蝶戀歌14

甘い香りがの鼻腔をくすぐる。
それと同時に頭の中に白い靄がかかり、とろとろと覚醒をしては白い闇へと引きずり込まれて行く。
身体中が痛いような気がするのに、その痛みすらどこか遠く感じる。
ここはどこなのだろう?
は微かに重たい瞼を開いた。
でも見えるのは重い帳に薄暗い闇。
側に誰かいた。
優しく髪を梳くその手に安堵感を覚える。
そう、彼女は今ひどく不安だった。
なぜ不安なのかはわからなかった。
ただ、心が空虚で不安だった。
何かを失くしてしまったような、そんな不安。
はその手の温かさにほっとしてまた再び瞼を閉じた。





陸遜は呉候孫権に促されて建業の城へと登城した。
すでにそこには先日奪還した孫権の妹、孫尚香が軟禁状態で捕らわれている。
逃げ出す気力のない人間をさして捕らえている、という言葉の使い方は正しくはないが、孫権や他の文官武官の勧めもあって厳重な見張りが立てられて、彼女の行動の逐一が見張られているのである。
孫尚香の奪還をしたのは呂蒙と陸遜だった。
呉国太には不興を買ったが、これで心置きなく荊州奪還に向けて派兵できることで、呉候の気持ちはようやく落ち着いたといって善いだろう。
孫権は呂蒙、陸遜を呼んで大いにその功労をたたえた。
そんな表向き平和な建業でひとつの噂が上がっていた。


 
「時に陸遜、そなたのところに捕虜が一人いると聞いているが?」

孫権は鋭い眼光で陸遜を見た。
嘘は許さない、というその眼光に怯むような陸遜ではなかったが。

「孫尚香様の側近を連れてまいりました。荊州の様子で何か知っていることはないか尋問中ですが、か弱い女性の身とあっていまだに床に臥せっており、尋問もままならず私の屋敷にて介抱しております。そのことでしょうか。」

呂蒙は内心ヒヤリ、とした。
のことを知っているのはこの奪還劇に参戦したものだけで、陸遜は頑強なまでに口止めをさせているのだ。
もとより自分の不手際でを巻き添えにしてしまったことを悔いる孫尚香は、のことは口を噤んでいるから問題はない。
奪還劇に参戦した兵卒らは蓋を開けてみれば陸家の校刀手(シャオトーソー:私兵のこと)がほとんどであった。
逆に呂蒙のほうが居心地が悪く、船の操舵の指揮官を買って出てこの奪還劇に積極的に加わろうとしなかった。
当たり前のように陸遜が手にした女性に呂蒙のほうが空恐ろしくなったのである。
すべてを計算してここまで揃えたのか、と思うと智将ともてはやされてきたわが身があまりにもお粗末に見えた。
最初から陸遜はを手に入れるために動いていたのである。
俯いたままの呂蒙に涼やかな陸遜の声が恐ろしかった。
目的のためであればどれだけでも計算し、どれだけでも人を陥れるであろうこの未来の軍師に自分はいつまで同胞としていられるのだろうか、と考えるだけでも恐ろしい。

陸遜の流れるような言葉に孫権が眉を顰めた。

、だろう陸遜。」

孫権の言葉に陸遜は涼やかに微笑む。

「まだ名も聞いておりませぬゆえ私にはわかりかねます。孫尚香様もあのように口を閉ざしておりますし…ねえ、呂蒙殿。」

陸遜はを知っているはずである。
間違えることなどありはしない。
それを孫権が知ってのセリフである。
孫権はイライラした。

「何でもいい。とにかくその娘を城に、私の元に連れて来い、よいな。」

孫権はそういうとぷい、と席を立ってその場から去った。
その後ろに文官、武官がぞろぞろと付き従う。

すべてその場から去ると呂蒙は陸遜に詰め寄った。

「悪いことはいわん、陸遜。あの娘を孫権様に差し出せ。おまえの身が危険だぞ。」

呂蒙の言葉は真実である。
孫権が望んだのは孫尚香の奪還であった。
しかしあの娘――がいるのであれば、共に差し出さねばいつ孫権が呂蒙や陸遜を爪弾きにするか、それだけならまだしも罪を捏造してでも追い落としにかかってくるか目に見えていた。

「大丈夫ですよ、呂蒙殿。呉候は物のわかったお方です。私や呂蒙殿を手放すことなんてできはしませんよ。」

陸遜は不敵にも笑った。

「あなたの元に何か恩賞がとどいたのではありませんか?それも破格のね。」

陸遜の言葉に呂蒙は口を噤んだ。
そのとおりだったのである。
恩賞にしては度の過ぎた昇進と金子の数々。
戦に勝利をもたらし、将軍級の武将を討ったとしてもこれほどの恩賞は出ないだろう。

「私の元には亡き孫策様の姫君を正妻に、という話がきました。」

呂蒙は唖然とした。
陸遜はいまだに独り身で、正妻もいなければ妾すら側に置いていない。
陸遜ぐらいの年齢ともなれば、彼の将来性の高さから引く手数多であろうに、陸遜はすべての話を断っている。
孫家に連なる姫でも狙ってるのか、と冗談で聞いたときには不敵にも微笑んで見せたので、てっきりそうだと思って呂蒙は陸遜の背中を叩いた。

「やったじゃないか、陸遜。こんないい話はないぞ。すぐにあの娘を差し出すのだろう?」

呂蒙は目の前にいる清廉そうな若者を見てつくづく、策士とは彼のような者のことを言うのだと思った。
その呂蒙の言葉と態度に陸遜はすっと目を細めた。

「いりませんよ、そんな姫。いたところで身動きが出来なくなって返って邪魔です。よければあなたにお譲りしますよ。」

陸遜の言葉に今度こそ呂蒙は驚いた。

「どういうことだ、陸遜。あの娘をどうするつもりだ。」

呂蒙は陸遜の前に回りこんだ。

「どうにも。私の好きなようにさせていただきます。孫権様に差し出したらあの方がどうなるかぐらいあなただってわかっているでしょう?」

陸遜の言葉に呂蒙は言葉に詰まった。
そう、ここ最近建業の城内で孫権に関する芳しくない噂がたっている。
それは孫権の好色であった。
すでに孫権には正妻のほかに6人の妾がいた。
その分子どもたちも多く、子孫繁栄いえばと聞こえがいい。
しかしそれだけでは飽き足りないのか、城内の女官に伽をさせたとか、城下の下賤な遊び女を引き入れたりとか、果ては亡き周瑜の妻であった小喬にまで恋文を送りつけたりとか、女に対して節操のないことが取り沙汰されている。

「呉候はずいぶん前から殿に目をつけておられる。これ以上呉候の風聞を傷つけないようにしなくてはなりません。は孫策様が実の妹のように可愛がられていた孫家の姫とも言えるお方です。そして亡き周瑜様の正妻ともなるはずだった方。その方が孫権様の妾となれば文官、武官を問わず礼をもって呉に与する人々によく思われるはずがありません。」

陸遜の言葉に呂蒙が思わず頷いた。
そのとおりだった。
事実孫権の求心力が低下を始めていた。
それを支えているのが優秀な文官、勇猛な武官なのである。
彼らの支えがあればこそ呉が呉として成り立っているのは間違いない。

「しかしな、陸遜。孫権様は旧知の間柄で、孫家の総領として寄る辺無き身となった殿を経済的にも支えてさしあげるべき方ではないのか?お前が殿を側に置く必要などどこにもないのではないか?大喬様や小喬様のお世話をしているのは他ならぬ孫権様であるのだし…。」

呂蒙の言葉に陸遜は薄く笑った。
陸遜は何もないはずの胸のあたりで手を握った。

「あなたが思うほどに呉候は誠実なお方ではありませんよ。」

陸遜はそれだけを言うと身を翻すように外へと出て行ってしまった。
後に残された呂蒙には不安だけが残る。
凄烈なまでのその策を立てるその膂力。
そして君主と仰ぐ孫権を冷ややかな眼差しで見つめるその瞳。
自分はとんでもない武将と組んでいるのではないかという不安が呂蒙の中に過ぎる。
しかし陸遜のいうことはいちいち当たっていることで、事実を孫権に差し出せばは礼をもって孫権に迎え入れられることはないだろう。
もし子でもできればその子は非難の的になるほどに。
それはにとっても、孫権にとっても、東呉にとってもよい結果を生み出さない。
陸遜の考えるとおりだ。
呂蒙は立ち去る陸遜の後姿にぞっとするような寒気を覚えた。






屋敷に戻ると真っ先に向かうのはのいる部屋であった。
扉をあければ甘ったるい香の香りに陸遜自身、くらりとする。
軽く頭を振って陸遜は露台の扉を開け、新鮮な空気を入れた。
臥牀にはが眠っている。
陸遜はいつもそうするようにの髪を梳いた。
滑らかなその黒髪が指の間を滑るのはとても気持ちがよかった。
もうこのままにしておくには限界があろう。
陸遜はの耳元で名前を呼んだ。
がとろとろと目を開けた。

虚ろな瞳が陸遜を見上げる。
陸遜はいつもそうするようにの半身を起こして背あてにもたれさせた。

「もうそろそろ身体がきつくなってきてるでしょう。」

陸遜はそういって水差しの新鮮な水を杯に移すと、それを口に含んだ。
に口付けでその水を飲ませる。
細く白い喉がその水を嚥下する。
もともとほっそりとした体つきだったが、ここに来てからすでに3日。
の身体は明らかにわかるほどに痩せて細くなっていた。
あの船上での気を失わせたあと、彼女を一室に閉じ込めて阿片を炊いて白い闇に突き落とした。
それは孫尚香にのことを口止めさせるためと、彼女が武将であって油断できないからであった。
単に拘束しているだけでははその武勇で脱出することは可能であったろう。
孫尚香の武将としてのその力量を見れば、と組んで脱出劇を行うことも可能であったろう。
どちらかの力を削がねばならなかった。
孫尚香は呉国太と孫権のもとへ連れて行かなければならない。
だからの力を削ぐしかなかった。
陸遜は卑怯なやり方だとわかっていながら阿片を使った。
を心配する孫尚香は当然脱出などできず、阿片によって身動きの取れないは部屋の外にすらでることができなくなったのである。

不意にが震えた。

?寒いのですか?」

いくら荊州から比べて気候のいい建業とはいえ、冬は寒い。
陸遜は気遣わしげにを見た。
青白い顔がとろとろと陸遜を見る。
儚げなその風情に陸遜は思わずを抱きしめた。
突如が暴れだした。
彼女の武器はすべて奪ってあるからさして問題はないのであるが、その暴れ方はかなりひどかった。
陸遜も眉を顰めるほどにを抑えつけるが、は奇声をあげて暴れ続ける。
陸遜はの鳩尾に拳を入れた。
苦しげに呻いてはその身を陸遜に預けた。
ぐったりしたの、頬に張り付いた一筋の髪をはらうと

「すみません…。」

とだけ陸遜は呟いた。
そしての手足を臥牀の柱に縛り付けた。
そして再び露台に向かうと扉を閉めた。
これから彼女には地獄が待っている。
そう思うだけで陸遜は陰鬱な気持ちになった。
しかしそうさせたのは他ならぬ自分である。
阿片の禁断症状がどれぐらい続くのかは陸遜もわかっていない。
薬師に言われたのは長く使うとひどい禁断症状に悩み、廃人となってしまうことだけだった。
すでには禁断症状を出し始めている。
阿片を使うにはの身体がもう限界であろう。
禁断症状が進めばに待っているのは永遠の闇である。
これ以上は使えない。
まだすべては整っていなかったが、仕方がない。
陸遜は部屋から顔を出した。
扉の外で控えている男に声をかける。

「年相応の娘を一人、着飾って呉候のもとへお連れするように。そして女たちに命じて湯と水差しに新鮮な水、なるべく多くの清潔な布をこの部屋に運ぶように。そうだな、何か果物も用意してください。」

男は頷くとすぐにその場を離れた。
しばらくすると女たちが次々に陸遜の指示したものを部屋に運び入れる。
広かった部屋は陸遜の指示したもので半分を占めた。
陸遜は指示したものをすべて揃ったところで家人を部屋から出し、鍵をかけた。
臥牀から呻き声が聞こえる。
陸遜は臥牀に縛り付けられたを覗き込んだ。
哀れっぽく涙を流し、解いて、と訴えるに優しく首を振る。
は陸遜のことをわかっていなかった。
自分の今おかれている状況すらわかっていなかった。
彼女がわかっているのは彼女を苦しみに突き落とした阿片を求めていることだけだった。

「苦しませて本当に申し訳ありません…。」

涙で汚れた頬を布で拭き、陸遜は懺悔にもならない言葉を呟いた。
想像を絶する苦しみなのだとあの薬師は言った。
大の男でも耐えられない苦しみだと。
そんな苦しみを彼女に背負わせて、なおかつ彼女の身の危険を回避することもまだできていない。
徐々にが呻き声をあげはじめた。
陸遜は清潔な布を引き裂き、その布をねじっての口に噛ませて後頭部で結んだ。
激しく暴れたが手足を拘束しているおかげでなんとかできる。
こうしないと舌を噛んでしまう危険があるのだ。

「ずっと貴女の側にいます。それで許してください…。」

苦しそうに呻き、泣き、身体を跳ねさせるの髪を梳く。
そうして何度も、何度も暴れた後、長い長い時を苦しみ、はようやく気を失った。
だからといって禁断症状が消えたわけではない。
一時眠りについただけで、その夢の中でも彼女は禁断症状に苦しまなければならない。
今しばらくの落ち着きの間に陸遜はの拘束を一時解き、長椅子へ移した後、臥牀の布を換え、湯を使っての身体を拭いた。
そんなことは女の家人にでもやらせればよいことなのであるが、自分のしたことのせめてもの償いであった。

「戻ってきてください、。私は貴女を一生をかけてお守りいたします。」

陸遜は呟きながらを抱きしめた。
痩せて一層華奢になった身体が痛々しい。
抱き寄せて口に噛ませた布を取る。
水差しから水を杯に注ぐと、再び口移しで水を飲ませる。
陸遜はそのままを掻き抱いた。

「絶対に貴女を守ります…。」

陸遜は懐から小さな金色の玉珥を取り出した。
の耳には片方しかその玉珥はついていない。
なぜの元からこの玉珥が外れて周瑜のもとにあるのか陸遜は知らない。
しかし、孫尚香奪還の策を練るために柴桑にある周瑜の邸宅へと行った時にこの玉珥とであった。
周瑜の邸宅は周家のものから孫家のものとなっており、荊州奪還の足がかりとなるべく拠点のひとつとなっている。
そのもと周瑜の邸宅にこの金の玉珥があった。
周瑜の側近だった男が陸遜に託したものである。
その渡された玉珥には陸遜は見覚えがあった。
の玉珥であった。
その側近も最近この玉珥の存在を知ったということであった。
周瑜の部屋の厨子の奥に隠されるようにひっそりとあったものだという。
女物のその玉珥は片方しかなく、何か意味があるような気がしてこの側近は周瑜の遺族に渡せないまま持っていたという。
周瑜の遺族でなく、赤壁の戦いでは何度も陸遜の姿を見ていたその側近は陸遜の来訪を機に頼ったというわけである。
考えれば不思議な縁だと陸遜は思った。
まさかの忘れ形見がこんな形で自分のもとに来るとは思っていなかった。
そのときこの孫尚香奪還でもあわせて手に入れられるのではないか、と確信した。
の玉珥がを連れてくる。
そんな予感がした。

「貴女にお返ししましょう。」

陸遜は自分が手に入れたその女性の耳にもうひとつの玉珥をつけた。

「知っていますか、?分かれた玉珥は…半身を求めるのだそうですよ…。」

が知ってか知らずかわずかに身じろぎする。
陸遜は再びの手足を拘束し、口に布を噛ませた。

そして再び悪夢がはじまった――。