蛍舞 何故こんなに切ない気持ちになるのであろう。 何故こんなに狂おしい気持ちになるのであろう。 まこと感情とは不思議なもので、自分の中の心を知らなかったときのほうがどれほど心穏やかでいられたであろうか。 今の自分は感情という雲に覆われた闇夜のようである。 「大丈夫です・・・。」 か細い声で瞳を閉じたとき、このままこの少女が消えてしまうのではないかと泰明は思った。 だから。 その手を離せなかった。 傍らに彼女を寝かせ、そのままその白い手を握り締めていた。 こんなにも冷たく、白く、細い手であったであろうか。 彼女の中の龍神の神気が溢れそうなほど強く感じられる。 このままではあかねの自我がなくなる。 泰明はあかねの手を握り締めたまま、自らの気をあかねに送りつづける。 あかねを繋ぎとめる為に。 龍神の神子ではない、あかねを繋ぎとめる為に。 八葉であるのがよいのか悪いのか。 今の泰明には計りかねていた。 自分が八葉であり、あかねが龍神の神子である関係がもどかしく感じられるというのに、その一方では八葉でなければあかねを守ることができないという事実。 だから自分が八葉でよかったととも思うのである。 自分のなかに生まれる矛盾した考えに、泰明は戸惑いを覚える。 今までの自分にはなかったこと。 だが・・・。 あったのかもしれない。 自分が気づかない振りをしていただけで。 心の迷いは己を弱くする。 怨霊調伏を生業とする泰明にとって、迷う心はあってはならないものであった。 だが今の泰明は己の中にある陰陽の力が、以前より安定して高まっているのが感じられていた。 不思議な感覚であった。 陽の気を自分で作り出せるようになったからであろうか。 「神子・・・。」 泰明はあかねの白く青ざめた顔を覗き込んだ。 ーー人とはなんと愚かで強いのであろうか・・・。 泰明はそっともう片方の手であかねの額に手をあてた。 ひんやりと冷たい額。 だが呼吸は規則正しく行われている。 あかねのなかの気が安定しはじめる。 龍神の気は大きく、常人であるあかねが持つのはその身に大きく負担をかけることに他ならない。 できることならあかねをそのような苦しみから逃れさせてやりたかった。 明るく、眩しい笑顔のその裏でどれだけの苦しみがその身にふりかかっているのであろうか。 泰明はそっとあかねの額の髪を払うと、ふっとあかねの表情が緩んだ。 一瞬起きているのかと泰明は目を見開いた。 しかしあかねは頬にわずかな笑みを浮かべたまま、その目を開けない。 泰明はあかねが眠っているのを確認すると、手に握ったあかねの手にそっと口付けた。 ただ。 ただあかねが愛しかった。 そうせずにはいられないほど。 自分ではどうしようもない止められない思いがあることをはじめて知った。 やがて夕暮れが訪れあかねが目を覚ました。 「やっ、やすあきさんっ。」 目を開ければ泰明の視線が飛び込んできて、あかねは思いっきり焦った。 あかねは頬を真っ赤に染めて、袿で顔の半分を隠し、泰明を見た。 当然の反応であろう。 年頃の娘、それもこの世界では妙齢の女性なのである。 男性に寝姿を見られるのはただでさえ恥ずかしいものなのである。 「わ、私・・・あれ・・・?」 あかねは自分が御帳台に寝かされているのを知って、改めてきょろきょろとあたりを見回す。 「気を乱して倒れたのだ。覚えてないのか?」 泰明はそういうと立ち上がり、几帳の影に隠れた。 あかねはそのすきに鏡を見て身なりを整えた。 どうやら寝起きの姿を見られてあかねが恥ずかしがっていることを泰明は察知したらしい。 庇の間に坐して、泰明は暮れゆく空を眺めていた。 「ごめんなさい、泰明さん。私寝ちゃったみたいで・・・。」 あかねは泰明の隣に坐した。 「よい。疲れていたのであろう。今宵はゆっくり休め・・・。」 泰明がそういったとき、ふわりと淡い光が奇跡を描いて二人の前を通り過ぎた。 「あっ!蛍!」 あかねはそういうとさっと立ち上がって庭にでるべく階へと一歩踏み出した。 しかしそれは叶わず、泰明の手によって引っ張られ、望むと望まざるとかかわらず、泰明の膝に据わらされるような格好で胸の中に引っ張り込まれた。 「まだ物忌みは終わっていない、神子。」 泰明の憮然とした声が降ってくる。 あかねは心臓の心拍数が跳ね上がるのを感じながら、じたばたと逃げ出そうともがくが、泰明の腕はそれを許さない。 「あっ、あのっ!わかりましたからっ!外に出ないから離してくださいっ!」 あかねは半ば叫ぶように言うと、ようやく泰明の腕が緩んで尋常でない接近遭遇から逃れることができた。 あかねの心臓はまだ脈打ち、どきどきとしてまともに泰明の顔を見られず、ついと背中を向けたまま気まずい沈黙が流れる。 ーーうわーっ!気まずいよぅ! あかねは混乱する頭の中であれこれ考えるが、全く思考が働かず、それどころか何故泰明はこのままここにいるのかもわからない。 気が付けばあたりは薄暗闇に包まれていた。 「神子。御簾を降ろせ。」 不意に泰明の声があかねの耳に届いた。 あれからどれだけの時間がたったのであろうか。 あかねは何も考えず、泰明の言われたとおりに御簾を降ろした。 御簾を降ろしてしまうと、庭に焚く篝火さえ遠くに感じられ、まるでこのあかねの部屋だけが闇夜に切り取られたかのような錯覚を受ける。 御簾を降ろしたのを確認して泰明がそっと御簾内に入ってきた。 手を丸く合わせて何かを包み込んでいる。 外界から遮断されたことを確認すると、泰明はあかねの側に寄り、閉じていた手を開いた。 ほんのり光る蛍がそこにいた。 「わあ・・・。」 あかねが感嘆の声をあげる。 やがて蛍はすうっと動き出して部屋の中を飛び始めた。 淡く光る軌跡を描いて。 「しばらくしたら外に出してやるといい。」 泰明はそういうと、自分でも知らずあかねの手を握り締めた。 あかねは思いもかけない泰明の行動に頬を染めつつも、そっと寄り添ったまま小さく頷き、一匹の蛍の身の焦がす様を見つめていた。 「今お帰りかい?」 土御門の邸を出たところで泰明は友雅に声をかけられた。 泰明は何も言わずちらりと友雅に視線を向けると、そのまま歩き出した。 友雅はそのまま泰明と並んで歩く。 「お前の邸はこちらではないだろう。」 土御門の邸から泰明の住む安倍晴明邸はさして離れていない。 あっというまに一条の邸にたどり着いた。 「たまには君と話したいのだよ。一献つきあってくれないかな?『思ふてふ事、誰にかたらむ』って言ってね。ふふ・・・。」 泰明は一瞬友雅を睨みつけた。 その泰明の視線にますます友雅は掴みどころのない笑顔を見せる。 ーー図星、だね。若いな。 友雅は満足そうに泰明の顔を見る。 いつから泰明はこんなに表情豊かになったのであろうか。 友雅はその理由に心当たりがあった。 しばらくの沈黙のあと、泰明はふいっと背中を向けて門を開けた。 「ついて来い。」 泰明の言葉に友雅は恐れもせずに邸内に入る。 音もなく門扉が閉まるが友雅は恐れる様子もない。 どちらかといえばおもしろがっているようである。 泰明は自分の対へと行くと、女房が平伏して出迎えた。 「お帰りなさいませ泰明様。」 女房がそういうと、友雅の存在に驚くこともなく、主人である泰明と客人の友雅を出迎えた。。 すでに酒の用意が整っており、肴も並んでいる。 「これは驚いたね。もしかしたら客人の予定でもあったのかな、泰明殿?」 友雅はおもしろそうに泰明に尋ねた。 もちろん是という答えを期待して言ってはいないが。 「おまえしかおらぬ。式が気を利かせただけだ。」 泰明も庇の間に坐した。 狩衣のとんぼ(襟元の止め具)をはずし、襟元を緩め、脇息にもたれて庭に群れ為す蛍を見遣った。 ーーやれやれ美しい男ぶりだねえ。宮中の女性達が騒ぐわけだ。 友雅は内心驚きながらも、はじめて差し向かいで酒を共にする仲間を見つめた。 「蛍・・・。」 友雅はふっと微笑んで酒を飲んだ。 「何が言いたい。」 泰明はじろりと友雅を睨みつけた。 「何も。この蛍はどんな思いで身を焦がしているのかと思ってね。」 友雅は自らの衣にとまった蛍を見つけると、杯をおいてそっと両手に包み込んだ。 「気をつけるといい。人目があるからね。天真あたりが聞いたら君を殴りに来るかもしれないな。」 友雅が蛍を御簾の中に入れる。 とたん泰明の表情が険しくなった。 「そんなに驚くものでではないよ。たまたま女房の楓のもとに居たときに見てしまったのだからね。神子殿の部屋の中を飛ぶ蛍をね。風情があるものだ。」 友雅の微笑みに泰明の瞳に殺気が帯びる。 「おお、恐いねえ。そんなに睨まなくても。神子殿の部屋に舞う蛍がとても美しくてねえ。」 友雅の含み笑いに泰明は何も言わない。 ただ剣呑な光をその色違いの瞳に揺らめかせるだけで。 「夏虫の身をいたづらになすことも・・・。」 「ひとつ思ひによりてなりけり。私がそうだといいたいのか。」 泰明はしゅるっと角髪(みずら)を解いた。 長い髪が滑り落ちる。 「別に。ただ夏虫の恋のように、身まで滅ぼすのは愚かだといいたいだけさ・・・。」 友雅の視線が泰明のさらに向こうの、虚空を見つめる。 泰明は眉を顰めた。。 あかねを守るためであれば、この人ならぬ身などどのようになってもかまわないとは思っている。 あの強大な力を持つアクラムが、ランという娘を利用して黒龍を呼び出せば、如何に泰明とて敵う相手ではない。 だがそれでもあかねに白龍を呼び出させるわけにはいかない。 今日のあかねの様子を見れば、それはさらに現実味を帯びる。 白龍はあかねを喰らうのだ。 あの汚れなき無垢な魂の、春の日差しのような、桜のようなあの少女の自我を喰らって現身(うつしみ)となって降臨する。 京に平和はもたらされるかもしれない。 けれどあかねを失って得る京の平和など、泰明にとって無に等しい。 だが。 あかねを守るために自らの身を滅ぼすことは愚かなのであろうか? 「友雅の言っていることはわからぬ。」 泰明は杯を開けた。 喉元を熱が通り過ぎていく。 酔う、という感覚は泰明にはよくわからない。 身体は確かに熱くなるのであるが、酒を飲んでどうこうという感覚に陥ったことがない。 しかし今日は違った。 昼間意識を失って龍神にその自我を乗っ取られそうになったあかねを見たからであろうか。 ひどく心がざわついている。 心を落ち着けて来たる玄武解放に備え、四神を解放後はアクラムと対峙しなければならないというのに、心の中がひどくざわめいているのだ。 そんな心が酒を欲した。 ざわめく心に酒という炎を注いで業火の炎を一気に燃え尽きさせたかった。 きっと自分も八葉の役目を終えれば陰陽の理を曲げて存在したものとしての断罪が待っている。 同じ滅びるのであれば、あかねという龍神の神子を龍神という存在から守るために、自らの滅びを願いたかった。 あかねを守って自らが滅びるのであればそれは本望。 しかしそれは愚かだと友雅は言うのであろうか。 「泰明殿、八葉は君一人ではないのだよ。」 友雅の瞳がすっと細められる。 「神子殿を大切にするのもかまわないが。」 友雅はそこで言葉を切ると、まっすぐに泰明を見据えた。 「神子殿を悲しませたら私が許さないよ。」 月明かりの庭に蛍が舞う。 泰明はそっと御簾を持ち上げた。 御簾内に閉じ込められていた蛍が仲間を求めて庭へと飛んでいく。 淡い軌跡を残して。 その思いが燃え尽きる前に、一生のうちのたった一度の恋を探して。 玄武解放まであと数日ーー。 ーーFIN 2002.4.10 ★あとがき ごっ、ごめんなさいっっ!! すっごく遅くなったうえに、めちゃめちゃヘタレ><;; 古今和歌集の「夏虫の 身のいたづらに 為すことも ひとつ思ひに よりてなりけり」という歌になぞらえた作品を作ろうと考えたのだけど甘かった><;;力量不足でした。あんじぇりーなさん、ごめんなさい!!(平謝りっっ!!) |