蝶戀歌5


周瑜はじりじりとした面持ちで書面を睨みつけていた。
策は万全である。
しかし曹魏の百万にも及ぶ軍勢を完全に打破できるのかといえば、それが断言できないでいた。
黄蓋に命じて偽装投降をして火計の策をとる準備はできている。
甘寧に命じて偽装投降してきた蔡氏兄弟には、黄蓋の偽装投降を信じさせるように情報を盗ませた。
しかし火計をおこしても曹魏の百万の軍勢を破るには完璧ではない。
何かもっと決定的に火計の効果をあげる方法が必要だった。

そんな周瑜に魯粛が見かねて声をかけた。

「周都督、心中お察しいたします。魏は百万にも及び、荊州の水軍を手に-赤壁に布陣して都督をお悩みさせているのですから。ここはひとつ諸葛亮に対処させてみたはどうでしょうか。諸葛亮がまことの軍師であれば、奇策をもって魏を打ち破る策を答えるでしょう。」

魯粛の言葉に周瑜は考え込む。

「そうだな…。それもよいかもしれぬ。諸葛亮がもし私以上に奇策を提示できねば斬る口実ともなるな。」

周瑜の言葉に魯粛は内心ひやりとする。
これはなんとしても諸葛亮に奇策を授けてもらうほかないと、魯粛は諸葛亮の軟禁されている館駅へと向かった。

「そろそろくるころだと思いましたよ、魯粛殿。」

軟禁状態の身でありながら、それをさして不服としている様子もなく、諸葛亮は魯粛を迎えた。

「なるほど、火計をですか。しかし普通に火計を起こしたのでは、今の季節の風向きでは魏軍を壊滅させるのは不可能というもの。周瑜殿はそれを憂えているというわけですね。」

諸葛亮は優雅に羽扇であおぐ。
魯粛は小さく溜息をついた。
今の季節の風向きはほぼ決まっており、魏軍を壊滅させるための東南の風は吹きはしない。
季節が今でなければ、と魯粛は歯噛みしたい気持ちであった。

「わかりました。では私が周都督に東南の風をお貸ししましょう。都督の好きなだけ、好きな時にお貸しします。」

諸葛亮の言葉に魯粛は思わず顔をあげた。
東南の風を貸すなどという突拍子もない言葉に驚いたのである。

「いや、諸葛亮殿、簡単に貸すと言われても・・・。」

魯粛はあたふたと諸葛亮に言い募ろうとするが、何をどういっていいのか言葉が見つからない。
そんな魯粛をみて諸葛亮はにっこりと笑った。

「そうですね、貸すと一口で申し上げましたが東南の風をお貸しするにはそれ相応の手順が必要です。まずはが必要です。祭壇も設けねばなりません。」

ここまでの諸葛亮の言葉に魯粛がようやく納得がいった。
つまり諸葛亮は道術でもって東南の風を起こすと言っているのだった。
古来から軍師というものは道術の心得のあるものは少なくない。
ただそれを実践するには荒唐無稽な道術が古書には登場する。
軍師が道術をよくするというのは信じられているようで、眉唾であるというのも否めないのである。
しかしこのときの魯粛は諸葛亮を信じていた。
諸葛亮の言葉は不思議な自信に満ち溢れている。
彼が東南の風を起こす、と言えば真実起こせると信じさせられるのである。

「わかりました。周瑜殿に必ずお伝えしましょう。」

魯粛は諸葛亮に深々と頭を下げると周瑜のもとへと飛んでいった。
しかし周瑜は再び怒りをあらわにする。
孫策もいい顔をしない。

「東南の風が吹かなかったらこの戦いは逆に不利となるぞ。道術などのような曖昧なものにすがるよりも確実な方法はないのか。」

周瑜は苛立たしげに魯粛をにらみつけた。

「俺は道術など信じてねぇからな。大体風を操るなんざ怪しすぎる。そんなの信用がおけるか。」

と魯粛は散々二人から反対を受けた。
その頃諸葛亮は館駅の見張りの目を欺いて、柴桑の本陣からやや離れた小さな村に訪れていた。
諸葛亮は一件の家の木戸を叩いた。
しばらくして出てきたのは布で鼻と口を覆い、目深に帽子を被った奇妙な男であった。

「これはこれは臥龍先生、ひさしゅうございますなあ。」

諸葛亮はにっこり笑って男の肩を軽く叩いた。

「鳳雛先生、お久しぶりです。今日は先生に折り入ってご相談があって参りました。」

諸葛亮の言葉に男は頷く。
諸葛亮が臥龍先生と称されるように、鳳雛先生と称されるこの男の名はホウ統。
諸葛亮が劉備の軍師となる以前からの付き合いのある男である。

「そろそろわしの出番かと待っておったぞ。さてわしは何をすればいい?」

ホウ統の言葉に諸葛亮が苦笑する。

「その前に先生、あなたはだれに仕えるつもりなのですか?お教えください。」

諸葛亮の質問に目深に被った帽子の奥で、鋭くホウ統の目が光る。

「魏、でないことだけは確かじゃな。乱世の奸雄などと曹操を称して言うておるが、よこしまな(奸)英雄(雄)などに天命が下りはせぬからな。」

ホウ統の言葉に諸葛亮は頷いた。

「それではあなたにお願いしたいことがあります。我らが殿と、魏討伐の軍をあげた東呉の必勝の策の一旦をあなたにお願いしたいのですが。」

諸葛亮の言葉にホウ統は頷く。
かくして。
諸葛亮はホウ統に策の一旦を依頼し、自分は再び軟禁されるために館駅へと向かった。
その途中のことである。

「殿?」

諸葛亮は驚いて自分の目の前を通り過ぎようとしている人物に声をかけた。

「諸葛亮!無事だったのか!」

諸葛亮の姿を見た劉備は嬉しくて諸葛亮に歩み寄った。

「殿がお越しとは・・・、ご心配をおかけしてしまったようですね。このとおり私は無事ですよ。それにのこともご安心ください。彼女は周瑜と孫家兄弟のもと安全に庇護されておりますゆえ。」

劉備が思わず眉を顰める。

「しかし宴席ではそなたにも会えず、にも会えなかった。東呉はそなたたちを危険な目にあわせているのではなかろうかと心配したぞ。」

しかし諸葛亮は悠然と言い放った。

「東呉に私を害することなどできません。同じくもです。ただの場合は気をつけていないと攫われる危険がありますが。まあなんとかなるでしょう。私はまだしなければならぬことがたくさんあります。そうですね・・・、11月の甲子(きのえね)の日に趙雲に小舟で長江の南岸にお遣わしください。その小舟で帰ります。」 

諸葛亮の言葉に劉備が眉を顰める。

「ともに今帰らぬか?わざわざ囚われている必要もあるまい。は後ほど策を講じて奪還すればよし・・・、」

劉備の言葉を遮るように諸葛亮は首を振った。
劉備は悲しさと不安さをまじえた表情で諸葛亮に哀願の眼差しを向ける。
そんな劉備の姿にさすがに諸葛亮も苦笑を禁じえない。
諸葛亮は仁に篤い劉備の感情を尊重はしていたが、政治家としての未熟さを垣間見たような気がした。
しかしこういう君主こそ、軍師にとっては理想的な君主である。
改めて諸葛亮は表情を引き締める。

「殿、江夏軍はどのように布陣するか周瑜から指示がありましたか?」

諸葛亮の質問に劉備はさらに肩を落として嘆息した。

「都督は我らに夏口の東、樊口に布陣して欲しいと頼まれた。樊口ではここ赤壁からはかなり離れており、戦場になるかならぬかのところではないか。都督は我らを見くびっている・・・。」

項垂れ、ちらりと傍らの関羽を見遣る。
関羽は呉にも魏にも名の知れた勇猛果敢、一騎当千の武将である。
せっかくの活躍の場を関羽、張飛に与えられないことに劉備は歯噛みしたい気持ちでいっぱいである。
関羽は言を発せず、ただ黙って瞳を伏せ、頭を垂れている。
憤りは劉備以上にあるであろうことは用意に想像ができた。
しかし諸葛亮はそんな二人を前に唇の端に笑みを浮かべた。

「それはようございました。逃げる魏軍の追捕には格好の場所です。曹操討伐は目の前です。殿、我らが土地を得る格好の機会がやってきます。兵の操錬を怠ることなく、よろしく頼みますよ。」

諸葛亮の言葉に劉備と関羽が目をしばたたかせる。
しかし諸葛亮はそれ以上のことは言わず、自分の言の説明をあえてしようとしない。
そんなところに諸葛亮が、劉備の君主としての力量を暗に計っていることなど二人には知る由もない。
しかし三顧の礼をもって諸葛亮を迎えた劉備には感じるものがあったのであろうか、それともやはり君主としての力量を持っているのであろうか。
劉備は諸葛亮の手を握って大きく頷いた。

「必ず無事に我らのもとへ戻ってくるように。11月の甲子(きのえね)の日、子龍を迎えにやる。と供に必ず帰還せよ。」

諸葛亮は恭しく劉備に膝をついた。
自分の目に狂いがなかったことに満足を覚える。
それと同時に彼の頭は先へ先へと計算をしていく。
赤壁の戦いの勝利は間違いない。
周瑜が火計を計るのであれば、たとえ周瑜が断っても東南の風を起こし、魏の壊滅を計る。
しかる後、北へ敗走する魏軍を追ってそれに乗じて荊州を我がものにする。
曹操の首をあげることもできる。
そうなれば劉備が国を興すのはさらに容易くなる。
そんな二人の様子を関羽は感慨深く眺める。
二人の姿はまさに君主と軍師の、国を治めるものの絆の深さであった。
関羽は劉備と義兄弟の契りを結んでいたが、劉備と諸葛亮の間には、義兄弟という契りとは違う何かを感じたのである。








は扉の向こうの話し声に耳をそばだてていた。
周瑜や孫策、孫権の警護にあたる兵士達がの部屋の前とは知らず、噂話に花をさかせていたのである。

「江夏の劉備玄徳があの有名な猛将の関雲長を連れてきたらしいぞ。」
「ほぅ。で、どうなのだ?関羽というのはやはり身の丈六尺の、赤ら顔の大男なのか?」
「いや噂では長い髭をたくわえ、目つきの鋭い大きな身体の武将だそうだ。」

関羽と劉備が柴桑の営寨に来ているようであった。
はとっさにこの邸から逃げる算段を考える。
明り取りの窓は高く小さく、脱出には不向きである。
ということはやはりこの部屋の扉から出て行くほかはない。
はそっと腿の短檄に手を這わせた。
なぜこれを身につけることを周瑜が許可したのかひとつ飲み込めない。
その理由がわからないからこの部屋を無理に脱出するのが憚られた。
短檄ひとつだけでは脱出はできない、それだけ自分は十重二十重に見張られているのだと周瑜に暗にほのめかされているのだと感じたからである。
しかしそれが周瑜の策であったら。
何せ今は100万の魏の大軍を前に、多くの兵は操練に忙しいはずである。
それこそ一人の監視に何十人もさくことなどできないほどに。
そのことを急に思い出しては早速実行に移すことにした。
はそっと腿に潜ませた短檄を手にして構える。
外で聞こえた男たちの声は二人。
相手にできる数である。
は呼吸を整えた。
そして。
扉をノックする。

「うん?」

扉の向こうで男が気が付いたようである。
男が扉の鍵を開ける音がする。

「どうした?」

扉が開くと同時には男の死角へと素早く移動する。
そして短檄を振り上げ、柄で男の後頭部を強打する。

「ぐっ!」

男が短く叫んだその場にばったりと倒れこんだ。
と同時にもう一人の男がを見つけて手を掴もうとする。
はそれを上手く身体を捻ってよけると同時に、男の首めがけて回し蹴りを食らわせる。

「わっ!」

もう一人の男もばったりと倒れるとはくるりとあたりを見回した。
案の定廊には誰もいない。

「やっぱり。」

周瑜の策にひっかっかった自分を情けなく思いながらも、は出口目指して駆け出した。
廊を曲がり、邸の裏手と思われる方向へと走る。
誰もいない庭に飛び出すと、は木蔭へと身を潜めた。
庭に出れば外へどこか繋がっているはずだと考えたからである。
その頃の軟禁されていた部屋へ陸遜が訪れていた。

「これはまた・・・。」

陸遜は倒れている男二人を見て呆れ顔で苦笑した。

「探さなければなりませんね。」

陸遜はくるっとあたりを見回した。

「得物は短檄ひとつですか。都督の策を見破りましたか。」

陸遜は呟くと庭へとまっすぐに向かって走っていった。
陸遜の足は速い。
もともと身が軽い方で、男にしては華奢な体つきということもある。
そしての隠れた先が庭であることを容易に判断したことから、陸遜はが庭に出てからわずかの間に庭に出てきたのである。

――陸遜がもう追ってきたわ。

は木蔭に身を潜ませるとすぐに陸遜が邸内から出てきたのを見つけて驚いた。
男二人が倒れているのを見つけてまっすぐに庭に出てきたのだ理解する。
ということは陸遜は自分がどのような行動をとるのか計算のできる、つまりは切れ者であると判断する。
故には判断に迷った。
このまま庭の中を出口目指すべきか、それとも庭を彷徨っているよりはもう一度邸内に戻って様子を伺うべきか。
は迷った挙句、邸内に向かってそろり、と動き出した。
庭から外へ出ることのできる裏木戸が開いているとは限らない。
短檄で壊して出ることも可能ではあろうが、時間がかかるだろう。
一方陸遜はまっすぐに庭から外へ出られる箇所へと向かう。
小さな木戸になっているそこは、開けられた様子がない。
というよりもここの鍵は陸遜しか持っていないので、が壊さない限り開けるのは不可能なのであるが。
陸遜はあたりを見回した。
しんと静まり返る邸内に遠くから兵の操練の掛け声が聞こえてくる。
が自分の姿を認めて邸内に戻ったことは容易に想像がついた。
その先に考えるの行動を予測し、陸遜は逡巡する。

――今すぐ逃がしてさしあげてもよいのですが…。

陸遜はしばらくその場に佇んでいた。
そして

――もう暫くはここに留まっていただくほうがいいですね…。

そう結論を導き出すと、陸遜は迷わず邸内へと入っていった。

邸内をそろそろと歩きながらは邸内の造りを頭の中に描いてゆく。
さして大きい邸ではない。
どうやらこのあたりの村のちょっとした豪族の邸、といったところであろうか。
それでも回廊がめぐり、小さな中庭には趣味のよい花が植えられている。
部屋は召使たちの部屋も用意されており、階上の部屋は孫策らが起居していると思われる。
隠れて様子を探るなら階上の部屋よりは下の部屋のほうが都合がいい。
は扉に鍵がかかってるのをひとつひとつ確認していく。
かちり、と鍵のかかっている部屋にゆきあたる。
はすかさず髪にさした歩揺の簪を抜くと鍵穴に突っ込んだ。
焦る気持ちを抑えて慎重に鍵の内部を簪の先端で探る。
かちり、と小さな音がして鍵が開いた。
中は薄暗く、物置のようで所狭しと物が押し込められている。
はそのなかに身をすべらせ闇の中に溶け込んだ。
一方陸遜は静まり返った邸内の中、の部屋で椅子に座り、男性にしてはややほっそりとした長い指先を苛立たしげに動かしていた。
の隠れた先などとうにわかっていた。
この邸内でこっそり隠れるなら北西に位置する物置部屋がぴったりだろう。
しかしすでに日は茜色に空を染め、東の空には星が瞬きはじめている。
炊屋から立ち上がる料理を作る湯気があがり、主の孫兄弟や都督の帰りを待つ準備が着々と進んでいる。
すでに操練を終えた警備の兵士らも戻ってきて、にわかに邸内がさざめきだす。
陸遜はあえてを見つけ出しに行かなかった。
これ以上物置部屋に潜んでいても埒があかないとなれば、自ら出てくるのは間違いない。
陸遜は周瑜にの処遇をはっきりさせるいい機会だと考えている。
周瑜はを扱いかねている。
をこの邸内に軟禁し、陸遜にの面倒をみさせるために引き合わせたとき以来、周瑜はに会おうとしなかった。
洞察力の鋭い陸遜には周瑜が今もなおを愛していることはすぐにわかった。
しかしそこで疑問になるのがなぜを妻に迎えないのか、ということである。

「可愛さあまって憎さ百倍…といったところですか…。」

素直にを妻に迎えるには、が今は劉備に仕えていて、諸葛亮の警護として女ながらに武将として再び目の前に現れたに憤っているのは理解できる。

「それにしてはいささか迷いが多いですよね。」

所詮は女。
どんなに剣を使おうが、檄を使おうが、容易く組み敷くことは可能なはずである。
孫策も周瑜にしきりにそれを勧めているようでもある。

「都督殿の矜持が邪魔している…とは思えないのですが…。」

陸遜には周瑜が何を考えてを軟禁しているのかわからなかった。
単にもと婚約者を裏切って劉備に仕えた婚約者を罰するのであれば、斬ってしまえばいい。
まだを愛しているのであればさっさと妻にしてしまえばいい。

「まあ、だから私としては都合がいいのですけどね。」

陸遜は唇の端をあげる。
周瑜がに対して煮え切らない態度を続けたせいで、を我が物にできる機会がえられるのだから。
陸遜の端整な美貌に無邪気な微笑が浮かぶ。
扉を叩く控えめな音がして陸遜は立ち上がった。
扉が開いて一人の兵が立っている。

「周都督がお帰りです。」

陸遜は小さく頷いて部屋を出て行った。
軍議が行われる広間に行くと、周瑜が物憂げに椅子に座っていた。

「周都督。」

陸遜が声をかけると周瑜はちらりと陸遜を見遣った。
白皙の美貌が灯台の明かりのもと心なしか生気がない。

「話は聞いた。が逃げたそうだな?」

周瑜は興味なさそうに呟いた。

「申し訳ございません。私の不徳となすところです。」

陸遜は申し訳なさそうに答えた。
そこにどたどたと足音も荒く孫策が現れる。

がいなくなったって?」

周瑜はさらに面倒そうな顔で孫策を見遣った。

「見つからないのか?陸遜?」

掴みかからんばかりの勢いで、孫策は陸遜に詰め寄った。

「申し訳ございません。」

陸遜はしおらしく頭を下げた。
孫策は陸遜の言葉に周瑜を改めて見る。
冷たい美貌の向こうに感情が見られない。
いつものことなのに今日はさらに無表情である。
孫策は何か言おうとして口を開いたそのときだった。

「斬れ。」

周瑜の言葉は短く、無常に響いた――