蝶戀歌10 呉国太や喬国老に勧められるまま、劉備たち一行は建業に滞在していた。 何より、劉備が孫尚香のもとを離れがたいようであるし、孫尚香も同じようである。 孫策の喪が明けるのを待って、二人が結婚の儀を行うのがよいと呉国太も賛成している。 趙雲はその間荊州の諸葛亮と連絡を取り合って、劉備が孫尚香を娶る準備を着々とすすめていた。 は孫尚香と連れ立ち、武を競い合ったり、ときに城下へと出かけるようになっていった。 ある昼下がりのことである。 は化粧道具の紅が残り少ないことに気がついた。 城に出入りする商人を待ってもよかったが、明日は孫尚香と劉備の婚約披露を行うという。 となればわずかな紅では心もとない。 は供を連れて城下に出ようとしたが、主君の婚約の儀のために大した供もいないのでの供たちは結納の品々の準備に出払っていなかった。 城下へは何度もでたことがある。 さして問題も感じなかったので、短檄を腿にひそませて布を被って城下へとこっそりと出た。 勝手しったる、とはいえないまでも、紅を置いていそうな店にあたりをつけて、は城下町をそぞろ歩く。 あたりからは屋台からのいい香りがし、人々の喧騒もにぎやかである。 この角をまがれば小間物や衣、化粧道具などを取り扱っている軒が連なっている、まさにそのときだった。 不意に足元がつんのめり、それと同時に背中に衝撃が起こっては一瞬目を瞑った。 反射的に身体をひねり、くるりと一回転をするが、今度はさらに背中に強い衝撃を受けて目の前が真っ暗になる。 次に目を開くとは地面が目の前にあった。 どうやら誰かに押されたのか、倒れたようである。 いったいどんな風におされたのやら、は身体を起こそうとしたときだった。 がつんと肩に鋭い衝撃が走った。 「何をどこぞのお姫さんぶって歩いてんだよ!」 品のない甲高い声が頭上から響いてきた。 はちらり、と声のほうをみた。 姿を認めるよりも先にかなりきつい化粧ににおいに思わずが眉をひそめた。 「このあたりはね、私たちの縄張りさ。あんたのようなお高くとまったお姫さんは邸の出入りの者から買ったらいいじゃないか。てめぇみたいなのがいるとうざったいんだよ!」 女性だった。 薄物を何枚か重ねて、肌も露な衣装を見にまとい、ありったけの装身具を飾っているのか華美ではあるがどこか下品な装いである。 濃い化粧を施し、唇は目にも鮮やかなほどに赤い。 大きく開かれた唇からは聞くに堪えないような毒舌が飛び出してくる。 よく聞いていればそれは複数の女性たちで、自分がどうやらこの女たちの嬲り者にされていることにはようやく気がついた。 しまった、と思う間もなく、立ち上がることも許されないまま、女たちからの蹴りが飛んでくる。 いつも武将相手に戦っているではあるが、女たちのこのような陰湿なやり方ははじめてである。 それも殺すつもりはないようで、彼女たちの鬱憤を自分に向けられていると気がつくのにそんなに時間はかからなかった。 慣れない女たちからの攻撃であるせいか、いつもの武将相手に剣を振るうようにはいかない。 短檄を出すにはいささか女たちに殺気を感じられない。 勝手が違う相手ではも本気を出せない。 小突くような張り手や、馬鹿にしたような蹴り。 は手も足も出ないまま、女たちの好きなようにされてしまっていた。 「・・・やっ・・・!た、たすけて・・・っ・・・」 は髪をひっぱられ、衣を引きちぎられ助けを求めて手を伸ばしたそのときだった。 「何をしているのですか?!」 凛と響くその言葉に女たちが一斉にから手を引く。 馬の嘶きが聞こえて馬上から人が降りてくる気配がするのを遠のきそうになる意識の片隅で、は遠く感じていた。 そしてその人物は情けなく地面に倒れたを助けおこした。 「大丈夫ですか?!」 その声には聞き覚えがあった。 しかしはじめての出来事でいっぱいいっぱいだったのか、は自分を助けてくれた人の存在に安堵したのか、そのまま意識を手放した。 目が覚めるとそこは見覚えのない部屋だった。 顔や腕は手当てされている。 体中が痛んだ。 悲鳴をあげる体をおして、なんとか臥牀から起き上がると、は清潔な夜着を身につけていることに気がついた。 大きな窓が部屋にはあり、すでにあたりは暮れている。 召使らしき女性がこまごまと動き回っている。 「・・・あの・・・。」 が声をかけると女性は驚いたように臥牀に駆け寄った。 「起きてはなりません。ひどくはありませんがお怪我している箇所が多うございます。じっとなさっていてください。ただいま主を呼んでまいります。」 起き上がったをゆっくりと、けれども有無言わせず臥牀に再び横にさせる。 女性はすぐに部屋を出て行った。 「・・・情けない・・・。」 は呟いた。 いくら武将とはいえ、油断しすぎも甚だしかったようだ。 あまり女性らしい姿であまり出歩いたことがないというのもあるであろう。 は自分の迂闊さに溜息をついた。 しかし主とは・・・? 誰かに助けられたのは覚えている。 でも誰だろう? 主ということは孫家の人間ではない。 呉に孫家以外で知っているといえば周瑜ぐらいである。 けれど周瑜は今は柴桑にいるはずで、建業にはいない。 「失礼します。」 涼やかな声が響いては一気に血の気がひいた。 この声は。 ここは。 扉が開いてそこにいたのは赤い衣も目に鮮やかな、陸伯言そのひとであった。 の驚きなどものともせず、陸遜はの横になる臥牀へとゆっくりと近づいてきた。 手には水差しと杯の載った盆を持って。 「驚きましたよ、城下の警護中にあなたがあのような目にあっているのに出くわすとは。一体何故ひとりで城下を出歩いたのですか?供はどうしたのです?」 陸遜は盆を卓に置くと水差しから杯に優雅に水を注いだ。 そしてを助けおこす。 「劉備殿と孫権殿には使いをだしております。さすがにそのような状態では明日の婚約の儀に出席は無理でしょう。今日はとりあえず私の邸に泊まっていただいて、明日迎えに来ていただけるようにお願いをしておきました。あなたもとんだ無茶をする・・・。」 陸遜の言葉にはさっと顔を赤らめた。 人々の多い喧騒の中を歩いたことがなかったことをは恥じ入った。 幼い頃は姫として大切に扱われ、武将として袁術のもとに下ってからは血と泥のにおいのまざった血なまぐさい戦場しか駆け回ったことはない。 自分がいかに世間知らずであるか改めて恥じ入った。 「怪我は骨折もしておりませんし、ただの打ち身とかすり傷程度だということです。所詮遊び女たちのすることですからね、大したことなどできないでしょう。あなたの美しい顔は幸いにも傷つけられておりませんしね。」 陸遜はに杯を手渡した。 実際に身体中が痛みはするが、折れている様子もないし、ひどい怪我をしている箇所もないようである。 「助けてくださってありがとうございます・・・。」 消え入るようなの言葉に陸遜は苦笑した。 「あなたが建業に来ていると聞いて、すぐにでもご挨拶を、と思ったのですが私にもお役目というのがありましてなかなか孫権殿にお目どおりが叶いません。だからあなたへのご挨拶もできないままで申し訳ありませんでした。」 礼儀正しい陸遜の言葉には訝しげに陸遜を見る。 そのの様子に陸遜は苦笑をもらした。 「あなたにあんなことをして、あなたが私を信用してくださるなどと思っていません。けれども今のあなたは呉国太の大切な客人です。礼儀正しくあなたに接するつもりですから楽にしてください。このままあなたを攫ったりするくらいなら最初から城へ連絡など入れませんよ・・・。」 陸遜の言葉にはまだ信用できない。 そのとき、の供のひとりが劉備からの使いで来た。 部屋に通されたの供はそのままの供をするようにと劉備から命令されたらしく、は忙しい今の状況でありながら、供をひとり返してくれた劉備に対して申し訳なく思った。 「様、おひとりで城下へ参られるなどなんと無茶なことをされたのですか。このようにお怪我までされて・・・。陸遜殿がお出でにならなければどのようなひどい目にあわされていたことか・・・。陸遜どののお言葉に甘えて、とりあえずはこちらでご養生されてください。」 供の言葉には俯いた。 どうやら自分のした行動はかなり周囲に迷惑をかけたものであることを後悔するばかりである。 「あなたは殿に付き添ってください。明日は姫の婚約の儀で忙しく、夕刻にならなければ迎えの輿を用意していただけないとのことですから。」 陸遜はそういうと部屋を出て行った。 不意には身体中の力が抜けるのを感じた。 やはりにとって陸遜は気が抜けない相手である。 途端全身が痛み出す。 「様、今はゆっくりお休みくださいませ。」 供の言葉に促されては臥牀に横になった。 全身の痛みに体中が疼く。 寝返りをしたくともままならない。 夜も更けているというのにいっこうに眠ることが出来ない。 何時間たっただろうか? 夜もかなり遅く、うとうとと眠っては痛みで目が覚める、というのを繰り返して。 気がつくと臥牀の端に腰掛け、自分を見ている存在に気がついた。 夜の闇のなか、月明かりに照らされているのは陸遜であった。 いつの間に? 供のものはどうしたのか? 聞きたいことは山ほどあったけれど言葉にならない。 患部が痛み、熱を持っているかのようである。 「しゃべらないで・・・。」 水で絞った布で痛みで浮かんだ額の脂汗をぬぐう。 その冷たさが心地よくてはほっとしたように小さく息を吐いた。 「痛みますか・・・?」 心配そうにを見る陸遜の表情はひどく辛そうである。 の額に、頬にはりついた髪をそっと梳く。 は眠れない辛さと全身の痛みに陸遜の言葉に答える気力もない。 しばらく陸遜は悩んでいたようであったが、卓の上にある小さな紙包みを手を伸ばした。 そしてそれをしばらく手の中で弄ぶ。 「このままではちょっと辛いですよね・・・。」 陸遜は立ち上がると卓に載っている水差しから杯に水を注いだ。 杯を持って再び臥牀の横に膝をつく。 「医師から熱を伴って痛むようなら、と処方された薬です。痛み止めですね・・・。」 そういってさらさらと薬を口に入れ、杯の水をさらに口に含む。 そしての唇に自らのそれを重ねた。 わずかにあいた唇から冷たい水が流れ込んでくる。 少しずつ、少しずつ。 重ねられた唇にわずかに抵抗しただけなのは、全身の痛みゆえか。 やがて陸遜の唇がの唇から離れた。 そしての手をそっと握る。 「供のものは疲れているせいか休んでおります。私がしばらくこうしております。今はゆっくり休んでください・・・。」 陸遜の言葉が近くに遠くに感じ、額にのせられた布の心地よさには目を閉じた。 そしてようやくに眠りが訪れたのである。 孫権から輿の準備が陸遜の邸に訪れ、が建業の城へ戻ったのは次の日の夕刻であった。 輿を準備してやってきたのは趙雲であった。 「我らが同胞の介抱、まことに痛み入ります。」 趙雲は陸遜に頭を下げた。 「たまたま私が警備で通りかかったのを助けただけのことです。礼には及びません。殿はあなたや劉備殿同様、呉国太様の大切なお客人ですから。」 陸遜も目の前の趙雲を特になんという素振りもないまま、の部屋へと案内する。 「昨夜から発熱もしましてね、医者から薬を処方されて今日は一日このように眠っております。」 人の気配にはゆるゆると瞼を開けた。 瞼を開けると心配そうに見下ろす趙雲の姿が飛び込んでくる。 は胸がいっぱいになって思わず手を伸ばした。 趙雲はそのままを抱き上げる。 「心細かったですね・・・、私や劉備殿が忙しくしていてお迎えが遅れてしまって・・・本当に申し訳ない・・・。」 趙雲の首に手をまわし、は小さく頭を振った。 「ごめんなさい、こんなときに心配をかけてしまって・・・ごめんなさい・・・。」 は声を震わせて趙雲に縋って泣いた。 趙雲がを抱く手に力を込める。 「もう大丈夫です。」 二人の様子を部屋の端で陸遜が見ていた。 何の表情も見せず、能面のように感情の窺い知れない表情で。 「陸遜殿、此度は本当にありがとうございました。」 趙雲が恭しく陸遜に礼を述べる。 陸遜は小さく溜息をついた。 「これくらいどうということではないですよ。あなた方は呉の大切な客人です。それだけですよ。」 陸遜はそういうと早く帰れと言わんばかりに部屋を出て行った。 その様子に趙雲が眉を顰める。 陸遜のあの様子はへの思いの反動なのか、そんな気がしたのである。 しばし思いをめぐらすが何も確かなものはない。 顔を埋め、声を殺して泣くに何も聞くことも出来ず、趙雲は仕方なく待たせている輿へとを連れて行った。 城について痛みも徐々によくなっていって。 はあの夜のことが夢のようで忘れられない。 月明かりに照らされた自分を見下ろすせつない瞳。 重ねられた唇。 はそっと唇に指を這わせた。 わからなかった。 自分を怯えさせたかと思えば、あんなにも優しい陸遜をは知らない。 心は波立ち、ゆるやかなざわめきはおさまることを知らない。 「、大丈夫?」 不意に扉が開いて孫尚香がの部屋に入ってきた。 「怪我をしたって陸遜から聞いたわ。大丈夫?ごめんね、供がいるなら言ってくれたらよかったのに。私の供をいくらでも随行させたのに・・・。」 孫尚香の泣きそうな顔にが微笑んだ。 「孫尚香様にご心配をおかけして申し訳ありません。すべては私のいたらなさから起こったことです。孫尚香様がお気に病むことはありませんわ。幸いひどい怪我もありませんし。」 はそういって微笑んだ。 「陸遜、とても心配していたわ。あなたが城に戻ってからもあなたの様子を人づてに聞いたりして。ふふ、だったら見舞いにこればいいのにね。」 孫尚香の言葉には目を見開いた。 陸遜が心配している? あれから一度も陸遜に会っていない。 それが何を意味しているのかにはわからなくて。 このまま自分を呆れてくれたらどんなにいいかと思う半面、寂しくも感じて。 あの月夜の晩のことが忘れられない。 あのせつない瞳がにはどうしても忘れられない。 の心がふたたびざわめく。 何故ざわめくのかにはわからない。 わからないが、の中で陸遜は気になる存在となる。 恐ろしいと思う半面、優しくもあり、慕わしくもあり、二度と会いたくないと思いつつももう一度会いたいとも思う。 は頭を降った。 「孫尚香様、殿にも申し上げていないことがあります――。」 自分の中でけじめをつけるかのように。 は真っ直ぐに孫尚香を見た。 「何?どうしたの?」 孫尚香は無邪気にの視線を受け止める。 「私にはすでに背の君がいます。」 は趙雲の腕の力強さを思い浮かべる。 ただひとりと決めた人。 「まだ殿にもお許しをいただいてはいないのですが・・・。」 同じ頃、主君劉備の元に趙雲は改めて訪れた。 「一体どうしたというのだ?」 趙雲は肩膝をつき、頭を垂れている。 「お許しをいただきたく――。」 趙雲は顔をあげた。 趙雲の表情は真摯な眼差しに込められた決意が漲っている。 「いったい何を許せというのだ?」 劉備が穏やかな微笑みを崩さずに聞いた。 いつにない趙雲の表情に、劉備も驚いているであろうに。 「私が妻を持つことをお許しください。」 趙雲の言葉に劉備が頷いた。 「、か。」 ずっと、ずっと、と趙雲が武将として志願してきたときから感じてきた二人の様子。 ともに戦いの中に身を置き、お互いが信頼しあう傍から見ても眩しいほどの二人であった。 「殿のご婚儀の前にこのような申し出、勝手なこととは十分承知してはおりますが・・・。」 趙雲は陸遜の様子、の様子に不安を覚えていた。 何もない、怪我をしたは身動きすらとるのも大変だった。 だから何もないことはわかっている。 わかってはいたが、もっと強固な形でを自らに留めておきたかった。 愛するものを自らのものと周囲にも知らしめておきたいと思った。 それがどれほどの効果があるのかなど見当つかない。 いっそのことをこの手の中に、掌中の珠のように、誰の目にも触れず、誰の言葉も届かない場所へ閉じ込めてしまえたら、そればかりを思う。 しかしそのようなこと物理的にも叶うはずもない。 だから周囲に少しでも自分とがまこと夫婦であると認識させたかった。 それは自身にもわかってほしいことなのかもしれない。 「よい娘を選んだな、趙雲。ただしを狙うものは多いぞ。荊州でもを求める者の声をたくさん聞いたからな。そなたの妻だ。立派に守ってやってくれ。」 劉備の言葉に趙雲が呆気にとられたようにぽかん、と劉備を見た。 「知らなかったのか?はまことあの曹操にまでも耳に届いている美女として有名であるぞ?そなたの妻なのだろう?そなたが守らなくてどうする?」 劉備がからかうように趙雲に言う。 「あ・・・、ありがとうございます!」 趙雲ははじかれたように深く頭を垂れた。 その様子に劉備は苦笑した。 この真面目な青年を恋におとしたに感嘆を感じずにはいられない。 それだけという女性が素晴らしいということか。 斥候の情報によれば曹操がの噂を聞きつけているようだったし、この呉においてもを見る役人や武将たちの表情はだらしがないほど見蕩れている。 そのを妻にした趙雲はなんと幸せ者であって、同時にどれだけ苦労するかと思うといささかの苦笑は禁じえない。 ふと自分の恋を振り返る。 孫尚香の存在。 爽やかで明るい気質の彼女は妻を亡くした自分にどれだけの光を与えてくれたかと思う。 しかし、孫尚香との婚儀はいいが、孫尚香を連れて荊州に戻るのは至難であろうと考える。 趙雲と斥候にどのように今後動いたらよいか何度も打ち合わせをしている。 今は。 今は幸せを感じられるときであろう。 しかしこの幸せは長く続かない。 趙雲が下がった部屋でひとり、劉備は燭台の炎をじっと見つめていた。 |