蝶戀歌8 赤壁の戦いが終わった。 劉備たちは赤壁の戦いの混乱に乗じ、荊州乗っ取りを計画し、諸葛亮の指導のもと油江口に本拠地を移した。 それを知った周瑜が荊州の乗っ取りを劉備が企んでいることに察知し、論功行賞もそこそこに戦後処理を孫策と陸遜に任せて南郡奪取の計画を立てる。 そこへきた劉備の進軍の知らせである。 周瑜は眉を顰めた。 諸葛亮の計略であることには間違いない。 やはりあのとき諸葛亮を逃してしまったことが悔やまれる。 ふとの面影を思い出すが、もう今更である。 今はただ呉にこの身を捧げることだけが周瑜に残された道である。 「周瑜さま・・・?」 あどけない表情を曇らせて、周瑜の傍らには蝶のような軽やかな少女が寄り添っていた。 小喬である。 孫策の命で娶った妾ではあるが、姉大喬と並び賞されたその美しさは周瑜も認めるところである。 「赤壁の戦いが終わって建業へ帰ってくるかと思えば、まだこちらにいると聞いて来たものの、周瑜さまは私のことなど目にも入らないよう・・・。」 悲しげに俯く小喬に周瑜は苦笑を禁じずには覚えなかった。 愛している、とはかけらほども思えなかったけれど、こうして小さな恨み言を言えばそれなりに可愛いし、愛しいとも思える。 心の中で何度を思ってこの目の前の少女を抱いただろう? 彼女は知らない。 ただ周瑜に素直に従うお人形である。 後ろめたい罪悪感に捕らわれることもときどきある。 だから彼女から離れるように柴桑へ赴いた。 「小喬、建業へ帰りなさい。戦はまだ終わっていない。荊州の地を安寧にしたら私は建業に戻るつもりだ。戦を指揮する都督の身としてはそなたの身を守ることが許されない。」 今は過去の思い出より、目の前の慰めより、この身を呉に捧げることしか考えられない。 ましてに再会してからこっち、小喬を抱く気にもならない。 自分の身の最期が近いせいかもしれない。 不実なことをしているという自覚はある。 だからこそこれ以上小喬をしばるわけにはいかない。 「周瑜さま・・・。」 小喬がそっと周瑜に背後から抱きしめた。 「忘れないでくださいね。私は・・・、私はあなたを愛しています。たとえあなたが私を好きでなくても。」 華奢な身体が摺り寄せられる。 周瑜は溜息をついた。 戦場に生きる身としては女という存在はなんとやっかいなものであろう? 小喬の手から逃れるように周瑜は指揮を待つ兵団の中へと消えてしまった。 あとに残された小喬はただ周瑜の去ったほうをじっと見つめ、そのつぶらな瞳に光を灯す。 彼女の中で噂に聞いたという女性への憎しみが生まれる。 周瑜を虜にし、冷静沈着の彼のこころを乱した女性。 自分が周瑜と出会う前から彼の心を離さないその女性。 孫尚香が弓腰姫と仇名されると同様に、剣掌姫と仇名されたその女性。 かつて周瑜の婚約者であり、周瑜の心を掴んだまま行方知らずになり、今は劉備の武将となった女性。 小喬ははじめて戦いたいと思った。 小喬はくるりと背を向けた。 離れたところで控えていた侍女に声をかける。 「建業へ帰ります。」 ――きっと周瑜さまの心を掴んでみせる。 そう心に誓って。 本拠地を油江口に移してさして日は経っていない。 赤壁から逃げる曹操を関羽が追うものの、以前受けた恩からか結局彼は曹操を見逃した。 それを聞いた諸葛亮は小さく溜息をついた。 こうなるとわかってはいたことではあったが、やはり実際おこってみると逃がした魚の大きさに知らず溜息がもれるというもの。 しかし諸葛亮の予想の範囲であることには違いない。 天下三分の計をはじめるにあたり、劉備には土地が是が非でも必要であった。 ・・・やはり蜀の地を狙うことになりますね。そのためには荊州の地をなんとしても足がかりにしなければなりません・・・。 諸葛亮はふい、と窓の外を見遣った。 外にはが立って護衛兵たちの訓練にあたっていた。 の護衛兵は女性ばかりである。 を慕った侍女たちのなかから腕に覚えのあるものが護衛兵に志願したらしい。 真剣な眼差しのではあったが、どうにもその顔色は冴えなかった。 それもそうであろう。 故郷とも慕った呉と完全に決別したのだから。 心の中の故郷ならば美しいまま閉まっておけばいい。 けれど、実際に見て、どのようになっているかを体感して、の故郷は本当の意味でなくなってしまったのだ。 ちくり、と罪悪感が諸葛亮の胸を刺した。 そう、曹操討伐を関羽に言い渡したあのときのも同じである。 義兄弟の契りを結んだとはいえ、関羽も張飛も劉備の配下であることを周囲に認識させなければならない。 なぜなら劉備の築く王国に王は三人もいらないのだから。 布石をひくことこそ、この先必要であると信じて。 だからいくらでも自分は関羽と張飛から憎まれてもよかった。 劉備が王国を立国し、この大地に安寧せしめることができれば。 諸葛亮は軽く頭を振った。 決めているはずである。 この乱世に終息をつけると。 劉備を天子に据えると。 諸葛亮は立ち上がった。 時間はない。 いまなら赤壁の戦いの残党処理で呉はまだ混乱している。 今しかない。 ここで自分が迷ったり、悔やんだりしても仕方がないのである。 前に進むしか道は残っていない。 小春日和の柔らかな日差しが降り注ぐ窓辺をあとにして、諸葛亮は彼の君主、劉備の元へと部屋を出ていった。 諸葛亮が劉備のもとに訪れると劉備は顔をしかめている。 劉備の前には一人の伝令。 諸葛亮の登場に劉備はほっとしたように、その厳しい顔をわずかに緩ませた。 「おお、孔明。」 諸葛亮はすっと目を細めると伝令を見遣った。 「殿、どうかされましたか?」 うろたえている様子の劉備に諸葛亮が聞く。 劉備は肩をおとして俯いた。 「周瑜殿が来るそうだ。きっと我らの計画に気づいてこうして来たのに違いない。どうしたものか・・・。」 できたらこっそりと、呉と戦うことなく荊襄9郡の城地を手に入れたい。 呉と戦うことになるかもと思うだけで劉備は苦しい思いに捕らわれる。 今、呉と戦えるだけの力は劉備たちにはない。 それで劉備が苦悩しているのである。 そんな劉備の様子に諸葛亮がにやりと笑った。 結構なことである。 自郡を傷めず、荊襄9郡の城地を手に入れるチャンスがやってきたと諸葛亮はほくそえんだ。 「殿、憂いなさいますな。これを機に周瑜にわれらが荊襄9郡の城地を手に入れてもいいと約束させましょう。趙雲、いそぎ油江口に赴き周都督を出迎えてください。失礼のないように殿のもとに案内を頼みます。」 劉備の側で控えていた趙雲が顔をあげた。 周公瑾。 かつての婚約者だった呉、きっての切れ者。 赤壁の戦いでは陣頭指揮をとり、見事呉に勝利をもたらした。 確かに諸葛亮が東南の風を呼んだからといっても、これほどまでの勝利をおさめることはできなかっただろう。 今、呉を背負って立つ都督である。 その男が来る。 趙雲の心の中では周瑜に対してあまりいい感情をもてなかった。 だからといって、嫌な顔をしてまで劉備や諸葛亮に反発する気は趙雲にはない。 彼の中で劉備は崇拝すべき君主でああり、諸葛亮は劉備を補佐する尊敬すべき軍師なのであるから。 「わかりました。ではすぐに参ります。」 趙雲はそういって素早く劉備と諸葛亮の前を辞した。 外に出ればが護衛兵たちの訓練をしていた。 趙雲の姿をみつけてがこちらへ駆けてくる。 「趙雲、どこへ行くの?」 額に汗がうっすらと光っている。 趙雲は知らず、視線を逸らした。 「殿のご命令で油江口へ・・・。」 が小首を傾げて趙雲を見る。 「どなたかのお迎えなの?」 何も飾りらしい物はつけず、ただひとつに結わえた髪が肩で柔らかく揺れる。 飾り気のなさがかえっての本来の美しさをきわだたせている。 周瑜は知っているのだろうか。 こんなにも自分をひきつけてやまないの姿を。 ふ、と趙雲は眉をあげた。 名案が思いついたのである。 ただ名案なのかどうかは甚だ怪しいところではあるが。 「、そなたも来ないか?」 視線を逸らして迷っていたような視線が急に力を帯びて、はますます首を捻った。 「いけばわかる。」 趙雲はそういうとの二の腕を掴んだ。 「別にいいけど・・・どなたが来るの?」 趙雲はの問いに答えず、をひっぱるように厩へと行く。 劉備から譲り受けた的驢馬が鼻を鳴らして趙雲に擦り寄った。 馬丁に鞍をつけさせて、と相乗りする。 が何を聞こうと趙雲は何も答えず、ただ的驢馬を走らせた。 はひどく嫌な予感がした。 何も答えない趙雲。 その趙雲が迎えにいく人物。 呉の人間であることには間違いない。 ふとの中で陸遜との最後を思い出して、思わず頬を染めた。 『待っていてください。必ずあなたを攫いにゆきますから。』 頭のなかで自信満々の陸遜の声がこだまする。 あんなふうに人を怖いと思ったのは初めてだった。 なんだか陸遜の言葉が真実になるような気がして危うさを感じる。 は急に油江口へ行くのが怖くなった。 「ねえ、趙雲。教えて、一体どなたがここに来るの?魯粛殿?まさか孫策様?」 声にして聞きたかったのは彼らの名前ではない。 陸遜ではないか?という思い。 もし陸遜なら。 自信がない。 自分がずっと趙雲の側にいる、と言い切れる自信がない。 いつか陸遜の言葉の通りに、自分が陸遜に攫われてしまいそうで怖い。 は知らず、ぎゅっと趙雲の手を握り締めていた。 その手にの不安を趙雲は感じ取った。 「・・・?」 気がつけばすでに油江口にまで着ていた。 船着場まで行くとちょうど一艘の小舟がやってきたところである。 「、呉の都督殿の船だ。」 趙雲の言葉にの顔色が一瞬さっと青ざめる。 その様子に趙雲は一瞬ほっとしたような安堵を覚え、次にそっとを引き寄せた。 「何も心配しなくていいから。」 ささやくように、なだめるように言うとは小さく深呼吸を何度も繰り返した。 と周瑜との間に何があったのかは趙雲は知らない。 呉でのことをは一切話さなかった。 泣きながら自分の胸に飛び込んできた。 彼女の故郷はすでにないと諸葛亮が言っていたことをふと思い出す。 周瑜はの決別した故郷なのだろうか。 小舟がやがてとまり、中から魯粛と周瑜が現れた。 「魯粛殿と周都督殿ですね、私は趙子竜。我が殿、劉備様の命にてお迎えにあがりました。早速に我が殿のもとへご案内いたします。」 趙雲が周瑜と魯粛に挨拶をする。 その後方でも会釈をする。 「趙雲か、長坂での英雄とは君のことか。」 ちらり、と周瑜が趙雲を見る。 「滅相もございません、周都督の赤壁での素晴らしい戦の采配こそ英雄と呼ばれるに値すべきものです。」 趙雲が謙遜して頭を垂れる。 周瑜は趙雲の後ろに控えるには視線もくれなかった。 存在は認めていた。 甲冑に身を固め、飾り気のない姿ではあるがかえってその姿こその美しさを際立たせていることもわかっていた。 もう、を殺そうとも思わなかったし、まして手に入れることを望みもしない。 それだけ周瑜に残された時はわずかであった。 いまはただ、に自分の道を歩めばいいとだけ思っている。 「趙雲、劉備殿の下へ案内を頼む。」 油口江にて警備にあたっている兵士が二頭の馬を率いてきた。 周瑜と魯粛がそれぞれに跨る。 趙雲は来たときと同じようにと相乗りで的驢馬に跨った。 何も言わない周瑜と。 それを見て趙雲は内心苛立っていた。 柴桑で何が二人の間にあったのかはわからない、聞く由もない。 二人がかつて婚約していたとしても、今は違う。 は劉備のもとに仕えるひとりの武将である。 は劉備のもとに、趙雲のもとに帰ってきたのだから。 それでも互いに視線すらあわせず、まるでがそこにいないかのように振舞った周瑜に趙雲は苛立ちを覚える。 いっそのこと、恋情のかけらでも周瑜が見せれば、を抱きしめて口付けのひとつでも見せつけてやれたら、と思ったのに。 「趙雲。」 がそっと後ろを振り返って趙雲を見上げる。 「周瑜とは、何もないし、彼も私をなんとも思っていないわ。私は劉備様の一武将です。もと丹陽太守の養女で周瑜の婚約者でなくなったわ。」 七星壇での祈祷ののち、諸葛亮を亡きものにしようと命令を下した周瑜。 諸葛亮の護衛として来たをも殺しても構わないと考えていただろう。 道術を彼がいちばん信用していないのだから。 そのときはじめては周瑜の中で過去になったことに気がついた。 それは同時にほっとした瞬間でもあった。 だから趙雲の思うような自分と周瑜の仲はなく、二人の道は決定的に分かたれているのだと、今なら自信をもっていえる。 の言葉に趙雲は恥ずかしくなった。 自分は何のためにを連れて油口江に来たのだろう? 「すまない、・・・。私は・・・、私は嫉妬でどうかしていたのだ・・・。」 趙雲は自らを恥じた。 想像以上に嫉妬というものは信じられない行動を起こすものだと、趙雲は自嘲した。 「もう、二度とをはなさない。」 趙雲はそういうと手綱をひく手に力を込めた。 手綱さえ握っていなければ、を抱きしめていただろう。 その趙雲の思いを悟ったように、は趙雲に擦り寄った。 「南郡をとれ、と?」 趙雲は思わず聞き返した。 南郡を守るのは魏の智将、曹仁である。 周瑜は赤壁の戦いに勝利し、その勢いでもって荊州に残る魏の残党を片付け、荊州を再び呉の領土としようとしていた。 「荊州は殿・・・、劉備殿が立国する足がかりとなるにはよい土地です。周瑜には我らが先に奪取した場合は荊州の治を認めるとおっしゃいました。急ぎ南郡に出向き、南郡の城を占拠してください。」 どこをどのように話し合って、先に南郡、及び襄陽、荊州を先に奪取したものが治めるなどという約束になったのか、甚だ疑問ではあるが、そのように話がついているのであれば何が何でも先に奪取しなければならない。 「に策を授けてあります。なるべく我らの動きを悟られぬよう、ごく少人数で動いてください。荊州と襄陽は関羽殿と張飛殿におまかせしています。さあ、急いでください。」 諸葛亮に促されるように趙雲は急ぎごく僅かの手勢を用意させ、的驢馬に跨り城門を出ると、やはりごくわずかな手勢を連れたが待っていた。 「諸葛亮様は斥候を魏と呉に送っています。その情報をもとに動きましょう。」 南郡を見下ろす小高い山の中腹にある小さな山村でと趙雲は二つの勢力の動きを見ていた。 「周瑜が矢を受けた?」 が斥候の情報に眉を顰めた。 周瑜がまこと矢を受けたのであれば、例えそれが致命傷であれ、そうでなかったとしても、呉の士気は落ちるだろう。 曹仁は必ず進軍する。 「今だわ、趙雲。南郡を取りましょう!」 は趙雲に言うと、趙雲はこのときぞ、とばかりに力強く頷いた。 明け方、南郡の城を見ていると曹仁が手勢を連れて出陣していくのが見えた。 その数からいって、城に残っているのはわずかであることは間違いない。 と趙雲は曹仁の姿が見えなくなるのを確認して、一気に南郡の城を攻め落とした。 あっけないほどに簡単に陥落した。 すぐに趙雲とは本部隊に連絡をし、本部隊を南郡へと向かわせた。 しかし。 あとで理由を知ったが、周瑜の矢傷は大したものではなく、後退して曹仁をおびき寄せ、他の部隊に襲わせている城の救出へとわざと向かわせたらしい。 電光石火の速さでやってきて南郡に入城した本部隊と、と趙雲のもとに訪れたのは戻ってきた曹仁ではなく、周瑜であった。 「なんたることだ!」 周瑜は苦々しげに南郡の城にはためく旗号を睨みつけた。 そこには趙雲の旗号が掲げられ、この城が劉備の武将、趙雲によって落とされたことを知ったのだった。 「周瑜!今すぐ趙雲を討とうぜ!」 連れていた甘寧が怒りもあらわに周瑜に言い募る。 周瑜が半ば強引に約束させられた諸葛亮との約束を思い出した。 「いや・・・、今ここで彼らと戦うわけにはいかない。襄陽と荊州の奪取が先だ。」 城の露台に人影が見える。 趙雲とであろう。 周瑜は苦笑した。 諸葛亮の智謀智略は侮りがたい。 しかしその策を遂行できる武将はもっと侮りがたい。 はすでに劉備にとってなくてはならない武将のひとりなのだと改めて感じる。 周瑜の中で劉備に対する評価が変わる。 潰すよりは取り込んでしまえと。 「行くぞ、甘寧。」 周瑜は馬首を返した。 苛立たしげに甘寧がそれに続く。 その様子をと趙雲は城の露台から見ていた。 「襄陽も荊州もすでに関羽様と張飛様によって陥落している・・・。諸葛亮様、素晴らしい策です。」 趙雲はあらためて軍師諸葛亮に畏敬を抱いた。 そして傍らに寄り添うを見る。 も趙雲を見た。 二人くすりと笑った。 「私はここにいることを選びました。」 はそういって趙雲の胸の指先をそっと這わせる。 「天下を劉備様のものに。」 趙雲は何も言わず、ただそっとを抱き寄せた。 この乱世を終え、平和をこの大地に取り戻すために。 彼らが主として選んだ劉備が、天下をとるために二人は力を共にあわせて戦うことを心に誓った。 |