蝶戀歌3

「え、私がお供を?」

は驚いて思わず顔をあげた。
長坂当陽城から命からがら逃げて、江夏をおさめる劉埼のもとへ逃れた劉備たちは、このままではこの江夏の地も危ぶまれるため、東呉と手を組んで曹操討伐を企てることにした。
呉はかねてより江夏の地を狙って何度も出兵している。
その呉と組んで曹操討伐を、という算段であるが、かねてより戦いを繰り返してきた劉埼のもとに身を寄せる劉備らは果たして呉の協力を得られるかどうか(この場合、協力というよりも呉と魏を戦わせることができるかどうかともいえる)、劉備は不安を感じ得なかった。
しかし諸葛亮は自分が呉大都督、周瑜を説くといって出かけるという。

は確かに女子の身でありながら一騎当千の猛将だが・・・。」

劉備は難しい顔をして唸った。
それというのもはもともと揚州丹陽の出身で、周瑜をはじめ孫家一族とは知己の中である。
は多くを語らなかったが、にとって周瑜や孫家一族は家族同様懐かしい存在であろうと思うと、が呉に服するのではないかという不安がよぎる。

「護衛に勇猛果敢な猛者を連れるよりは女人のほうが相手も心を許しやすいというもの。を着飾らせ、私の供として呉にのぞめば、呉も同胞の存在に気を許し、我らにも気を許しやすくなるというものです。」

したり顔でいう諸葛亮に劉備は何も言えない。
劉備はちらりと趙雲の表情を盗み見た。
動揺が隠しきれない様子で、俯いたままである。

「諸葛亮様、私がごく普通の女人ではなく、武芸をよくすることは周瑜も既知のこと。余計な飾り立ては必要ありませぬ。お供がわたしがよいというのであれば、お引き受けいたしますが、周瑜は頭のよい武将です。私ごときがおりましても周瑜が気を許すとは思えません。それどころか警戒を余計にされるのではないでしょうか。」

が眉を顰めて諸葛亮に進言する。
しかし諸葛亮はつかみどころのない微笑みでそれをかわし、有無を言わさず護衛にをつけることを劉備に約束させた。

人気のなくなった部屋で劉備は諸葛亮と二人きりになった。

を売るつもりか?孔明。」

劉備の言葉に諸葛亮が苦笑する。

「売るなどと人聞きの悪いことを・・・。周瑜との駆け引きは、いや東呉との駆け引きにの存在は非常にありがたいというものです。」

諸葛亮はひらり、と羽扇を一振りした。

「かつて私が蟄居の身であるとき、周瑜には婚約者がいるという話を耳にしたことがあります。周瑜の叔父君の縁のものだとそのときは聞きましたが・・・。が丹陽太守の養女であったと聞いて彼女こそが周瑜の消えた婚約者だと確信しました。には周瑜の感情を波立たせる役目をしてもらいます。」

諸葛亮の言葉に劉備は溜息をついた。
仁や義だけでは通らぬものがそこには存在する。
劉備にはそれがやるせなかった。

一方護衛を言い付かったは趙雲とともにしばしの休息を喫するため、広がる草原に馬を走らせて小さな泉のほとりまで来ていた。

、私は心配だ・・・。そなたは周瑜殿や孫家のものたちをよく知っているとはいえ、彼らにとって我々は戦をけしかけ、漁夫の利を得んとする輩とみているだろう。敵陣の真っ只中に諸葛亮様とだけでなど・・・。」

趙雲の言葉には俯いた。
正直怖いという思いはある。
問答無用で周瑜が諸葛亮を斬る可能性は十分高い。
もとより、周瑜が自分に対してどう出てくるかが想像できない。
それどころか婚約解消した不貞の輩のうえ、敵陣に身を置く自分も周瑜に斬られる可能性はあるだろう。
美周朗と呼ばれる周瑜の冷たい表情の向こうは、にはいつも読めなかった。
読めない相手との交渉というのは常に不安がつきまとう。

「心配しないで。大丈夫よ、諸葛亮様をちゃんとお守りしてみせるから。」

はにっこりと微笑んだ。
不安を趙雲に見られまいとして。
そんなを趙雲はひきとめることはできない。
すでに劉備が承知したことを趙雲がひっくり返すことはできない。
黙って成り行きを見守るしかなかった。

「私で力になれることは何でもする、諸葛亮様をお守りし、必ず私のもとへ帰ってきて欲しい。」

趙雲の言葉には頷く。

何が起ころうとも――。

「絶対殿のもとへ、趙雲のもとへ帰ってきます。」

の言葉に趙雲が頷く。
一瞬強い風が吹く。
嵐の前触れのような、あまり気持ちのいい風とは言えない風であった。








曹操軍との戦いを潜り抜けてきた劉備たちのもとへ曹軍の兵力を探りに魯粛が、かつての荊州刺史、劉表(劉備が曹軍に追われて頼った劉埼の父)の弔問と称して江夏へとやってきた。
呉では曹軍に降伏をし、帰順し、呉をひとつの地方勢力としてあるつづけるべしという意見と、絶対に屈服してはならない、曹賊に膝を折ることは呉の矜持を汚す行為であるとする意見とで分かれていた。
魯粛は開戦派で、周瑜に開戦を決意させるべく諸葛亮の訪問を促しにきたのであった。
漁夫の利を狙う諸葛亮と、周瑜に開戦を決意させたい魯粛の思惑は一致し、諸葛亮はを供にして周瑜が呉の水軍を操練しているへと赴くことになった。

諸葛亮、、魯粛を乗せた小船が柴桑に到着すると魯粛は諸葛亮とを館駅(官営の招待所)に休ませると自分は孫権、孫策、周瑜のもとへと戻った。

「ただいま戻りましてございます。諸葛亮とその供一人を館駅にてお待ちいただいております。曹に対しての議は定まりましてございましょうか?」

魯粛が探るような視線で孫権に目を向けた。
自分が諸葛亮を連れに行っている間に曹魏への降伏を決めたとあらばとんでもないことである。

「いやいまだ決まらぬ。武将たちの多くは開戦をというが、文官たちが呉の安寧のためには形だけでも帰順すべきだと訴えている。我らも頭の痛いことだ。」

孫策が苦笑まじりに答える。
孫策は開戦して、東呉の水軍を魏に見せ付けるいい機会だと捉えていたからである。
周瑜はどちらでもなかった。
いや本音を言えば孫策と同じ思いを抱いていただろう。
ただ今の呉を支えるのは武将たちだけではないことを周瑜はよくわかっていた。
文官たちがよく働いてくれるからこそ、呉は豊かな粮秣を集めることができ、治世が整っているのだと自覚していたからである
多分それは孫策とて同じ考えをもっていたであろう。
孫権は孫策、周瑜の意見に従うつもりで何も言わない。
呉を率いる彼らに迷いがあるうちは開戦に踏み切れないようであると魯粛は判断する。

「孫策様、孫権様。」

そこに一人の年若い武将がやってきた。

「陸遜、何の用だ?」

孫策が陸遜というまだ年若い青年武将を見遣った。
陸遜の手には書簡が握られている。

「曹操からの書簡です。」

孫策がひったくるように陸遜の手から書簡を受け取ると、忙しげな手つきで開封した。

「へぇ、曹操の奴、荊州を分けようといってきたぜ。」

孫策がおもしろがるように笑った。

「観望する勿れ(かんぼうするなかれ、逡巡するなの意)だと。つまり命令かよ、何様のつもりだ、アイツ。」

孫策の言葉に周瑜が眉を顰める。

「伯符、口が過ぎます。その書簡には詔を奉じて、と書いてあるのではないですか?曹魏が天子を奉じてその詔を出したのならば、天子の意であるととらえねばならない。口を慎まれるのがよかろう。」

周瑜の冷たい言葉に孫策が肩をすくめる。
曹操が天子の名をかりて征討をしていることは、誰でも知っていることである。
しかし天子がいる以上、この国の大地を治めるのは間違いなく天子なのである。
それをあえて周瑜は天子を肯定する言葉で魯粛や孫策、孫権の開戦に傾きがちな心に魏と手を結ぶことも義にかなう、つまり天子を奉じることであることを忠告する。

「周瑜、せっかく諸葛亮が来ているんだ。曹魏と戦った連中の軍師だ。曹魏の軍がどれほどのものか聞かせてもらってから決めても遅くはないのではないか?」

孫権が周瑜と魯粛を見比べて意見を出す。
このままここで4人で開戦か、帰順かを論議していても前に進めない。
そう孫権は判断を下し、新たに意見できそうな人物、つまり諸葛亮の話を聞くことをすすめる。
周瑜が一瞬その表情を険しくさせたが、特に何も言わなかった。
孫策は乗り気なように、小さく口笛を吹く。

「そうだな。魯粛、今から諸葛亮を歓待する宴を設ける。早速つれて来い。」

魯粛は孫策に頭を下げた。
魯粛は諸葛亮を気に入っていた。
孫策、孫権、周瑜に曹魏との開戦を決意させることのできる人物は諸葛亮をおいて他にないと考えていたから、孫策らが諸葛亮の話を聞いてくれることは、魯粛にはありがたい話であった。

「早速に連れてまいります。」

魯粛が踵をかえそうとしたそのとき、周瑜が呼び止めた。

「待て、魯粛。そなた、諸葛亮から曹魏の戦力について話は聞き出せたか?」

魯粛が劉埼のもとへ行ったのは劉表の弔問という表向きで、実は劉備たちから曹魏の戦力を聞き出すことが目的だった。
魯粛はすぐに頷いた。
小舟で柴桑へ向かう道中、魯粛と諸葛亮は大いに語り合った。
ともに政治家として有能な二人である。
時に意見を戦わせ、時に相手の意見を拝領し、時間が経つのを忘れて多くを語り合った。
そのときに魯粛は諸葛亮から曹魏の戦力の程を聞き出すことに成功している。

「話が聞きたい。陸遜、そなたが館駅に赴いて諸葛亮とその供のものをこちらに連れてまいれ。」

陸遜は短く返事をしてその場を去った。
孫権は自分の供のものに宴の準備をするようにいいつける。
そして孫策、孫権、周瑜は魯粛の話を聞くために別室へと移動をした。



「間もなく孫策から使いが来るでしょう。、供をお願いします。そうですね、せっかく劉埼殿から美しい衣装をいただいたのですからそれを着て余興でもしていただけたら嬉しいですね。」

諸葛亮の言葉にはあからさまに嫌な顔をした。
江夏を出るときに劉埼から送られた衣装は華やかで、しばらく戦場に身を置いていたが遠ざかっていた女らしい衣装だったからである。
しかし言葉は穏やかながらも、目は命令であると訴える諸葛亮の威圧に、はしぶしぶ着替えることにする。
華やかな歩揺の簪も、美しい細工の施された首飾りも、耳元で揺れる金の玉珥も、かつての自分を思い起こさせる。
捨てたはずの過去が否応無しにの目の前に突きつけられる。
これから会うのは兄とも慕った孫策、孫権、周瑜である。
の心は乱れるばかりである。
そんなに諸葛亮がにっこりと微笑む。

「あなたの役目は私の護衛ですよ。刺客がいるかもしれません、短檄を潜ませ、万が一の襲撃には備えてください。」

護衛、刺客という言葉にははっとして顔をあげた。
過去、自分が呉の面々となにがあろうとも、これから自分は呉に魏との戦いを決意させに行かねばならないのだと思い出す。

「申し訳ありません。」

はさっと身を翻して小舟の中に小さく仕切られた部屋へと戻る。
短檄を腿に潜ませる。
何かあればこれを使わねばならない。
は決意するように諸葛亮の前に再び姿を見せる。

「いい目をしていますね、。」

諸葛亮が満足そうに微笑んだ。
そこに年若い青年の声が響いた。

「こちらにおわすのは諸葛亮孔明殿ですか?わが殿、孫策様の使いでまいりました陸遜と申します。」

青年の言葉に諸葛亮がおや、というような顔をして顔を出した。
そこには若い青年武将が一人で控えていた。

「魯粛殿ではないのですね。」

諸葛亮がつかみ所のない微笑で陸遜に声をかけた。

「魯粛殿は周瑜殿と御用がおありとのこと。代わって不肖ではありますがこの遜がお迎えにと参じました。」

律儀に答える陸遜に諸葛亮が微笑む。

、行きましょう。孫策殿が迎えをよこされました。陸遜、では案内をお願いします。」

諸葛亮の言葉に陸遜が立ち上がった。
と同時に小舟から一人の少女が出てきた。
陸遜は息が止まるかとはじめて思った。
例えていうならこれぞまさしく傾国の美とでもいうものか。
孫策の妻の大喬、周瑜の妻の小喬、孫策孫権の義妹の孫尚香と美女は見慣れたつもりであったが、今目の前にいる少女は彼女たちを凌駕してなおあまりある美女ぶりである。
かつて董卓と呂布がの間に争いの火種を持ち込んだ貂蝉とて、ここまでの美女ではないだろうと思われた。

「陸遜、どうかしましたか?」

諸葛亮の言葉に陸遜ははっとする。
だらしなくも目の前の美女に見惚れていたらしい。
陸遜は頬を染めた。

、案内をしてくれる陸遜です。ご挨拶を。」

諸葛亮に促されてはたおやかな仕草で陸遜に頭を下げた。

「諸葛亮様の供のと申します。よろしくお見知りおきを。」

陸遜は見惚れてしまった自分を恥じるかのように威儀を正した。
そして二人を伴って柴桑の営寨に二人を連れてゆく。
宴の開かれる幕舎には入らず、そのまま幕舎の外で膝をついた。
諸葛亮が何も言わずにそのまま陸遜に伴われて幕者に入る。
孫策が諸葛亮に挨拶をするため歩み寄った。

「よくぞおいでくださった。ささやかではあるが歓待の宴を催しました。是非諸葛亮先生に曹魏との戦いのお話をお聞かせ願いたい。」

孫策は諸葛亮の手を取って座に案内しようとする。

「これはお気遣いをいただきありがとうございます。」

諸葛亮は慇懃に礼をのべるとちらりとあたりを見回した。
孫策の座の左右には孫権、周瑜が並び、周瑜の隣には魯粛が居並ぶ。
案内役の陸遜は末席に並んだ。
諸葛亮は周瑜がいることを確認する。

「実は私の供も一緒なのです。同席をお許し願えませんか?」

諸葛亮の言葉に一瞬座が声なき緊張を走らせる。
孫策はにやりと笑った。

「それはそれは・・・。信用されていないということなのでしょうかな?」

孫策の失言にも諸葛亮は不敵に微笑んだ。

「まさか・・・。信用しているからこそ供には女性を選んだのですから。」

諸葛亮の言葉に嘲笑めいたさざめきが起こる。
供に女を連れてくるとは、破天荒な行為ととられてもおかしくはない。
しかし諸葛亮は委細構わず幕舎の向こうを見た。
そして――

「入りなさい、。」

その言葉に孫策、孫権、周瑜に動揺が走る。
諸葛亮の言葉に促されては幕舎に一歩踏み出す。

、ご挨拶を。」

諸葛亮は動揺する三人を尻目ににいいつける。
は優雅な所作でありながら、控えめに諸葛亮の後ろに膝をついた。
は唇が震えた。
明らかに孫策、孫権驚愕の表情をし、周瑜にいたっては睨みつけるような眼差しでを見る。

「皇叔、劉備様のもとにお使えしておりますにございます。」

緊張の一瞬である。
はぎゅっと目を閉じたい意識に駆られたが、ここで自分が彼らの前に出ることを恐れていると悟られたくはなかった。
唇をかみしめ短く、小さく息を吐く。
そして顔をあげた。
真っ先に飛び込んできたのは孫策の意外なまでの微笑だった。

「懐かしいな、。まさかこんなところで会えるとはな。」

孫策の言葉には何も言えない。
思わず孫権や周瑜の顔を見る。
孫権は驚いた顔をしてはいたが、別段不快そうではなかった。
周瑜は・・・。
あからさまに狼狽していた。
周瑜のこんな表情をははじめて見た。
一瞬、は言いようのない興奮を覚えた。
はじめて周瑜より優位にたてたような気持ちになる。
は落ち着いて自分が劉備に仕えるようになった次第を話す。
諸葛亮は満足そうに羽扇をゆっくり煽いでいる。
孫策は自分が宴会を開いた主催であることを思い出したかのように、諸葛亮とを座に座らせると、酒と肉を皆に振舞った。

「時に諸葛亮殿、曹魏と長坂で戦ったそうであったが、曹魏の強さをお教え願えますかな?」

孫権がにこやかに諸葛亮に酒をすすめながら聞く。
諸葛亮はふっと微笑んだ。
待ってましたの質問である。

「曹魏の軍勢は飲み込んだ荊州の軍勢をいれて約100万。よくぞあの包囲網から突破できたものであると思います。」

長坂での戦いはすでに柴桑にも轟いている。
趙雲が劉備の子、阿斗を抱いて単騎であの軍勢の中長坂橋を目指して渡ったこと。
長坂橋の手前で張飛が仁王立ちして曹魏の武将をはじめ曹操をも撤退せしめたということ。
兵士たちの間では伝説のように広まっている。

「東呉には素晴らしい水軍があります。我が殿には張飛、関羽、趙雲をはじめ勇猛な武将がおります。東呉が我が殿と手を結べば曹魏は恐れるに足らずです。」

諸葛亮が自信たっぷりに孫策に述べる。
そんな諸葛亮を苦々しげな表情で周瑜はみていた。

「しかし諸葛亮殿、曹魏は天子の御名において軍を起こした。天子の軍を拒むことはできないし、ましてや100万という強大であるぞ。戦って負けて痛手を被るよりは投降して兵や民に安寧をもたらしたほうが国のためといえるのではないか。」

周瑜の言葉に諸葛亮はいささかも動じなかった。
周瑜のとなりに座す魯粛のほうが慌てた様子である。
諸葛亮をここに来させたのは、曹魏との開戦を決断させるためであったからである。

「周瑜殿・・・・、」

魯粛が言葉をのせるより早く、諸葛亮が答える。

「さすがは智将と名高い周瑜殿ですね。曹操は兵を操るのに巧みであの勇猛な呂布、袁紹、袁術、劉表らはことごとく滅ぼされました。確かにわが殿は無駄な悪あがきをしているかもしれません。曹魏に投降すれば妻子は安全で、才を愛する曹操にもあなたは取り立ててもらえるでしょう。曹魏に投降しても彼らが東呉の地と人民を持って帰るのは不可能というもの。ならば投降して人民と土地と主公をお守りすることができましょう。いやさすがは周都督です。」

諸葛亮の言葉に周瑜がにやりとする。

「ならばおわかりいただけたであろう、我が東呉は劉備殿と手を組んで曹魏を討つつもりはないということを。」

周瑜の言葉に孫策が腰を浮かせた。
何を勝手なことを言い出すのかと孫策の拳がきつく握られる。
諸葛亮はそんな孫策の様子を横目で見、おろおろする魯粛を内心嘲笑する。

「都督はよくできたお方だ。曹魏に投降するには二喬を差し出せばよいこともおわかりということですね。曹操は無類の女好きと聞きます。音に聞こえた傾国の美女二人を差し出せば曹魏が何も略奪せず河北へと帰るでしょう。いや、さすが周都督殿。」

諸葛亮はぱんぱんと手を叩いた。
孫策が驚いてぽかんと口を開いて、すぐには言葉が出ないようである。
二喬とは孫策の妻の大喬、周瑜の妻の小喬のことである。
つまり、夫人二人を差し出せば曹操は赤壁から去ると諸葛亮は言っているのである。

「二喬を差し出すのは非常に苦しいことです。私の一存で私の妻を差し出すのは構わないが、孫策様を説き伏せるのは難しいことです。でもきっと説き伏せましょう。この東呉の民の安寧を守るためとあれば喬夫人も理解してくださるでしょうから。」

周瑜がそこまで一気に言って、一旦言葉を切る。

「差しだすものが何もない劉備殿はどうされるのかな。」

周瑜は挑戦的な表情で諸葛亮を見遣った。
しかし諸葛亮はふっと小さく微笑んで、杯の酒を一口呑む。

「私どもにはがおります。実は荊州を離れる際、を差し出せば兵は向けずという曹操からの提案がありました。しかしわが殿は義に篤く仁に篤いお方です。女を差し出して命を永らえるをよしとせず、今日まで参りました。我らは身の拠り所がありませぬ。東呉が二喬を差し出されるなら、我が殿もを差し出し・・・」

諸葛亮の言葉が言い終わらぬうちに周瑜が杯を諸葛亮に投げつけた。
諸葛亮は造作もなくそれを避ける。
行き場を失った杯は甲高い音をたてて砕け散った。
場にいたものは一同驚いて周瑜を見る。

「それ以上聞きたくない!女を犠牲にして東呉は永らえるつもりなど毛頭ないぞ!諸葛亮、我ら東呉は曹魏と戦う、孫策、すぐに船団をこの柴桑へ集めてください。目にものを見せてくれる!」

諸葛亮がにやりと笑ったのをは見逃さなかった。

「周瑜殿、そのように激昂されての決断はいささか問題があるのではありませんか?もう少し様子を見てからでも・・・」

諸葛亮が宥めるように周瑜に言う。

「もともと武官の多くは開戦を望むものたちばかりだ。今更何するものぞ?」

周瑜はそういうと立ち上がってつかつかと出て行ってしまった。
それを孫権と魯粛があとを追う。
みな唖然としているなか、大きな笑い声が響いた。
孫策である。

「ははははっ!さすがは諸葛亮殿だ。あの周瑜にあそこまで感情を引き出すとは恐れ入ったよ。さーてみんなよくわかったか?俺たちは魏を相手に戦うことになった!今日は思う存分飲んで食べてくれ。明日からの操練は厳しくなるからな!」

孫策の言葉に座にいた者達が怒涛のように歓声をあげる。
諸葛亮はそのなかひとり座を立った。

「孫策殿、私は都督殿の機嫌を損ねてしまったようなので今日はこれで失礼いたします。」

諸葛亮は優雅に孫策に挨拶をした。

「機嫌を損ねるなど、こちらとしてはあれの意地っぱりを突き崩してくれてありがたいことだ。下がられるというのなら陸遜に部屋を案内させよう。」

陸遜が立ち上がる。
も諸葛亮に従うため立ち上がった。

「おい、、少し話しをしないか?おまえの親父さんのことも含めてな。」

座を離れようとするに孫策は声をかけた。
は振り向いて孫策の顔を見る。
そこには懐かしい、兄とも慕った優しい表情をした孫策がいた。
は躊躇った。

「つもる話もあるでしょう。、私には構わずに。」

諸葛亮がに声をかける。
は小さく頷いた。