微熱

泰明は土御門の邸へと急いでいた。
昨夜、神子の気が乱れたのが感じ取れた。
しかし生憎夜を徹しての加持があったため、途中で抜け出して神子のもとに馳せ参ずることはできなかったのだ。
加持を終えるとすでに夜は明けており、一条の邸に泰明宛に藤姫から文が来ていた。
神子が体調を崩したらしく、熱を出したらしい。
昨夜は花冷えで寒かったからであろう。
泰明に神子を診てもらいたいという、藤姫からの依頼の文であった。
泰明は熱冷ましの薬などを揃えて土御門殿へとおもむいたのである。
夜を徹しての加持の疲れなど微塵もみせずに。

神子の住まう対へと近づくにしたがって、神子の気が意外にも落ち着いていることが感じ取れた。
早く神子の顔が見たいと気が急くのに、女房の先導は緩やかな歩みでもってもどかしく感じられる。
しかしこの左大臣家で姫として暮らす神子なのだから、以前のような気安さで神子の元には近づけない。
泰明もそのことは重々承知している。
しかし神子が心配で早く神子の様子が見たいと思うときは、このように神子が十重二十重にかしずかれている状況が疎ましく思う。
やっと神子の部屋へ訪れたときにはすでに先客がいた。
永泉である。

「泰明殿・・・。」

永泉は泰明の姿を認めると、驚いたように腰を浮かした。
神子は熱が下がったのか、すでに起き上がっていつもより数枚袿を重ねて脇息にもたれて永泉と談笑していたのだ。

「泰明さん!」

神子は泰明の姿を見てぱっと顔をほころばせた。

「神子、身体の具合はいいのか?」

泰明は女房が設えた円座に座しながら神子に尋ねた。

「あ、はい。ご心配おかけしました。昨夜永泉さんがお薬を持ってきてくれたの。朝起きたらもうすっかり熱が下がっていて。泰明さんも来てくれてありがとうございます。」

神子の柔らかな微笑みはすでに体に辛いところがない証拠であった。
伝わってくる気もおちついている。
だというのに。
泰明はひどく心の中がかきむしられるような気持ちを覚えた。

「い、いえたまたま、こちらの近くのお寺に参ったので神子にご機嫌伺いおつもりで立ち寄っただけなのです。薬もたまたま持ち歩いていたもので・・・。」

永泉は泰明の剣呑な光を宿した視線に気が付いて、あわてて自分が神子に薬を持ってきたのは偶然だったと強調した。
神子の気の変化は八葉すべてに伝わる。
神子の気が乱れたことを知った永泉が薬を持って土御門に参じたのは間違いの無いことであった。
だいたい深夜に偶然土御門に訪れるわけがない。
泰明は小さく溜息をついた。
永泉が自分に気を使っているのがわかる。
そのようなことをさせるつもりはなかったのに、と苦々しく感じた。

「神子が治ったのならそれでいい。神子、もう辛くはないか?」

泰明は胸の中の焦燥を押さえつけて口を開いた。
永泉は少しほっとした顔をして、すぐに立ち上がった。

「では私はこのあと仁和寺で法要がありますので失礼させていただきますね。神子、お大事に。」

永泉はそういうと、逃げるように神子の部屋をあとにした。
残された神子と泰明は互いに顔をあわせられず、視線をそらしたまま沈黙が流れた。
口を開いたのは泰明からであった。

「このように邸内にずっといるからよくないのだ。神子、糺の森へいくぞ。」

泰明はそういうとすっと立ち上がった。
神子もつられて立ち上がる。

「支度をしろ、庭で待っている。」

泰明はそういうと庭へと降りていってしまった。
神子はあわてて泰明のあとを追おうとして、自分の姿に気がつく。
そしてあわてて几帳の陰に隠れると、外に出るのに動きやすそうな小袖に着替えた。
袿を数枚被って庭へと降りる。
紅梅のもとで泰明が佇んでいるのを見つけると、神子は泰明のもとへと駆け出した。

「危ない!」

泰明は駆け出した神子を認めると、あわてて神子の側へと駆け寄った。
熱が下がったばかりの身体でいきなり駆け出そうとすれば何が起こるか想像に難くない。
神子は足が思うように動かせずにつんのめったのである。
神子は無事鼻が地面に激突することなく、泰明に受け止められた。

「全く・・・、病み上がりの身体でいきなり走り出したらどうなるかわからないのか?」

泰明は自分の腕の中に倒れこんできた神子に眉を顰めて言う。
しかし口とは裏腹に自分の腕の中にいる神子を抱きしめたい思いが溢れてくる。

「う・・・、ごめんなさい・・・。つい嬉しくて・・・。」

神子は泰明との急激な接近で頬を染めて答えた。
そして泰明の腕の中からすり抜ける。

「何が嬉しいのだ?」

泰明は神子に尋ねた。
神子ははっとして頬をさらに染めると俯いてしまった。
泰明の疑問に答えられないまま。
泰明は訝しげな表情をしていたが、神子の手を取ると糺の森へ無かうべく歩き出した。
二人とも沈黙したままで。





糺の森には春が芽吹きはじめていた。
常緑樹は早春の朝の光をこぼれさせ、落葉樹はその枝先に春の芽吹きを見せている。
昨日の花冷えが嘘のような暖かな春の日が柔らかく満ちている。

「あの・・・、泰明さん・・・。」

神子は目的地に着いたことから、恐る恐る口を開いた。
明らかに泰明は土御門に来たときから不機嫌そうである。
なのにこうして外に連れ出してくれる。
泰明の行動の意味するところがわからないのだ。

「神子は最近清浄なる気を取り込んでいなかった。だから昨夜のように体調を崩すのだ。ここで気を取り入れたほうがよい。」

泰明の言葉に神子は首を捻った。
以前泰明に連れられて気を取り入れたのは上賀茂神社である。

「ここの森も清浄な気に溢れている。神子は病み上がりだ。そう遠くへも行けぬ。だからここで気を取り入れろ。」

泰明はそういうと、印を結んだ。
神子が深呼吸すると、泰明が呪言を唱え始める。
神子の身体の中に清涼な森の気が流れ込んでくる。
それと同時に病み上がりで重かった体が徐々に軽くなるような気がしてきた。

糺の森での清浄な気を取り入れたあとも、泰明と神子はその場を立ち去りがたく木漏れ日のなか佇んでいた。

「あのね、泰明さん、なんで来たときあんなに怒ってたの?」

神子は意を決して泰明に尋ねた。

「私も神子に聞きたいことがある。何故嬉しかったのだ?」

お互いの問に答えられぬまま、二人はまたも沈黙した。
そして。
口を開いたのは神子のほうであった。

「あの・・・。あのね・・・。私、泰明さんと出かけられるのがうれしかったの・・・。」

今にも消え入りそうな神子の声に泰明ははっとした。
神子の部屋で先に来ていた永泉を見たときに感じた焦燥感が消えていくのがわかった。

「神子・・・。」

神子はきゅっと目を閉じて俯いている。
泰明は神子の手を取った。

「神子・・・、神子を守り、癒す役目は私がしたかったのだ・・・。すまない、神子・・・。」

泰明は知らず神子の指先を口付けていた。
ほっそりとしたその白い指先を。

「泰明さん・・・!」

神子は真っ赤になったまま、泰明の顔を見た。
友雅でもなかろうに、泰明がこのように自分の指先を口付けるとは思っていなかったからだ。

「私の気持ちを表す言葉はこれしか知らない・・・。」


泰明は左右異彩の瞳をきらめかせて神子を見る。
神子は何も言えず、ただその泰明の神秘的な瞳に捕らえられる。

「愛している・・・。」





ーーーFin



さらさかのん様に捧げます。