蝶戀歌16
呂蒙は主不在の邸を訪れた。 もちろんそれは了承済みである。 陸遜は孫権の命で甘寧率いる水軍の軍事演習の方法についての会議に出席しているのだ。 この頃合肥の状況があまりよくない。 魏軍が度々攻めてくるのだ。 荊州奪還を考えるも、荊州に軍を進めればその隙に魏軍が南下する。 じりじとした鬱積が呉軍の中でたまりつつあった。 人が二人寄れば必ず魏と戦うか、劉備軍と戦うかの話し合いである。 もちろんこの状況に一番いらいらさせられていたのは孫権その人である。 呂蒙は魯粛の推によって文武両道の智将として最近になってようやく頭角を現した。 孫権も重用し、とかく相談ごとを受けるようになっていた。 孫尚香奪還劇についても孫権は責任者を陸遜ではなく、呂蒙にしていた。 年嵩も上で説得力もある呂蒙は、年も若く才気ある陸遜よりも孫権は使いやすかったのであろう。 そのあたりのことを理解して呂蒙は陸遜と行動をともにしているが、呂蒙から見れば陸遜は理想を追い求めすぎているようにみえた。 政治と言うのは本来汚いものである。 その汚い側面をどこまで許せるかが政治なのである。 しかし陸遜は違った。 常に公明正大、清廉潔白であろうとする。 そして主君である孫権に理想をつきつける。 それはまるで劉備軍のありようとよく似ていた。 劉備という主君は馬鹿がつくほどに情に篤い。 しかし多くの配下のものを従え、なおかつ領土を広げようというのであれば、劉備だけではできない。 諸葛亮孔明という軍師あってこそ成り立っているのである。 言い換えれば軍師こそが政治を執っているのである。 しかしそれは呂蒙にとって正道とはいえなかった。 多くの文官、武官を取りまとめる主君があり、政治は合議のもとに行われるのが正道であるというのが呂蒙の考え方であった。 だから主君は臣の都合のよい人物のほうがいい、といえば暴言になるだろうが、主君は多少世に疎いほうが政は合議の上で成り立っていくのである。 ゆえに呂蒙は呂蒙の正義で動いていた。 「あまり気がすすまんな…。」 呂蒙は小さくため息をついた。 いくら正道のためとはいえ、一人の娘を不幸になるとわかっていて主君へ差し出すのに躊躇いが残る。 呂蒙は軽く頭を振った。 憐憫の情はいらないはずだった。 もとは呉の孫家に連なる姫であろうとも、敵将劉備に与する武将である。 呂蒙は気を取り直すと邸へと足を踏み入れた。 主不在の家人たちは呂蒙を礼儀正しく歓待した。 しかし呂蒙は歓待されにこの邸訪れたのではない。 家人にのことを聞くも知らぬ存ぜぬばかりである。 呂蒙は時間の無駄だとばかりに邸内を探しはじめた。 それをは隠れるように知らせきた家人たちから知らされた。 なぜ呂蒙という武将が自分を探しているのかわからない。 先日陸遜の言ったことに関係あるのかもしれないとは思うが、どうにも解せないことばかりである。 は家人から差し出された自分の細剣と短檄を即座に身につけ、家人に勧められるまま食糧倉庫に隠れていた。 「いましばらくの我慢でございます。主に火急の用ということで知らせを出しましたゆえ。」 家人の一人がに付き添って食糧倉庫の物陰から邸内の様子を窺う。 呂蒙の声が聞こえてきた。 「殿!呉候孫権様が孫尚香様のことで伺いたいことがあるゆえお迎えに参りました!どこにおられる?!」 呂蒙の言葉がの耳に届いた。 孫権の命であることがわかったが、にとって孫権も孫尚香も心許した家族のような存在である。 「私、やっぱり孫権様に会おうと思う。それに孫尚香様も心配ですし…。」 は声を潜めた。 側に控えた家人は眉を顰める。 「なりません、主にきつく仰せつかっております。呉候にお会いになるのは非常に危険であると…。」 家人はを睨んだ。 「でもここで私が出て行かなかったら陸遜は孫権様の機嫌を損ねるわよ?」 の言葉に今度は家人が不安そうな顔になる。 は手にしていた細剣を握りなおした。 完全に回復とはいかないまでも、細剣を振るうことはできる。 長時間になったらきついかもしれないが、最低限自分で自分の身を守ることくらいは出来るだろう。 「あなたはあの武将をもう一度広間に連れて行きなさい。私は支度して出て行きますから。」 「しかし!」 家人は言い募ろうとした。 「主が大切なんでしょ。」 の言葉に家人は口を噤む。 ――忠実なる臣下ってわけね。 は苦笑した。 そして家人を押し出す。 家人は押し出されて呂蒙の前に進みでる格好となった。 こうなれば家人は早く主である陸遜の帰宅を待つしかない。 「当家でお世話しております姫のことでしたら、ただいまお支度をしておりますゆえ、広間にて今しばしお待ちくださいませ。」 家人は冷や汗をかく思いでそれだけをようやく言った。 「ほう、ようやく出す気なったか。ならば待たせてもらおうか。」 呂蒙は家人の腕を掴んだ。 そして 「殿、急ぎ支度をされよ!呉候がお待ちかねであるぞ!」 呂蒙はそれだけを言うと広間へと家人を引っ張っていった。 はため息をついた。 自分にあてがわれた部屋へ戻る途中、下女らがを見つけた。 「様、あれほど主がきつくお止めになっているものを!」 下女たちは次々にを攻め立てた。 しかしさきほどの家人に言ったことを下女らに言えば、下女たちもそれ以上に言葉が出てこない。 は腿に短檄をつけるための皮の帯を巻いた。 その様子に下女らがぎょっとする。 「驚いた?でもずっとこうして戦ってきたのよ。」 は苦笑して用意してもらった軽装の衣装を身につける。 軽くて動きやすく、戦のときにはこの衣装の上に鎧を身につけることもできる。 は最後に剣を下げた。 「本当に行かれるのですか?」 下女の一人の言葉には頷いた。 このまま陸遜の邸で無為に過ごすわけにはいかない。 何か変化させなければ状況が変わらないのだ。 は頷くと さっと髪をはらった。 この先に待っているものが何でも負けるつもりはなかった。 なんとしてでも荊州に帰還する。 は広間へと歩いていった。 「お迎えありがとうございます。」 が広間に現れると呂蒙は驚いた。 呂蒙がを見たのはちらっとだけで、まじまじとは見ていない。 孫権が入れあげるだけの姫だけあって、美しい娘であった。 しかし武将の姿をして佩刀していても、ほっそりとして色白なその姿はそぐわないほどに儚げで可憐であった。 「呉候はあなたにとっても兄ともなる方でいらっしゃる。呉にいらっしゃったのなら呉候のもとで過ごされるのが筋というもの。心配される呉候の命によってお迎えにあがりました。」 呂蒙はの前に膝をついた。 「顔を上げてください。私は呉とは縁を切ったものです。」 の言葉に呂蒙がわずかに目を細めた。 「…では行きましょう。」 呂蒙はの手をとろうとした。 貴婦人への礼として。 しかしはそれをはねつけた。 あくまで劉備の武将としてあろうということか、と判断すると呂蒙は薄く笑った。 そして邸から連れ出す。 待っていた輿にを乗せ、自分は馬に跨る。 そして一路建業の、孫権の待つ城へと急いだ。 陸遜は邸に戻って壁に拳を当てた。 家人たちを責めるつもりはない。 とて馬鹿ではないだろうから、家人たちを上手くいいくるめたのであろう。 「まだ準備ができていない…っ!」 陸遜は苦しげに呻いた。 孫権の元に播いた種はまだ芽を出していない。 が危険だった。 陸遜はすぐに厩に走ると駿馬に跨って建業の城を目指した。 郎党らが後に続く。 しかし城は硬く閉ざされて陸遜の入城を阻んだ。 陸遜はじりじりしながら邸へと戻った。 ひどく心が乱れる。 頼みの綱は孫権のもとに送り込んでいる細作たちでしかない。 呉候、孫尚香の母である呉国太も今は孫尚香を心配して建業の城に移っている。 孫権に意見できる重鎮の魯粛も柴桑に起居してあてにならない。 大喬は自分が孫策の娘との婚姻を断ったことから何かを頼める相手ではないし、小喬にいたっては周瑜の妾であったことからを敵対視している。 上手く丸め込めばいいのであるが、二人にはそれぞれ孫権に甘い言葉を囁く文官武官がついているためあてにできないのだ。 「どうして誰も孫権様を止めない…っ!」 陸遜は忌々しげに呟いた。 陸遜が忙しいのは孫権と文官たちとの融和であった。 もともとは孫策のカリスマ性と、周瑜の名士である力の元に呉の今の勢力は出来上がった。 孫策が亡くなり。周瑜が亡くなった今、孫策の弟孫権が跡を継いだわけだが、孫権は孫策ほどのカリスマ性がない。 臣は孫権を君主としているが、内実は文官、武官らに権が分けられたといっても過言ではない。 今はまだ孫策らの残した優秀なる文官、武官が呉を支えているが、このまま進めば呉は内部から崩壊する。 任命権のみある愚かな君主のもとでは寵の争いが深刻化し、内部分裂を起こしかねない。 それもこんな群雄割拠の時代であれば、簡単に呉は沈む。 自分が清廉潔白、公明正大であろうとすればするほど、亡き周瑜と比べられる。 周瑜は楊州一円の大豪族であった。 そのために周家のもつ莫大な資産と権力で呉を支えた。 しかし陸遜はせいぜい呉郡の名士でしかない。 いくら名士とはいえ、周瑜とは格が違うのだ。 だから陸遜は孫権が沈まないように賢帝の道を説いた。 しかし、その声が届かない。 軍師として重用してもらっていることはわかっていたが、反面その才気を疎んじられている。 「見えていないのですか…っ?!」 陸遜には見えていた。 この呉の沈み行く姿が。 自分が忠誠を誓った孫呉が沈むのが。 陸遜は首を振った。 「まだだ…。まだ道は残っているはずだ。」 陸遜は顔をあげた。 そして筆を取る。 孫権に奏上したい旨があることを伝えるために。 そのときだった。 魏に放っている斥候からの知らせが届いた。 その知らせを聞いて陸遜は微笑んだ。 「孫権様に先触れを。合肥に魏が攻め込む準備を始めていると。戦の準備をしなければならない。私は城へ上がります。」 陸遜はそういうと服を着替え始めた。 孫権に会うために正装する。 孫権もどころではなくなる。 ふ、との夫、趙雲のことを思い出した。 そして薄く笑う。 あの男もそれどころではなくなる、そう思うと陸遜は天が自分を味方していることを確信した。 陸遜は孫権に策を献じるために建業の城へと入城を許された。 合肥の状況が孫権のもとにも知らされたからである。 合肥を攻める魏軍と、荊州を攻めたい孫呉。 陸遜は頭を忙しく働かせた。 緊迫した空気が城には流れていた。 がどこにいるかはわからなかったが、それどころではないというのが現状のようである。 内心ほっとしつつも、呉の大事のときである。 陸遜は広間で孫権の目通りが許された。 孫権はいらいらと陸遜を見た。 思うようにならない苛立ちを隠そうともせず、孫権は陸遜の側に詰め寄った。 「何か策があると申したな。どんな策だ?」 孫権は陸遜の側に膝をつくと声を落とした。 周囲には多くの文官、武官が控える。 「はい、ございます。しかしこの策を授けるためには候は私にひとつお約束をしていただかねばなりません。」 陸遜は静かに目を伏せた。 孫権がいらだちを露にするも、何も策を奏上せず、うろうろと自分の機嫌をとろうとする文官らに飽いていた。 「行賞を先に欲するか、下劣だな。」 孫権の言葉に陸遜は薄く笑った。 そんな言葉でしか貶められないのか、と思うと情けなくなる。 「いかにも下劣ゆえ、その策をあてにされるのはどちらでしょうか?」 陸遜はあくまで礼儀正しく、孫権の前に伏した。 そう、孫権は陸遜を手放すことなどできはしない。 そして頼らざるを得ない。 「何を望む?」 孫権の言葉に陸遜がはじめて面をあげた。 「徳をもって政務を執られることを。仁をもって臣下を遇することを、正をもって臣を徴用されることを。」 陸遜の言葉に孫権は立ち上がった。 「ひとつと言わなんだか?」 陸遜は笑った。 「君主に篤く忠誠を誓う臣下の戯言でございます。」 孫権はため息をついた。 だから孫権は陸遜が苦手だった。 しかし苦手であっても彼ほど信に値する臣下はいない。 「申して見よ。」 陸遜は改めて孫権に礼を拝し、そして策を奏上した。 ひとつ、劉璋に親書を送り劉備と東呉が結託して益州を手に入れようとしていることを伝える。 これによって劉備に派兵を頼んだ劉璋は劉備に不審を持ち仲違いさせることができる。 さらにもうひとつ漢中の張魯に親書を送る。 この親書には荊州への出兵を唆す内容を記す。 これで劉備軍は挟撃を受けて立ち往生する。 荊州出兵をせずに劉備を自滅させられるというわけだ。 もちろんそれだけで諸葛亮のいる劉備軍を自滅させられるはずはない。 しかし荊州出兵を支持する文官らと、合肥に攻めてきた魏軍を迎え撃たねばならないと考える武官らの支持を同時に得られる。 孫権は陸遜の策に大いに頷いた。 さらに張魯が荊州派兵に動けば、漢中を狙う魏軍はそちらに兵を回す可能性が高くなる。 さすれば合肥にいらぬ派兵をすることも控えられる。 「戦わずして勝利を得るか、陸遜。」 孫権は笑った。 「もうひとつ、私には策がありますが…。」 陸遜は笑った。 「まだ時期が早いようにございます。時期が熟しましたらこの策を主公に奏上させていただきたいと思います。」 だから約束を違えるな、という陸遜の慎ましやかな脅迫であった。 孫権は陸遜の微笑みに内心舌打ちをする。 「陸遜。」 孫権は大きく息を吐くとひた、と陸遜をにらみつけた。 「このたび劉備のもとから一人の客将が呉に来た。…そなたのほうがよく知っているかも知れぬが…。」 孫権の言葉に陸遜は不審げに目を細めた。 「をしばらく客将として預かることとなった。そなたにも目通りを許す。軍師としてを重用せよ。」 孫権の言葉に陸遜は目を見開いた。 思っていなかった展開である。 驚く陸遜に孫権はほくそ笑んだ。 に手をつけるな、という脅迫に対して孫権も陸遜に手が出せないように仕向けたのである。 陸遜は薄く笑った。 「これはまた…。」 陸遜はすぐには声が出なかった。 そして大きく息を吐いた。 「よろしいでしょう。ただ時期的に曹魏との戦はやむをえません。兵の修練はこれまで以上に厳しくなります。殿にも参加していただくこととなるでしょう。」 陸遜はまっすぐに孫権を見た。 孫権の提案は悪くない。 確かに陸遜はを欲して攫った。 このままであればは孫権の妾として、いや妾にすらならない遊び相手となろう。 を失くし、孫権の徳を地にまで落ちるよりは、自分がを手を得られなくとも孫権の徳を繋ぎとめることはできる。 すべては一度に手に入るものではない。 悪くない交換条件だった。 ――彼女が大人しく客将などと遇されるかはわかりませんが。 それでも当面の危機は回避できた。 あとは陸遜の播いた種がどう芽を出すか。 陸遜は薄く笑った。 |