蝶戀歌2

劉備に従った趙雲、は汝南の戦いで曹操に破れて荊州襄陽城へ劉表のもとへと逃げ込み、そこも安住の地ではなく、南征した曹操軍と相対することとなる。
博望坡の戦いで勝利を収めるものの、劉表の死と跡継ぎ争いが起こる。
かつて劉備の暗殺計画をたてた蔡氏夫人の子、劉jが蔡氏夫人の謀略によって立つ。
蔡氏は曹操に通じて荊州の地を曹操に献じることにし、南征する曹操に降伏を申し出る。
それを知った劉備は軍師諸葛亮の計で新野城を焼き払って曹操軍の追捕を挫かせる策に出る。
新野の民を従えながらの行軍は厳しいものがあり、襄陽を超えて以降、脱走者が相次いだ。

、もしそなたが望むのであればここから孫家を頼って離れてもよいのだ。」

劉備の言葉には一瞬逡巡する。
確かに自分が周瑜や孫策、孫権を頼れば彼らは受け入れてくれるであろう。
しかしには今更、という気持ちがある。
自分の信じた道を進むことのほうがには大切なことのように思えた。
いやそれよりも。
の脳裏に浮かぶのはただ一人の人物だった。

――離れるなんて・・・。

照れたような微笑、敵将に挑むときの豹のような鋭さ、気が付けばすっかり趙雲のペースに巻き込まれているのにそれが妙に心地よくて。

、殿。」

趙雲が後方からに馬首を並べる。

「殿はとともに景山へ入ってください。今夜曹軍が夜襲をかけてくるでしょう。そのまえに陣を築いて備えましょう。」

はにわかに表情を曇らせた。

「必ず曹軍を振り切ります。」

趙雲の表情は明るかった。
それは劉備を、を安心させる。

「趙雲・・・。」

が趙雲に言葉をかけようとして口を開く。

「殿をお守りして江陵を目指す、私が合流するまで殿をお守り通せ、できるな?。」

は大きく頷いた。
一人一人が無事生き残ることよりも。
趙雲が忠誠を誓うこの皇叔を守ることこそ肝要であることを思い知らされる。
劉備のもとに仕えて、趙雲が何故この劉備に忠誠を誓うのかにはなんとなくわかるような気がした。
仁を大切にし、義を重んじることができる。
劉表の死にあたっては劉備が荊州の地を乗っ取るチャンスはいくらでもあった。
実際諸葛亮は何度も荊州の乗っ取りを劉備に進言している。
それでも劉備は動かなかった。
もし劉備があのとき荊州を乗っ取っていたならば、武将らの半分は将来的に離反していたかもしれない。
劉備に従う武将はみな劉備の人柄に惹かれて従っている。
だからこのような苦しい道行にも従うし、劉備を守らんと奮戦する。

「殿は私が必ずお守り通します。趙雲は?どうするつもりなの?」

の言葉に趙雲は少し困ったように笑った。

「趙雲?」

趙雲は答えなかった。
そのまま馬首を返すと一行の最後尾へと向かってしまった。

、趙雲を信じよ。あれは一騎当千の猛将だ。関羽や張飛にもひけをとらぬ。あれにはあれの策があるのであろう。」

夜襲を迎撃するのであれば本陣の他に陣をひく。
江夏に援軍要請に出ている関羽がいないので、張飛が別に陣をひいている。
趙雲はだいたい戦のときは劉備のもとを離れず護衛にまわることが多い。
その護衛をに預け、一人本陣を離れる。
張飛の陣に趙雲はいないということを知らされて、は眉を顰めた。

「まさか・・・ね。」

南征軍は曹操が自ら率いている。
従う武将も夏侯惇をはじめ名だたる武将たちばかりだ。
その中を単騎で敵本陣を狙うというのはあまりにも無謀である。

「ああ、でも・・・。」

敵武将は劉備追捕に必死になっている。
そして全力をかけて追捕する曹操の背後は荊州刺史となったばかりの劉jである。
曹操は多分劉jを始末しているであろう。
母に操られる荊州刺史など曹操にとっては邪魔なだけである。
曹操は無能なものを排除し、能力あるものを重用する。
劉jがどのように始末されたかはには知る由もないことであるが、襄陽は今激しく動揺しているはずだった。
荊州を曹操に献ずることを劉jに進言した、蔡瑁も?越も荊州の軍を動かすこと許されるほど信用されてはいないだろう。
つまり曹操の背後は開いている。
狙うのであれば曹操の背後。
それもできる限り静かに近づく。
しかしそれは難しい。
たくさんの精鋭の護衛兵に囲まれた曹操を趙雲一人で対峙するのは無謀に近いことである。
敵の虚をつく作戦だと理解はできるが、成功する確立は低い。
曹操が勝ったつもりで一人悦に入っているならば隙もあろう。
しかし曹操はそんな男ではない。

景山のふもとには当陽城が見えている。
松明の明かりが夜闇に揺れる。
この先の長坂橋を渡り、江陵を目指さなければならない。
は半眼を閉じた。
今夜、命運をかけてこの当陽を超えなければならない。
陣の前方で喚声が沸き起こった。
曹操軍が夜襲をかけてきたのである。
は馬に飛び乗った。
見れば劉備も馬に騎乗している。

、来るぞ。」

劉備が声をかける。
はさっと細剣を構えた。
あっと思う間もなく、敵兵が蟻の子のように群がってくる。
それをは容赦なく馬上から切り伏せていく。
劉備の本陣はその数2千。
大して夜襲をかけてきた曹操軍の数は5千、あまりのも劣勢であった。
は唇をかみしめる。
すでにどれだけの兵を切り捨てただろうか。
返り血を浴び、腕はじんじんと痺れて悲鳴をあげている。

、これ以上は無理だ!長坂橋を渡るぞ!」

劉備の言葉には情けない思いをする。
もし自分ではなく、趙雲が劉備を守っていたら・・・と考えると、自分の不甲斐なさに涙がこぼれそうになった。
たまらなく趙雲が恋しかった。
劉備と共に馬を走らせる。
劉備の2千の軍勢は散り散りになり、配下の武将の何人かの姿も見えない。
さらには甘糜両夫人と劉備の子、阿斗の姿も見えない。
は青ざめた。
確かに自分が護衛をするのは大将劉備ではあるが、その妻子も護らなければならないのであるから。

「殿、阿斗様が・・・!甘糜両夫人のお姿も見えませぬ!」

の言葉に劉備がはっとして辺りを見回す。
従っているのは兵卒約百騎ほど。
その中に劉備の家族はいなかった。

「探して参ります!」

が馬首を返そうとしたところで劉備がそれを阻んだ。

「ならぬ!」

劉備がの騎馬の手綱を掴む。

「私の家族のためにこれ以上私の武将を無駄死にさせるわけにはゆかぬ!」

はそれを抗った。

「私は殿の期待するほどの武将ではございませぬ!この先には張飛様が殿をお待ちして長坂橋をお渡しくださるはず、私は是が非でも阿斗様を・・・!」

は劉備の手を振り解こうと、騎馬を一声嘶かせた。
そこへ張飛が駆けてきた。

「兄者!!何をしている!早く長坂橋を渡れ!漢津口で雲長兄者が待ってる!」

は劉備の手を振り解くと馬首を返す。
それをみて張飛がに声をかける。

!どこへ行く?!」

張飛の声は怒声のように響く。
は一瞬騎馬の足を止める。

「阿斗様を探しに!必ずお連れします!」

はそういい置くと騎馬の脇腹を強く蹴った。
目指す先は当陽城の城下である。
甘糜両夫人は新野城から従った民衆の中に紛れたかもしれないと考えたからである。
新野城から従って、夜襲によって逃げ出した民衆たちは当陽城の城下へと逃げていった。
ならば甘糜両夫人も当陽城の城下で逃げ惑っている可能性は十分考えられた。
当陽城の城門をくぐり、あちこちであがる騎馬兵のあげる砂塵と、逃げ惑う人々の群れの中に甘糜両夫人を探す。
そのときの視界に的驢馬の嘶きが聞こえた。

「趙雲!」

は馬を走らせる。
築地を曲がったところで趙雲の姿を見つけた。

!何故ここに?!殿はどうしたのだ?!」

趙雲は驚いての騎馬に寄った。
は突然はっとした。
趙雲との約束を反故にしたことに気が付いたのだ。

「私は・・・、」

言いよどむに趙雲がはっとする。

「殿はご無事なのだな?」

確認するように趙雲がの肩に手をのせた。
は頷く。
張飛が劉備一行を長坂橋を渡してくれているはずだった。
関羽も漢津口に到着したとも聞いている。

「趙雲、阿斗様が・・・!甘糜両夫人のお姿も見えないのです!多分民衆に紛れてこちらに向かったと思われるのですが・・・。」

趙雲はほっとした表情を一瞬浮かべ、すぐさま厳しい顔つきになった。

「阿斗様と甘糜両夫人が・・・・、やはりか。先ほど御車の残骸を見かけたのだ。、共に探すぞ。」

趙雲の言葉にが首を振る。

「だめよ趙雲、二人で行動してたら曹軍の標的になるわ。それに別々で探した方が見つけやすい。」

の言葉に趙雲が微笑む。

「二人で片付けられないことはないよ。それに離れるほうが危険だ。だってもう流浪は御免だろう?」

は趙雲の言葉に思わず吹き出した。

――なんて・・・なんてこの人は危機に直面するたび、どうしてこんなに人を安心させられるのだろう。

「決まりだ、行くぞ。」

趙雲は的驢馬を走らせる。
それにが続く。
逃げ惑う人々の中に知った顔がいないか趙雲とは探す。
そのとき壁にもたれてぐったりしている簡擁をが見つけた。
簡擁は甘糜両夫人を護衛していた武将である。

「簡擁殿!」

が馬を止めて下馬し、簡擁のもとに駆け寄った。
簡擁は太腿に負傷して血が流れ出している。

「おお、、それに趙雲殿も!甘糜両夫人は御車を捨てられて徒歩にて東南の方角へ逃げられた。よろしく助けてくだされ!」

は下着の袖を破いて簡擁の太腿の上を縛って止血する。
何を思ったか趙雲がその場を離れる。

、私に構わず早く甘糜両夫人を、阿斗様をお助けするのだ!」

簡擁の言葉にはにっこり微笑んだ。

「趙雲が今馬を連れてきます。その馬に乗って長坂橋を目指してください。殿がお待ちしております。関羽様も漢津口にて皆様をお待ちしております。皆で江夏を目指すのです。」

が簡擁の応急手当をしている間に趙雲が一頭の馬を引いてきた。

「簡擁殿、これに乗って長坂橋を目指してください。我らは阿斗様をお助けしに参ります。」

は簡擁を馬に乗せて手綱を握らせる。
趙雲が簡擁を乗せた馬の脇腹を蹴る。。
みるみる簡擁の姿は見えなくなった。
は自分の馬に騎乗すると趙雲と顔を見合わせ互いに頷く。
東南方面に二人で馬を走らせると糜竺が縛り上げられて馬に乗せられているのを見つけた。
が細剣を構えて敵将に突進していく。
一刀両断、敵将の首が胴から離れた。
趙雲が蜘蛛の子を散らすかのように槍を振り回し、次々と襲い掛かろうとする忠義ある兵を斬って行く。
それもわずかのことで、すぐに敵兵数百は逃げてその場を去っていった。

「糜竺殿!ご無事でよかった!」

趙雲が糜竺の縄を解く。

「かたじけない、、趙雲!」

自由になった腕を回して糜竺が心底ほっとした声を出す。

「長坂橋を渡ってください。殿がお待ちしております。」

がぶんと大きく細剣を振って血のりを払う。
長い髪がやや乱れ、まるで戦の女神のような不可思議な美しさに趙雲が一瞬見惚れる。

「妹が阿斗様をお連れしているはずです。妹を探してください!あれは死ぬまで阿斗様をお守りする、そんな女です。」

糜竺の言葉にと趙雲が頷く。
そして再び当陽の城下を騎馬で駆け巡る。
夜はすでに明け、逃げ惑う人々も少なくなってきた。
それと同時に兵団の姿が目立つようになってきている。
もうそろそろ引き上げねば自分たちこそ、主君劉備のもとに戻れない可能性が出てきた。
そのときくずれた民家の壁の向こうからか細い声が聞こえた。
が馬を下りて近づく。

「将軍、、ああ、やはりそうだったのですね!」

壁の向こうでうずくまっているのは甘夫人であった。

「甘夫人、ご無事で何よりです。糜夫人と阿斗様の行方は知りませんか?」

が甘夫人を助け起こそうとするも、甘夫人は立てなかった。
足を怪我していたのである。

「甘夫人、足を・・・。」

の言葉に甘夫人が力なく頷く。

「私のことは捨て置いてくださいませ。それより阿斗様を。私がここに留まってからかなり時間が経っております。どこへお隠れもうしたか私にもわかりませぬゆえ、早くお探ししてくださいませ。」

趙雲があたりを見回すが、馬を調達できるような状況ではなくなってきている。
たとえ甘夫人用に馬を調達したところで、長坂橋を無事渡れるとは言いがたい。

、甘夫人を連れて殿のもとへ走れ。時間がない、私が必ず阿斗様をお連れする!」

すでに敵の兵団が近づいてきている。
早くと甘夫人をこの当陽の城下から脱出させなければ危険であった。

「趙雲?!」

自分は下馬し、甘夫人を馬上に乗せたが驚いて趙雲を見る。
しかし趙雲はを見ず、塀の向こうの兵団の気配を息を殺して伺っている。
は今の状況で甘夫人を見捨てられないこと、阿斗を見つけ出さなければならないことなどを考えめぐらせる。

「必ず、必ず殿のもとへ帰って来るわね?」

が念を押すように趙雲に訊ねる。
趙雲はにっこりと笑った。
どこまでも大胆不敵である。

「女二人ならこの馬でも相乗りして長坂橋を渡るまでもつであろう。、殿のもとで待ってて欲しい。」

そういうと趙雲は的驢馬を一声嘶かせ、兵団に向かって走っていった。
は涙が出そうになるのをかろうじて耐える。
そして

「失礼いたします」

と言って、甘夫人と馬を相乗りする。

「しっかりつかまっていてください。飛ばします。」

は馬の脇腹を蹴ると手綱を巧みに操りながら一路長坂橋を目指す。
当陽城を出ても曹軍の兵団は容赦なくを襲ってくる。
幸い、女二人と見て、敵将自ら戦いを挑んでくることはなく、群がる雑兵を蹴散らしては長坂橋にさしかかった。
長坂橋のたもとには張飛がいた。

「張飛様!」

が声を張り上げる。

「おお、!それに甘夫人!無事で何よりだ。趙雲はどうした?」

張飛の言葉にが表情を曇らせる。

「まだ阿斗様を探しております。私は甘夫人を殿のもとへお連れするようにと・・・。張飛様、趙雲を助けてください。彼には護衛の兵も誰もついていません。」

はぽろぽろ涙をこぼした。
張飛は一瞬趙雲の加勢に行こうかと逡巡する。
しかし劉備を護る将はみな疲れきって、今敵兵に襲い掛かられたらそれこそ助からない。
も昨夜からの戦いですでに疲労の色が濃い。

、趙雲を見損なうなよ。あいつは言ったことは絶対護るし、兄者たちに負けない立派な武将だ。信じて待ってろ。何、趙雲を追ってくる輩はこの俺が通さねえ。今は我慢だ。、早く兄者のもとへ行くんだ。」

はさらに泣いた。
ここまで来る途中、名だたる曹軍の武将の名の入った旗号をたくさん見た。
あの中に趙雲がいるかと思うと甘夫人を早く送って自分も趙雲のもとへ戻らなければと急かされる。
は馬を走らせ、劉備のもとへ急いだ。
劉備の姿のほかに、簡擁、糜竺の姿も見える。
みな無事に長坂橋を渡ったようである。
は自分が先に下馬すると甘夫人を助けおろした。

、よくぞ甘を取り戻してくれた。礼をいう!」

劉備はの手を取って喜んだ。
しかしは膝をついて一礼する。

「殿、趙雲がまだご子息の阿斗様を探しています。どうか私に馬を一騎、お授けください。当陽の城下は敵兵団が雲霞のごとく群れなし、趙雲は非常に危険な状態にあります。どうか私を援護に差し向けてください。」

の願いは聞き届けられなかった。
まだこのあと漢津口から江夏の地を目指さなければならない。
人馬共に休息は必要で、休息を要らぬものは何一つとして残っていなかった。
は震える身体で趙雲を待ち続けた。
待って、待って、待って――。
日が中天に差し掛かった頃、長坂橋のあたりで歓声が上がった。
張飛軍のものたちの怒涛のような歓声である。

日の光で陰になっているが一頭の馬がゆっくりとこちらに向かってくる。
馬上の人物の顔がよく見えない。
は立ち上がって馬へと駆け寄った。

「趙雲!」

は泣きながら叫んだ。
頬にわずかな傷を作り、鎧にはあちこち刀傷があるものの、それでも趙雲は大した怪我ひとつせず、にっこりと馬上で微笑んだ。

「ただいま、。」

そういって趙雲は的驢馬を降りる。
そして鎧をはずし、衣服の内から小さな赤子を取り出す。
そして恭しくその赤子を劉備に差し出す。

「殿、阿斗様をお連れ申しました。大変遅くなって申し訳ありません。」

劉備は差し出された阿斗を抱き上げた。
阿斗は安らかな寝顔で眠っている。

「礼をいう、趙雲、も・・・。本当に、本当にありがとう。私はもう二度と家族には会えぬことを覚悟していたのだ。本当に・・・、本当にありがとう・・・。」

しかし残念なことに阿斗を連れていた糜夫人は背中を袈裟懸けに斬られ、胸に阿斗を抱きしめ絶命したと趙雲が報告した。
それを聞いた糜竺が涙したのは言うまでもないことだった。

張飛が長坂橋を落として一行に合流する。
漢津口では関羽が群がる曹軍を撃退し、江夏からの船を死守していた。
そして一行は船に乗り込んで江夏を目指す。
久しぶりの休息が訪れる。
は甲板に出て川風に吹かれる。

「風邪をひきますよ。」

ふと振り返ると趙雲が立っていた。
背後からを被うように近づく。

「趙雲・・・?」

は不思議そうに趙雲をまじまじと見つめた。
不意に趙雲がを抱きしめる。

「よかった・・・。」

趙雲は毒を吐くような辛そうな声である。

「趙雲?どうしちゃったの?」

が羞恥と驚きであたふたとする。
そんなをさらにますます趙雲が抱きしめる。

「孔明様の指示で、追捕の軍に襲われそうになったら私が一人で敵の情勢を探り、曹操を討てるようであれば討つ算段になっていたのだが・・・、思った以上に曹軍が兵力を投じてきたことでそれをあきらめて、殿とのもとへ戻るつもりだったんだ・・・。」

そこで趙雲は一旦息を吐く。

「殿のもとへ向かう途中で甘糜両夫人の御車が破壊されているのを見つけ、阿斗様をとにかくお連れせねばならないと思って当陽の城下を探し回っていたとき、に会った・・・。」

はそうだったのかと思うと、趙雲が側にいてくれなかったことを恨んだのを不問にする。
諸葛亮が関羽に続いて江夏に援軍を求めて離れなければならなくなったため、趙雲に知恵を授けていったのだと誰も知らなかったことであるから。

「私こそごめんなさい・・・。趙雲の言うとおりに殿をお守りしなくて・・・。だから阿斗様を・・・ご夫人達を・・・。」

が自分の迂闊さで甘糜両夫人と阿斗とを窮地に追い込んだことが恥ずかしくてならない。

「仕方のないことだよ。殿が民衆に紛れて逃げるようにと甘糜両夫人を民の中に紛れさせたのだから。」

それはあとから劉備自ら説明したことである。
つまり劉備はあのとき本当に家族との決別を覚悟していたのである。
だから阿斗を探しに行くをあんなにも強い調子で引きとめたのだと、はようやく理解したのである。
それでも一武将として、劉備に家族との決別を覚悟させなければならなかったことを思うと悔しくも恥ずかしい。
は涙をこぼした。

「でものおかげで簡擁殿や糜竺を助けることができた。私一人で阿斗様を探していたら甘夫人をお助けすることはできなかった。でも何より・・・。」

趙雲はを抱きしめる手に優しく力をこめる。
その趙雲の腕の力に甘やかなものを感じて、の頬が染まる。

がいてくれたから・・・。が待っていてくれたから・・・。私は戻ってこられた・・・。」

熱っぽい趙雲の言葉にの頬はますます染まる。
優しく寄せられた唇を受けて、は身を趙雲に預ける。
江夏の地はもうすぐそこである。
そこで安寧が待っているはずもない。
南征を目指す曹操と、荊州制圧を目論む東呉と。
否応なしに歴史はめまぐるしく動き、戦場に咲いた小さな恋の行先を誰も知らない。
東呉に援を求める劉備に、東呉の智将周瑜が何を思うのか。

江夏の地に夕暮れが迫り、空を紅く染め上げていた。