝撃を覚えた。
季節はすでに春。
あかねが異世界からここに来て、すでに一年(ひととせ)の月日が流れていた。
どうして帰らないのか不思議だった。
それともしばらくとはいえ、この世界にいたせいですでに元の世界に帰ることができなくなったのか、はたまた他に何か理由があるからなのか。
泰明にしてみれば拷問にも近い苦しみだった。
手を伸ばせばそこにいる。
けれど神から愛され、この世でもっとも清らかで穢されてはならない斎姫。
女の胎から生まれぬ異形のモノである穢れた自分には眩しすぎる存在。

――いけない

すべては自分の欲望の見せた幻なのだと泰明は首を振った。
手にしている桜の花を呆然とした面持ちで眺める。
柔らかな花弁も愛らしい清らかで清浄なる気を纏い、すべてのものを愛し慈しみ救ったその人の象徴とも思えるようなその花。
なんと頼りなく儚げであることか。

泰明は月を見上げた。
いつも以上に大きく輝く月に泰明は胸が締め付けられそうになる。
会いたかった。
ずっと。
許されるならその人の手をとり、この腕の中に抱きしめたい。
穢れたこんな思いを抱いたままで、清らかなる神子に会うのは不謹慎だとわかっていても。
泰明は気がつけば土御門まで来ていた。
花の宴で門番たちも泥酔しており、邸内に入るのはわけもなかった。
あかねの住まう対の屋へと迷わずに進む。
けれども庭にある大きな桜の木のもとにその人の姿はなかった。
泰明は再び気を集中させる。

「神子。」

猫を通してあかねに呼びかける。

「神子。」

あかねの懐に抱かれた小さく柔らかなその存在はぴくりと体を起こし、あかねをまじまじと見つめる。

「神子。」

声にならない声にあかねは目を開ける。
夢とも現ともつかないその世界。

「上賀茂神社で待っている」

猫は確かにそういった。
あかねは再び睡魔に襲われる。

「今は眠れ…。」

泰明の優しい声をあかねは頭の奥で聞いたような気がした…。








朝、夜も明けぬうちからあかねは起きだした。
昨夜の子猫は見当たらなかった。
ゆうべのうちに家族の下へ帰ったのだろうか。
あかねは一抹の寂しさを覚えた。
そして。

その代わりというわけではないだろうが、枕元に桜が一枝置かれていた。
別段どうというでもなく、結び文もあるわけではない。
あかねははっとした。
昨夜のあの言葉は夢ではなかったのだと確信する。
急いで身支度を整える。
そして土御門の邸を駆け出した。
久しぶりの外の世界、外の空気。
晴れやかな空、春の日差し。
そして時折風に吹かれて薄桃色の桜の花びらが舞う。
あかねの駆け足にじゃれつくように、柔らかな春色の風。

「泰明さん!」

懐かしいその背中に声をかける。
振り向いたその人は驚いたような、困惑したような表情を一瞬浮かべ。

「会いたかったです」

胸に飛び込んであかねは言う。
そしておずおずと泰明はあかねの背に手を回す。
その柔らかな存在に泰明は心が晴れていくのを感じた。
抱きしめる腕に力がこもる。

「神子、私も…、私も会いたかった…」