清浄なる雪


とろとろと目が覚めたのは、視界が妙に明るく感じたせい。
心地よく真綿で包まれるかのように、誰かの胸のなかであかねは目を覚ました。

「…う…ん、まぶし…」

妙に明るい御簾の向こう、褥から肩を出せば妙に冷たい。
不意に力強い腕に包み込まれて、あかねは半ば起こしかけていた身体を強引に倒された。

「大事無いか?」

耳元で囁かれる気遣わしげなその言葉にあかねは今度こそ本当に覚醒した。

「え…、ぇえええええっっ!!!!」

弾けんばかりに泰明の腕の中を飛び出し、あかねは褥から転がるように飛び出して御簾に張り付いた。
自分のからだは寝乱れた単ひとつ、不快そうな顔を歪めた泰明もやはり同じように単ひとつ。

――ちょっと待って!、なんなのよっ!この展開はっ!!!

あかねはあたりを見回した。
見覚えのない部屋、見覚えのない調度。
いや一部見慣れたものもある。

「神子、急に大声を出すな。」

泰明は不機嫌そうに褥から出ると、さっと小袖を羽織った。
そしてもう一枚きちんと畳まれた小袖を手にする。
真っ赤になるべきか、真っ青になるべきか、表情をくるくるかえて恐慌状態に陥っているあかねの側にひざをついた。

「そこは冷える、神子こちらへ。」

ふわり、と小袖をあかねにかけ、そのまま抱き上げた。

「あ、あのっ!!」

存外に強い力の持ち主だったことにあかねは驚きながら思わず声をあげた。

「なんだ?」

泰明の言葉にあかねは何をどこから聞いたらいいのかわからなくなった。

「…私どうしてここに…。」

そうなのだ。
あかねは夏の京にいたはずなのだ。
今御簾の向こうは雪が積もり、ひんやりとした冷気が部屋の中にまで伝わってくる。

「あかねから聞いて知っている。」

――アカネカラ聞イテ知ッテイル

あかねはまじまじと泰明の顔を見た。
いつの間に用意されていたのか、部屋の奥には火鉢が用意されている。
泰明はあかねを火鉢の側に降ろすと、自らも小袖を羽織り、そのまま妻戸から出て行ってしまった。
あかねはひとり残されて呆然とした面持ちであたりを見渡した。

「…どこだろう…ここ…。」

部屋自体はそんなに広くない。
調度はきらびやか過ぎず、かといって粗末なものではない。
二階厨子などはみるからに高価そうな品である。
今住んでいる土御門邸の調度も確かに素晴らしく高そうで豪奢なものも多くあるが、ここの調度は土御門の自分に与えられている部屋から比べると、控えめな落ち着きのある部屋である。
几帳からそっと顔を出して御簾のほうを見遣れば、銀世界が外には広がっている。
あまりにも白い世界で、庭の様子はよくわからないが、整えられてはいるものの、自然の山野を模した雰囲気の庭である。
どこか名のある人の別邸というような雰囲気だろうか。
つと妻戸が開いて、女房のひとりが衣装箱を持って現れた。

「龍神の神子様、お待たせしてしまって申し訳ありませんでした。さあお着替えをおもちしました。」

女房はあかねの側に寄ると、手にしていた衣装箱から紫苑色の水干を出した。
あかねは見慣れた水干に何の迷いも、疑いもなく手を通した。
その水干がいつもよりも古く感じられたのはなぜであろう?
あかねは女房にすすめられるままにその水干に手を通し、ちょこんと火鉢の側に座った。
女房はあかねの着替えを手伝うと、何もいわずにそのままその場を去り、今あかねはたったひとりここにいる。
所在無くあかねはあちこちを見回していたが、どうにもここがどこなのか気になってそっと妻戸をあけた。
銀世界がまばゆく広がっている。
あかねはそっと部屋を出ると、あたりを見回した。
廂に出て外を見回す。
あかねは冬の京を知らない。
いやそもそもここは京なのだろうか?
いや間違いなく京なのだろう。
女房も、この屋敷も、間違いなく京のものである。
八葉である泰明もいた。

「一体どうなってるの…?」

そろそろとあかねは歩いた。
土御門の屋敷から比べるとかなり小さい屋敷である。
まっすぐに伸びる渡殿を通るとすぐに母屋に出た。
ここまで来てようやく人の気配がした。
ぱたぱたと走る女房に随人たちの声がする。
あかねは人のいるほうへと足を向けた。

「何をしている?」

不意に声をかけられてあかねは飛び上がらんばかりに驚いて後を振り返った。
そこには怜悧な表情をわずかに曇らせた安倍泰明が立っていた。

「部屋で待っていればよいものを…相変わらずだな。」

――あい変わらず?

泰明の言葉にあかねは首をかしげる。

「その姿では外に出れば冷えるであろう。これを。」

泰明は手にしていた袿をあかねの頭からすっぽり被せた。
実際ここまで来るのに短いスカートでは足がすぐに冷えて、寒さを感じずにいられなかった。
あかねは前を合わせるように、袿にくるまると存外に暖かかった。
泰明は思い出したようにあかねに温石を持たせる。
冷えた手先が温かくなって、あかねの不安な気持ちもわずかに緩む。
泰明は相変わらずの泰明である。
冷たい態度の裏腹に、自分を優しく気遣ってくれている。
そんな泰明をいつから自分は視界の片隅で追いかけていただろう?
ここにいたのが泰明でよかった、と思う自分にあかねは知らず赤面した。

「あの、泰明さん…。」

一体ここはどこでしょう?
と聞くべきなのか、それとも何を聞いたらいいのか戸惑って、そこから先あかねの言葉は続かなかった。
泰明がふ、と空を見上げる。
重く立ち込める雲からはらはらと雪が舞い落ちてきた。
泰明はその雪を目を細めて見上げていた。

「あかねからすべてを聞いて知っている。」

もう一度泰明は同じことを言った。
そこであかねは泰明の言葉に耳慣れないものを初めて感じた。

――アカネカラキイテシッテイル

あかね?
泰明は自分のことをそんな風に呼んだことがあっただろうか?
いつも泰明が自分を呼ぶときは「神子」であったはず。
泰明はそんなふうに自分を呼ばない。
震える唇で問いただそうとした時、泰明は再び視線をあかねに向けた。

「神子、おまえは時を駆けてここまで来た。おまえが望んだ未来に。」

泰明の言葉があかねは理解できない。
時を駆けて来たというのはどういうことなのか?

「龍神は時空を操る業を持つ。神子、おまえは何を願った?何を龍神に願った?」

泰明の射る様な眼差しにあかねは立ち竦んだ。
一体自分は何を願ったのだろうか?
あの双が丘で、泰明を追いかけて泰明の心に触れた時、私はこの人の側にいたいと願った。
そう、その夜のことだった。
もし。
もし泰明が自分を受け入れてこの世界で二人、一緒になれることが出来たら。
どんな未来になっているだろう?
夢でもいいからそんな未来を見たいと思った。
そう、願ったのだ。

「ここは…未来なの…?泰明さん…」

震える唇でようやく紡ぎだした言葉は、ひどく乾いて、言の葉にすればされあにそれが真実味を帯びてひどく怖くなる。

「今の神子は私から見たら過去。神子から見れば私は未来といったところか。」

泰明はふっと微笑んだ。
その優しい微笑みにあかねの胸がきゅっとしなるような心地がする。
それはあの双が丘で、はじめて泰明の心に触れたときのような、そんな感覚に似ていた。

「会いたかった、神子…。」

泰明がそっとあかねを抱きしめる。

「教えて、泰明さん、私は…今私はどうしているのですか?」

あかねは不安だった。
この世界の未来に泰明はいた。
じゃあ私は?
私という存在はあるのだろうか?
しかし泰明は曖昧に微笑んだ。

「神子、すべては神子の望むままに。神子は私の神子。私の斎姫。神子の望みは私の望みでもある。」

「泰明さん?」


泰明はそのままあかねの手を引いた。
再び先ほどの部屋へと連れて行かれる。

「神子、私はおまえを知っている。おまえがここに来ることも知っていた。だから待っていた。」

火鉢の側に二人座ると、女房が薬酒を持ってきた。

「私が神子を不安にさせたのかもしれない。だから神子は時空を越えてここまで来たのかもしれない。」

ぽつり、と泰明は呟くように言った。

「私は幸せを知った。神子の心に触れて、神子の優しさに触れて、私は幸せというものを知った。しかしそれと同時に苦しみも知った。」

泰明は目を閉じた。
その表情はあかねが今まで一度も見たことがない、安らかで穏やかな表情だった。

「苦しむ故に喜びが感じられ、喜びがあるからこそ苦しみもある。すべて神子から、あかねから教えられた。」

火鉢の中で炭がぱちり、と弾ける。
静かな、静かなひと時だった。
夏の京しかしらないあかねには、冬の京の静けさに小さく身震いした。
そのとき外で小さな子どもの声がした。

――雪あそびをしよう、雪だまを作ってころがそう?

甲高い子どもの声にあかねは知らず御簾の向こうに首をめぐらした。

「ああ、――だ…。時が迫っている。神子、私を見捨てないで欲しい。私は神子が思う以上に、神子のことを愛している。神子の側にいることが私の喜びで、幸せなのだ。」

不意にキラキラとあかねの周りで光が煌きだした。
あかねの中で鈴の音がする。
シャンシャンと鳴る音は次第にその音を大きくし、それとは反対に泰明の姿が薄くなる。
いや違う、自分の視界が薄くなっていくのだ。

「愛してる、神子。昔も今も。神子…私は今…」

泰明の声がどんどん遠くなって、消えていく。
言葉の最後には何を言っているのかわからなかった。

――泰明さん…

反転する世界。
宙に放り出されたような浮遊感を覚える。
見えない手があかねをふわりと抱きとめる。

――ナニガミエタ?ミコ。

声無き声が頭の中で直接響く。
あれは龍神の声。
あかねが見たのは…
何も見えない時空の狭間で、泰明の姿が浮かび上がる。
側にいるのは。
長い髪の五つ衣を纏った女性。
その横には小さな子どもの姿。
その手は泰明にしっかりと繋がれていて。

――アレハ、ワタシ…。








気が付けばいつもの土御門の邸に設けられた自分の部屋だった。
御帳台の中で眠っていた。

「…夢?」

妙にリアリティのある夢だった。
あの冬の寒さを、火鉢の温かさを忘れていない。
目が覚めて髪をかきあげようと腕を伸ばして気が付いた。
この水干は…。

あかねは慌てて起き上がった。
寝る時はいつも単一枚だけである。
あの夢の中で、あかねは女房に差し出された一組の水干を着た。
紫苑色に桜の模様の水干は、藤姫が特別に用意してくれたものである。
あかねは慌てて起き上がって、いつも装束をしまって置く長持ちを見た。
そこには今着ているものと同じ水干が入っている。
今着ているものより色も鮮やかで、新しい。

「夢じゃなかった…。」

へたりこむようにあかねは呆然とする。
やはり自分は時を駆けたのだ。
時空を越えて、未来へと行ったのだ。
あの泰明は言っていた。
龍神には時空を越える業を持つと。
よく考えればあかねも時空を越えて、この京に来たのだ。
あたりまえといえばあたりまえなのかもしれないが、今更ながらに驚いた。

「神子様、泰明殿がお見えです。本日のお供はどなたになさいましょうか?」

藤姫の声が聞こえた。
そう、今日もまた、この京を怨霊から解放する日々が待っている。