衝突


あれはまだ一年生の頃。

不二君の弟、不二裕太と私は同級生で、幼馴染で、仲も良かった。
けれど。





「ねえ、なんでテニス部に入らないの?」

移動教室で裕太のクラスと同じになって裕太とは前後に座った。
裕太がの後ろである。
が振り向いて裕太に話しかけた。
裕太の顔を見る度に、は裕太をテニス部へ誘う。
もう毎回のように。

「クラブのほうがいいんだよ。オマエこそなんでマネなんてやってるんだよ。」

テニスを止めたんじゃなかったのか?

と暗に言われては顔を顰めた。

「テニスが好きなのよ。離れてやっとわかったんだもん。ねえ、裕太、あんな遠いテニスクラブに通うの、大変じゃないの?」

裕太は一時期、と同じテニススクールに通っていた。
でもそれはほんの一時期だけで、すぐに別のクラブへとかわってしまった。
理由はよくわかっている。
でも家族同然のように付き合いのあるにはどうしても納得がいかない。
もうすでに1学期も半ばを過ぎて、一年生の部活動もペースが出てきたのに、いまだに男子テニス部に誘うのはだけとなっていた。

「大変じゃないよ。いいコーチもいるし、仲間もいるし。」

それでも中学生ならではの大会など、学校の部活動に入っていなければその数はあまりに少ない。
夏が終われば一年生にも新人戦などチャンスがまわってくる。
それまでに裕太をどうしてもテニス部に入れたかった。

「ああ、もう、気にすんなよ、おい授業が始まるぞ前を向けよ。」

チャイムが鳴って、教室に教師が現れる。
はしぶしぶ前を向いた。






はテニスコートのフェンスの向こうにあるベンチでオーダー表を見ながら、練習メニューの調整をしていた。

、ちょっと聞きたいことあるんだ。部活終わってからちょっといいかな?」

珍しく不二君が私を誘った。
ほんとときどき、部活動が終わってから皆でファーストフード店に寄ることはあるけど、不二君から部活動後に誘う、ということはほとんど皆無である。

「いいけど…どうかしたの?」

は顔をあげて小首を傾げた。

「うん、ちょっと、ね。」

その日の不二君は珍しくあまり微笑みをみせていなかったように思う。
ときどき考え込んだりしているようで、部活動に専念できないでいるようだった。


帰り道、私はいつもの活動日誌を書き終えて竜崎先生のところへ提出しなければならない。
必然的にみんなよりちょっと学校を出るのが遅れてしまう。
まだ一年生で日誌を書くのも慣れていないせいか、どうしても遅れがちになってしまうのだ。
不二君は校門のところで私を待っていた。
すでに生徒の姿はいなくて、夕方の学校はがらんとして物寂しい。
柱にもたれるように、不二君の横顔は憂いに満ちていたけれど、まるでガラス細工のようにきれいだった。
男の子にこういう表現が似合うとは思ってなかったな、なんてつらつら思いながら不二君に声をかける。

「ごめんね、待った?」

私が声をかけると、不二君はすっといつものような微笑を湛えて、首を振った。

「ううん、こっちこそ時間をとらせてしまってごめん。」

二人で並んで学校を出る。
学校から一番近いコーヒーショップにはいる。
ラフな店で、人も多くてにぎわっている。
中学生二人が入ったところであまり違和感はないような店である。
二人でアイスコーヒーを持って、空いている席へと座る。

「どうしたの、不二君?」

はアイスコーヒーを一口飲んで不二に聞いた。
アイスコーヒーを飲もうともせず、不二は氷をストローでつついている。
何かよっぽど気になることがあるらしい。

は裕太と仲がいいよね。」

不二君から言われては苦笑した。
確かに仲はいいかもしれない。
不二と同様幼馴染だし、歳も同じ。
ただ、不二と一緒のテニススクールではなかったから、裕太と親しい、といっても不二ほどではないであろう。

「今日、移動教室で一緒だったよ。」

は昼間の裕太を思い出しながら答えた。
別段変わったところは見受けられなかった、と思う。

「今日の朝ね、由美子姉さんがこんなの見つけた、といって僕のところに持ってきたんだ。」

不二はかばんの中からパンフレットを取り出した。

「朝で忙しい時間だったし、裕太に聞くに聞けずでね…、僕だけじゃなく家族みんな心配してるんだ。」

不二の出したパンフレットは聖ルドルフ学園の入学要綱だった。
不二の家からはかなり遠い学校ではあるが、寮制のある学校で生徒は全国から集まってきている新設校ということで有名である。
不二の家からでは電車で通っても2時間くらいかかるであろう。

「裕太がもし転校を考えてるなら、きっとそれは僕のせいだ…。」

はぱらり、とパンフレットをめくった。
学校のこと、授業内容のこと、そして部活動のこと。
当然のようにテニス部もある。
全国各地からここに集まった、と書かれている内容を見ては溜息をついた。

「やっぱり…テニス部に入りたいんじゃないの…。」

誰よりもテニスが大好きな裕太。
家族で遊びに行くと、必ず練習しようといってラケットとテニスボールを持ってに声をかけた。

「そう思う?そんなに僕のことが嫌いなのかな、裕太は…。」

青学テニス部に頑として入らなかった裕太。
それに誰よりも傷ついているのは不二であろう。

「とにかく私から裕太に聞いてみるね。でも不二君、裕太は不二君のことが嫌いじゃないよ。単にライバル意識を持ってるだけだと思うよ。」

天才の名を欲しいままにしてきた不二と違って裕太はかなりの努力家だった。
もちろん不二も努力家なのだが、技術が身につくスピードははっきりいって兄のほうがハイペースである。
だからそんなに努力しなくても技術がついていくように見えるので、彼はまわりから天才と呼ばれるようになった。
もしかしたら本当に天性の才能の持ち主なのかもしれない。
しかし裕太は。
普通の人から比べればやはり上手いし、努力も人一倍している。
テニスが上手い部類には十分入るであろう。
けれど、裕太が2倍、3倍の努力しなければできないことを、兄はあっさりとこなしてしまうのだ。
それが裕太には歯痒くて、悔しくて、周囲の自分を見る目が嫌でたまらないのだろう。
それが兄への反発、という形で出ているのかもしれない。

「ごめん…。」

不二は項垂れた。
裕太の心配をすればするほど、裕太がどんどん遠くへ行くような気がして、最近では不二は裕太の話題にすら触れようとしない。
裕太が入ってきたときはなぜテニス部に入らないのかとひっきりなし質問されたけれど。
ただは。
不二周助の弟ではない裕太をよく知っている。
裕太もには普通に接しているようである。

「不二君…。」

は違うことを考えていた。
青学を離れて聖ルドルフに入学することを裕太が考えているのなら、それはいいことのように思えた。
なんだかんだといっても昔から甘えん坊で、兄を慕っていた裕太が自立しようと考えているのだ。
それは裕太自身を成長させ、不二自身にもいい影響があるのではないか、とも思った。
それでなくとも不二は裕太のことで騒がれ過ぎたのだから、裕太が青学からいなくなることでもう少しテニスに集中できる環境になるかもしれないとも思う。
けれど。
それはこの兄弟にとってはこのことは試練でしかない。
どんなに辛くても、回りから何を言われても、不二にとって裕太は弟であるし、彼は人一倍家族思いである。
例えどんなことがあろうとも、不二は裕太を守るつもりでいる。
彼は弟思いなのだ。
まるで青学から追い出すような形で裕太を聖ルドルフにやるのは不二のなかでは絶対に許せないことだった。
それはも同じだった。
今の不二兄弟は周囲が兄に同情的なこともあって、裕太は孤立無援だった。
いつも兄に比較され、なぜテニス部に入らないのか、と言われ続け。
だからいっそのこと同じテニス部という土俵に立って、二人がライバルとして互いに高めあうことができたら、と思っては今でも裕太をテニス部に誘い続けている。
今のままではいけないことをは知っている。
それが裕太が聖ルドルフ行きを考えていることから微妙な方向へと風向きが変わった。

「心配しないで。明日、必ず裕太と話をするから。」

はにっこりと微笑んだ。
あまり余計なことを不二には考えさせたくない。
それでなくともレギュラーである不二には都大会という大会が控えているのだ。

「心配かけるね、…。」

ようやく不二が笑った。
よっぽど気にかかるのだろう。
裕太に聞きたくても聞けない、兄には相談したくない、それがこの兄弟の実情なのかもしれない。

「おば様や由美子さんはなんて?」

不二の家は父親が単身赴任で海外に行っている。
同居の家族は不二、裕太、母、由美子の4人である。

「当然気になってるよ。でもこういう微妙な問題はやはり父さんがいないと…って、多分母さんが父さんに相談の電話をしているんじゃないかな。由美子姉さんは裕太を普段から子供扱いしてるから今回のことは動揺しちゃって何をどういったらいいのかわからないようだし。」

は不二家の面々を思い出して苦笑した。
不二のいう通りなのは間違いないだろう。





次の日。
は昇降口で裕太を見つけると肩を並べて教室へと歩いた。

「おはよう、裕太。」

にっこりと微笑むに裕太は訝しげな表情を浮かべる。

「…あ、ああ、おはよう。…一体なんだよ?」

いつもは朝はテニス部の朝練に付き合うので、裕太の登校するこの時間にははいない。
遅くもなく、早くもないこの時間。
そこにがいることに裕太は少なからず戸惑った。

「何言ってるのよ。今日からテスト週間でしょ。だから部活もおやすみ。当然朝練もなし。自主的にやってる人たち以外はね。」

くすり、とはいたずらっぽく笑った。
裕太の兄は朝練で早くに家を出ている。
つまりテスト週間といえど、自主的にテニスをしている人たち(それも複数形!)のひとりなのである。
裕太は苦笑した。

「なるほどね、テスト週間は部活が休みだからな。けどテニスバカがここにもひとりいるよな。」

裕太の言葉にがおやっと顔をする。

「それって裕太のこと?」

裕太を覗き込むように小首を傾げる姿に裕太が一瞬赤くなる。

「…なっ!」

茶化したつもりなのだが、本人まるで自覚なし。
あまりの天然ボケっぷりと、愛らしい小首を傾げるその所作に裕太は自分が恥ずかしくなる。

「あのなあ、テニスバカはおまえだろ。できもしないくせにテニス部にいるくせに。」

裕太は照れ隠しも含めてわざとそっぽ向いて少し声を荒げた。
照れ隠しに言った言葉のつもりが、このセリフはには禁句だった。
はっとして裕太は振り返った。
裕太の言葉に青ざめたがその場に立ち竦んでいた。

「ひ、…。」

出てしまった言葉は取り返しがつかない。
裕太は激しく後悔した。
あまり味方のいないこの学校で、にまで嫌われたくはなかった。
いや、にだけは嫌われたくないのだ。
たとえどんなに多くを敵に回しても。

「…ごめん、今の言いすぎた…。」

心からの謝罪の言葉。
がテニスができなくなって、一番傷ついて苦しんでいるのは本人なのだ。
それでもテニスから離れがたくてマネージャーとなって。
それをこんな風に茶化してはよくなかったのだ。

はしばらくそこに立ち止まったまま、じっと裕太を見つめた。

「裕太、ならテニスをやってよ。不二君と同じフィールドに立って、真っ向から勝負しなよ。私はもうテニスはできないけど、裕太はできるのよ。」

裕太の心が一瞬にして凍りついた。
自分がこの先どういうつもりなのかをは知っている、と一瞬に判断する。

「兄貴から聞いたのか…?」

自分の部屋にあった聖ルドルフのパンフレット。
そのパンフレットの位置が微妙にずれていたことを裕太は知っている。
家族の皆が知ったことに気がついたが、特に誰も何も言わなかった。
ただ、母から父の急な一時帰国の予定を告げられただけだった。

「不二君も由美子さんもおばさんも心配してるよ。テニスをするために聖ルドルフなんか行く必要ないじゃない。ここでだってテニスはできるわっ!」

もしテニスをするためだけに聖ルドルフに行くのなら。
そんな必要はない。
青学でだってテニスはできる。

「だよな…。」

裕太は苦笑した。
穏やかな家族のあの輪に、ヒビを入れたくなかった。
でもそれでも。
やはり兄を越えたかった。
それを聖ルドルフのテニス部の観月というのがひっぱりあげてくれるような気がした。
兄にはないデータテニス。
相手を徹底的に研究し、対策を練習する。
今までただがむしゃらに技術をつけることにやっきになっていた裕太には新鮮に映った。
もしかしたら観月についていけば、兄を越えられるかも知れないと感じた。
青学のテニス部は確かに強いかもしれない。
けれど、全国を目指し全国から選りすぐりの選手を集めている聖ルドルフなら。
青学と同等の、いやそれ以上の実力のあるテニス部だと期待してもよかった。

「決めたんだ。俺は兄貴を越えるって。俺なりのテニスを見つけるために兄貴から離れるって。」

裕太の声は低く掠れていた。
真剣さが伝わってくる。

「ここじゃダメなの…?」

は泣きそうな声で聞いた。
裕太はこくり、と頷く。
ここで兄とともに不二と一緒にテニスをしたなら。
いつまでも兄の姿を追い続ける幼い自分から脱却できない。
兄を、家族を、傷つけてもいつまでも守られている自分を卒業したかった。

がどれだけ俺のことを心配してくれてるからわかるから。だから言うよ。俺は兄貴の評判の下にいるのが嫌だとか、そんな理由なんかじゃないんだ。」

兄、周助のことは誰よりもよくわかっている。
おだやかな、人当たりのいい兄。
けれど自分のテリトリー内にいる人間が誰かに傷つけられでもしたら、兄周助は完膚なきまでに傷つけた相手を叩きのめす。
自分の大切な人を全力で守る、それが裕太の兄である。
だから憧れた。
そして同時に兄のようになりたかった。
兄の存在が裕太には心強くもあり、歯痒くもあった。

「俺だけの力を試してみたいんだ。」

いつも兄の姿を追っていた。
目の前にいつも兄の背中があった。
それを追い越したかった。
兄の見えないフィールドで、自分がどこまでやれるのか試したかった。
そんなときの観月からの聖ルドルフへの編入の誘いだった。

カーン、コーン

不意に始業5分前の予鈴が鳴る。
気がつけば生徒達がたくさん予鈴にあわせるかのようにどっと校舎の中へとなだれ込んできた。
と裕太は何もそれ以上の言葉を交わせないまま、別々の教室へと離れた。
昼休みになっては裕太の教室へ行こうかどうか迷う。
教室を出てひとりうろうろと歩き回る。
友人たちの声すら耳に届かない。
心ここにあらず、といったところである。
裕太と不二がそれぞれに成長するための試練。
それはよくわかるのだ。
けれど。
はちゃんと覚えている。
裕太も、不二も居た頃のテニススクールを。
スクールは楽しかったし、みんなで遊ぶのはもっと楽しかった。
もう、あの頃の自分たちでないことはよくわかっていても。
あの頃に戻れることをずっとは望んでいるのだ。

結局昼休みに裕太に会いに行くことができず無駄に時を過ごし。
は授業後急いで裕太の教室へと向かった。
丁度裕太のクラスは帰りのホームルームが終わったところで、生徒たちが教室から出てきたところだった。

「裕太。」

は人ごみのなかで裕太の姿を見つけて腕を掴んだ。

?」

の手の力は思ったよりも強く、ぐいぐいと昇降口とは反対方向へとひっぱられる。
そのままどんどんは裕太をひっぱり続ける。

来たのはテニスコートの見える渡り廊下のところだった。
人気のない渡り廊下。
テスト週間中ということで、人気のないテニスコート。
一部の人間たちがコートで練習しているらしいが、まだ誰も来ていない。

「私はね、裕太。」

は一息ついて静かに口を開いた。

「不二君の背中を追って、追って、追って、そしていつか追い越す裕太が見たかったのかも知れない。」

でもそれは。
のエゴにすぎない。

「だから裕太にうちのテニス部をずっと勧めつづけたんだわ。」

裕太は兄を目指して成長し、不二は弟に追われることでまた違った成長をみせるだろうと思っていた。
でもそんなのは理想に過ぎない。

「ごめん…。でももう俺は決めたんだ…。」

そう、兄のいないところで自分を試すことを。

「うん…。わかってる…、それが揺るぎないことだと。」

は息を吸った。

「だから言わせて。」

は震える声で蚊の鳴くような声で呟いた。

「行かないで…。」

ぽつ、と廊下にの涙がこぼれた。
ただ、行って欲しくない。
それだけだった。
昔を夢見て子供頃のように。
あの頃の自分たちを懐かしんでなぜいけないのだろう?
時は容赦なく自分たちの間を引き裂いてゆく。
心身の成長とともにその距離をも。

くしゃ。

裕太の手がの頭を撫でた。

「サンキュー、。」

は俯いたまま顔を上げられなかった。
裕太の足音が去ってゆく。
これ以上にはどうすることもできない。
はしゃくりあげそうになるのを押し殺し、裕太の去っていく足音を聞くだけで精一杯で、裕太の姿を目で追うことすらできなかった。
もうあの頃には戻れない、そう裕太が無言で言っている。
わかっていてもそれは苦しかった。

どれだけこうしていただろうか。

渡り廊下の腰の高さぐらいまでしかない仕切りにもたれたまま、はずっと俯いていた。
ぽす、と誰かがの頭にタオルを載せた。
は驚いて振り返る。
そこには不二が立っていた。

「不二君…。」

にこやかな微笑みはいつものもの。

「ありがとう、。」

柔らかな微笑で少しかがんでの顔を覗きこむ。

「僕には言えなかったセリフを言ってくれて。」

気づいていたのだろう。
はこくりと頷いた。
きっと不二が言いたくても言えなかったこと。

――行かないで。

――行かないで。






ねぇ、裕太。
のたったひとことだけで、きっと君は聖ルドルフで強くなれるよ。
君を青学に引きとめようとした人間がひとりでもいる限り、君は聖ルドルフで強くなる。
僕には絶対言えなかったヒトコトを、は言ってくれた。
君がもっと強くなれるように、君の未来に繋がっていくように。
いつか君は僕と戦う日が来るだろう。
それまでにお互い、自分を磨いていこう。
そのときが来るまで。