恋歌

泰明はいらいらと読んでいた書物を閉じた。
いつもであれば、その書に書かれた内容が理路整然と頭の中に記憶されていくというのに、あの日以来それが叶わない。
気が付けば神子のことばかり考える自分がいる。
仕事に集中できない。
気が付けばいつも溜息ばかりついている。
今日も何回溜息をついたであろうか。
頭の中では研究対象である陰陽の理がめぐるかわりに、泣いたり笑ったり怒ったりと、表情のくるくる変わる龍神の神子の顔がかけめぐる。
彼女によって人間となって、感情というものを教えられ、顔の呪いが消えて自らの力で陽の気が作れるようになった。
それは神子に感謝している。
いや、感謝しているという言葉だけでは足りない。
この京に留まることを望んだ神子を全身全霊でもって守ると決めた。
その心に偽りはない。
なのに。
今から一月ほど前、神子から文をもらった。
この一年、手習いを頑張り、必死に歌を詠む練習をしていたと友雅から聞いた。
拙い蹟(て)でありながら、一生懸命作ったであろう神子の歌は泰明の心を捉えて離さない。
日毎、夜毎、考えるのは神子のことばかりである。
あの歌が神子の気持ちであれば、神子もまた自分と同じような気持ちでいるのだろうか。
あの歌をもらってから泰明は急に不安な気分に襲われるようになった。
それは甘く切なく泰明を捉え、絡みつき、出口の見えない思考の渦へと引きずり込む。
ときにそれは不埒な幻影すら見せ、泰明の心を蝕む。
こんなことはあってはならないのだ。
理論的にものごとを考え、速やかに処理する。
いつもの泰明であればそのような雑念に惑わされることはない。
仕事で女人の身体に触れねばならぬこともある。
そんなときでも泰明には女人に触れたいという気持ちなど全くない。
機械的な作業で行われる祓いだけである。
しかし。

ーーなぜだ?

今泰明の心にあるのは神子へのあらぬ不埒な欲望である。
感情を手に入れたから、人になれたからといって、自分という存在が陰陽の理をまげて生まれた事実は変えられない。
だから自分の中にある己が欲望はまやかしでしかない。
人は子を為す為、自らの分身を次の世代へと残す為に異なる性を愛し、慈しむ。
その行為は人間の根源に基づく行為である。
しかし泰明は生まれたそのときから人とは異なった。
だからこそ自分の中のその欲望は単なる色欲でしかない。
あってはならない欲望であった。

だから泰明は神子から届けられた歌に返歌しなかった。
そして神子に会おうとしなかった。
会ってしまえばどうなるか自分が恐ろしかったから。
神子の面影が泰明の思考を停止させる。
出口の見えない迷路の中を泰明は彷徨う。

「泰明。」

晴明が仕事もろくに出来ぬまま、陰陽寮に一人居残っていた泰明の下に訪れた。

「お師匠・・・。もう帰られたかと・・・。」

泰明は居ずまいを正すと、さっと頭を垂れた。

「仕事がはかどらぬようだな。何か思うことがあるか?」

晴明は優雅に庇の間に座した。
すでにあたりは闇色。
花曇の美しい、柔らかな月明かりが年齢不詳の泰明の師の横顔を浮かび上がらせる。
泰明は頭を垂れたまま何も言わない。

「泰明、そなたは私がどのような生まれか知っているか?」

泰明ははっとして顔を上げた。
自分の噂をされるときに、否が応でも聞こえてくる晴明の出自の不思議。
だが今目の前に座す安倍晴明は泰明から見れば明らかに普通の人間である。
妻を持ち、子を為している。
人の噂などあてにならぬものだとはよくいったもので、晴明の出自にまつわる噂は、晴明の強大な陰陽の力を恐れるが所以のものであることは容易に想像がついた。

「私は妖狐の子だと言われていることはそなたも存じておろう?」

晴明はふっと微笑んだ。

「私とて事実は知らぬ。気が付けばこの力を手にしていたし、母の顔もおぼえておらぬ。存外妖狐の子だという話は本当やもしれぬ。」

泰明は何かを言おうとして口を開いた。
しかし言葉が出てこない。
何を言ったらいいのかわからなかった。

「人とは何をもって人というのか・・・。」

晴明は呟いた。

「私達が人と思っているものも、もしや人ではないやもしれぬな。」

晴明は優雅に扇を広げて口元を隠した。

「人をさして鬼と呼ぶものもおる。」

鬼と呼ばれ忌み嫌われた者たちはその容姿ゆえ、その力ゆえ、京の民から排除された。
それが彼らの憎しみを生み、龍神の神子をこの京に召喚させた。
神子は鬼を憐れんだ。
神子は姿かたちで判断しない。
そのものの本質を見ようとする。
ならば神子の目に泰明はどう映っているのであろうか。
人となった。
口にすればごく簡単なこと。
しかし本当はどうなのであろう。
そのものの本質を見ることの出来る神子にはやはり泰明は人ならぬものなのかもしれない。
ならば泰明の神子へ抱く思いは絶対に否定されねばならなかった。
人ならぬものが、人の中でも最も高貴で気高い魂を持つ龍神の神子を穢すことは許されないことであった。

晴明はふっと笑った。
泰明の表情はさして変わらない。
けれど泰明の心が手に取るように晴明にはわかる。
ほんのわずかに動く瞳の色から、握り締められた拳から。
泰明の思いが痛いほど伝わってくる。

「泰明、人であるとか、人でないとかどうでもよいことと思わぬか?」

晴明は朧に霞む月を見上げた。

「愛しいのなら愛しめばよい。それを相手に伝えればよい。誰に許しを請うというのだ?」

ーー誰に許しを?

泰明は晴明の言葉の意味が計りかねた。
これではまるで自分が神子へ抱く気持ちを肯定せよと言っているようなものである。

「官位が許さぬか?龍神が許さぬというか?それとも己の出自が不満か?」

晴明は泰明に鋭い視線を向けた。
何もかも見通すような真摯な眼差しである。

「私がお前を作ったという事実が不満か。ならばそなたに間違った記憶をうえつけておくべきだったか。そなたはそれほどに自分に弱かったか。」

泰明は一瞬目の前が真っ赤になる思いがした。
揶揄するような晴明の言葉が泰明の真実をついていたから。

陰陽師として出仕したそのときから、泰明の心がどんどん閉ざされていくのが晴明には手に取るようにわかった。
だがあえて晴明は泰明を庇うことはしなかった。
庇ったところで泰明の心が守れるわけではなかったから。
この世に出でてたった2年。
あまりにも無垢な魂であった。
だが無垢な魂のままではこの世では生きていけない。

「人間界は六道のうちのひとつ。修羅の道とさしてかわらぬ苦界よ。」

晴明は小さく溜息をついた。

「人型をもってこの世界に出でたのであれば必ず誰しも苦しみがあるのだ。」

一瞬年齢不詳の師、晴明の表情が齢を重ねた隠者のような表情を見せた。
だがそれは一瞬のこと。

「誰がそなたを人でないと決めたのだ?そして誰が神子殿を人であると決めたのだ?目に前にある愛しいものを愛することは人でなくばできぬものか?」

晴明の畳み掛けるような言葉に泰明は言葉を失った。
神子を愛して、そのあとどうなるのかわからなかった。
自らが堕ちるだけならいい。
この身ひとつが地獄に堕ちて、神子を愛した咎を受けるのであればそれでも構わない。
だが。
地獄への道連れに神子を伴うことは絶対にできない。
神子を愛することで神子を貶めてはならないと思っていた泰明に、晴明の言葉は痛烈であった。

「私は神子を守りたい・・・!だからっ・・・!」

泰明は掠れた声で呟いた。
晴明はすっと瞳を細めた。

「ならばともに煉獄に堕ちても守ってみせよ。」

晴明の言葉に泰明ははっとして顔を上げた。。
優しく微笑む晴明の表情が朧の月明かりに揺れる。
何もかも見通すその表情は慈しみに溢れて泰明を見つめる。

ーー私は・・・。

「御前、失礼する。」

泰明はそういうとさっと立ち上がる。
行く先はただひとつ。
あの歌のように苦しい恋に身を焦がす彼の人の下へ。
自分もまた恋焦がれていることを伝える為に・・・。







ーーFIN



美氷綺羅様に捧げます。