序章〜再会


わたしと不二周介は幼馴染で彼は一歳年上。
小さな頃から同じテニススクールに通っていた。
不二はとても器用で、なんでもソツなくこなす優等生。
一方私はというと。

「気分屋、好き嫌いが激しい、感情的、熱しやすく冷めやすい」

だ、そうで(涙)

もともとテニスに才能もないし、スクールに通ってるからといって情熱もあるわけでもないし。
たまたま親がテニスをやってたらお嬢ぶるにはいいスポーツだろう、と放り込んだんだし。

「でも、負けず嫌いなんだよね。」

うっ。
そのとおり。
そのとおりなのよ。

は上手く立ち回れればいいプレーヤーになると思うんだけどなぁ。」

うまく立ち回れればね。
いいのよ。私、不二君みたいに世界を目指すつもりも何もないから。

今思い出せばそんなときだったと思う。
自分で自分を卑下し、テニスを好きだなんて思いもしなかったあの頃。
二度とコートで走ることのできなくなる事故にあってしまった―――。

あれから何年たったのだろう?
さして長い時じゃない。
でも私の中では何かが凍って止まってしまった。
そう、何かが凍って。
それは私にもわからないものだった。
わからないから時間の感覚もなくなった。
心の中の何かが。
私の中の何かが。
――今も止まったまま…。

日常生活には差しさわりがなくなって、普通に生活はできるようになっても過度な運動を控えることを余儀なくされた。
別にテニスが好きだったわけじゃない。
わけじゃないけど…。
離れてしまえばなんだかもったいなくも悔しくて。
テニスをしていたあの頃が何度もフィードバックするほど懐かしかった。
あの場所にもう戻ることはできないのかしら。
何度もそう思った。
そして時折思い出す不二君。

は上手く立ち回ればいいプレーヤーになると思うんだけどなぁ。」

あの言葉がずっとひっかかっている。
私はいいプレーヤーになれたのかな?
もう希望が持てないけれど、何度も思い出すあのセリフ。
あのセリフを思い出す度に、テニスを思い出すの。
不二君を思い出すの。
世界で活躍するあなたを想像するの…。
そうするとね。
なんだか切なくて、悲しくて、あなたを探す自分を知るの…。





青春学園

は盛大に溜息をついた。
何が悲しくて私立中学へ来なければならないのかと思うと情けなくなってくる。
まあ、一貫教育だから一回入っちゃえばラクはラクなんだけど、とは思うものの、これから毎日バスに乗っての通学は正直頭がイタイ。
まあ、受験なしで行くことのできる公立中学でも自転車通学は避けられないだろうけど。
それでもこれからここにお世話になるのだし。
は再び溜息をつくと校門をくぐった。

入学式のときは親と一緒だったし、教室の場所とか校舎内の各施設を覚えるだけだったけど今日からは本格的に授業も始まる。
すべてが動き出した春の一日。
は配られた部活動の案内のプリントにやる気なさそうに視線を彷徨わせた。
どっちみち運動はできない。
とすれば文化部か。
女子テニス部、という項目を見つけふと胸が苦しくなる。
あのとき事故にあわなかったら多分選んでいただろう部活動だった。
でも自分にはもう縁のない部活動になっている。
は無理やり視線を文化部へと落とした。
不意にプリントに影がさして、の前に誰かが立ちはだかった。

「ね、ね、部活何に入るか決めた?」

明るい笑顔いっぱいの声では話しかけられた。
はまたも溜息をついた。
何もやる気がおきないからである。

「まだよ。あ、私って呼んで。そのほうが慣れてるから。」

かたっ、と手近の椅子を引いて金村と呼ばれた少女が座る。

、ね。オーケー。私は恵美だからメグって呼んでね。」

少女のさわやかな態度には知らず微笑んだ。
新しい友人はまんざらでもない。

「ねえ、テニスやらない?私中学に行ったらテニスをやってみたかったのよねー。」

メグの言葉には少し動揺した。
テニス。
自分には縁遠いものとなってしまったから。

「ここの男子テニス部ってさ、すっごく強いらしいよ?女テニはあまりきかないけど。」

あ、そう。
でも私には関係ないし。

思ったことは口にしないではまたもプリントの文化部欄に視線を彷徨わせた。

は文化部に入るの?」

メグの言葉にはうーん、とやる気のない返事をする。
一応一年生は何らかの部活動に入らなければならない決まりになっているらしい。
どうも帰宅部、というのを許してくれそうにない校風には溜息をついた。

「帰宅部、がいいんだけど、ね。」

の言葉にメグが吹き出した。

「何ババくさいこといってんのよ。せっかくここ来たんだし、何かやったほうが絶対面白いって!」

メグの言葉には苦笑する。
運動部にはもう入れないから文化部か。
心の中で少しごちて、曖昧に笑って見せた。

結局その時はもう少し考える、ということでその場を終わらせた。
しかし、メグの誘いで授業後は女テニを見に行くことになった。
真新しいかばんに帰りの支度をしてはメグと一緒に校舎を出た。

っ?!」

そのとき後ろから声を掛けられた。
振り返るとはあっと小さく声をあげた。

「不二君?」

ブルーと白の青春学園独自のテニス部レギュラーメンバー用ジャージに、ラケットの入ったバッグを肩にかけている。
一目でここのテニス部員であることをは察知した。

「すごい偶然だね、。ここに入学したんだ?」

不二は嬉しそうにの隣に並んだ。

「不二君こそ。ここの学校にいたんだ。全然知らなかった。」

は驚きを隠しきれない笑顔で答えた。
不二も嬉しそうににっこりと笑っている。
何年ぶりだろう?
すっかり男の子らしくなった体つき、伸びた背丈には少しどきどきした。

「そう?裕太もと同じここの一年だよ。ところでの友達?ボクは不二周助、男子テニス部の二年だよ。とは幼馴染なんだ。」

さらりとした自己紹介には内心ほっとする。
自分がかつてテニススクールに所属していたことを言わないでいてくれたことに。

「紹介が遅れてごめんなさい。こっちは同じクラスの恵美、メグよ。今からメグと色んな部を見てまわるとこなの。」

が振り返ってメグを見ると、メグは珍しく硬直したようになっていた。
は不思議に思いながらもメグを不二に紹介した。

「よろしくね、メグちゃん。そうだ、よかったらと一緒にうちの部を見においで。これからうちの部、新入生歓迎ワンポイントマッチをするんだ。ギャラリーが多い方が白熱するしね。特に女の子が多い方が。」

はどきりとした。
もしかしたら不二のプレイをまた見ることができるかもしれないと思うとどきどきする。
一緒に練習し、対戦もした。
いつもこてんぱんにやっつけられてたけれど、それも楽しかった。

「今から女テニを見に行くの。そうね、隣のコートだから不二君のプレイ見せてもらおうかな。」

にっこり微笑んでそう答えると、不二は少し小首を傾げた。

「それは嬉しいね。でも残念だけど多分ボクは出ないから…。それより女テニ?」

不二の言葉が妙に鋭い。
新入生歓迎のワンポイントマッチに出ないのは残念だが、それよりも最後の言葉にははっとした。

「あ、えーとメグが見たいって、で行くの。私は付き合い。」

上手く笑えただろうか?
テニスを離れてしまっていながらテニス部を見に行くなんて。
お笑いもいいところだ。
自分でも情けないほど女々しい気がする。

「ふーん…。ま、よかったら男テニも見においでよ、裕太にも声かけてるし。あ、ヤバイな時間だ。じゃあ、またね、メグちゃん。」

不二は焦りを押し隠すの様子を別段深く突っ込むこともせず、にこやかに笑って足早に駆けていった。

不二が去ってメグは大きくひとつ溜息をついた。

「どうしたの、メグ?」

は不思議そうにメグに向き直った。

「びっくりするわよっ!さっきの、不二先輩でしょっ!ここテニスの名門青学男子テニス部のレギュラーよ、レギュラーっ!毎月行われる校内ランキング戦で三年の先輩たちをさしおいて二年でレギュラーになってる天才なんだからっ!おまけに頭もいーし、顔もいいじゃない?にこやかでやさしいし。ファンが多いのあなた知ってるのっ?!」

それは全然知りませんでした。
と、内心は驚いた。
どこをどうやったらそんな完全無欠なヒトになったんだろう?
とはどうしても思わずにいられない。
同じスクールにいるときはうてば響くようなキッツイセリフがぽんぽん出てくるわ(涙)、ぐっさりヒトの痛いところを笑顔でつついてくれたり(怯)
確かに頭もよかったし、計算も高い。
当然テニスプレイヤーとしての能力もずばぬけてすごかった。
優等生タイプで先生達からは信頼されていたし。
しかし…?
は知っている。
気に入らない相手だと、相手のプライドまで涼しい顔をしてズタズタに引き裂くほどのなかなかに黒い一面を持っている彼を。
ま、まあ気に入らない相手、というのは兄弟や友人が実にいやらしい戦法で勝ちを取りにきたりするときだったりと、あくまで限定はされているけれども。

「はあ〜っ、そうなのか…。」

は溜息をついた。

「わかった?親しいってわかると、ファンクラブの先輩たちにぜったい睨まれるわよっ!」

メグの言葉に不二がどれだけ人気が高いかを知る。

「青学ナンバーワンなんだねぇ…。」

はぼそっと呟いた。
まさか自分の幼馴染がそんな風になっているとは。
世の中よくわからないものである。

「違うわよ、不二先輩はナンバー2。ナンバーワンは手塚先輩よっ!」

さらには目が点になる。

「手塚先輩?」

はじめて聞く名である。

「手塚国光。やっぱりここ青学男テニの二年生よ。次期部長って言われてるヒト。不二先輩は優しくてにこやかだけど、手塚先輩はとにかくクール!テニスもすっごく上手なの。もうほんとカッコイイのよぉ〜♪」

もしかして女テニに入りたい理由は彼らの姿を近くでみたいからですか?
と心の中でのツッコミをあえて口にださず、あきれたようにメグを見た。

「不二君よりスゴイヒトがいるんだ。」

うーん、スゴイ学校なんだな、青学って。
は昔の不二を思い出していた。
不二はテクニックもさることながら、いつも冷静な目で周囲をみていることだ。
対戦相手だけでなく、ダブルスを組めばパートナーの心理状態まで把握しているからコワイ。
も実際組んだことがあるが、心の中を読まれてるようであとから思えばぞっとしたのを覚えている。
まあ、ちゃんとダブルスで試合に臨めばそれは理想的ともいえるかもしれないけれど。
で。
それを越える人材が青学にはいるという。
いまさらながら、テニスへの未練を感じる。
やはり上手いヒトのいるテニス部というのは魅力的だ。

「ま、でも。」

なんとなく不二がナンバー2と聞いて少し安心したような気がした。
そりゃあんなヒトがナンバーワンだったら人間不信になりそうだし。

「ま、でも?」

メグが不思議そうにの顔を見た。

「いいんじゃない?素敵なヒトばっかりで。」

の微笑みにメグがつられて笑う。
楽しみな学園生活が始まる予感がしていた。




女テニの見学をフェンス越しに見る。
なかなかさまになっているようではあるが、どうにもいい選手はいなさそうである。
メグが試しに打ちに入らせてもらっている間、は喚声のあがるほうを見遣った。
どうやら先ほど不二の言っていた男テニの新入生歓迎ワンポイントマッチを行っているようである。
コートにはバンダナを頭に巻いた一年生が、二年生らしき人物が繰り出す強烈なサーブを今受けようとしているところだった。

「へぇ…。」

気迫が違うのか、一年生は大きくラケットを振って気合でサーブを打ち返す。
負けじと対戦相手もネットにつめてボレーでボールを受ける。

「ああ、あの子、リーチが長いんだわ…。強みよね、テニスプレーヤーとして。」

ぱーん、という小気味のいいテニスボールを打ち返す音が連続して続く。
どうやら負けず嫌いな一年生らしく、必死にボールに食らいついていく。
左右に上手く振り分けたボールを追いかけてかなり走っているであろうに、なかなか息を乱さない。
体力もありそうである。
ワンポイントマッチだからボールを受け損ねたら負けである。
もうすでに何十人もトライしているようで、コートの隅で一年生が固まっている。
ざわざわと周囲もこの試合に興奮を覚えているようで、多くのギャラリーが集まり始めていた。
そこへ先ほど不二が着ていた青学テニス部レギュラー専用のジャージを着た何人かがあらわれた。

「へぇ、なかなか打ち返してるじゃないの。」
「根性入ってるよなー。」
「打球も鋭いし。」

何人かいるレギュラーの中に不二の姿を探すが見当たらない。
どうやらワンポイントマッチに出ないというのは本当のようである。
は溜息をついた。
不二のテニスがやっぱり見たかったからである。
やがてバンダナの一年生が大きく曲がるショットを打った。

「わっ。」

は思わず声をあげた。

「あの一年生、なかなかやるね。」

いきなり耳元で囁かれてさらにびっくり、どっきりで本当に飛び上がってしまった。

「ふ、ふじくんっ?!」

レギュラーのみなさんはあっち、つまりコートの反対側にいますよ?
何故にあなたがここにいるのっ?!

「そんなに驚かなくても。一応こっちから男テニのコートだよ?」

うっ、それは知らなかった。
女テニは全国を目指せるような逸材がなかなか集まらないから使用してるコートも少ないのね。

「レギュラー、近い位置にいるね。いまのとこアイツともう一人だけだよ、ポイントをとったの。」

嬉しそうに不二君がコートの中の一年生を見る。
うーん、一年生にはみえないくらいふてぶてしそうな態度である。

「楽しいよね。こういう逸材が入ってくるとわくわくする。」

不二の言葉にも頷く。
テニスはプレイするのも、見ているのも本当にワクワクしておもしろいからだ。

「ね、、男テニのマネやってみない?」

げっ。
いきなり何を言い出すのよ、と思って不二の顔をまじまじと見た。
いつもにこやかな不二がめずらしく真面目な顔でコートを見ている。

「プレイできなくなっても、間近でテニスを見て、仲間と一体感が味わえる。どうかな?」

不二の言葉には改めてコートを見る。

「ダメだよ。」

は思わず言っていた。
やっぱりだめだ。
テニスは楽しいと思う。
けれど。
いつか自分はテニスをしている部員の皆を羨ましく思うだろう。

「やっぱりダメ。マネ探してるならメグにでもあたってみてよ。私はできない。」

くるりとコートから背を向けるとその場をあとにする。
不二が追いかけてくる気配はない。
あれ以上あの場にいたら。
間違いなくラケットを手にゲームをしている自分を思い浮かべただろう。
そして、痛感するのだ。
二度と上を目指すプレイヤーにはなれないのだと。
走り去るを不二はただ黙って見つめていた。





勝手に帰ってきて、は久しぶりにテニススクールへとラケットを持って出かけた。
壁打ちを少しぐらいならでもできる。
けれども本格的な練習はできない。
今日は教室が休みではあるが、スクールの経営者を知っているの父のおかげでスクールの室内練習場に来ることができる日もあるのだ。
今日はたまたまそんな日だった。

シューズの紐を強めに結ぶ。
壁に向かってボールを打ち込む。
あまり自分が横の動きをしないように正確に、落ち着いて打ち込んでいく。
足を使えばすぐに動けなくなってしまうからだ。
ぱーん、ぱーん、と規則的にテニスボールの打つ音が誰もいない練習場に響く。

「あっ。」

熱中しすぎたせいだろうか、わずかにボールの軌道がずれ、は横に移動しなければならなくなった。
しかし、咄嗟に動くような足ではない。
見事に空振りをしてしまったそのとき。
ぱーん、というきれいな音がしての立つ位置へとボールが壁を打って戻ってきた。
は打ち込みを忘れて振り返った。

「やだなぁ。ちゃんと打ってくれなくちゃ。」

不二が学生服の姿のままラケットを片手に笑っていた。

「な…ぜ…?」

転がったボールを器用にラケットで掬い上げてぽんぽんと弾ませる。

「何故って、ボクの言ったことにを傷つけてしまったと思ったから。」

不意に不二の顔が真顔になる。

「こんな風に練習していたんだね、気がつかなかった。」

こんな風にひとりでスクールの休みの日に一人で練習するのはどれだけ辛かっただろう。
スクールの皆は上を目指して練習し、自分を磨いている。
それを許されなくなってはひとりで、こんなふうに練習をしていた。
いっそテニスをやめてしまえればもっと気が楽になれただろう。
でもはテニスをやめることはできなかった。
そんなにもテニス好きだったのだから。

「いいよ、もう。こんなふうにひとりで練習しなくて。こんな悲しい練習をしなくて。」

不二はつかつかとの側に歩み寄った。
そして唐突にを抱きしめた。

「泣いていいよ。泣けなかったんだろう?」

不二に包まれては知らず涙が出てきた。

――ああ、そうだ、私は…。

はぎゅっと目を閉じた。
けれども涙はあとからあとからあふれ出てくる。

「ふ、ふじ、くんっ……、」

の言葉が言葉にならなかった。
不二の腕の力強さがに何も語ることを許さなかったから。

「ボクが、連れて行ってあげる。」

を世界に。

言葉にならない思いを受け取って。
はただ何度も頷いた。
頷いて。
自分がどれだけテニスが好きだったのかを認識した。
だから。
だから――。







それから間もなくは青学男子テニス部のマネージャーとなった。
コートでは時折ラケットを手に球出しをしたりして、部員の練習にも付き合うことがある。
いつか。
いつか世界は青学の誰かが行くであろう。
それをは応援しにいくのだ。
そんな日を夢見て。

いつかくるその日を夢見て。

はテニスを取り戻した。
のなかの時間が再びまわりはじめる――。