蝶戀歌13

「母上、政治と感情を一緒にしないでください!」
「いいえなりません!」
 
呉国太の鋭い声が孫権を一喝した。
孫尚香が劉備らとともに出奔してからこちら、呉候孫権と呉国太の間で何度も交わされた会話のひとつである。
広間の外にまで聞こえるほどに、二人は毎度のことながらやりあっていた。
正直なところ陸遜にはどうでもよかった。
孫尚香を取り戻してどうだというのか?
劉備にくれてやったものならそのまま捨て置けばよいだけの話。
劉備を呼び寄せて姫を与えたのなら、その姫をどうするかは劉備の自由である。
孫権が何をそんなに孫尚香を取り返したがっているかわからない。
まあ孫家は昔から家族の結びつきが強い一族ではあるが。
しかしそんなこと陸遜には関係ない。
今は呂蒙と一緒に荊州奪還に向けての作戦を練っているところである。
そんなときだった。
劉備が益州にむけて進軍したという知らせが入ったのは。
斥候に調べさせたところ、益州へ進軍したのは劉備とホウ統らとともに益州へと進軍を開始したという。
その軍には孫尚香を連れておらず、荊州には関羽、張飛、趙雲、諸葛亮が残った。
襄陽を関羽が守り、張飛は長江沿岸の警備、趙雲は、孫尚香らとともに江陵に駐屯している。
諸葛亮は関羽とともに襄陽にあり、荊州の統括責任を負うこととなった。
主だった武将が荊州にいるとはいえ、孫尚香を連れ戻す絶好の機会であった。
呂蒙が孫権にその旨を進言し、呉国太の制止も効かず呉の船団が長江を一路江陵へと走らせた。





作戦が遂行される少し前、甘寧の水軍の中から斥候を一人、孫尚香の元に差し向けられた。
呉国太が急な病のため臥せっている、孫尚香に見舞いを促す手紙であった。
孫尚香はそれを手にして自室で悩んでいた。
そこに扉を控えめに叩く音がした。
その叩き方ですぐに誰かを察知した孫尚香はすぐに扉を開けた。
そこにいたのはである。

「孫尚香様、いかがなされましたか?」

は赤い目の孫尚香の顔を覗き込んだ。
孫尚香はさっと頬を赤らめて目を擦った。

「ねえ、。」

孫尚香は臥牀に座って露台のほうを見遣った。
荊州の空は青く、澄み切っていた。

は袁術軍から離れたときどうして丹陽を目指したの?」

孫尚香の問いには首を傾げた。

「それは…やはり養父とはいえ、育ててくださった義父がいましたから…。もちろんその頃はもう義父がそこにいなかったことは知りませんでしたけど。」

は水差しから水を杯に入れると孫尚香に差し出した。
茉莉花がいれてあるのか、馨しい香りが孫尚香の鼻腔をくすぐる。
武将の身でありながら女性らしいこの心遣いのできるに、孫尚香は「適わない」と小さくつぶやいた。

「お母様がご病気で倒れたと知らせが届いたの。小さいけれど足の速い船を送ってくださるって。私、やっぱりお母様に会いに行ってこようと思うの。」

孫尚香の言葉には眉を顰めた。

「それが知らせでございましたか。それでしたらすぐに襄陽に早馬を出して諸葛亮様のご判断を仰ぎましょう。」

は安易に判断できない、としてすぐに部屋を出ようとした。
それを孫尚香がとめる。

「諸葛亮はだめよ。それにもう時間がないわ。待ってられないの。」

は振り返った。

「孫尚香様、それは…!」







何度か泣いている孫尚香から相談を受けたことがある。
益州出兵を考える劉備に孫尚香が何度も反対した。
理由は劉備の息子、阿斗である。
十を少し超えたところであるが、劉備のやさしい気質をそのままに受け継ぎ、平和をこよなく愛する少年だった。
阿斗の教育を任された孫尚香が、この少年の平和を望む姿に自ら矢を番えて戦う自分を恥じた。
馬にすら乗りこなすことも容易でなく、勉学に明け暮れ、農業を営む農夫らとともに畑を耕す心優しい少年だった。
しかしその優しさを時代が許さない。
張飛はたびたび阿斗を連れ出して狩に出かけたり、操錬に連れ出したりしてはいるものの、生来の気の弱さからぼろぼろになって戻ってくるばかりである。
それを孫尚香が庇ううちに、孫尚香の中で戦いに意味が見出せなくなっていた。
ゆえに劉備が阿斗をつれての進軍を計画していることを知り、孫尚香が猛反対したのである。
関羽の養子の関平や、張飛の娘たちはすでに武器を手にし戦うことを覚え、戦地に赴く覚悟すらできているのに、劉備の子の阿斗は武器ひとつ満足にもてず、戦うことに怯えていた。
そんな阿斗には乗馬を根気よく教え、趙雲は兵法を教えているという事態になっている。
阿斗の教育方法の違いにより、劉備と孫尚香の間には見えない溝が生まれ、その溝が埋まらないうちに劉備は益州へと進軍を開始した。
劉備の家庭内のことだから、と諸葛亮は二人の反目に耳を貸さず、結局阿斗を置いていくことになっても諸葛亮は特に反対もしなかった。
そして微妙な緊張感が江陵の城に漂う中での出来事だった。





「わかりました、孫尚香様。それではせめて江陵の城を預かる我が夫には相談をさせてください。」

の言葉に孫尚香は俯いた。
趙雲は情に篤い武人ではあるが、所詮は劉備の配下武将であり、諸葛亮の信頼を受ける将軍である。
孫尚香に対し篤く尊んではくれるが、孫尚香が信頼できるだけの人間ではなかった。
もちろん信頼するの夫であるから悪いようにはしないであろう。
けれども迎えの船はすでにこちらに向かっており、あとわずかで到着するのだ。
趙雲の返答など決まりきっているし、それを待つほどの余裕も孫尚香にはなかった。

「もうすぐ船が到着するの。先に行ってるからもあとから来て。」

孫尚香はに涙目で訴えた。
親を愛する心はの心を訴える。
義父から拒絶されるようにもう会うことはないと言われ、事実服毒自殺を図った父の死に目にはあえなかった。
それはあまりにも悲しく、辛い出来事であった。
呉でのの養父としての自分の存在がの今後妨げになることを自ら察知しての呉mの選択であったことには泣いた。
すべては自分が選んだ結果だった。
自分のせいで義父は死なねばならなかった。
は自分の身に起こったことを思い出して涙が滲んだ。

「汝、後悔すること勿れ…」

それを選んだには紛れもないなのだ。
だから後悔してはならない。
だからかもしれなかった。
孫尚香に後悔してほしくないのだ。
は孫尚香の部屋を後にすると、急いで自らの側に仕える配下の者に趙雲への言伝を頼んだ。

様、恐れながらこれは呉候が孫尚香様を連れ戻される策ではござりませぬか?」

は悩んだ。
確かにそうかもしれない。
だったらそれこそ孫尚香を呉への船に乗せてはいけない。
劉備との溝の埋まらないうちに呉へ返すわけには行かない。
しかし呉国太の病状が本当であれば、は孫尚香を引き止めることが出来ない。

「わかったわ。趙雲が来るまで出発は引き伸ばします。おまえはその間に趙雲を急ぎ呼んできてちょうだい。」

配下の女性は頷くとすぐに諸葛亮と張飛に鷹を飛ばした。
そして城の外で兵の訓練にあたっている趙雲のもとへと急いだ。




は江陵の船着場に急いだ。
そこには大きな船が泊まっていた。
はぎょっとした。
小さな船で迎えに来る、という話ではなかったか。
そこに停泊していたのは明らかに軍船である。
はその船に乗り込もうとする孫尚香を見てさらに驚いた。
阿斗を連れていたのである。

「孫尚香様!」

の声も虚しく二人は船へと乗り込んでしまった。
放っておくこともできず、は二人の後を追って船へと乗る。
船の中はがらんとしていて、あまり人の気配がない。
もちろんそれは罠であることはわかっているので、朱夏は慎重に足を運んだ。

「孫尚香様!阿斗様!」

は船室へと急いだ。
大きく取られた船室には絹の帳に羽毛が詰まっていると思われる柔らかな背当て。
軍船とはいいながら、貴人のために設えられたその部屋には飛び込んだ。

!」

阿斗と孫尚香が飛び込んできたを認めると、声を上げた。
無邪気な阿斗がの姿に喜んで抱きつく。

も来たんだね。お義母様のふるさとへ行くんだよ。も一緒だね。」

阿斗の言葉には震えた。

「孫尚香様、いくら姫様でもこのなさりようはあんまりでございます!阿斗様は我が君の第一子。我が君の跡を継がれる方でいらっしゃいます!孫尚香様が呉へ連れ出される所以はありませぬ!」

は阿斗を抱きしめると船室を出た。

「待って!阿斗様をこれ以上ここに置いていたら、阿斗様の望む平和は得られない!殿と一緒であれば戦乱に巻き込まれてしまうわ!」

は孫尚香の言葉も聞かず船を下りようとしてはっとした。
動き出しているのだ。
は急いで甲板に出た。
外に出れば思った以上に岸から船が離れている。
真冬の長江は寒く、薄く氷さえ張っている。
こんなところで飛び込めば死が待っているに違いなかった。

「無理ですね。」

背後でおもしろそうに涼やかな声が聞こえた。
その声に聞き覚えがあっては振り向いた。

「…陸遜…。」

「とんだ儲けものですよ。劉備の第一子に貴女まで来てくださるとは。」

は阿斗を抱きしめた。
はっと見れば陸遜の後ろに女官らに拘束されながらも、悔しそうに陸遜を睨んでいる孫尚香の姿が見えた。
罠であることがわかっていたはずなのに。
軍船に乗り込んだ孫尚香と阿斗に慌てたせいで我を失っていた。
朱夏がきりっと唇を噛んだ。
そして孫尚香と目が合う。
孫尚香の行為は軽々しく、恨まずにはいられない。
なんとしてでも阿斗を連れ戻さねばならない。
阿斗は朱夏の夫、趙雲は襄陽の戦いの最中に命をあけて救い出した主の第一子。
孫尚香の唇が動く。

――阿 斗 様 だ け で も 逃 が し て

悲痛な孫尚香の叫びが聞こえた気がした。
孫尚香もまた自分の愚かな行為に震えていた。
孫尚香だけならまだしも、阿斗が孫権の前に引き出されては阿斗自身の命にかかわる。
あれほど平和を望んでいる阿斗を、平和な呉国太のもとへ連れて行こうとしたことがそもそもの失敗だったということにようやく孫尚香は気がついたのである。
は阿斗を抱きしめたままじりじりと下がった。
陸遜を睨みつけながら背後を見る。
きらり、と何かが光った。
その光はぐんぐんと大きくなる。
船の舳先にはが待ち焦がれた人が立っていた。

「もうすでに追っ手が来ましたか。」

陸遜が嫌そうに目を細めた。
ぱちり、と指を鳴らすと陸遜の配下らしき人物が陸遜の側に膝をついた。

「船の速度を上げるように。荊州水軍の軍船に追いつけぬように。」

配下の男が小さく頷くと船の操舵を監督する男の下へと走っていった。
その間にも趙雲を乗せた荊州水軍の軍船が近づく。
そのときだった。

ー!」

はっとして下を見下ろすと漁師の小船に乗った張飛が船の真下にいた。
は考える余裕がなかった。

「阿斗様、目を瞑ってください!」

そういうとは阿斗を船から突き飛ばした。

「何を!」

陸遜が驚いてに駆け寄り、その手をねじり上げた。
そして河面を見てその瞳に剣呑な光を宿らせる。
漁師の小船には張飛が乗っており、が突き落とした阿斗を受けとめていたのである。

「貴女まで行けるとは思っていないですね?」

気がつけば荊州水軍の軍船が目の前に迫っていた。
趙雲はいつもの槍を手にしているのではなく、弓矢を番えてまっすぐに陸遜を狙っていた。

!」

ひゅん!という音ともに陸遜向けて矢が放たれた。
陸遜はを咄嗟に抱きしめて転がった。

「さすがですね。貴女の夫君は。」

陸遜は苦笑してすらり、と剣を抜いた。
背後からを抱きしめたまま、その剣の刃をの喉に当てた。

「ここで引くわけにはいかないのですよ。」

そのときどこから出てきたのか、弓矢を番えた兵士たちが一斉に趙雲をめがけて矢を放った。

「やめて!!」

は叫んだ。
趙雲はさっと転がって槍を手にする。

だけは返してもらうぞ、陸遜!」

趙雲がこちらの船に飛び移るために間合いを計る。

「我が水軍を舐めてもらっては困りますね。」

陸遜がそう呟くと同時に船の速度があがった。

「駄目よ趙雲!」

は陸遜の腕から逃れようともがいた。
この男に自分が殺せないということを本能でわかっていたからであろうか。
無我夢中で陸遜の腕を振りほどこうとする。
首に当てられた切っ先の存在を忘れて。
朱夏の読みが当たっていたのか、陸遜は朱夏の首にあてた剣の切っ先を引かざるを得なかった。

矢が次々と放たれる。
それを趙雲が槍を大きく回転させて弾き飛ばす。
は陸遜の腕に噛み付き、ようやくのことで腕から離れると趙雲に向けて手を伸ばした。
あと少しで荊州水軍の船の舳先だった。

!」

手がもう少しで届くというところで。
さらに船の速度があがった。

「趙雲!」

悲痛なの声が上がる。
触れ合うこともなく、二人の間の距離が広がる。

!」

趙雲が今度は槍を伸ばした。
それを見計らったように陸遜がさらに矢を放つように指示をする。
頭上に飛び交う矢にが手を引いた。

「趙雲!」

は自分の胸に下げられていた玉を引きちぎった。
そして趙雲へと向かって投げる。
そして声をかぎりに叫ぼうとした。

――それは必ず帰るという約束

声を上げれなかったのは陸遜が後ろから手刀をいれて気を失わせたからだった。

っ!!」


朱夏の投げた玉を受け取り、趙雲が今度こそ船に乗り移ろうと身を乗り出した。
そのときいつの間に漁師の小船から軍船に移ったのか、張飛が羽交い絞めに趙雲を止めた。

「馬鹿趙雲!今飛んでも河に落ちるぞ!」

「張将軍しかしっ!」

みるみる離れていく呉の水軍の船影に張飛が追うのを止めるように指示する。
気がつけばすでに楊州との境が目の前に迫っていた。
これ以上追えば呉と一戦交える状況になるのは目に見えていた。
趙雲は張飛の言葉に槍を落とした。
今、呉の水軍と戦うことはできない。
荊州の統括責任者である諸葛亮の許しすら受けていないのである。
主のいない荊州でいらぬ戦をするわけにはいかないことを、趙雲は気がついた。
気がついたのではあるが。
朱夏を連れて行かれたその悔しさはそんなに簡単に割り切れるものではない。
しかしここで無駄に兵力を使うわけには将軍としての立場の趙雲にはできなかった。
ゆえに力を抜いた。
張飛の促すまま、船室へと向かう。
怒りと悔しさで震える身体が止まらなかった。
趙雲は何も言えなかった。
その様子は張飛がはじめて見る趙雲の怒りであった。
張飛は不意に趙雲を抱きしめた。
そんなことで大切な弟でもある趙雲の怒りと苦しみを和らげることなどできはしないとわかっていても。
張飛は趙雲に代わって右往左往する兵士たちに声をかけた。


「この御礼はたんまりとしてやらなきゃな。おう、みんな戻るぞ。」


張飛の号令で荊州水軍のこの軍船は江陵の城の駐屯地まで戻ることとなったのである。





その晩、趙雲は荒れていた。
目の前で妻が攫われ、君主の妻まで連れ戻されてしまった。
君主の第一子、阿斗を奪還できたのはよかったが、失ったものは大きかった。
まして趙雲にとってその失ったものの大きさは計り知れない。
張飛が必ず取り返しに行こう、と諭しても荒れた趙雲の心を慰めることは終ぞなかった。
から投げられた義父の形見の薄桃色の玉が、まるでの形見のような気がして趙雲は自分を責めた。
助けられなかった自分の不甲斐なさと、呉の狡猾なやり口に。

その夜、浴びるように酒を煽っても、趙雲は酔うことなどできなかった。