蝶戀歌7

劉備の言葉に趙雲は心が逸った。
と諸葛亮が柴桑へ行ってからどれだけ経つであろう?
あののち、関羽と劉備までもが柴桑へとでかけ、二人を連れ戻してくることが叶わなかった。
趙雲はただひたすらにの無事を祈っていた。
もともとは家族同様の東呉に行くのは問題ない。
ただ気になるのはが帰らなくなるのでは、という危惧だった。
故郷から遠く離れ、いままた流浪の民のように彷徨う日々。
女の身では辛いことも多いだろうと思う。
もうこれ以上に辛い思いをさせたくはなかった。
だからこそ、諸葛亮の提案する魏の討伐には賛成だったし、主君劉備が荊州の土地を手に入れるのを望んでいた。

甲子の日に長江河畔に諸葛亮とを迎えに行くように。

がこの手の中に戻ってくる。
そう考えるだけで心が弾んだ。
自分で思う以上にの存在が趙雲にとって大きなものであることを今更のように思い知った。
帰ってきたら。
帰ってきたらこの腕に抱きしめて、二度とどこへもゆかぬように閉じ込めて自分のものにしたいと思う。
趙雲は諸葛亮に感謝した。
を迎えにいける役目を自分に与えてくれたことに。
そのためにはいかに危険でも二人を守り通して劉備のもとへ帰ってみせる。
趙雲は心に誓った。





甲子の日


祭壇が用意され、は久しぶりに外へと出た。
祭壇には諸葛亮がすでにいた。
祭壇をおりた脇には護衛兵がずらりと並んでいる。

、あなたにやってもらわねばならないことがあります。」

諸葛亮はそういうと銀色に輝く水差しと杯の乗った銀盆をに指し示した。

「その水は聖水です。清らかな泉より汲みだし、呪いのかけてあるものです。」

はまじまじと水差しを見つめた。

「清らかな乙女が自らその杯に水を挿し、兵たちの口に含ませるのです。その水は絶対に飲み込んではならず、飲み込んだが最後、そのときは東南の風は止みます。それはすなわち東呉の負けを意味するもの・・・。兵は全部で30人。そのものたちによく言い含めてその聖なる水を杯に注いでやりなさい。」

は頷いて護衛兵ひとりひとりに聖なる水の説明をし、杯に聖水を注いでまわった。
護衛兵たちは口に含んだ水を吐き出さないように、飲み込んでしまわないように直立不動の立ち姿勢のまま何も言えなくなった。

すべての兵に水を注ぎ終わるとが祭壇にも戻ってきた。
時は夕刻、薄闇があたりを被い始めている。
は不安そうに空を見上げた。
東南の風が吹くとは思えなかったからだ。
ただ、ほんの時折、東南の風が吹くことはある。
しかしそれがいつ吹くのかは諸葛亮でさえ言い当てることは難しいであろう。
まして道術でもって風を自在に操るなんてことができるであろうか。

諸葛亮が祭壇のあちこちに設えられた香木に火を灯していく。
薄闇から夜闇へと移り変わるあたりに、香木に点けられた火は赤く燃え上がり、火の粉が赤い花びらを散らす様は美しく、妖しげであった。

そして護衛兵たちに向き直る。

「今から東南の風を呼ぶ。ここから動いたものは都督殿から与えられた権限によって断罪に処する。東南の風を吹くのを邪魔するものはなんびとたりとも許されるものではない。ひいては東呉の大敗を喫するものであるぞ。」

護衛兵たちが諸葛亮の言葉を聞いて震え上がった。
自分が動くことが東呉の敗戦をもたらし、断罪されるという恐怖。
兵たちは威儀を正したまま、その場に直立不動の形を取った。

やがて諸葛亮は祭壇の中心部に座し、威儀を整えて呪いを口の中で唱え始めた。

そのとき、風が止んだ。

は驚いてあたりを見回した。

そのとき、すでの長江河畔を小舟で漂っていた趙雲も驚いてあたりを見回していた。

周瑜は船上に出て周りを見渡していた。
兵たちも驚いて甲板に出てあたりを見回す。
敵も味方もなかった。
この異常な事態に人々は恐れ戦いていた。

そして。

ゆるやかな風が周瑜の髪をゆらした。
ささやかな、ゆるやかな、風である。
周瑜は目を瞠った。
それはまぎれもない東南の風である。
驚き、さざめく声があたりに広がる。
風は徐々に強くなり、早くなっている。

「・・・きたか・・・!」

周瑜は短く呟くと伝令を呼んだ。
すでに火薬をたくさん積んだ黄蓋の船がいつでも指示通りに動ける準備は整っている。
周瑜の伝令を聞きつけるや否や、黄蓋は猛スピードで魏軍の舟へと突っ込んでいった。

「やりましたな、都督殿!」

魯粛が嬉しそうに声を張り上げた。
しかし周瑜の横顔は冷たかった。
そして。

「陸遜、今すぐ七星壇へ向かい、諸葛亮を斬れ。これは命令だ。」

陸遜は突如命を受けてまじまじと周瑜を見た。
でもそれは陸遜にとっては予想範囲のことである。

――やはり。

このような妙な道術を使われて生かして帰すわけがないと陸遜思っていた。
たとえ自分がここにいなくても、孫策あたりから同じような命令がくだされるであろう。
陸遜は恭しく頭を下げた。
その命令に従うことを了解して。
魯粛は慌てふためいた。

「都督殿!いったいこれはどういうことなのです?!諸葛亮はまこと東南の風を吹かせたではないですか!」

諸葛亮を斬る、即ち諸葛亮を認めないという周瑜の意思を感じずにはいられず、魯粛は周瑜の服を掴んで言い募った。

「黙れ、魯粛!このような道術、自在に操るとはまこと奇怪にして野放しにしてはおけぬ。この呉が危険にさらされるのをみすみす捨てては置けぬ。」

周瑜は魯粛の掴む袖を振り払って陸遜に今すぐ出撃するように命じた。
陸遜は素早くその場を立ち去る。
ひとり魯粛はさめざめと泣いた。
周瑜の配下たちにひきずられるように船を下船させられ、営寨内の魯粛の天幕に閉じ込められることとなった。
陸遜は周瑜に使わされた配下を帰した。

「私と私の部下だけで十分です。諸葛亮の護衛につけた私たちの兵たちもおりますし、なるべく少数のほうが動きやすいですからね。残りは都督殿のもとに残り、都督殿をお守りしてください。」

陸遜の言葉に従った兵たちは大人しく従った。
残ったのは陸遜の配下の十数名。
陸遜は自分の部下のみを連れて急ぎ七星壇へと向かった。
松明がゆらゆらと揺れているのが遠目にもわかる。
そのときちらりと人影が走ったのを陸遜は見逃さなかった。
足の速い陸遜であれば十分に追える距離である。
しかし陸遜はあえて人影を追おうとしなかった。

「七星壇の護衛兵たちは何をしているのですか?正気を取り戻させなさい。七星壇には誰かいませんか?」

陸遜はわざと大仰に言って七星壇のほうへと向かった。
二列に整列している護衛兵たちは口がきけないかのように口をもぐもぐとさせている。
陸遜は苦笑した。
そして手近にいた護衛兵の一人に回し蹴りを与えた。
途端護衛兵の男は口の中から水を吐いた。

「水を含んでいたのですか。なるほど、そしてここから動いたら都督に断罪されるとでも吹き込まれたのですね。」

ところが水を吐き出したものたちはしびれたように皆動けなかった。

「薬かなにかを仕込みましたか。軟禁などでは甘かったようですね。」

陸遜は苦笑してさらりと前髪を払った。
そしておもむろに立ち上がると連れてきた配下のひとりに声をかけた。

「ここにいる護衛のものたちの介抱をできるもの呼んできてください。私は諸葛亮を追います。」

陸遜の配下は最初戸惑ったようだが、やがて頷くと呉の陣営のほうへと駆け出していった。
陸遜は他の配下のものにここにいる護衛兵たちの介抱を委ねると、長江に向かって走っていった。
ところどころ潅木が茂り、兵たちもうろうろしている。
ここを見つからないように行くためには潅木の茂みに隠れたりしながら行ったのであろう。
陸遜はあたりを見回しながら真っ直ぐに長江の河岸へと向かって行った。
険しい崖の続くこのあたりから舟に乗れる場所は限られている。
陸遜は注意深く小走りになる。
不意に陸遜の足が何かにあたった。
倒れた兵である。

「やはり、ですか。」

ざっと急な崖を駆け下りると、丁度諸葛亮とが舟に乗るところであった。
舟の舵を取っているのは――。

「趙雲殿、とお見受けいたします。」

陸遜は不敵な微笑でそう呼ばわると、身軽に崖から降りてきた。
は驚いて振り返った。
手にした閃飛燕が夜闇に閃く。

は手を握って舟に渡そうとしていた趙雲の手を振り払って、無我夢中で趙雲と諸葛亮の乗った舟を河岸から押しやった。
舟は河のスピードで流される。

っ?!」

驚いたのは趙雲と諸葛亮である。
二人は驚き、そしての名を呼ばわった。
は腿に忍ばせた短檄を素早く構えて陸遜へと突っ走っていった。

「ここは通しません!」

閃飛燕と短檄がぶつかる。

「諸葛亮先生を斬るように仰せつかっています。あなたを殺す気はありません!ここをどいてください!」

陸遜の言葉には叫ぶ。

「できません!私のお役目は諸葛亮様をお守りすること!」

キィンと双剣と短檄が弾く。
身軽な動作で陸遜が身を引いた。
も陸遜も体制を立て直す。

、私はあなたを傷つけるつもりは毛頭ありません。それに・・・いいのですか?劉備殿からのお迎えの舟は流されていきます。あなたは帰りたいのではなかったですか?」

にやり、と陸遜が笑った。
はさっと顔が青ざめるのがわかる。
けれども。

「諸葛亮様を無事に殿のもとへお送りするのが私の役目です。私のことなど二の次だわっ!」

の叫ぶ声が言い終わらないうちにしゅっ、との短檄を手にしている腕を双剣のひとつが掠めた。
は一瞬の痛みに思わず手にしていた短檄を取り落とす。

「あっ」

声を出したのであろうか。
陸遜が素早い身のこなしでの首元にもう一つの双剣の刃をあてた。

「ではあなたを攫ってしまいましょうか・・・?」

耳元で甘く切なく囁く言葉には驚いて陸遜を見た。
その表情は今まで見たことのないものであった。

「な、なにを・・・?」

は震え上がった。
そして陸遜の腕から逃れようとするが、切っ先が喉に当てられてて思うようにならない。
力づくではねのけることもできるのではあるが、ぞっとするような冷たい陸遜の声音に心が恐怖で満たされる。

信頼をしていた。

きっと劉備のもとへ帰してくれると。
でもそれは周瑜のもとへ、孫呉の勢力下にはわたさないという意味であったのなら。
は陸遜にはじめて怯えた。

不意に唇を軽く羽が触れるかのような感触が襲った。

「ここであなたを攫っても、私のような一武将ではあなたをお守り通すことができないですよね。わかっているんですよ。だからあなたを劉備殿のもとへお返しして、諸葛亮先生を討つことで名をあげようと思いましたが気が変わりました。」

陸遜はを抱き上げた。

「帰してさしあげますよ、。お望みどおりにね。でも覚えていてください。私は必ずあなたを攫いに行きます。あなた自身をね。国も何も関係ありません。あなただけをね。」

驚きで何を言われているのかわからず、の頭は恐慌状態に陥っていた。
陸遜に抱かれてやや高めの崖の下に小舟が見える。

小舟には趙雲と諸葛亮が立っている。
趙雲が弓を引き絞って陸遜を狙うものの、抱き上げているにまで矢が当たりそうでうまく的が絞れずにいる。

「待っていてください。必ずあなたを攫いにゆきますから。」

もう一度陸遜はの唇を奪った。
そしてをおもむろに下ろすとそのまま崖の向こうへと突き飛ばした。

「きゃあっ!!!」

叫び声は一瞬のもの。
陸遜は弓矢で狙われていることを十分に承知していたから転がるように崖から離れた。
水音はしなかった。
きっと迎えに来たあの男――、趙雲がを抱きとめたのは間違いない。
陸遜は草むらに転がりながら苦笑した。
苦笑して心に新たな誓いをたてた。
必ずこの呉を背負ってたつ軍師になると。
を誰にも干渉されず側に置くために。
きっとは自分を待たないであろう。
誰かのものになっていても、そんなことは陸遜には関係なかった。
もっと力をつけて。
もっと地位と名誉で己を飾って。
誰にも後ろ指をさされないほど強くなって。

――きっと私はあなたを手に入れる・・・。










小舟では泣いていた。
あんなにも切望した趙雲を見て。
きっと、どんなことがあっても趙雲は自分を抱きしめていてくれる。
趙雲はしばし河の流れにまかせて舵を諸葛亮にまかせ、泣き崩れるの背を撫ぜていた。
なにが起こったのかは諸葛亮にも趙雲にもわからない。
だから諸葛亮は何もいわず、ただ川面を眺めていたし、趙雲はの背を撫ぜ続けていた。
夜の闇にむせび泣くの声だけが響く。
遠くで赤い火柱が立つのもこの小舟には別世界の出来事のようで。
小舟は江夏を目指して滑るように進んでいく。
夜の闇に浮かぶ月だけが彼らの行く先を照らし出していた。