涙の理由 リョーマ君と不可抗力のキスのことは、なんと瞬く間に部内で広まってしまった。 でももちろん不可抗力なだけに、冷やかし、というよりは単なる衝撃的事故みたいなニュースの形で言われてるだけ。 本人のリョーマ君や私は呆れを通り越してもうばかばかしくなってしまうほどの噂だった。 でもそのおかげか、跡部とのことはさっぱり忘れ、私もいつもの私に戻ったみたいに元気で明るくなったかな? なんだかもう、跡部とのコト、引きずってる自分が馬鹿らしくなったのよね。 今度の相手は六角中。 過去に何度も対戦したことのある相手。 レギュラーになってる面子も十分わかってるし、彼らの手の内も全部わかっている。 お互い手の内をよく知っているだけに、やりにくい、というのが本音である。 大石がなにやら難しい顔で時々練習中に考え込んでいる。 「今回のオーダー、大石が決めるんだよね。」 菊丸が器用にラケットを回しながら言う。 「大石先輩が決めるんですか?」 タオルをみんなに配りながらが小首を傾げた。 「うん、先生が実際に戦った僕らの意見を尊重するってね。」 柔軟をしながら不二が答える。 「相手はこっちをよく知っている六角中。もちろんこっちも向こうのことをよく知ってるけどね。」 不二が笑いながら答えた。 それはよく知っているだろう。 六角中の副部長、佐伯は不二との幼馴染である。 もともとはかつて佐伯は不二の家の近くに住んでいて、同じテニススクールにも通っていた。 運動神経が抜群によくてテニススタイルはサーブ&ボレーヤー。 タイプ的に菊丸とよく似ている。 「ま、佐伯は菊丸と違って隙のないタイプだけどね。」 不二がにっこり笑う。 「ちょっと不二ー、なんだよソレ!」 菊丸の言葉にも笑う。 確かにそのとおりである。 明るい楽しいテニスを菊丸がするのなら、隙のないテニスで相手を翻弄してくるのが佐伯である。 「まあ、データは佐伯だけじゃなく、他のは乾がわかってるし、どんなテニスをしてくるかも僕たち三年生はわかってるしね。」 六角中と何度も戦ったことがあるのは不二だけではない。 菊丸も、大石も、乾もよくわかっている。 知らないのは三年になってレギュラー入りをした河村と二年生の桃城、海堂、そして一年生の越前である。 だからこの4人は乾についてただいまミーティング中、というわけである。 「ところでさー、。」 菊丸がの前へ回り込んで上目遣いに見る。 「どうかしたんですか?菊丸先輩?」 は不思議そうに菊丸を見た。 「とおちびのことだけど。」 はうんざりした顔になる。 まだ言うか、といった表情である。 「あれは事故です、って。何度も言ったじゃないですか。」 が方頬を膨らませてそっぽ向いた。 「違う、違う。そうじゃなくって。」 菊丸が慌てて手を振った。 「おちびがを狙ってる、っていうほうのコトだよ。」 ぎょっとしては思わず菊丸をまじまじと見た。 「…何ですか?ソレ?」 初耳である。 そんな噂、どこから出てきたのかには皆目見当がつかない。 つかないどころか、なんでそんな噂が?というばかりである。 「へぇ、それはボクも初耳だね、越前もやるね、マネージャー相手とは。」 などとにっこり不二が笑った。 けれどはしっかり見てしまった。 不二君、目が笑ってない…。 「おちびなんか相手にしちゃダメだかんねっ!」 菊丸の言葉には吹き出した。 「なんか菊丸先輩ってそんなことばっかり言ってません?そりゃリョーマ君は試合のたびに強くなるし、これから先楽しみなコだし、憎ったらしいことを平気でいうコだけど、まさかそんなことあるわけないじゃないですか。」 気がついてないよね、やっぱり。 不二が内心くすくす笑う。 「でも越前は確かにの言うことはよく聞くよね。」 不二の言葉には首を傾げる。 「そうかなぁ?」 菊丸がうんうんと頷く。 「さっき越前にミーティングに出て、って大石が言ってたときも聞こえないフリしてたじゃん。でもが言うとすんなりラケットを置いて部室に行ったじゃん。」 思い返してみると確かにそうである。 「うーん?」 はしきりに首を振った。 どうにも菊丸や不二の言うことが信じられない。 「エージ、不二。」 そこに大石がやって来る。 「ちょっと試したいことがあるからコートに入って練習試合やってくれるかな。」 大石の言葉に菊丸がガッツポーズをとる。 「よっしゃ、不二には負けないモンね。」 不二がくすくす笑ってラケットを手にする。 「オーケー、いいよ。」 は小首を傾げながらとりあえずその場を離れる。 大石が審判台に上って掛け声をかける。 ちょっと見てみたい気もするが、他の仕事があるため仕方なくコートを出て行った。 今は夏休みの合宿の予算編成を任されている。 大石は完全にノータッチなので、一人でこなさないといけない。 いくつか案を出して顧問の竜崎先生と煮詰める必要があるからだ。 全国大会への出場が決まったので、合宿は全国大会の前に行う予定にしたのである。 日にち的にもあまり時間がないので早急に進める必要があり、最近はソレ関係では大忙しである。 「。」 夏休み寸前の学校は短縮時間もあって、部活に専念する生徒たちしかこんな時間まで残っていることはない。 着替えを済ませて顧問の竜崎のところに日誌を提出し、は昇降口のところで不二と会った。 「どうしたの、不二君?」 すでに夕暮れであたりはオレンジ色。 いかにも待ってました、という不二には驚きを隠せない。 「あのね、うちのほうで夏祭りがあるからいかないかな?制服姿だからあまりゆっくりはできないけどたまには息抜きしないと。」 にっこりと笑う不二にはくすっと笑った。 そういえば不二の家の近くに大きめの神社があって、暑気払いの夏祭りが開催されているのである。 「お祭り!いいね、ソレ!やったね!」 はそういうと嬉しそうに不二に並んだ。 当然誰か他にも行くのかと思ったが誰もいない。 「他には誰も来ないの?」 とあたりを見回しながら不二に聞く。 「うん、エージはちょっと用事があるって言うし、大石はまだオーダーのことで頭を悩ませてるし、他の連中は乾から宿題を渡されているから当然無理。」 不二の言葉にはつまらなさそうに溜息をついた。 「ちぇーっ、誰も行かないのか〜。」 「ボクと一緒じゃイヤ?」 不二の言葉にはうーんと唸る。 夏祭りという言葉はたまらなく魅力的で、花火や屋台が呼んでいるような気がする。 「うーん、みんな行けないのは残念だけど、いいのかなあ、私たちだけ遊んでて。」 以前部活を休んだときの不二の表情が忘れられない。 あまりの恐怖には震え上がったのである。 「部活はきちんとやってるからいいでしょ。早くしないと花火でいい場所が取れないよ。」 あ、っとして腕時計を見るとすでに7時を迎えようとしている。 「うん、わかった。行こう!」 神社にはたくさんの人がいた。 浴衣姿で屋台に並ぶ人、うちわを片手に談笑する人。 おいしそうにかき氷を食べる人様々である。 「わー、おいしそうっ!ねっ、ねっ、たこ焼き食べよっ!」 は嬉しそうにはしゃいでいる。 うん、やっぱりはこうじゃないとね。 制服姿ではちょっと目だってしまうけれど、それでも制服姿の人間が全然いないわけではない。 不二はたこ焼き屋にと並び、たこ焼きを買った。 「ねえねぇ、ほらたこ焼きっ!」 が並びながら親指と人差し指で円を作り、頬骨のあたりで丸く輪を作る。 「ぷっ、ほんとだここにもたこ焼きだ。」 の様子に不二も笑う。 ちょん、との頬をつついて、 「食べちゃおうか。」 などと言ってみせる。 「残念無念、まった来週〜。これは食べれませんよぉ、だっ!」 菊丸の真似をして、楽しそうにべっ、と舌を出すに不二もくすくす笑う。 来てよかったな、と不二は思う。 久しぶりにとの楽しい時間に不二自身の心が癒されるのがわかる。 「さ、早くいいとこ取りに行かないとね。」 ふたりで神社の裏手の小高い山を登る。 ここはあまり知られていない場所で見物人も少ない。 けれどここからだと花火がよく見えるのだ。 「よかった、空いてるー。」 柵の側で二人並ぶ。 丁度タイミングよく花火があがった。 ひゅー、どーんという大きな音がしたと思ったらすでに闇色の夜空に大輪の花が咲く。 「ばっちり間に合ったね。」 不二がにっこり笑ってを見る。 あたりから花火が上がるたびに喚声とどよめきが聞こえる。 ふたり、最初のうちははしゃぎながら花火を見て。 そのうちどちらも黙ってしまった。 やがて一時間ばかりの花火大会は終わり。 ぞろぞろと皆が小高い山を降りて神社のほうへと向かう。 けれども不二もそこに立ち尽くしたまま。 「なんだか呆気ないね…。」 花火が終わったあとは一抹の寂しさが残る。 柵に手をついては夜空を見上げる。 「もっと花火が続くとよかった?」 不二が訊ねる。 でもは首を振った。 「ううん、ただね…。」 楽しい時間は一瞬にして過ぎ去ってしまうものなのだと。 今は楽しくてもやがて終わりが訪れる。 それは儚くも寂しいものであると。 「このまま、今は永遠に続かないって思うとね…。」 の中でいろんな思いが駆け巡る。 昔のように戻れない裕太とのこと。 跡部とのこと。 そして以前のようにコートを駆け回ってテニスができない自分のこと。 「だったらこれから先のことを考えればいいんじゃない?」 不二が柵に腰かける。 そしての顔を覗き込む。 「これからのこと…?」 は小首を傾げた。 「うん。これからのこと。過ぎ去ったことばかり思っているよりはよっぽど建設的だと思うよ。」 不二の言葉は静かに胸に染み渡るようで。 「、はどうしたいの?」 突然の不二の問いかけにはえ、という顔をする。 どうしたいの? そんなことは何も考えていなかった。 いや、考えたことはある。 全国に行くこと。 でもそれはもう決まった。 じゃあその先は? 「私…、私は…。」 夏が終われば。 夏が終われば三年生は引退する。 そうすると不二とはそのままそれっきりで。 「ちゃんと話をしようって決めたんだ。」 不二の言葉にはどきりとする。 「、ボクはね…。」 ほんの少しだけ自信があるんだ。 。 君が見ているのはボクだよね…? だから決めたんだ。 すっと不二の手がの髪に触れる。 しばらくの髪を梳く。 ああ、君は何もかも柔らかくて、ボクに守りたいって思わせるんだ…。 そしてそのままの後頭部に手を回し。 柔らかなその唇を塞ぐ。 突然のキスには最初身を硬くして反射的に逃げようとする。 でもそれを逃がさないように、力強く、でもできるだけの優しさをこめて、空いたもう片方の手での身体を引き寄せる。 やがて離れた唇。 不二がの顔を見つめる。 の目が潤んでいる。 そんな表情、たまらないね。 跡部とのキスも、越前とのキスも、君はそんな表情をしなかった。 「…不二君…。」 の声が掠れる。 嫌なはずないよね。 逃げようと思えば逃げれたはずなんだから。 「乾に言われたよ。」 不二はくすり、と笑う。 「傷つけないように守り通すことなんてできないんだって。」 今のキスでボクは君を確かに傷つけたよ。 でもその傷は心を傷つけ、君を苦しませるような傷じゃない。 ボクのもの、というしるしのための傷なんだ。 「好きだよ、。」 つ、との頬に涙が流れる。 そのままぽろぽろと涙がこぼれて。 不二の指先がの涙をぬぐう。 「逃げなかった、ってことは自信を持っていいんだよね?」 小さく頷くに不二はをもう一度抱き寄せた。 今度はさっきより強く。 「好きだよ、。」 もう一度重ねられた唇に、はもう抵抗しなかった。 |