土御門の庭に春雨の降る あかねははらはらと散る桜を見ながらぼんやりと物思いに耽っていた。 柔らかな雨が降り、音もなく振り続ける。 無声映画のように音のない世界である。 ーー春、だなあ・・・。 あかねはしゅる、という衣擦れの音ともに立ち上がった。 そっと御簾からはみ出させた裾や袖を寄せて御簾内に入れる。 指先で袖に触れると湿っており、しっとりとした春雨がいくらかかかってしまったようだった。 わずかに顔をしかめてあかねは溜息をついた。 こんなときは何もすることがない。 姫君らしく琴のひとつをかき鳴らすことも、あかねには手遊びで出来るものではないし、歌を読むといっても、古今和歌集をやっと覚えるのが必死の体たらくでは季節の移ろいを詠む歌などとてもできない。 つまり。 とても暇なのである。 藤姫と双六なり、碁なりで遊びたいところであるが、ここ最近藤姫も裳着をいつ行うかなど、彼女の身辺がうるさくなってきている為、それもままならない。 ただこうして春雨に桜が散るのを眺めて溜息をつくだけである。 ーーもしかしたら私、意外とナーバスになってるかも・・・。 泰明との結婚が決まって、いよいよ本格的に色んなことが決まってくると、なんだか今までの自分に、そして現代での自分に決別しなければならないようなそんな気がしてくるのである。 あかねは再び溜息をついた。 「あかね。」 そのとき天真の声が廊から響いてきた。 庇の間に天真が現れる。 以前のように御簾内に断りもなく入ることはない。 「暇そうじゃないか、って思って来てみればやっぱりな。」 天真は含み笑いで庇の間に設けられた円座にどっかと腰を降ろした。 女房から手ぬぐいを受取る。 どうやら雨に濡れてしまっているようであった。 女房は天真に手ぬぐいを渡すと忙しいのかするすると下がっていった。 「こんなときはやっぱり傘が欲しいぜ。蓑じゃあ、あまり役にたたねえな。」 がしがしと頭を拭きながら天真は鷹揚に笑った。 あかねは天真の来訪で再び御簾の側に腰を降ろす。 しかし袖や裾は出さないようにして。 「ふふ、天真君ったら。よかったらこっちにおいでよ。そこでも濡れちゃうでしょ。」 あかねはそういうとすっと御簾を持ち上げた。 色鮮やかなあかねの袿の袖が御簾から零れ出す。 「おっ、わりぃ・・・、あかね?」 天真手があかねの袖に触れたとき、その袖が湿っていることに気がついて、はっとしたように顔を上げた。 「おまえ・・・。」 ーー泣いていた? 天真はあかねの湿った袖に困惑した。 泰明があかねを泣かせるようなことをしたのだろうか。 それとも泰明との結婚を前にして、現代のことを思い出して泣いていたのであろうか。 マリッジブルーというものであろうか。 天真は一人頭の中にいろいろな考えが湧き出してくるのを止められなかった。 そのとたん、あかねへの募る想いが爆発しそうなほど天真の胸を苛み始める。 「どうしたの?入っておいでよ。そこでも濡れちゃうよ?」 どこまでも能天気なあかねの声。 それでも天真は知っている。 あかねが能天気そうでいつも人より色んなことを考え、苦しみ、まっすぐに自分が傷つくのも構わないで立ち向かっていく。 そんなあかねだから好きになった。 だからあかねが京に残ると言い出したとき、自分もここに残ることにした。 あかねが選んだのが自分でないことを承知しながら。 あかねの幸せそうな顔を見れればいいと思った。 盲目的なほど、それほどにあかねが好きだった。 いや、今でも好きなのである。 愛している、といってもいい。 自分勝手な我侭な想いであるが。 「あかね・・・。」 御簾にかけたあかねの手を取る。 自分の手よりはるかに小さく、華奢な手。 この手が自分を捉えてくれたらどんなにいいだろうと思った。 あかねを連れて現代に帰りたい。 他の誰でもない、自分を見て欲しいと思う。 「てっ、天真君?」 あかねの困惑した声が聞こえる。 天真はあかねの顔を見ないまま、あかねの手を握って春雨に散る桜を見つめた。 ーー帰らないか? 言ってしまいたかった。 言ってしまったらきっと、自分はあかねの答えを聞かずにそうしてしまうだろうと思った。 だから言えなかった。 あかねが大切だったし、他の八葉も天真の中では大切な存在だった。 人を信じられなくて、ただ一人この京で妹を探すつもりであった天真に、惜しみない助力をしてくれたのはあかねをはじめ、八葉の皆であった。 このままあかねを現代に連れ去って、自分だけのものにしてしまったら、あかねばかりかあれほど助けてくれた仲間をも失う。 やっと見つけた妹の蘭ともまたはぐれてしまう。 だから言えない。 だからーー。 「あかね・・・。」 しとしとと春雨が降る。 庇の間の天真の着物に春の柔らかな雨が降りかかる。 泰明は車宿りで雨を払っていた。 春の細かな雨が長い髪に触れていつもよりさらに艶を増す。 手ぬぐいで髪の雫を拭い、狩衣の肩のあたりを、裾を払う。 そして適度に身を整えると、いつものように女房に先導されてあかねの待つ東北の対へと足を進める。 そのとき泰明はふと足を止めた。 ーー神子? あかねの乱れた気が伝わってくる。 側に居るのは地の青龍、天真だとすぐに理解する。 他には気配がない。少し離れたところで同じ青龍の頼久の気配はするが、動く様子が感じられない。 ーー何があった? あかねが天真といて気を乱すのは今までになかったことである。 泰明は東北の対へと向かいながら思考をめぐらす。 考えられるとしたら。 先導に立つ女房が小さな声をあげて立ち止まった。 泰明が女房の視線を追う。 その先ではあかねの手を握っている天真。 御簾越しとはいえ、その二人の雰囲気はただならぬものを泰明も感じる。 女房がどうしたものかと迷って、二人の間に割って入ろうと考えたらしく、大きく息を吸って一歩踏み出そうとした。 泰明はそれを片手で制した。 「よい。下がれ。」 低く静かに紡がれた泰明の言葉に女房はぐっとなる。 しかし、神子の婚約者である泰明に「よい」、と言われてしまえば女房も大人しく引き下がるしかない。 何より、冷たい眼差しで命令されれば反論しようがない。 女房はそのままくるりと背をむけてするするとその場に泰明を残して下がっていった。 二人から影になる位置で泰明は二人の様子を窺うでもなく、立ったまま微動だにしない。 泰明は言い知れぬ思いを味わっていた。 じりじりと胸の焦げるような気がする。 かきむしりたくなるような、そんな想い。 二人の会話が終わるまで。 そう自分に必死に言い聞かせていることに、驚くまた別の自分を見つける。 今まであかねと天真が一緒にいる姿はよく見かけた。 それまでは何も感じなかった。 天真のあかねに対する気持ちはわかっていたが、今日ほど天真の真剣な、それでいて悲しげな気は感じたことがなかった。 否。 知らない振りをしていた。 そしてあかねの乱れたこの気は何を意味するものか。 泰明は気配を殺したまま柱にもたれて考える。 「好きだった・・・。」 天真はぽつりと呟いた。 そう、好き、だった。 過去形。 いや現在進行形なのかもしれない。 それでも。 これからの未来、泰明と歩ゆんでいくあかねに自分の想いはもう届かない。 だから。 「ごめんね、天真君・・・。」 手に冷たいものを感じた。 あかねの涙だとすぐに理解する。 ぱたっ、ぱたっ、と天真の手にあかねの涙が春雨のように落ちてくる。 「知ってたよ、なのに私、ずっと気が付かない振りしてたね。ごめんね。ごめんね、天真君・・・。」 あかねの震える声が天真の耳に届く。 振られた、という気分ではなかった。 不思議なほど自分の胸が、心が軽い。 今日はこんなことを言うつもりであかねの元に来たわけではないのに。 「ばーか。俺が勝手に好きだっただけだ。気にするな。」 天真はそういうとあかねの手を離した。 「あのさ、蘭と一緒に暮らすことにしたんだ。」 天真はそういうと立ち上がった。 「八条に家を見つけてさ、そこで暮らすことにしたから、この邸の武士団の部屋を出ることにした。蘭を養っていくぐらいの力もあるしな。つまり引越しの報告に来たんだ。」 天真はそういうとようやくあかねの顔を見た。 御簾越しではあったけれど。 こちらに来ていくらか伸びた髪を柔らかくまとめて、髢をつけた長い髪が丈なしているのがわかる。 いつのまにこんなにこの着物姿が違和感なく見られるようになったのだろう。 きっと現代の高校の制服や、私服なんかを着たらそれこそ違和感があるかもしれない。 もう自分の知っているあかねではなかった。 いや、知っているあかねなのだろう。 それでもここまであかねが変わるとは天真自身、思ってもみなかった。 「寂しくなるね。」 あかねが俯きがちに答える。 涙が止まらない。 そっと袖で涙を拭う。 「ばーか。おまえのことだから結婚してもふらふら出歩くんだろ。時には蘭のもとに顔をだしてやってくれよ。」 「天真君ったら!」 あかねが珍しく殊勝になっているというのに、天真のいつもの横槍が入ってむっとした表情を見せる。 「あかね。」 天真がすっとあかねの前に膝をついた。 その表情は真剣そのもので。 「俺はあかねの八葉だ。お前のことは俺が必ず守る。だから・・・。」 天真の意を決した瞳が煌く。 「現代に帰りたいなんて抜かすんじゃねーぞ。」 天真の言葉にあかねは一瞬きょとんとする。 そして不意に笑い出した。 泣きながら。 「天真君・・・。」 温かな涙をあかねは感じていた。 ーー私、幸せだ。 あかねはぽろぽろ泣きながら微笑んだ。 人を愛する喜びと、人に愛される喜びと。 人の想いが絡まって今の自分を形作ってく。 時に嬉しく、時に悲しく、時にせつなく。 想いは通じ合わなかったけれど、そこには確かに温かなものがある。 あかねはぐっと顔をあげた。 「言わないよ。帰りたいだなんて絶対に。」 天真は御簾越しではあるけれど、真っ赤になった目でまっすぐに見据えるあかねの視線を感じた。 たった一枚のこの御簾がこれほどに二人を遠く隔てている。 「じゃな、俺も頼久に剣の相手になってもらいにここに来るから。」 天真はそういうと立ち上がって背を向けると階を駆け下りた。 あがりはじめた春の雨に濡れる土御門の庭へと降り立ったって、一度だけ振り返る。 雲の隙間から覗く春の日差しに天真のブレスレットが光る。 「GOOD LUCK!」 あかねも天真に向かって手を振る。 今生の別れではないというのに、どうしてこんなにも切ない思いがあかねの中に生まれるのであろうか。 ーーごめんね、天真君・・・。 あかねは心の中でもう一度天真に謝る。 きっと自分の為にこの世界に残ったであろう天真に感謝して。 多分、一人きりで残ったならば色々後悔したりしたかもしれない。 けれど、天真がいたから、詩紋がいたから、蘭がいたから。 「神子。」 すっと泰明が現れた。 「やすあきさんっ!!」 あかねは驚いて飛び上がりそうになった。 真っ赤になって上目遣いで泰明を見る。 「み、みていたんですか?」 あかねの問に泰明は一瞬眉を顰める。 そしてそのまま御簾をくぐる。 「見ていたのではない。見張っていたのだ。」 泰明はそういうと、あかねの側に膝をついた。 泰明の長い髪があかねの指先に触れる。 「泰明さん・・・。」 しっとりと雨を含んだ髪は艶やかで、あかねの目から見ても色っぽいと思ってしまう。 土御門の者が泰明に雨に濡れた泰明に何もしないわけはない。 きっと物陰に佇んで泰明の言う通り、『見張っていた』のであろう。 「神子と天真が決別するのを。」 泰明の言葉にあかね驚いて顔をあげた。 「神子にとって天真はもといた世界の象徴だ。私との結婚は神子にそれらを捨てさせることになる。だから誰も邪魔せぬように見張っていた。」 そう、天真はあかねにとってもといた世界の象徴。 だからいつかこのような時が来るのを泰明自身、どこか予感していた。 それは必要であって、来て欲しくないものかもしれなかった。 もしかしたら神子がもといた世界へと帰っていってしまうような、そんなような気がして。 天真があかねを攫っていったら自分はどうしたであろうか? 「神子・・・。」 泰明はあかねを抱きしめた。 春の柔らかな雨の香りが泰明の菊花の香と混じって、あかねの鼻腔をくすぐる。 泰明の意外なほどに強い腕の力を感じてあかねは戸惑う。 「ごめんなさい、心配かけちゃったね・・・。」 あかねは泰明の背にそっと手を回した。 しっとりと濡れた狩衣。 まるで泰明の涙で露を含んだかのよう。 「違う。私が神子を苦しめている。しかし・・・。」 泰明はあかねの顎に手をかけた。 「お前を私のものにすることを許せ・・・。」 冷たい泰明の唇があかねのそれへと重なる。 あかねは答えの変わりに泰明を抱きしめるその腕に力を込める。 春の雨はすっかりあがり、散りゆく桜が柔らかな日差しの下に最後の一瞬を華やかに彩っていく。 「天真。」 頼久の呼びかけに天真はぴくりと肩を震わせた。 振り向かないまま天真は答える。 「見てたんだろ・・・?ざまあねえよな。かっこわりぃ。」 天真はそういうとぐっと桜の木を見上げた。 「私はそうは思わない。」 頼久が静かに答える。 「また稽古、付き合ってくれよ。」 天真が言う。 「いつでも。」 頼久の答えは短く明瞭で。 それでもその言葉の奥に隠された温かく、優しい心を痛いほど感じる。 「桜、もう終わりだな。」 天真が散る桜の花弁をそっと手に乗せる。 「次は藤が咲く。」 頼久の答えに天真が笑った。 土御門の邸は藤の邸。 夏の訪れが待ち遠しくて。 天真はぐっと背を伸ばした。 ーーFIN 2002.3.30 ★あとがき きちんと失恋しておかないと、後々思い出してしまって辛くなることってありませんか?(私だけ??) というわけで今回は「天真君失恋してください」をテーマに、あかね、天真、泰明の涙を春の雨にかけて書いてみました。 今年の桜は開花が早く、散るのも早いようです。 桜はその美しさゆえに、散るときはとてもせつなく感じます。 そんな気持ちが表現できたらいいのだけど、私ってばほんと表現力皆無・・・。(脱力) |