蝶戀歌15

身体がひどく重かった。
起き上がることもできないほどに。
は重たい瞼を開けた。
ずっと、ずっと寒かったような気がしたのを覚えている。
しかし今は心地よいほどに温かい。
時間の感覚がまるでない。
ここがどこなのかも全くわからなかった。
部屋は薄暗かった。
は視線だけで周囲を窺った。
そのとき自分がこの臥牀に一人でいるのではないことに気がついた。
背後から抱きしめるように、男の手が自分の身体に回されていたのだ。
その腕がを温めていたのだった。
しかしその腕はに覚えの無いもので。
誰、と誰何しようにも喉がひりついて声も出ない。
精一杯の力でようやく身じろぎしただけだった。

――どうしたの、私!

は泣きたくなった。
後ろを振り向いて背後から自分を抱きしめる人物を確かめることすらできない。

「目が覚めましたか?」

の耳元で囁かれたその声にはすべてを思い出す。
呉の軍船の上で趙雲に向かって手を伸ばし、しかしその手は何も掴むことが出来ぬまま気を失ったことを。

「しっ、静かにしてください。」

身じろぎをなおをしようとするの身体をさらに優しく抱きしめ、声の主はの身体を仰向かせた。
ひどく疲れた顔をした陸遜がの視界に写った。

「申し訳ありません。他に手はなかったとはいえ貴女に私は酷いことをしてしまいました。」

陸遜は辛そうにを見下ろした。
陸遜は薄物一枚だけである。
気がつけばも薄物一枚である。
は真っ赤になった。

「…!」

何か言いたくてもの喉は酷く乾き、声すら出ない。
まるで声をかぎりに叫んだあとのように。

陸遜はの様子に気がつくと臥牀から降りた。
そしての身体を助け起こし、背中に背あてを入れた。
たったこれだけの動作なのに、は激しく息切れした。
陸遜は卓子に置かれた水差しから杯に水を注ぐとに手渡そうとした。
しかしの腕はあがることすらできない。
陸遜は臥牀に腰を下ろすとの唇に杯をあてた。
清清しい水が口の中に入ってきては思わず飲み干した。
少しだけ喉の痛みがひいたような気がした。
陸遜に何度も飲ませてもらい、は少し息をついた。
陸遜はの腕をとった。
以外にも痛みはなく、陸遜はの手を包み込んだ。
そしてそっと指先を伸ばす。
強張った指先がしびれるような気がしたが、それも徐々に引いていく。
同じように反対の手も行う。

「…陸遜…」

はようやく声を絞り出した。
陸遜はの声を聞いて少し目を見開いたが何も言わず、の関節をほぐしていく。
も指先を動かしたり、腕を動かしたりする。
よほどしばらく使っていなかったのか、動かすたびに痺れを感じる。
陸遜はふと気がついて上着をの肩にかけた。
は自分では気がつかなかったがひどく震えていたのである。

「まずは体力をつけることが先決ですね。」

陸遜はそういうと卓子の上に盛られた果実の中から林檎をひとつ手に取った。
側にあったナイフで器用に林檎の皮をくるくると剥く。
そしていくつかに切り分け芯をとり、おろし金で剥いた林檎を手早くすりおろしていく。
手近にあった布で手を拭くと陸遜はすりおろした林檎を持ってきた。
銀の匙に掬っての口に突き出す。

「…自分でできます…。」

はむっとして手を出そうとした。
しかしその手は震えていてとてもではないが器どころか匙すらもてそうにない。

「無理しないでください。今家人たちも休んでいる刻限なのですから私で我慢してください。」

陸遜はくすっと笑った。
陸遜の言葉には改めて露台の扉を見た。
閉められていたが明り取りの窓からは夜空が見える。
しんと静まり返った邸内に今が深夜であることを気づかされた。
仕方なくは唇を開いた。
唇はひどく乾き口を開けるのさえぴりぴりする。
林檎のすりおろしをたべさせてもらうとその一口がとても甘く芳醇で、この世のものとは思えないくらい美味しかった。

「…美味しい…。」

の言葉に陸遜が笑う。

「それはよかった。」

林檎を食べさせてもらったあと、再び水を飲んだ。

「まだしばらく休んでください。いきなり動いては身体に負担をかけるだけですから。明日は医師に貴女を診させましょう。」

陸遜は再びの身体を助けて臥牀に横にする。

「朝になったら起こしにきます。もう大丈夫だとは思いますが目が覚めても無理に動き回らないでください。怪我をしてからでは遅いですから。」

陸遜がの髪を撫でた。
ふ、との中で夢に見たあの手を思い出す。
あの手であった。

――あれは陸遜なの…?

ひどく身体が疲れていた。
でも先ほどのような重い、沈んでしまいそうな疲れではない。
心地よい眠気を起こす疲れであった。
そう、たったあれだけのことでこんなにも疲れてしまうほどに。
は再び眠りに落ちていった。







ガシャンという音がして女官らが震え上がって広間の隅へと逃げる。
孫権はいらいらとして目の前の娘を睨みつけた。
どこから連れてこられたものか、愛らしいもののどこか垢抜けない顔立ちとは裏腹にひどく怯えて震えていた。

ではないでないか!」

陸遜から送られた娘に孫権は激昂していた。
のはずだ、と孫権は確信を覚えた。
孫尚香奪還の折に攫ってきたひとりの娘。
孫策、周瑜らとともに幼年期を過ごし、周瑜の婚約者でありながら袁術のもとへ送られた哀れな剣掌姫。
何の因果か劉備に与し、趙雲の妻となった。
そのが戻ってきたはずなのだ。
かつて劉備らとともに孫尚香の嫁取りで建業に訪れた際、孫権は自分のものにしたいと激しく思った。
趙雲の妻となったのであれば、劉備を滅ぼせばは建業に帰ってくるほかはない。
彼女が身を寄せるのはこの呉であるはずなのだから。
だから孫権は荊州奪還をあせっていた。
だからあれほど強硬に孫尚香の奪還を命じたのである。
ところが柴桑からの知らせによれば孫尚香のほかにも女性を連れてきたという。
孫尚香に仕えていた女性であると聞いた孫権はその女性がであることを確信した。
どういうわけか陸遜と呂蒙の兵卒らがこの一連の奪還劇に参加していないということが不思議だった。
陸遜が自分に対し策を弄していることに感づき、いち早く二人に破格の恩賞を与えた。
亡き孫策の正妻である大喬に頼み込んで、孫策の娘を陸遜に与えることの確約も得た。
なのに陸遜はそれらの恩賞を受け取ろうともせず、話を白紙に戻したのである。
すぐに陸遜がを我が物にしたのだと感づいた。
陸遜の邸宅に細作を放つも陸遜のほうが一枚上手で散々な方法で追い返されてくる。
そうしてようやく陸遜が荊州から攫ってきた娘だといって差し出した娘は、どこかの農村から妓楼に売られてやってきた田舎娘であった。
日に焼けた肌に慣れぬ絹を纏わせ、重そうな派手な簪をいくつも挿したその娘は哀れにも孫権の前で震え上がっている。

「呂蒙を呼べ!」

孫権は叫んだ。
忌々しそうに目の前の娘を見る。
初心そうな娘であった。
男を知らぬこの娘はこれから自分がどうなるのか不安に慄き、震えている。
孫権の目がきらりと光った。

「この娘を支度をさせて今宵私の部屋に連れて来い。」

丁度数々の妾や遊び女たちに飽いていた頃合である。
今まで孫権のもとに上がった娘たちとは異なるタイプの娘であったであろうか。
この娘を陸遜から受け取るだけはしようと孫権は考えた。
それが陸遜の策であるとも知らずに。








は徐々に体力を回復していった。
部屋の中も歩き回れるようになった。
しかしあの夜から陸遜はのもとには訪れない。
下女たちの話によれば、陸遜は大層忙しい人物らしい。
文官らから意見を求められ、武官らには兵法を説き、軍師として兵卒らの修練にも出ている。
陸家の家長でもあることから陸家の所領所轄を常に見回り、公正なる税収の取立てに目を光らせている。
清廉潔白という言葉がぴったりの、絵に書いたような人物である。
配下の者たちにも慕われ、陸遜の私兵は郎党らだけではないという。

「…周瑜みたい…。」

は長椅子に腰を下ろしてため息をついた。
あの軍船で意識を失い、どうやらこの建業の陸家の邸宅に連れてこられたらしいのであるが、回復後のは全くといっていいほど陸遜に会えなかった。
たまに返ってきたとしてもすぐに出かけてしまうし、忙しそうに配下のものたちと一緒にいる。

「これはやっぱり孫権様にお願いしに行かなくちゃ…ね。」

どうやら陸遜の独断で自分がここに連れてこられたらしいのは、がこの邸に半軟禁状態であることが理解した。
邸の中は自由に行動できたが、外にでることだけは許されなかった。
中庭には出ることが許されていたが、帯刀を許されない。
いつも身につけていた細剣も、短檄もすべて取り上げられている。
は自分の身体を見た。
以前から比べて病的なまでに痩せてしまった。
それが何のせいなのかはわからない。
思い出せないのだ。
気がつけば身体がいうことを利かないくらい衰弱していたし、そのためにかこんなにも痩せてしまった。
おかげで身体が疲れやすく、帯刀していたとしても剣すら握れないであろう。
下女たちがの世話をしてくれてはいたが、状況が全くわからない。
とにかく早くこの邸を出て荊州へ帰還せねばならない。
そのためには一刻も早く体力を回復しなければならなかった。
はなんとはなしに鏡を見た。
頬はこけ、髪までやせてしまったような気がする。
下女たちの化粧でなんとか見られる姿ではあるがため息をつきたくなった。
そのときは自分の玉珥が両の耳にあることに気がついた。
いつ失くしたかわからないあの金の玉珥である。
柴桑から江夏に帰還したときにはすでになかったものである。

「どうして…。」

金の玉珥はかつて周瑜から贈られたものである。
小ぶりのその玉珥は金色の小さな花を模った可憐な細工が施され、はそれを大切に袁術のもとに行っても身につけて離さなかった。
袁術の軍から離れて放浪したときは山賊や追剥に目をつけられないために、首から紐で小さな皮袋をつるし、その中に玉珥を隠した。
劉備に仕えるようになり、あの柴桑行きのために身を飾るように言われ、この玉珥をもう一度身につけ、それからはずしたことはない。
いつの間にか片方を失くしてしまったが。
ちり、と指先で玉珥を揺らした。

「なぜ…?」

は鏡からふい、と顔を逸らした。
この玉珥はがはじめて身につけた装飾品である。
それだけに思い入れも深かったが、片方を失くしたときはそれがこの玉珥の運命だったのだと諦めるしかなかった。
考えることや思うことが多くては不安になる。
不安になればいつでも自分の隣で抱きしめてくれたその人を思わずにはいられない。

「趙雲…。」

は顔を覆って泣いた。
あのとき伸ばした指先がどんどん趙雲から離れた。
冬の長江に飛び込むことはできなかった。
でも今思えば飛び込んでしまえばよかったと思う。
たとえ死んでしまっても趙雲の側にいられただろう。

「帰らなくては。」

は顔をあげた。
ふらふらと立ち上がって部屋の扉を開けるとそこには陸遜がいた。

「陸遜…。」

陸遜は戸惑った表情を見せた。

「申し訳ありません。」

陸遜はの阿片中毒の回復のためにしばら休んでいたため、山積した仕事を片付けるのに昼夜を問わず走り回っていたのだ。
そのために会うことがままならなかった。
配下からのの報告は聞いてはいたが、やはりちゃんとに会って今の状況を説明しなくてはならない。
そう思ってに与えた部屋の前まで来たとき、部屋の中から押し殺すような泣き声が聞こえてきて陸遜はそこで部屋に入るのをためらっていたのだ。
不意に扉が開いて陸遜は戸惑った。
も言いたいことがいっぱいあるはずなのに何も出てこない。
気まずい沈黙が二人の間に流れた。

「…身体はもう大丈夫ですか?」

気まずい沈黙が流れる中、陸遜が一番気になっていたことはの体調だった。
医師からは阿片中毒が抜けたことは聞かされていたが、の身体はひどく衰弱していた。
実際今目の前のを見ても儚げである。
陸遜の言葉には俯いた。

「…帰して。」

戻るつもりなんてなかった。
呉はもうの故郷ではない。

「できません。」

陸遜は即答した。
その言葉には顔をあげる。

「なんでこんなことをしたのっ?!孫尚香様が目的なら私は関係ないわっ!」

本当は違う。
きっとはあの軍船から放り出されても孫尚香を追いかけただろう。
劉備と仲違いをしたままでは孫尚香があまりにも哀れだったから。

「孫尚香様を連れ戻す目的ではありましたが、私は貴女をどうしてここに連れてこなければならなかったのです。」

陸遜はの目をまっすぐに見据えて言った。

「なぜ?!」

が手を伸ばそうとした陸遜の手を払った。
陸遜はしばらくその手の遣りどころがなく、困ったようにを見つめた。

「私が…貴女を必要としたからです…。」

は陸遜を睨みつけた。

「孫権様に目通りをお願いします。帰らせていただくわ。」

はそのまま陸遜の横を通り過ぎようとした。
しかし強引な力で振り向かされた。

「駄目です!それだけはいけないっ!」

陸遜の強い語調にが怯んだ。

「な、何なの?」

陸遜はを壁に押し付けた。

「貴女はわかっていない。今孫権様に会えば、あなたは一生あの城から出られない。」

陸遜の言葉には驚く。
陸遜が何を危惧しているのかまったくわからないからだ。

「何を言ってるのかさっぱりわからないわ。孫尚香様にもお会いしなければいけないし…そうね、あなたのこの行いを奏上するのもひとつの手だわね。呉の立派な軍師様が私情にかられて非道な行いをしました、とでも言えば孫権様は呉の面子にかけても帰してくださるわね。」

はそれだけ言うと陸遜の腕の中から逃れようとした。
しかしそれはできなかった。
陸遜が苦しそうな表情をしていたからだ。

「…私のことは何をおっしゃっても、どんな風に思ってくださってもかまいません。…けれど呉候にだけは会ってはなりません…。あの方は…、あの方は…殿の思うようなお方ではない…。」

「何を…」

陸遜の様子には戸惑った。
自分が仕える人物を尊敬したり、たてたりすることは当然のこと。
も劉備をずっと尊敬している。
だから敬愛すべき劉備と孫尚香の溝に心を痛めていた。
陸遜が仕えるのは呉候孫権。
その孫権に対し、その言い方はないであろう。

「とにかくこの邸の周囲には細作も多い。あなたは自由の身ですが、この邸から出れば貴女の身の安全を保障できません。しばらくは…お願いですからしばらくは養生に努めてこの邸から出ないでください。」

陸遜はそういうと背を向けてどこかへと姿を消した。
は陸遜の言葉を頭の中でゆっくりと反芻する。
この邸を出れば自分の身の安全が図れない、ということは自分が狙われていることはわかる。
もちろん劉備の武将なのだから狙われて当然だろう。
自分の首を孫権に差し出して昇進を計ろうとするものもいないではないだろう。

はため息をついた。
わからないことが多すぎた。
今の自分の立場、陸遜の立場。
孫尚香や孫権にあっても本当はどうしたらいいかわからない。
それどころか孫尚香にはずっとここにいて欲しいと泣きつかれることも考えられる。

「わからなさすぎるわ。」

は部屋に戻って露台に出た。
露台は中庭に面して出ており、冬空はすでに夕闇を落としていた。

「何が起こっているの…?」








呂蒙は陸遜の邸の前でため息をついていた。
陸遜が抱いていたあの娘がここにいることを知っている。
会って呉候からの言葉を伝えねばならない。
陸遜を裏切るような行為かもしれなかったが、このまま呉候の怒りを放置しておくわけにも行かない。
呉候がを欲しいというのであれば、それでいいと思う。
欲しがるものを与えて、政務に差し障りがなくなればそれでいいと呂蒙は考えていた。
何も大々的にを妾にしなくてもよい。
それこそ呉候の庇護者として城に住まい、孫権を慰めてくれればそれでよいのではないかと思ったのである。
陸遜の言っていたことは一理あるが、孫権に徳人であることを求めるのは酷ではないかと思う。
人は誰しも弱く愚かである。
その弱さと愚かさで身を滅ぼすのはたしかであるが、先の世の皇帝らがすべて賢帝であったのではない。
それでも皇帝は連綿と王朝を繋いできた。
それはひとえに優秀な文官、武官がいたからである。
だから孫権が賢帝でなくてもこの呉が立つのに問題はない。
呉には優秀な文官、武官がいるからである。

「悪いな、陸遜。」

呂蒙はそういうと主の出かけている邸の中へと入っていった。